客観写生

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A2%E8%A6%B3%E5%86%99%E7%94%9F 【客観写生】より

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

客観写生は、高浜虚子の造語。

俳句における写生論(文学理論)の一つで、正岡子規の写生論を虚子なりに発展させたもの。

その理論は、浜人への書簡で明らかにされている。 「私は客観の景色でも主観の感情でも、単純なる叙写の内部に広ごつてゐるものでなければならぬと思ふのである。即ち句の表面は簡単な叙景叙事であるが、味へば味ふ程内部に複雑な光景なり感情なりが寓されてゐるといふやうな句がいゝと思ふのである。」(「ホトトギス」大正13年3月号)

つまり、俳句は短いため直接主観を述べる余地がなく、事物を客観的に描写することによって、そのうしろに主観を滲ませるほうがいいという考え方である。 虚子のいう客観写生は花鳥諷詠とあいまって自然を詠うものと考えられがちであるが、その自然(対象)には「人間界」も含まれており、人間も自然の一部と見るのである。

虚子が句作の方法としての「客観写生」を提唱するのは大正時代であったが、昭和初期になると「花鳥諷詠」というスローガンを打ち立てた。その主張は最晩年まで変わらなかった。虚子自身の作品から、「客観写生」は「花鳥諷詠」のための技法であり、「花鳥諷詠」が実作の概念であったと見る方が正確である。

深見けん二は虚子の言葉として次のように述べている。「客観写生とは自然を尊重して具象的に表現すること。まず観察することが基本ですが、それを繰り返していると、対象が自分の心の中に溶け込んできて心と一つになる。そうなると心が自由になり、最も心が動くようになる」(詩歌文学館賞受賞のことば)。ここにある「自然を尊重し」は、これだけでは誤解をまねくことばである。「対象」つまり人間を含む自然とすることが虚子の論に近い。作中主体を含めた人間を詠んでも良いという虚子の説は俳壇でしばしば曲解されており、虚子の俳句観は人間を軽視していると批判されている。

詩歌の理論としては「万葉集」にある「寄物陳思」(きぶつちんし)つまり「ものによせて思いを述べる」と理解してもいい。 写生といい客観写生といい、それは現代でも有効な創作方法である。

しかし、もともと虚子自体は主情的な作風であったため、「客観写生」は営業戦略であるとの批判(復本一郎など)もある。虚子の代表句「春風や闘志いだきて丘に立つ」・「去年今年貫く棒の如きもの」・「爛々と昼の星見え菌生え」・「たとふれば独楽のはじける如くなり」はいずれも客観写生句でなく、「爛々と昼の星見え菌生え」以外は写生句ですらない。しかも、虚子は(客観写生句でない)主観写生句である「金剛の露ひとつぶや石の上」(川端茅舎)や「秋の航一大紺円盤の中」(中村草田男)を称賛している。虚子が阿波野青畝に指導した際、客観写生から始めるように説いているが、客観写生は俳人がきちんと身につけるべき技法であり、絶対ではないという認識であるようだ。安易な主観写生を戒める意味もある。

しかし、虚子が俳誌等を通じて弟子たちに客観写生を進め、極めるように奨励し、安易な主観写生を戒めたことにより、客観写生絶対至上主義との誤解を生んでしまった。また、その過程で、水原秋桜子よりも客観写生派の高野素十を高く評価した事により、1931年、秋桜子は主観の復権を旗印に虚子の客観写生を批判し「ホトトギス」を離脱した。それは「自然の真と文芸上の真」にまとまられている。これは客観写生が些末主義になったとの指摘である。その背景には素十と秋桜子の対立もあった。

なお、客観写生の問題点は、詠む対象及び表現方法を決める行為そのものに作者の入る以上、100%客観的な句は存在しえないということである。芸術である以上、写真と同じく、結局何かに焦点を当てる必要があり、焦点の選択過程で主観が入る。つまり、客観写生と主観写生は主観の濃度のちがいであり、客観写生は主観を抑制して事物の根源に迫ろうとする表現方法である。


安易な主観写生を戒めた →独りよがりの主観的表現に陥らないよう客観写生から始める(ベース)=主観を抑制して事物の根源に迫ろうとする表現方法


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12690593275.html 【客観写生~水原秋櫻子の見解】より

滝落ちて群青世界とどろけり    水原秋櫻子(みずはら・しゅうおうし)

