Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
奇跡の中の奇跡
「君の立場になれば君が正しい。僕の立場になれば僕が正しい」ボブ・ディランが言うように、正しさも相対的なものです。ものの見方・考え方を培ってきた環境や宗教や、個性によっても、意見には相違というものが生じます。
相違が生じてはじめて、「相手」のことを知ったり、理解したりすることが出来るのですね。それがまた、人間というもののおもしろいところです。「同質」ばかりでは、世界の幅も個人の幅も広がりません。多様性あってのことです。その差異を「差別」に変えないことが大切ですね。
こんなお話があります。
ある時、お釈迦様が阿難(あなん)という弟子に、「そなたは人間に生まれた事を、どのように思っているか」と尋ねられました。
「大変喜んでおります」。
阿難がそう答えると、お釈迦様は重ねて尋ねられました。「どのくらい喜んでいるか」。
阿難が答えに窮していると、お釈迦様はこんなたとえ話をされました。
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。その亀は、百年に一度、海面に顔を出す。広い海には、一本の丸太が浮いている。その丸太の真ん中には、小さな穴がある。丸太は、風に吹かれるまま、波に揺られるまま、漂っている。百年に一度、浮かび上がるその目の見えない亀が、浮かび上がった拍子に、丸太の穴にひょいと、頭を入れる事があると思うか」。
阿難は驚いて、答えます。「お釈迦様、そのような事は、とても考えられません」。
「絶対にない、と言い切れるか」お釈迦様が念を押されると、「何億年、何兆年の間には、ひょっとしたら頭を入れる事があるかもしれません。しかし、『ない』と言ってもいいくらい難しい事です」。
ここでお釈迦様はこう言われました。
「ところが、阿難よ。私達人間が生まれる事は、その亀が、丸太棒の穴に首を入れる事があるよりも、難しい事なんだ。有り難い事なんだよ」。
「私」があるということが奇跡にほかならないのですね。それぞれの「私」がみな奇跡で、出会いは奇跡の中のまた奇跡。ありがたい、に尽きることです。
https://blog.goo.ne.jp/sikyakutammka/e/47dfea918d1b72547139edd7b62e14f0 【短歌時評160回 多様性を越えて 細見 晴一】より
「この世界は多様性に満ちている」という言い方をよくするが、これはじつは正確ではない。「この世界は多様性そのものである」がより正確な言い方だろう。「満ちている」という言い方だと、多様じゃない世界も別にあることになってくる。そうではなくて本来すべてが多様なのだから。
様々な生物種があり、生物学者はその一つ一つの個体を比べて共通項を見出しそれぞれの種をカテゴライズしようと研究する。だが実は個体が変わればそれはもう別の様相を呈してくる。個体が変わればもうそれは〈違う種〉と解釈する術もあるはずだが、そんなことをしていると無限に生物種があって混乱するので、どこかで生物学者は線を引き、共通項を見つけ出しカテゴライズしてそれを一つの生物種として提示しているだけにすぎない。本来はカオスをカオスとして認識するのが、多様性に対する最も正確な認識の仕方だが、人間はそんな複雑な思考をできない。AIならできるかもしれないが。
人間に対しても、様々な民族があり、様々な価値観、生活様式があり、それぞれの共通項を見出し、カテゴライズしていくのが民族学者や社会学者達の仕事だが、人間が変わればもうそれは違う人間であり、あなたと私は決定的に違うのだ。一緒であるはずがない。一緒にされてたまるか、という気持ちに誰もがなるのが自然だ。
人は或るカテゴリーにて殺される 校庭をまわり続ける鼓笛隊 加藤治郎『昏睡のパラダイス』
