Facebook相田 公弘さん投稿記事 『広島市 H19年度 平和への誓い』
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私たちは、62年前の8月6日、ヒロシマで起きたことを忘れません。
あの日、街は真っ赤な火の海となり、何もかもが焼かれてなくなりました。
川は死者で埋まり、生き残った人たちは涙も出ないほど、心と体を傷つけられました。
目も鼻も口もわからないほどの大やけど。
手足に突き刺さった無数のガラス。
あの日、ヒロシマは、怒りや悲しみのとても恐ろしい街でした。
これが原子爆弾です。
これが戦争です。
これが本当にあったことなのです。
しかし、原子爆弾によっても失われなかったものがあります。
それは生きる希望です。
祖父母たちは、
廃墟の中、心と体がぼろぼろになっても、どんなに苦しくつらい時でも、生きる希望を持ち続けました。
多くの犠牲の上によみがえった広島をもっと輝かせたいという思いで、原子爆弾によって焼け野原になった街をつくり直してきました。
そして、今、広島は、自然も豊かでたくさんの人々が行き交う、笑顔あふれるとても平和な街となりました。
今、テレビや新聞は、絶えることない戦争が、世界中で多くの命を奪い、今日一日生きていけるか、一日一食食べられるか、そんな状況の子どもたちをつくり出していることを伝えています。
そして、私たちの身近なところでは、いじめや争いが多くの人の心や体を壊しています。
嫌なことをされたら相手に仕返しをしたい、そんな気持ちは誰にでもあります。
でも、自分の受けた苦しみや悲しみを他人にまたぶつけても、何も生まれません。
同じことがいつまでも続くだけです。
平和な世界をつくるためには、「憎しみ」や「悲しみ」の連鎖を、自分のところで断ち切る強さと優しさが必要です。
そして、文化や歴史の違いを超えて、お互いを認め合い、相手の気持ちや考えを「知ること」が大切です。
途切れそうな命を必死でつないできた祖父母たちがいたから、今の私たちがいます。
原子爆弾や戦争の恐ろしい事実や悲しい体験を、一人でも多くの人たちに「伝えること」は、私たちの使命です。
私たちは、あの日苦しんでいた人たちを助けることはできませんが、未来の人たちを助けることはできるのです。
私たちは、ヒロシマを「遠い昔の話」にはしません。
私たちは、「戦争をやめよう、核兵器を捨てよう」と訴え続けていきます。
そして、世界中の人々の心を「平和の灯火」でつなぐことを誓います。
平成19年(2007年)8月6日
こども代表 広島市立五日市観音西小学校6年 森 展哉
広島市立東浄小学校6年 山崎 菜緒
Facebook相田 公弘さん投稿記事「ヒロシマを生きて」 被爆者村上啓子
1945年8月6日(月曜日)
□私は白島国民学校3年生でした。その日、なぜかお寺に行きたくないので「休みたい」と父に申しました。常には厳格な父ですが「じゃあ、お家に居なさい」と、許してくれました。
もし、登校していたら・・・お寺に居た先生も児童たちも全員が亡くなりました。登校途中だった一人のクラスメートは橋の上で被爆しました。彼女は今も生きていますが、左半身は熱傷で首も腕も間接が硬直しています。もう一人生き残ったクラスメートが居るらしいとの噂があるのですが、誰にも消息を伝えてきません。
8時15分が原爆投下された時間です。そのちょっと前、空の彼方から飛行機の音が聞こえました。庭に出て空を仰いだ父が言いました「これは日本の飛行機じゃない。危ないから退避壕に入りなさい」2歳10ヶ月の弟と私は数日前に家の中に出来た退避壕に逃げ込みました。その直後、全身に大きな衝撃を感じました。それが原爆投下の瞬間だったのです。
父も私たちの方に突進してきました。一瞬で家が崩れたのですが、父の腰に掴まって倒れた柱や壁土や瓦の隙間から這い出しました。
母の姿がありません。私たちは大きな声で母を呼びました。すると、足下の瓦礫がムクムクと動いて母が現れました。腕に生後57日目の妹を抱いていました。
母は全身にわたってガラス傷を負っていました。とりわけ、大きなガラス片が両瞼の上、眉の下、右頬に突き刺さっていました。右の目玉が飛び出して胸のあたりまで垂れ下がっていました。父が掌で掬いあげたのですが、どうしようもなく千切って捨てました。