高浜虚子が提唱した、「花鳥諷詠」と並ぶ、「ホトトギス」の二大看板である「客観写生」。これには迷うことが多々ある。

どういうことか。

簡単に言えば、「客観的に写生する」なんていうのは現実的に不可能なのだ。

写生とは、風景や物事を描写することであるから、その時点…、つまり、どんな風景、どんな物事を描写するか、と決めた時点で「主観」が当然入ってくるからだ。

無論、虚子はそのことは十分わかった上で、あえて「客観写生」を提唱している。

風景や物事を描写する時点で、すでに「主観」は入っているのだから、そこに更に「主観」を注入する必要はないし、そうしては俳句がうるさくなる。というのである。

結局「客観写生」とは「方便」なのだ。「方便」というのは、もともとは仏教語で、

人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段である。

「客観写生」とは、俳句の初心者を上達させる為の便宜上の言葉なのである。

困るのは、虚子以降、そのことを理解せず、「客観写生」を「お題目」を唱えるように盲信している人々だ。

虚子自身も著作や文章の中で「主観」の大切さはちゃんと説いている。

そういう人々は口では虚子への尊敬を言いながら、あまり勉強せず、虚子の真意を理解していない。

詩は「主観」があってこそ生まれるものだ。

当たり前のことではないか。「感動」に「客観的な感動」などはない。

実際「ホトトギス」の歴史を見てみればわかるが、

飯田蛇笏  前田普羅  原 石鼎  杉田久女  水原秋櫻子  中村草田男

などは「主観の強い俳句」を作る。

虚子も彼らを認めていた…、というよりむしろ積極的に支持し、育てたわけだから、虚子は主観を認めていたのである。

さて、「ホトトギス」を離脱し、「反ホトトギス」を掲げ、新興俳句を起こした水原秋櫻子は「客観写生」という主張をどう見ていたのだろう。

秋櫻子・著『高濱虚子』から引用したい。

ホトトギスには「客観写生」という標語があった。

元来「写生」という語には、作者の心が含まれているわけで、客観写生というのはおかしな言い方なのであるが、大衆には一応わかりやすい語であるに違いない。

(中略)

はじめから主観の大切さを初学者に教えるほど危険なことはない。

初学者は自然描写を忘れて浅い主観を露出する。

これは困るから、まず客観描写を修練させるという教育法はよい

さすがは秋櫻子。

私は「客観写生」を「方便」と書いたが、秋櫻子は「初心者の為の勉強法」と書いている。

そちらのほうがわかりやすい。

虚子はなんだかんだ言っても、俳句史上、大衆に俳句を普及させた、一番の功労者である。

俳句がわからない…。俳句って難しい…。と悩む人、身構える人に、こういう風に俳句を作ってごらん。と提案したのが「客観写生」なのである。

が、秋櫻子のような才能豊かで、鋭敏な人間からすれば、「その先」を知りたかったのであろう。

再度、引用する。

ホトトギスに於いてはいつまでも経っても客観写生の標語だけが掲げられていて、そのさきの教育はなかった。

つまり、どこまでも大衆教育であり、凡才教育であって、その中から傑れた作者を出そうという教育ではなかった。

十年、二十年という句歴を持ち、すでに初老に入った先輩達まで、「客観写生」という語を座右の銘としていた。

このあたりは実に難しい。

正岡子規は虚子の先輩であり、俳句革新を成し遂げた人であるが、子規は俳句をはっきり「文学」ととらえていたから、子規が早世せずに「ホトトギス」を率いていたら、精鋭は集まっただろうが、何万人という門人を得ることは難しかった。

虚子は、俳句を「文学」と認識していなかったとは言わないが、「文学」というより「大衆文学」として捉えていて、精鋭も必要だが、凡人でも楽しめる文学であることを意識していた。

それらは秋櫻子などにはやはり物足りなかった。

虚子は、無論俳句が抒情詩であり、主観が中心たるべきことを知っている。しかし決してそれを言わぬ。言えば初学者の混乱することが眼に見えているからであろう。

と秋櫻子も、虚子のリーダーとしてのやり方に理解は示している。

そして、虚子は、主観の大切なることは作者自身が勉強によって知るべきものとしたらしい。これも一つの教育方法である。

即ち、(村上)鬼城、(原)石鼎、(飯田)蛇笏、(前田)普羅などは皆勉強によって自己の道をひらき、つよい主観を句に現し得た作者達である。

※( )は私の付記

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12690731261.html 【花鳥諷詠~水原秋櫻子の見解】より

蝉鳴けり泉湧くよりしづかにて     水原秋櫻子

(せみなけり いずみわくより しずかにて)

昨日の「客観写生」に続き、今日は「花鳥諷詠」について、水原秋櫻子の見解を『高濱虚子』(水原秋櫻子・著)を通して考えたい。

「花鳥諷詠」は「客観写生」と並ぶ「ホトトギス」の二大看板で、花鳥風月を諷詠するという意味。「諷詠」するとは「詩歌を詠む」ということで、花鳥風月を詩歌に詠むということだ。問題は「花鳥風月」とは何か、ということだ。

辞書で調べてみると、「花鳥風月」とは、天地自然の美しい景色とある。さらに考えると、「天地自然」とは何か?ということになる。

問題は、社会、生活、あるいは個人の心模様や心象風景も「天地自然」の中に入るのか?