人は誰もがカテゴライズされることを無意識に拒む。あるいは逆にカテゴライズされることで安心を得ることもあるかもしれない。この歌は前者の気持ちを代弁している。だれもが「世界に一つだけの花」と考えたいし考えるべきなのだ。自分だけが違うのではなく、相手の個性も最大限尊重すべきで。2003年のこのSMAPの楽曲は多様性の象徴のような楽曲だったし、お互いの多様性を尊重することが最も価値のあることのはずだ。
だがあまりに多様性ばかりが強調されていくと、逆に無限の多様性に疲れてこないだろうか。違うことばかりを強調するのではなく、共通項はあるのだから、それを一緒に愉しんでもいいはずだ、と時折思わないわけではない。もちろんお互いが各々の多様性を尊重するということ、つまりお互い相手が自分とは違うんだということを尊重することが大前提だが。
2013年のNHKの朝ドラ「ごちそうさん」に次のセリフがある。主人公たちが女学校を卒業する際に、担任であり調理を教えていた宮本先生が贈った言葉だ。
http://finwhale.blog17.fc2.com/blog-entry-327.html# 【ごちそうさん】
今度のNHKの朝ドラ「ごちそうさん」は、前作「あまちゃん」に比べるとありふれたキャラとストーリーで、ひどくつまらなくて、飽き飽きしつつもまあまあ楽しんで見てはいたんだけど、今日になって、これは全く違うぞ、と思うはめになった。
それは女学校を卒業するに際して宮本先生が生徒たちに贈った言葉にある。
宮本) 「これからあなたたちは、様々な道を歩いて行かれることと思います。いろいろな人と出会うことでしょう。温かい人も、冷たい人も、幸せな人も、寂しい人も、どうしてもウマが合わないということもあるかもしれません。ですが、そんな時にはどうか思い出して頂きたいんです。食べなければ、人は生きてはいけないんです。あなたと私が、どこがどれほど違っていようと、そこだけは同じです。同じなんです。」
そうなのだ。あの人とその人がどんなに違っていようと、食べることにおいては同じなのだ。当たり前すぎて意外に気がつかない、これには。
人は、特に我々表現者は、人との差異を重視する。自分と他者とがどれほど違うか、ということを他の何よりも重要なこととして、自身のかけがえのないアイデンティティとして後生大事にして生きていくのだ。それをあざ笑うかのような宮本先生の贈る言葉だった。
人と人とが違う、ということに価値を置くのではなくて、人と人とが同じなのだ、ということに価値を置く。価値観の多様化が当たり前すぎて蔓延してしまったこの現代においては、意外にこれは新しい価値観なのかもしれない。
最後の汽車で見送る場面での父、大五と、め以子の婿、悠太郎とのやり取りも深いものに思えてくる。
悠太郎) 絶対に、お嬢さんを幸せにしますから。
大五) まあ、その何だ。食うだけは、たらふく食わせてやってくれよ。それでほとんど大丈夫だからよ。
め以子) もうちょっと、いいこと言ってよ。
大五) 言ったじゃねえかよ。一番大事なことをよ。
そうなのだ、一番大事なことなのである、たらふく食べると言うことは。
何話か前の、納豆の夢がこれからの大阪の生活の暗喩になっていて、この脚本家は、あれ、ちょっと違うかな、とか思っていたけど、なかなかの曲者なのかもしれない。クドカンのドラマのようにセリフやストーリーを少しずつずらしいく、ということはしない、ストレートだ。だから一つ一つのセリフが全然面白くないし、ストーリーも普通なのだけど、何か重要なことがところどころに隠されているのかもしれない。これからの展開に全く目が離せなくなった。
宮本先生「これからあなたたちは、様々な道を歩いて行かれることと思います。いろいろな人と出会うことでしょう。温かい人も、冷たい人も、幸せな人も、寂しい人も、どうしてもウマが合わないということもあるかもしれません。ですが、そんな時にはどうか思い出して頂きたいんです。食べなければ、人は生きてはいけないんです。あなたと私が、どこがどれほど違っていようと、そこだけは同じです。同じなんです。」
