Facebook矢加部 幸彦さん投稿記事
頭が円形なるを以って天とし、足の方形なるを以って地とする。
左(火足り)目を太陽とし、右(水極)目を月とし、両目の開閉を昼夜とする。血液体液を海川とし、脈拍は潮の満ち引きであり、皮膚の毛髪は大地の草木・・ああ・・この身体は宇宙であり地球。永遠循環の壮大なる我、ここにあり。。
http://www.hakaishi.co.jp/kuyo/29.html 【供養の方法①五輪塔について】より
五輪塔は、主に供養塔や墓塔として使われる仏塔の一種です。本来舎利(しゃり)を入れる容器として使われていたといわれてます。
現在では本家墓はもちろんのこと、分家初代でも、先祖の供養塔に五輪塔をお勧めしています。五輪塔は軸石に先祖の戒名、法名、霊名をたくさん刻むことができるので、先祖をまとめてお祀りするのにとても便利です。
五輪塔の形はインドが発祥といわれていますが、「古事記」の冒頭に、天地創造の雄大な姿が描かれています。
世界がまだ形もなく混沌とした状態にあったとき、その中のあるものは上昇し、あるものは下降して、ここに初めて「天(空)」と「地」がわかれ、「陰」と「陽」が定まり、天は「風」を起こし、地は「火」を生み「水」をよんで、やがてその中から生命が誕生したのです。この天地の徳が一体となった姿を,五重の形に表したのが「五輪塔」です。
仏教ではすべての事象を構成する要素として、空、風、火、水、地を五大として、この五大の変化によって万物が生ずることを五輪といいます。人は死んでこの五大元素へ回帰する(自然へ帰る)のですから、五輪塔は天地自然の心理を現し、かつ故人の回帰する場所としてもっともふさわしい供養塔になります。
五輪塔は上方より宝珠形、半球形、三角形、球形、方形の形をしています。この五輪を修行者の体の5ヵ所、すなわち、頂(頭)=空、面(顔)=風、胸=火、腹=水、膝=地と考えるという見方もあります。これはこの身のままに自身は法界塔婆、すなわち大日如来であると観想し、自己の内に本来をそなえている法身大日如来を見出そうというものです。
五輪五大の思想は中国においても早くからあったらしいのですが、立体的な塔形は、日本で平安時代中期ごろから作られるようになりました。
その頃から供養塔、供養墓として用いられ、仮に五輪を刻んだ五輪塔婆が死者追善供養のために建てられました。
五輪塔のそれぞれの部位に空(キャkha)、風(カha)、火(ラra)、水(バva)、地(アa)の梵字を刻みます。
五輪塔
それではなぜ五輪塔がよいのでしょうか。お墓を家にたとえれば、五輪塔などの供養塔はたくさんの部屋のある本宅であり、「先祖代々の墓」などの角柱型の夫婦墓は、一間だけの隠居部屋、お地蔵様は子供部屋と考えていただければわかると思います。供養塔はたくさんのお部屋がありますから、何組の夫婦でも何人の仏さまでもお祀りすることができますし、父系はもちろんのこと、母系のご先祖様の霊もお招きして供養することができます。
これに比べ「○○家の墓」などのお墓ですと、一間だけの部屋に何組もの夫婦が入って生活することになり、仏さまは窮屈な思いをし、霊が安らかになることがありません。そこで本家でも、分家でも五輪塔を建てることをお勧めします。
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6389946/ 【梵字・全身叩き・阿字観・五輪塔】
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/32522890 【俳句は感情と理性の調和した真言(スートラ)】
http://sunny-sapporo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-69d8.html 【五大(ごだい)と五輪塔(ごりんとう)】より
写真は国東半島(九州)近隣のあるお寺の「五輪塔」です。素朴で小ぶりな作りの墓です。周りに草が生い茂っています。どなたが葬られているのかはわかりません。「五輪塔」という説明板がわざわざ建てられているので地元の役所の手が入っている種類のお寺の五輪塔だと思われます。「五輪塔」の隣や近所には「庚申塔」や「国東塔」とその説明板がありました。
「お客さん、奈良の仏教は生きている間の仏教です。京都の仏教は死んでからの仏教です。」奈良市のタクシー運転手が、かつて、といってそれほど以前ではないかつてですが、そう語ってくれました。