ということなのである。私は「入らない」と思う。

生活、社会、思想、観念までも「花鳥風月」に入るなら、ほぼ全ての俳句が「花鳥諷詠俳句」になってしまう。そんな馬鹿なことはない。

「花鳥諷詠」とは、自然や四季の風景を詠むに限られるべきだ。

が…、高浜虚子は「人間世界のあらゆることも花鳥風月に入る」と言っている。

これで話はややこしくなり、そのややこしさは現代でも解決していない。

花鳥諷詠と申しまするのは花鳥風月を諷詠すると云うことであります。

一層細密に云えば、春夏秋冬四時の遷り変わりによって起る天然界の現象並びにそれに伴う人事界の現象を諷詠する謂であります。

―高浜虚子「花鳥諷詠」―

※(旧かなづかいは現代かなづかいに直した。)

この、それに伴う人事界の現象というのが話をややこしくしている。

やはり社会、生活、人間の心までも含んでいる、と言っている。

さて、「ホトトギス」を脱退し、新興俳句運動の中心となった水原秋櫻子は、この「花鳥諷詠」をどう見ていたのか。『高濱虚子」から引用しよう。

この「花鳥諷詠」は標語しても適当であるとは云えなかった。

字面は美しく、音誦するにも適していることは確かであるが、そこにはいささかの新味もなく、昔ながらの風流と解されるおそれなしとはしない。

―高濱虚子「花鳥諷詠」―

秋櫻子は「花鳥諷詠」というのは、江戸時代から続く「風流」という言葉の意味と、さして変わらないことを危惧している。

そして、虚子は花鳥という中に人事をも含んでいると説くが、その文章が忘れられ、標語のみが残った場合(一二年をすぎればそうなることは眼に見えていた)ホトトギス派は生活を詠むことに無関心なりと思われるおそれもあるわけであった。

-水原秋櫻子『高濱虚子』―

「花鳥」という言葉は、どう考えても「自然」「四季」という意味で取られるだろうから、虚子は「人事界をも含む」と明記してはいるが、俳人皆がこの文章を読むわけではないし、数年のうちに、「ホトトギス」は生活を詠むことに無関心、という印象を持たれてしまうだろう、と当時「ホトトギス」に所属していた秋櫻子は危惧したのである。

そして秋櫻子の不安はその通りになり、私のような輩がこうして文句を言っているわけである(笑)。

こう考えると「客観写生」も「花鳥諷詠」も美しく、風雅な言葉ではあるが、言葉自体は実にあやふさを持っていたのである。

この、虚子の「花鳥諷詠」という文章は、「ホトトギス」の進むべき道を明確に示した文章ではあるが、その内容は秋櫻子を大いに落胆させ、秋櫻子の「ホトトギス」離脱の大きな一因となっている。

大正時代、俳壇を制覇した「ホトトギス」の主信条を述べた「花鳥諷詠」という文章が、秋櫻子の「ホトトギス」離脱、新興俳句運動の始まりの契機となり、ひいては「ホトトギス」一強時代の終焉の始まりとなった、という事実は実に興味深い。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12690918931.html 【水原秋櫻子の見い出した俳句の「調べ」】より

来し方や馬酔木咲く野の日のひかり   水原秋櫻子

(こしかたや あしびさくのの ひのひかり)

水原秋櫻子について、もう少し書いておきたい。

大正後期から昭和初期、秋櫻子や山口誓子など、若き才能は新しい俳句を模索していた。

俳句が「古臭いもの」であるというイメージを払しょくしたかった。

「ホトトギス」にいながらも、彼らは「ホトトギス」とは違う新風を確立しようとしていたのである。

その中で、秋櫻子が注目したのが、「俳句の調べ」である。

秋櫻子は「写生」を尊重しながらも、周囲の人々が「写生」ばかり重視し、一句の「調べ」をおろそかにしていることに気付いた。

松尾芭蕉は、門人たちに「調べを後にせよ」(「調べ」よりも「意味」を重視せよ)と言ったそうだが、芭蕉自身は「調べ」を決しておろそかにしなかった、と芥川龍之介が「芭蕉雑記」で指摘している。