人は、特に我々表現者は、人との差異を重視する。自分と他者とがどれほど違うか、ということを他の何よりも重要なこととして、自身のかけがえのないアイデンティティとして後生大事にして生きていくのだ。それを嘲笑うかのような宮本先生の贈る言葉だった。放送当時、自戒の念を込めてそんなふうに思った。自分自身が他者との差異をどれ程望んでいたことか。人と同じであることが我慢できなかったのだ。だからまさにこの言葉は目から鱗だった。人との違いばかりを探すのではなく、人との共通項を探していくのも重要なことだと。この当たり前のことに気づかされた。
一人一人は確かに違うが、それぞれが「世界に一つだけの花」だが、また同じ面もあるのだ。この二つの相反することが一緒になって混在しているのが人間であり、それが人間の困難さであり、また素晴らしさでもある。
流れ行く大根の葉の早さかな 高浜虚子
永き日のにはとり柵を越えにけり 芝不器男
春の雪青菜をゆでてゐたる間も 細見綾子
俳句の素晴らしいところは無意識に人間の共通項に焦点を当ててくるところだ。いや、だから俳句はつまらないという人は俳句は向いていない。俳句は概してそういう文芸なのだから。
三句共、俳句の世界では知らない人がいないくらいの有名な句で、説明はいらないのだが、ここは短歌の人のための文章なので一応少し説明を。
一句目、小川の上流で誰かが大根を洗っているのだろう。その時落ちた大根の葉が目の前を流れていき、そのあまりの速さに驚いた、と言うだけの他愛のない句だ。だが他の何物でもなく、ただただ大根の葉っぱだけに心を奪われたさまが伝わってくる。心を空っぽにして大自然の中にいる。誰もがわかる感興だ。
二句目、〈永き日〉は春の季語でだんだん陽が長くなってくる春の長閑な雰囲気の状況。そんな時期には動物たちも活動的になってくる。鶏も柵を越えてくる。鶏が逃げていったのだ。〈永き日〉という言葉の醸し出す長閑さと相まって、まるでスローモーションの映像を見ているような不思議な感興が伝わってくる。誰もが田園地帯の時間の緩やかな流れにホッとする。
三句目、さっと青菜を茹でているのだろう。その間に外を見やると、春の雪だ。ああ春なのにまだ雪が降っている。たったそれだけの感興だが、春の雪の白さと青菜の緑の色彩との対比が誰にとっても鮮やかだろう。
俳句はあまりに短いので、多様性を捨象し、誰にでも伝わる一つや二つのことに焦点を絞ることが多い。絞ることによって大勢の人に伝わる。まさに宮本先生の言う「あなたと私が、どこがどれほど違っていようと、そこだけは同じです」の部分のみを抽出してくるのが俳句だろうか。
俳句は季語を重視した自然界との交流が多いので誰にでも伝わることが多い。一方、短歌は人事が多い。人間関係を表現の核に持ってくることが多いのだ。人間関係なので当然のことだが、人それぞれであり通じたり通じなかったりする。俳句よりはぐっと絞られた関係性になることが多いが、それでも俳句ほどではないにせよ、ある程度誰にでもわかるところに落とし込んでくる歌は多いものだ。
ぼくたちは勝手に育ったさ 制服にセメントの粉すりつけながら 加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 俵万智『サラダ記念日』
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ 穂村弘『シンジケート』
一首目、まず世代が絞られる。といっても軍事統制が無く食糧事情もよくなった戦後生まれぐらいのものだが、〈勝手に育った〉ということが、特に意識されてくるのは昭和30年代40年代生まれぐらいだろうか。それ以降は当たり前すぎて意識しないかもしれない。〈ぼくたちは勝手に育ったさ〉はそんな緩いカテゴリーだろうか。別に不良少年だとか特別な意味ではないし、自己批判ととる必要もない。昔と比べれば誰もが〈勝手に育った〉のである。それがあまりに普通のことなので自覚がないだけだ。あと〈制服〉から年齢が10代だとわかる。そして〈セメントの粉すりつけながら〉から、だいたいだが都会育ちかなと思える。全体で、昭和30年代~40年代生まれでで都会育ちの人の10代の話で、そういった記憶がある人は、ああそうだよな、と軽やかに共感できる。範疇に入らない人はあまり共感できないのかもしれないが。こんなふうにある程度共感者が絞られてもその中で広く共感を呼ぶことがある。
