https://www.city.goto.nagasaki.jp/rekishi/030/20190211135834.html 【五島のあけぼの】より
遺跡に関する展示物
五島の遺跡
五島列島に人が住むようになったのは、旧石器時代、今からおよそ2万年あまり前からと言われています。
五島の遺跡からは、縄文草創期から晩期、弥生・古墳時代の石器、土器、自然遺物が多く発見され、遺跡は150か所余りに及んでいます。
五島で確認されている遺跡は、どこも海辺で、しかも山に近く、海の幸、山の幸に恵まれたところです。
自然遺物には、貝類、鳥、鯨、いのしし、鹿、木の実などが多く出土し、自然の食べ物に恵まれた豊かな生活を送っていたことが分かります。
大浜地区中島遺跡のミニチュア
ドングリピット
昭和60年、大浜地区の中島遺跡で直径1メートル、深さ80センチメートルの竪穴が11基発見されました。中には、ドングリなどが詰められており、デンプンを取る施設が縄文前期から弥生中期にかけて既に作られていました。
遣唐使と倭寇
遣唐使船の模型
遣唐使
西暦607年(推古15年)摂政であった聖徳太子は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す恙無き也」の有名な国書を隋に送り、修交を求めました。遣隋使の始まりです。
しかし、遣隋使の派遣は4回に止まり、その後の唐に、630年(舒明2年)遣唐使を派遣するようになりました。
18回計画され、そのなかで五島に立ち寄ったのは第14、15、16、17回の4回です。804年(延暦23年)第16次遣唐使船には、最澄、空海も乗船しており五島各地に足跡を残しています。
五島の寺社仏閣
仏教文化の展示物
仏教文化
西暦538年に日本に仏教が伝来してから160年余り後、五島の寺院として大宝寺が中国僧「道融」によって701年(大宝元年)に開創されました。以来、仏教の広まりとともに五島各地に寺院が建立され、現在五島には50ヵ寺あります。
宗教活動の展開にともない、建造物、仏教、仏画など多くの仏教美術品がみられるようになりました。特に、真言密教関連の作品はもっとも多いうえ、五島の仏教美術の質の高さを物語っています。
五島藩の形成
旧五島藩主「五島家」の展示物(刀、鎧など)
旧五島藩主「五島家」
五島家の始祖は、源平の乱を避けて五島列島北端の宇久島にきて領主となった家盛公と伝えられています。第4代進公の時には、五島全島を平定し、第20代純玄公が朝鮮出兵の時に宇久姓を五島姓に改めます。
内乱、朝鮮の役、密貿易、キリスト教伝来、福江城築城、異国船警備と波乱に満ちた五島藩の治世も、明治維新によって藩政奉還になり第31代盛徳公で終わりを告げます。
その後、第32代盛主公は子爵を授けられます。現在は、第35代五島典昭氏によって「五島家」は継承されます。
五島藩富江領
五島富江領の展示物(着物など)
富江領
西暦1661年(寛文元年)、当時の五島藩主24代盛勝の叔父(23代盛次の弟)五島盛清が初代領主となり20ヵ村、禄高3千高をもって分藩し、旗本領として独立しました。富江領主使用の衣服や扇子、盃など領主ゆかりの物が旧富江町に寄贈され保存されています。
伊能忠敬
伊能忠敬に関する展示物(測量に使用した道具など)
伊能忠敬の五島測量の足跡
1813年(文化10年)5月3日に宇久島に着いてから8月2日に福江島を離れるまで五島列島を測量しています。
その測量中であった7月15日に伊能忠敬の高弟であった坂部貞兵衛が福江で病死しています。資料館には坂部が伊能忠敬に宛てた最後の書簡が展示されています。
大野きゆう
大野きゆうの書物など
五島俳句界の偉人
大野きゆうは高濱虚子に師事し、俳句雑誌『ホトトギス』には生涯で約240句が入選しました。
http://gobun.org/index.php?%E5%A4%A7%E9%87%8E%E3%81%8D%E3%82%86%E3%81%86%E5%8F%A5%E9%9B%86%E3%80%8C%E6%B2%96%E3%81%86%E3%82%89%E3%82%9D%E3%80%8D 【】大野きゆう句集「沖うらゝ」(新刊)