ガラスを抜くと血が吹き出るからと、左瞼、頬、首周りなど、辺りかまわずに刺さっているガラスは抜かないことにしました。
父も左半身に大きな傷を負っていましたが、右腕で母を担ぐことにして、妹と弟を私に託しました。
私たちは、よりによって我が家が爆撃されたと思いましたから、お隣に助けを求めました。お隣も、そのお隣も崩れていました。埃が舞い上がっていたので視界はなく、1軒1軒と順番に訪ね歩いて300mばかり離れた川原に辿り着きました。迅速に行動した私たちは小さな潅木の陰に母を寝かすことが出来ました。ふと気がつくと、私たちの周りには負傷した人が大勢集まっていました。熱傷とか傷ついた兵隊さんが軍刀を振り回して狂ったように「敵」を罵っていました。しかし、次から次へと倒れてしまいました。狭い川原ですから、押し寄せた人々の居場所がなくて、人の上に人が乗りかかったので、たちまちのうちに死者の山が出来ました。
市の職員だった父は義勇隊事務局長でした。その職務は、緊急の場合に市民を誘導したり救助することでしたから、一刻も早く職務に付きたいと思いました。それにはまず、自分の家族の保護をしておかねばなりません。私が母と弟を見守ることになりました。
父は、母の返り血を浴びた妹が息絶えたと思ったので、仮に埋葬しておいて、あとで掘り返しに来るつもりでした。穴を掘ったものの、血まみれになったのが哀れと感じたので、川の水でジャブジャブと手荒く洗いました。その時、妹がかすかな泣き声をあげました。
「アッ、生きている。埋めなくてよかった」と、喜んだのも束の間、妹にはお乳が必要でした。母のお乳はショックのあまり一滴も出ません。途方にくれたと同時に、押し寄せてくる負傷者が暴動を起こしてはならないと考えた父は、元気そうな兵隊さんと協力して、「すぐに救援が来るから、落ちついてください」と、触れ歩きました。被災者の中に1人の女性を見つけました。彼女の胸からお乳が滴っていました。「娘にお乳をください」と、お願いしました。「このお乳はたった今死んだ私の赤ちゃんの物です。他人には上げられません」と、断られました。父は、砂地に頭を擦り付けて、何度もお願いしました。すると、周りに居た被災者から「死んだ赤ちゃんは、戻ってこないけれど、生きている赤ちゃんに貴方のお乳を上げて、生き延びさせて上げなさい」と、声が上がったのです。その女性は、やっと、妹にお乳を下さる気持ちになって下さいました。
私たちは朝から何も食べていませんでした。川原に植えてあったキュウリ、トマト、カボチャ、ナスなどをもぎ取りました。1口食べたとたん、私の家族はすべて吐き出してしまいました。私たちが捨てた物を奪い合って食べた人々がいました。そのことは被爆者の運命を大きく分けました。放射線を浴びた物を食べたり飲んだりした人たちは内臓に放射能を取り込んだのですから、死んだ人もいましたし、生きていても内臓疾患になった人も多く、悲壮な状況に追いやられてしまい、苦しい敗戦後の生活をされました。
父は、私たちを川原に残して置いて職務に付くことを試みましたが、周囲は火の海です。目の前の川を渡って大回りをして市役所に行こうとしたのですが、川の流れがきつく、しかも多くの死骸が流れているし、多くの人が暑さを避けて川に浸かっていましたから、とても泳いで渡ることが出来ませんでした。思い直して、夜通し、兵隊さんたちと協力して暴動にならないように警戒しました。
夜通し家々が燃えていましたが、明け方になると鎮火しました。被災者も見る見るうちに亡くなってしまいました。私の妹に「お乳を上げなさい」と、女性に声をかけてくださった人たちも、そうでした。
静かな朝を迎えました。
父は家の焼け跡に行って、梅とラッキョウの壷を掘り出してきました。川向こうの牛田町の山襞あたりは火災が無かったようなので、その辺りの知人の家に避難することにしました。出発する前に、もう1度、妹はお乳を飲ませてもらいました。梅とラッキョウは、彼女へのお礼として差し上げました。そのことは、私たちの家族にとって最も辛い日々の始まりでした。差し上げた梅とラッキョウは放射線を浴びていたのですから・・・
敗戦後、落ち着きを取り戻したころになってNHKラジオの「尋ね人の時間」で放送して貰ったり、新聞に掲載して貰って、妹にお乳をいただいた女性を探したのですが、消息が分からないままでした。もし、彼女が梅とラッキョウを食べたのが原因で亡くなられたとしたら、私たち家族はとんでもないことをしてしまったのです。