二首目、まず、同棲カップルか新婚と考えるのが妥当だろう。サラダがおいしくできて褒めてもらえたので、今日はサラダ記念日よ、という天真爛漫で読む者を幸福にさせる歌である。だが、たとえば同性愛者のカップルでもいいし、親子の関係でもいい。一緒に住む家族なら誰にでも当てはまる普遍性の高い歌だ。短歌はこのようにある程度関係性を絞りながらもそこから新たな普遍性へと解放する。
三首目、この歌も似た関係性を想像させる。もちろん風邪をひいて体温計を咥えているのは作中主体のガールフレンドだろう。そこに窓の外に雪が降ってきて、体温計を咥えながらなので「雪だ」と言ったつもりが「ゆひら」となってしまった。この可愛さは女の子以外の何者でもないが、よくよく考えると、見舞いに行った先か一緒に住んでいるとかの話で、サラダ記念日の歌と同じように、関係性は無限だ。親子でも全然かまわない。たとえばこれが小さな男の子で観ているのが親でもやんちゃで可愛いものだ。
サラダ記念日の歌も体温計の歌も、もちろん男女の相聞と読むのが最も短歌的効果を上げることができると一般的には考えられるだろうが、実際にはわからない。それは読者に委ねるしかないからだ。読者が変わると感じることも変わる。それも一つの多様性だ。読みの多様性である。それでもその短歌が良い、と思われるのが秀歌だろうか。
短歌は元々、多様な価値観へと解き放たれるベクトルを内包している。だが、それはわかる人にしかわからないという狭い領域へと向かいがちだ。しかしその多様性を越えて普遍性を獲得した歌も多々ある。
ママンあれはぼくの鳥だねママンママンぼくの落とした砂じゃないよね 東直子『青卵』
標識の「4」を消しそして「0」を消しそれから雲を指すアレチウリ やすたけまり『ミドリツキノワ』
さぼてんの棘を一本ずつ抜いて多肉少女が壊れてゆきます 蒼井杏『瀬戸際レモン』
一首目、全体がメルヘン調である。メルヘンと言うだけで、現実の世界からは遊離してくるし、それはわかる人にしかわからないものだがどうだろう。現実に鳥が地面に落ちていて、それが遠くなので砂にも見えたのか。あるいは逆に現実にはただの砂かもしれなくて、それが鳥であってほしいという願望を強調したのか。失くしたモノに対する哀悼の念か、自分が達成できない憧れへの渇望か。いずれにしろ単なるメルヘンでは終わってなくて、メルヘンを越えて普遍的な人間の感情に落とし込んできている。
二首目、まず〈アレチウリ〉が調べないことには誰にもわからない。日本語では一応〈荒れ地瓜〉と書く。ウリ科の大型のツル植物で、文字通り荒れ地などどこにでも育つ瓜だが、帰化植物で、繁殖力が非常に強く、「日本の侵略的外来種ワースト100」に指定されていて、駆除すべき対象となっている。凶暴なほどの繁殖力で日本在来の種が絶滅させられるのだ。だがこの歌ではそういった人間界の事情を越えて、単純にその勢いに驚いている。40キロの速度制限の標識を覆いつくして見えなくして、制限速度オーヴァーでいったいどこまで繁殖していくのか。これは謂わば客観写生であり、虚子の句の「大根の葉」に対する目の瞠り方と変わらない。川を葉っぱが流れるスピードに驚くか、繁殖のスピードに驚くかの違いで、大自然の驚異にただただ唸っているのだ。マニアックなことを言っていても、そこに留まらずそこを越えてくる。
三首目、まず〈多肉少女〉という言葉は日本語にはない。作者の造語である。普通まずここで躓く。多肉植物なら聞いたことあるのでそこから考えてみる。植物学では多肉植物とは葉や茎の中に水を貯蔵して肉のように膨らんでいる植物の総称となっている。乾燥地帯に多く、サボテンがその代表でアロエもそうだ。だが園芸業界では刺の有るのをサボテン、無いのを多肉植物というらしい。ここで話がややこしくなるが、ここでは植物学的にアプローチしてみる。つまりここでは少女をサボテンという多肉植物に喩えているのだろう。この〈多肉少女〉は乾燥地帯に育って体内に水を蓄えていて多肉体質になっている。水が逃げないように葉が変化して刺になってしまったが、しかしその刺を抜かないことには他人との交流が上手くいかない。相手が嫌がるからだ。だから刺を抜いていったのだが、水が排出されたのか自分自身が壊れてしまった。結局、少女には刺が必要なのだが、刺が有ると交流が上手くいかないというジレンマ。人との交流が不器用な少女のため息が聞こえてくる。今の時代、人との交流は誰もが苦手でなかなか上手くいかない。造語を使ってはいるが言いたいことは誰もが感じている寂しさだ。それが痛々しいほど伝わってくる。