南都六宗とよばれる奈良仏教は法相(ほっそう、たとえば興福寺)や華厳(けごん、たとえば東大寺)のような哲学的な仏教で、一般人を対象とした葬式は寺の仕事ではありません。空海の真言密教も、瞑想(禅定)をベースにした形而上学的な性格を持った仏教です。しかし同時に、鎮護国家や現世利益への指向性もけっこう色濃く絡んでいます。仁和寺の御室桜の下での酒宴の様子などは、いかにも真言密教の寺にふさわしい。
真言密教の形而上学性というのは、たとえば「五大に皆響きあり。十界に言語(ごんご)を具す。六塵(ろくじん)悉く文字なり。法身は是れ実相なり。」(「声字実相義」)あるいは、「六大(ろくだい)無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり。」(「即身成仏義」)というようなことで、その中には「理趣経」的な昇華哲学も含まれます。(【蛇足的な註】五大とは、「地・水・火・風・空」からなる森羅万象のこと。六大は五大に「識」を付け加えたもので、全世界、森羅万象という意味です。)
真言密教のテーマは即身成仏です。人はそのままで仏、と云うことですが、仏という仏教的な表現と波長が合わないなら、そのままで空、あるいは老子や荘子がいうところのそのままで世界が顕れるまえの原初と考えることもできます。最近「大乗起信論」を読み返してみました。この六世紀後半の論書も、如来蔵や(大乗起信論が云うところの)阿頼耶識を媒介とした即身成仏についての書物だと言えるかもしれません。ともあれ、真言密教は奈良の運転手さんの云うように、生きている間の仏教だったと思います。
そのうち浄土思想という死んだ後のことを語る仏教が、そういうことに関心の高い末法の人たちの心を捉えました。極楽浄土をめざす仏教です。奈良の運転手さんが云うところの死んでからの仏教です。人々の関心があまりに高かったので(たとえば平安貴族だと平等院鳳凰堂)、真言密教にも即身成仏と極楽浄土を融合させたようなニューウェイブが草の根運動的な形で登場します。「高野聖(こやひじり)」と呼ばれる人たちです。そのニューウェイブの思想的な完成者が「覚鑁(かくばん)」、12世紀前半、平安後期の僧侶です。
S 平等院鳳凰堂
この覚鑁が即身成仏と極楽浄土の融合体の象徴として作ったとされるのが「五輪塔」、つまり瑜伽(ゆが)するお墓です。覚鑁(かくばん)は「真言念仏」というシステムインテグレーション活動の一環として「五輪塔」の形式やそれを支える考え方を整備したのでしょう。
古代ギリシャでは哲学することは死の練習でしたが、そういう意味では、仏教的な形而上学的思弁や瑜伽はもっと明確な死のトレーニングです。瑜伽をする人の光景をそのままお墓に置き換えたのが五輪塔なら、五輪塔は、覚鑁風の云い方をすれば、生(真言による即身成仏)と死(念仏による極楽浄土)の接点になります。
「五輪塔」をもとにした日本人の葬墓のシステムは、高野聖の普及活動によって、それ以降、全国に広まっていったらしい。「梵字手帖」という本によれば「供養塔として造立された五輪塔には、各時代の風格があり、平安時代より始まった造塔は、鎌倉時代には形の上からも完成を見ます。室町江戸期には形も崩れだしました。五輪塔は時間を越えて、今日に何かを語りかけてくる様な存在。諸行無常。」
先ほどの国東半島近隣の五輪塔はいつごろ造られたものでしょうか。
以下は五輪塔の構成図です。図は「梵字手帖」(旧版)から引用しました(一部編集)。五輪塔は上から空(輪)・風(輪)・火(輪)・水(輪)・地(輪)の五大が組み合わさったものです。塔に刻まれている文字は梵字(サンスクリット語)。その表記方法から悉曇(しったん)文字と呼ばれています。
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7997018?categoryIds=5804966 【阿字観】
http://haiku-space-ani.blogspot.com/2010/04/30.html 【男波弘志句集『阿字』】より
・・・関 悦史
『阿字』は男波弘志(昭和41年生まれ)が昨年上梓した第一句集。
昭和58年、高校の国語教師であった最初の師・北澤瑞史にいきなり作らされた最初の句から岡井省二門下時代を経て近作に至るまで、おおよそ600句前後を網羅しており、全体を通して精神的・人間的高みへの熾烈な希求と憧れが窺える。
北澤瑞史門下時代 昭和五十八年~平成九年 処女作 昭和五十八年
列車いま大緑蔭の駅に入る 蟇落花まみれに交みをり 行く夏の人となるまで浪を聴く
これら初期の句に既に「大緑蔭」に「入る」、「行く夏の人となるまで」等、高次の世界への参入と変容のモチーフが現れている。「大緑蔭」や「行く夏」の「浪」に爽快で大きな包容力がある。