昭和22年1月、当時、ホトトギス九州七傑のひとりだった同い年の大野きゆうの 訃報に驚いた高濱虚子は、疎開先の小諸から、急ぎ弔句を寄せたのでした。
冬ぬくき五島の島と聞きつるに 虚 子
今も、歳時記のバイブルと称される虚子編「新歳時記」に、元禄期の芭蕉や明治の子規・昭和初期の虚子門の錚錚たる俳人の例句と並び、26句のきゆうの俳句が採録されただけではありません。
明治41年から終戦の春までの37年間に及ぶホトトギス入選句を、かの高濱虚子が二度に分けて、再度、厳選した現代俳句のアンソロジー(名句選集)と称される虚子選「ホトトギス雑詠選集」に、きゆう句は九州では屈指の37句が採録されました。
「九州に大野きゆう在り」。女流俳人の地・福岡県は別格として、その名は広く西日本に知れわたっていました。
きゆうの居る五島・きゆう庵を訪ねたい、と二度も遙か離島の地を訪れた虚子の高弟・俳人池内たけしをはじめ、各地から西の果ての「きゆう庵」をはるばる訪れる俳人も多かったのでした。
只、28年前に、内海紀雄氏がホトトギス誌のバックナンバーをつぶさに調べて入選句242句を、「浜木綿」に寄稿されたのが唯一で、著名句以外は句稿がどこにあるのか?これまでその所在が判っていませんでした。
昨年年明け、ようやく65年ぶりに北海道江別市のお孫さん宅に大事に保管されていることが判り、昭和初期の五島の俳人、ホトトギス同人・大野きゆう句集「沖うらゝ」を出版できました。
全275ページ グラビア6ページ
本人随想3題 430句余を収録
一部 (歳時記の例句採録句)解説入り
評 伝 海と島に寄りそった生涯
~ホトトギス同人・大野きゆうの足跡をたどる~ 内 海 紀 雄 著
ほ か
定価1600円;(送料込み)
《句 集 の 帯》
いぶし銀のような珠玉を残してくれた島の先達
長い歳月を経ても、きゆう句は人びとの心を微風のように包み、和ませてくれる。まこ とに人間の魂が紡いだものは、いつまでもいぶし銀のような輝きを失わない。
香雪美術館長(元朝日新聞社代表取締役専務)
内 海 紀 雄
俳句に無理をさせない
平易で、一見、平凡な描写こそが極める修練の五七五の大景。ことばを詰め込んで いないゆえに余韻をひくきゆう俳句である。
五島文化協会会長 筑 田 俊 夫
修練を極めた「きゆう俳句」のいくつか
あの辺も五嶋の内や遠山火
雲雀野やここら嶋とも思はれず
水論の夫の後ろに十字切る
沖うらゝ知れる汽船も通らずや
Facebook五島観光歴史資料館投稿記事
2015年7月21日 ·
長崎新聞(7/20)の「新・偉人紀行 36」に五島の俳人 大野きゆうが取り上げられました。
大野きゆう(1874~1947)は大正から昭和にかけて、俳句雑誌「ホトトギス」に240句あまりが入選し、高浜虚子からも高い評価を受けた人物です。
写真の直筆のハガキは高浜虚子が大野きゆうの訃報に際し詠んだ弔句です。
「冬ぬくき 五島の嶋と ききつるに 」高浜虚子
次の句は大野きゆうの昭和18年「ホトトギス」入選句であり先の元句になります。
「冬ぬくき 嶋に老ゆ身の ありがたく」 大野きゆう
五島文化協会会長・筑田氏によると、大野きゆうは高浜虚子を師と仰ぎ尊敬しつつも親しく交流していたそうです。二人は同じ年で共に末っ子。武家の家系で母は江戸の生まれと、とても似た境遇にあったそうです。これも、より親しさを増す一因であったのでしょうと。そして、虚子が生涯で弔句を贈ったのは全国で20人、九州では大野きゆうが最初で他には1人のみだそうです。
虚子の弔句には、「五島は暖かい土地であると何度も聞いているのに、なぜ風邪をこじらせて亡くなってしまったのか」という無念の思いがこめられているそうです。
私たちの郷土にこんな素晴らしい才能を持った人物がいらしたとは、誇りですね。
0コメント