しかし理屈抜きで、見事なまでに多様性を越えて、その上で共通項に的を絞った歌がある。
人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天 永田紅『日輪』
誰もがこの歌を初読で、ハッと気づかされるものだ。10歳の子も、20代の若者も、50代の中年も、80代の老年も、誰もがそれぞれの〈馴れぬ齢を生きている〉ことに。すべての人の世代の多様性に思いを馳せ、「ああ、みんな誰も慣れていないんだ。」と他人を慈しみ、自分も「そりゃあ慣れないよな」と自分をも慈しむ。慈愛に溢れた歌だ。多様性へと人を開放し、宮本先生の言う「あなたと私が、どこがどれほど違っていようと、そこだけは同じです」という共通項に戻ってくる。〈人はみな馴れぬ齢を生きている〉という共通の感慨に。多様性に思いを馳せ、そして多様性を越えることのできる共通項に思いを馳せてこそ、他人も自分もすべての人をも慈しむことができるのではないだろうか。これは謂わば博愛の歌である。
そして昨今、性の多様性が社会にとって重要課題として浮き上がってきている。短歌の世界でも、様々なセクシュアリティの人の短歌が表出してきて、性の多様性が一層オープンになり、そんな中からタイムリーに出てきたのが小佐野弾だ。
ママレモン香る朝焼け性別は柑橘類としておく いまは 小佐野弾『メタリック』
小佐野はオープンリー・ゲイを標榜するが、もちろんゲイだけがセクシャル・マイノリティではない。ゲイを含むLGBTもあれば、それにつながる形も含んだ様々な性分化疾患もある。先天的な性染色体異常のクライン・フェルター症候群、ターナー症候群、あるいはXY型女子のアンドロゲン不応症など、60種類にも及ぶ性分化疾患。それにそれぞれの性指向が組み合わされ、彼らセクシャル・マイノリティを全部はなかなか理解できないが、自分とは違うセクシュアリティが様々にあるのだという理解は必須である。世の中、男と女だけではないんだという認識は完全に常識化した。この認識のない人ははっきり、非常識だというレッテルを貼って軽蔑してかまわないだろう。
セクシュアリティが変わればそれぞれに文化・社会ができていき、それぞれのジェンダーが形成される。無限にジェンダーがあると言っても過言ではない。そして人はそのジェンダーに閉じこもる。マイノリティーだけでなくマジョリティ側の男と女というジェンダーでも同じことで、それぞれに閉じこもってしまう。
小佐野の上掲の歌はゲイとしての苦悩から出てきた一つのカタルシスだ。ゲイのことはたとえわからなくてもそのカタルシスに読むものは広く感動できる。〈性別は柑橘類としておく〉というカタルシスを通じて、ここでの〈性別〉はすべてのセクシュアリティへと拡大されないだろうか。それは男も女もあらゆるセクシャル・マイノリティも含むセクシュアリティだ。宮本先生の言う「あなたと私が、どこがどれほど違っていようと、そこだけは同じです」という共通項がそれぞれのセクシュアリティにもないだろうか。人間なら誰もが抱え込む「性」という悲しい器。それを〈柑橘類〉と言うことによって、なにかセクシュアリティ全体が救われた気持ちにならないだろうか。男も女もレズもゲイもバイもトランスジェンダーもアセクシャルも様々な性分化疾患も同じ人間なんだし、人間として悲しくて愛しい「性」を内包しているだけなんだと。そこに籠り、苦悩し、そこからの解放が人間の生の営みの重要な部分なんだと。それぞれの道程は全部違うだろう。