両生類や爬虫類、海生の軟体動物といった鈍重で奇態な生物たちも全篇に頻出する著者偏愛のモチーフで、これらが句集のトーンを決定づける(句集の作りとしては緩選なので、似た素材の頻出とその扱いのずれ行きは確認しやすい)。第二の師が岡井省二となるのはほとんど必然であった。
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岡井省二門下時代 平成九年~平成十三年
天の鷹一切経をゆく如し きりもなく種出てきたる夏みかん
はんざきに紛らふ蟇の跳びにけり でで虫のししむらが伸び今も伸ぶ
白桃の同心円が水の中
《きりもなく種出てきたる夏みかん》《でで虫のししむらが伸び今も伸ぶ》は身近にある現物に無限への通路を求めた作。《白桃の同心円が水の中》の「同心円」も同様で、拡散・凝縮両方の動きを無限に湧出させようとする。
《はんざきに紛らふ蟇の跳びにけり》は跳び得べくもない「はんざき(オオサンショウウオ)」から「蟇」が識別された瞬間、同時に頓悟のごとく飛ぶ姿を描き、これも高次の世界への参入の句のヴァリエーション。
その精神世界の一切を経文の如く一望に収めているのが「天の鷹」であって、ここまでの句で男波句の世界の地勢図をごく大まかに思い描くことができる。
これらの句の中において、男波的主体は現世の諸生物を無限の相から捉え、高次の世界を窺い憧れつつも「跳」んだ先のヴィジョンを得るには至らず、混沌を統制し得る別の視野を師に求めているといった相関図が得られるのである(その最初の師をこの時期に喪い、「恩師 北澤瑞史 寂」の前書きを持つ《六尺の螢火となり逝きにけり》の句を成すこととなる)。
吊るされし大鮟鱇は母音かな 鮟鱇の頭一つが海(わたつうみ)
そこらぢゆう磯巾着と梵字かな 祈雨経を諳んじてをる鯰かな
だんだんに梵字が読めて瓜を揉む はんざきを楔としたる山河かな
《文字》《言語》と現世の関係が現れた句を拾った。
無力にして鈍重な「大鮟鱇」は音声の基盤「母音」であり、同時にその頭は大海でもある。《空海や銀漢に砂なかりける(※「海」は「毎」の下に「水」)》の他、空海も他の先賢たちとともにしばしば句中に現れるのだが、その「五大にみな響きあり」の思想を鮟鱇を仲立ちにリアライズした格好。いかにも鈍重で意思不分明な怪生物たちは、地水火風と言語とを橋渡しする役割を与えられているわけである。だからこそ「鯰」は経を諳んじているものと見なされ、「磯巾着」は「梵字」と等置されるのだ。《だんだんに梵字が読めて瓜を揉む》は男波的主体がそうした領域に前進しつつあることの自己確認である。
《はんざきを楔としたる山河かな》は「はんざき」がそのぬめった身体で山河の広がりを一点に集約する同心円的重畳を組織し見事だが、地水火風と言語との通底が仲介者「はんざき」の介入でもって一度に明らかにされた局面を描いてもいるのである。
「はんざき」や「空海」の他、「イエス」もしばしば句中に現れる。
白梅とイエスを見たり昼の闇 この固きパンにかかりし花の影
くろがねの春曙のイエスかな 斑猫が飛んでイエスの跣かな
海は荒れてイエスに青きパセリかな
「くろがね」であったり「跣」であったりと「イエス」はあくまで身体性をもった他者として現れる。イエスも「はんざき」たちと同じく現世と高次の世界を繋ぐ、別の言い方をすれば神から現世に贈与された仲介者的存在である。とはいえ「はんざき」などとは違い「イエス」は現在、この世界のうちに生身を持って会見し得る相手ではない。「イエス」が専ら物質的側面をあらわにすることで現世への定位・定着がはかられるのはそのためである(なおイエスに関しては後に《冬晴れの畦と飯詰(いづめ)のキリストと》という句もある。ここではイエスは親の農作業中「飯詰」に入れておかれたという舞踏家・土方巽の肉体性を持って定着がはかられている)。
雷鳴のそこは海牛溜りなり
男波氏とは私は一時期通信句会でご一緒していたことがあり、その頃からこの句の「そこ」という指示代名詞の介入が気になっていた。なぜ「雷鳴」「海牛溜り」だけではいけないのかと。「雷鳴」「海牛溜り」だけで生命発生の不可思議といった要素だけならば充分表出できるはずなのだ。ところが「そこ」が介入することで句中に位置関係と分節が生じ、不可思議の光景を見ている、つまりは疎外されている語り手というものが発生してしまうのである。句集一巻の句たちと照らし合わせれば、これが男波句の当時のスタンスを象徴していると見ることができるのだが。