数日後、中国山地の山県郡から祖父と叔父が私たちを探しに来てくれました。弟と私は祖父母の家に預けられることになりました。そのとき、初めて焼け野原になった広島市街を見渡しました。見覚えのあるものは何も見当たらず、ガレキだらけになっていました。破裂した水道管に水を求める人たちが群がるように折り重なっていました。叔父が弟を背負って歩きました。弟は「お母ちゃん、お父ちゃん」と、泣き叫びました。時折、疲れた叔父が弟を背から下ろすと、弟は後戻りしようとして走りだします。私は弟を追っかけてなだめましたが、私だって両親と離れてしまうのは心細くて泣き出しそうでした。
広島の夏は、とても暑いのです。その時は、何もかも無くなったものですから、日陰さえありません。照りつける太陽で熱くなったガレキだらけの道なき道を裸足で歩きました。不用意にもガレキの下にあった死体を踏みました。そのときの感触は今でも鮮やかです。あれ以来、夏になると足の裏が熱くなって、いたたまれない思いをします。
□私の被爆後遺症
弟と私は山県郡に移ったとはいえ、祖父は宮大工でしたから畑を少ししか持っていませんでした。周囲の農家も、それぞれに被災者を受け入れて介抱していましたから、食料を分けて貰える状況ではなかったそうです。
8月15日敗戦。
大人は心のより所を失ったようですが、子どもの私は、敵の飛行機が飛んで来なくなったし、退避壕に逃げ込む必要が無くなったので嬉しいと感じました。
10月になってから、私には高熱がでて、血尿、血便が出るようになりました。田舎の医者には原爆の情報なんか届いていませんでしたから、悪い伝染病だろうと診断されて納屋に隔離されました。弟が「姉ちゃん、姉ちゃん」と、扉を叩いて泣き叫びましたが、何もしてやれませんでした。医薬品も乏しい時代でしたから、寝ているだけでした。約1ヶ月ばかり経ったころ症状は治まったのですが、耳から臭い膿が出るようになりました。咽喉の方から口に溢れるように出てきました。これも治療の方法がなく、ふき取るだけでした。
11月になってから、広島市の南方・皆実町にあった半倒壊の家を借りることが出来たので、家族は一緒に生活することになりました。私は、日赤病院に通院するようになりましたが、病院では医薬品が充分ではなかったのです。看護婦さんが「ペニシリンがあったらいいのに・・・」と言われたのを父に告げました。その数日後、父は闇市で3個のペニシリンを入手してきました。それのお陰で、快方に向かったのを覚えています。
私たちが山県郡に去ってから、両親と妹は袋町国民学校に出来た被災者収容所に移りました。母は、医師の手でガラス片を抜き取って貰いましたところ、左の眼球が残っているのが分かりました。幸運にも専門医から手術を受けることが出来て、再び明かりを取り戻しました。でも、多くのガラス傷と内臓機能の疾患で、殆ど寝たきりでしたから、私が家事一切をすることになり、学校へは妹をおんぶして通学しました。
《村上啓子》
牛上市在住。エッセイスト。HIROSHIMA SPEAKS OUT会員。
8歳で被爆。奇跡的に無傷で済んだが、重傷を負った母親、広島市の職員として初の平和宣言の草稿をした父親。語りつくせぬ思いを重ねて行きた体験を軸に、核廃絶を訴え続ける。
FacebookKNOB ノブさん投稿記事
平安であった広島
絵はがきの中で描かれた
後に原爆ドームと呼ばれることになる
広島県産業奨励館
1945年8月6日午前8時15分
アメリカ軍が落とした世界最初の核兵器、、、
この一発の原子爆弾により当時の広島市の人口42万人のうち14万もの方々が被爆から2~4ヶ月以内に亡くなられたと言われています。
77年前の今日に実際にあったこと
慎んで 今ある場より
旅立たれた方々、すべてのいのちの鎮魂を魂の平安を祈ります。
一般庶民を巻き込み、巨大な産業、ビジネスとなっている戦争
人と人を争わせ、殺し合いをさせ、そのための武器の生産が、どこかの誰かの豊かさとなるなんて、、、
誤った豊かさが
地球の上より 一日も早く消え去りますように
神仏 光、みな共に
愚かな行ないが続くこの今をどうぞ正しき道へとお導きください
合掌 KNOB拝
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