同じであるわけがない。マジョリティである男も女も含めて、セクシュアリティには様々な色が無限にありそれぞれの色に無限の濃淡がある。まるで虹の様に。虹も7色と言うが、これも便宜上7色と言っているに過ぎなくて本当は無限の色彩である。この虹の概念を理解することが性の多様性を理解することに他ならない。本来は一人一人が違うのであり、それをわかりやすくするために便宜上カテゴライズしているに過ぎないのだから。そんな性の多様性を越えようという思いがこの小佐野の歌から多少なりとも感じられたのだ。そこに短歌としてのカタルシスもある。
確かに宮本先生の言う「あなたと私が、どこがどれほど違っていようと、そこだけは同じです」の部分だけで社会を考えるのは全体主義につながる。だが逆に自分だけは違うんだ、あるいは自分を含む共同体だけは違うんだ、特別なんだという考え方は単なる利己主義だろう。だからお互いの多様性をとことん理解しつつ、共通項を見出していこうという方向が、困難だろうが目指していくべきではないだろうか。でなければこの社会は息苦しい全体主義か、とりとめのない単なるカオスに終わるだけだ。
多様化がどんどん進み、それぞれの小さな物語に誰もが籠りがちだ。それがポスト近代の在り方かもしれないが、しかしもうそろそろ、それぞれの小さな物語の外側に向かう視点を持ってもいい頃ではないだろうか。(了)
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2019/02/post-16ca.html 【高浜虚子と金子兜太】より
ウクライナ・ドナウへ流る春の川
「北京2022」パラリンピックは終盤ですが、ウクライナ紛争の解決には、覇権争いや経済制裁ではなく、共産主義圏と民主主義圏の住み分けをして、スポーツや文化・芸術の世界で平和裏の競争をしながら、どちらが人類に幸せをもたらすか、見極めると良いと思います。
2月20日は「鳴雪忌」ですが、金子兜太の一周忌です。2月22日は高浜虚子の生誕の日です。
「虚子」といえば「客観写生」、「兜太」といえば「平和の俳句」です。
金子兜太の師系は、水原秋櫻子に師事した加藤楸邨(人間探求派)です。
秋櫻子は虚子に師事しましたが、「客観写生」の理念に飽き足らず離反し、そのことが新興俳句運動の契機になりました。
(青色文字をクリックすると俳句の解説などリンク記事をご覧になれます。)
(高浜虚子の例句)
・春風や闘志抱きて丘に佇つ (1913年)
(注)河東碧梧桐(自由律俳句)への対抗表明の句です。
・遠山に日の当りたる枯野かな(客観写生)
・去年今年貫く棒の如きもの (棒とは何か)
・時ものを解決するや春を待つ (1914年)
・大寒の埃のごとく人死ぬる 1941年(昭和16年)
・春の山屍を埋めて空しかり (1959年 辞世句)
(注)「空しかり」とは「空然り」とも解釈できます。
(金子兜太の例句)
・水脈の果 炎天の墓碑を 置きて去る (1955年)
・彎曲し 火傷し 爆心地のマラソン (1961年)
・梅咲いて庭中に青鮫が来ている (1978年)
・夏の山国母いてわれを与太と言う (1985年?)
・長寿の母うんこのように我を産みぬ (2004年)
・河より掛け声 さすらいの終る その日 (2018年)
(注)この句の「河より掛け声」は実際のことでしょうが、「三途川」を意識して辞世句としたという解釈は穿ち過ぎでしょうか?
「虚子嫌い」や「兜太嫌い」もいますが、どちらにも熱烈な支持者がいます。俳句に限らず、何事も好き好きですね。平和憲法を維持して多様性の社会をエンジョイしましょう。
高浜虚子は「自由にものを言えない世界大戦の時代」を「客観写生の俳句」に徹することにより生き延びましたが、平和を希求していたに違いありません。
金子兜太は「戦後の自由にものが言える時代」の平和の俳句を謳歌して大往生しました。
両先達のご冥福と世界平和を祈ります。
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