師の岡井省二には「食(を)す」を用いた句が多い。句において極めて食欲旺盛で、たしか「海(わたつうみ)」に食欲を示した作まであったはずである。
無論それらはただの食欲ではなく、万象とそれを成り立たせる法理を丸ごと己の中に内臓し一体化しようとの欲望であり、同時に句作における途方もないひとつの方法でもあった。男波句には対照的に、ものを食べる句はほとんど見られない。身に添わぬ方法だけ真似しても仕方がないので、この疎外がどう昇華されてゆくかが今後の句のひとつの見どころと言えるのだろう。
岡井省二先生 病臥す 鮟鱇が添ひ寝に来るぞはよ笑へ
恩師 岡井省二 寂 藁塚の産力(うみぢから)もて逝きにけり
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平成十三年~平成十九年
蟋蟀や女体にて水呑み終る 鶏頭の縁(へり)のめくれてをりしなり
呑み込んでしもうた南無阿弥陀仏です 鬼の闇 人の闇 闇 春の山
虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)ぶよぶよの蟹
岡井省二没後から現在の時期に入る。
「蟋蟀」と重層しあいつつ水を呑む「女体」や、めくれた「鶏頭の縁」、重層的な闇を孕んだ「春の山」などにエロスの要素が顕著で魅惑的である。無論この場合のエロスはただの性愛ではなく、高次の世界への越境の動きと相即なのだ。
《呑み込んでしもうた南無阿弥陀仏です》は南無阿弥陀仏の名号を口から六体の仏として吐き出す空也の逆を行き、法理の体内化を試みている。
《虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)ぶよぶよの蟹》の「虚空蔵求聞持法」は真言を百万回唱えることであらゆる経典を記憶する力を得る修行法、若き空海がこれを修したと伝えられる。「ぶよぶよの蟹」は脱皮直後の蟹と取ればこれも高次の世界への憧れを詠んだ句と取れるが、必ずしもそうした図解的役割ばかりには留まってはおらず、「ぶよぶよの蟹」には「鶏頭の縁」や「蟋蟀/女体」にも通じる妖しげなエロスがまつわっている。
靄たえず動くマンジュウホコリかな 山路をふちやふちやのぼる鯰かな
一穴をくまなく廻る揚羽蝶 白桃を白桃潜り終らずに
乳房もて秋の螢を囲みけり 何にもない方がよい柿一つ
岡井省二没後、男波弘志は永田耕衣の弟子たちによる「マンの会」というところに参加していたらしい。
「マンジュウホコリ(粘菌の一種)」とその周りに組織される靄、「白桃」自身に潜ろうとする「白桃」、一つの穴を「くまなく廻る揚羽蝶」、周囲を全て切り捨てることで世界そのものに等しい何かと化す「柿」たちの無限に続く湧出感には、確かに耕衣的なものの遠い反映が見て取れる。
《乳房もて秋の螢を囲みけり》は、蛇笏の「たましひのたとへば秋のほたる哉」を踏まえれば、夭折者の魂を女性的なものたちが輪廻の中に取り込みつつ慰撫している相と見え、《山路をふちやふちやのぼる鯰かな》のユーモラスな姿も、鯰がこのまま直線的に天上を指向するとも思えず、俗の中での往ったり来たりの往還の相が仕込まれていそうである。
《天使魚の方から見たらポタラ宮》という句もあった。梵語の「ポタラ宮(ポータラカ)」を音訳したものが「補陀落」でこれは観音菩薩の住処を指す。中世日本で行われた「補陀落渡海」は行者が海に流されたままとなる決死の荒行であった。水槽にいるエンゼルフィッシュから見れば、人の世界は行ったら生きて帰れぬ別世界には違いない。現世を別の世と見る視点もはじめからあったわけで、必ずしも今後も性急な超越にばかり向かうとは限らない。要注目の作者と思う。
以下、印象的な句を引く。
鯵の群れ色を変へたる涅槃かな 天地やゝ(ちゅ)とこゑのして甘茶佛
男色や鏡の中は鱶(ふか)の海 白餡と黒餡とある二月かな
うんざりするほどの笑ひや蝶の昼 目刺焼く炎の中の笑ひごゑ
道元やながれの上の白梅は 玉虫や石橋石の音のする
六月や只真つ白な海牛(あめふらし) そこらへん鮫肌色や蛭蓆
蘇鉄咲き十三面の版木ある 石の上に髭乗つてをり寒の鯉
青みどろ大入道が昼寝覚め 桃咲くやまだ歯の生えぬ母とゐて
姿見があるといふのに蟇累々 白桃のやうにあかるい屋根の石
とめどなく亀の入りゆく穴 幻日や鯨にもある永き舌
源氏みな生殺しなり春の暮 すつこみし磯巾着よ純金よ
蟹も吾も泥の団子をつくりをり 海峡を春行く巨き椅子のごと
浜焚火乳房まさぐる如捩れ 水晶の無結晶体ぞ虻宙に
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