俳句は「韻文」であるから、「調べ」が重要なのである。

そして思い出したのが、俳句の前に学んでいた短歌の師・窪田空穂の調べ」である。

窪田空穂(くぼた・うつぼ)(1877~1967)は歌人、国文学者。

「国民文學」の創設者であり、

つばくらめ飛ぶかと見れば消え去りて空あをあをとはるかなるかな

孤独感ふかまるままに澄みきたるたのしき心は己のみのもの

麦のくき口に含みて吹きをればふと鳴りいでし心うれしさ

などの代表作がある。

秋櫻子は、俳句に短歌の美しい「調べ」、とりわけ空穂の美しい「旋律」を導入しようと試みた。

水原秋櫻子・著『高濱虚子』から引用する。

ふと思いついたのは、嘗て窪田空穂から教えられた短歌の調べということであった。

私はなぜいままでこれに気づかなかったのであろうかと思った。

これをよく考えて俳句に応用すれば、必ず沈滞期を脱し得るに違いないと、明るい希望の灯がともった感じであった。

(略)

十七音にも、出来るだけの抑揚をとり入れて、調べを自在にすることを心がけた。

秋櫻子は書店を歩きまわり、空穂の他にも、斎藤茂吉、島木赤彦、中村憲吉、北原白秋の歌集を読み、それが終わると『万葉集』へ移り、短歌の調べを学んだ。

そして、机上の勉強だけで終わってはいけないと、自然の中を散策し、風景に触れることを心掛けた。

その時、目を付けたのが「葛飾」であり、「奈良」(大和)であった。

梨咲くと葛飾の野はとの曇り          葛飾や桃の籬も水田べり

葛飾は早稲の香にある良夜かな         蟇ないて唐招提寺春いづこ

高嶺星蚕飼の村は寝しづまり          啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々  

むさしのの空真青なる落葉かな         枯木星またたきいでし又一つ

春惜しむおんすがたこそとこしなへ

近代俳句の金字塔と言っていい、秋櫻子の初期句集『葛飾』はこのような努力によって生まれた。

調べの優美さに於いて、俳句史上、秋櫻子の右に出るものはいない。

芭蕉も一茶も子規も…、当然、虚子も及ばない。かろうじて蕪村が匹敵するかどうかであろう。秋櫻子はのちに「ホトトギス」を離脱し、「馬酔木」主宰として、俳句界に新風を巻き起こすが、その「耽美的抒情」と「美しい調べ」を「馬酔木調」と呼ばれるようになった。

余談だが、俳句は、短歌の「5・7・5・7・7」の上句「5・7・5」が独立して出来た文学である。

すでに完成した短歌の調べの一部分を取ったものであるから、俳句の調べは不完全な調べの文学であり、短歌の調べにはどうしても及ばない…、というのが常識である。

しかし、芭蕉にしても、秋櫻子にしても、そういう中で、どうやったら短歌(和歌)に匹敵する「調べ」を得られるか格闘したのである。

われわれも考えるべきことであろう。


http://www.hananoe.jp/culture/bouken/bouken094.html【高野素十 純正の客観写生】より

 高野素十は純写生派の俳人である。『ホトトギス』で活躍していた頃は、いわゆる「四S」の1人として、水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝としのぎを削っていた。ちなみに「四S」という呼称は、1929年に山口青邨が、「この四人は何と言っても今日俳壇の寵児であり流行児であります。東に秋素の二Sあり! 西に青誓の二Sあり!」といったのを、高濱虚子が「東西の四S」と換言したことに由来している。

 素十は東京帝国大学医学部時代、水原秋桜子と出会い、そのすすめで俳句をはじめたという。『ホトトギス』に投句したのは1923年からで、徐々に頭角をあらわし、写生の才を虚子に認められ、愛弟子となった。虚子は「写生ということ」(1929年)の中で、次のように評している。

「此四君(素十、秋桜子、誓子、青畝)のうちで、純写生派と目すべきものは素十君一人で、他は何れも純写生派ではありません。それも比較的の話で素十君に較べると何れも多少理想派がかった色彩を持って居ます。然し何れも熱心な写生信者であります」

 この時期、『ホトトギス』の内部では対立関係が生まれていた。端的にいえば、主観派と客観派の対立である。前者の代表は秋桜子、後者の代表は素十(というか、師の虚子)。虚子に「熱心な写生信者」といわれた秋桜子だが、実際は「心を養い、主観を通して見たものこそ文芸上の真で、これを尊ぶ者が詩人である」と考えていた。想像力や創作力を重んじる彼には、素十の句は些末な客観写生に終始する「草の芽俳句」でしかなかった。ただ、虚子が一貫して素十を擁護していたこともあり、作風の異なる秋桜子にとって『ホトトギス』は窮屈な場所となっていく。

 素十を評価する際、しばしば自分の句が引き合いに出されるのも、秋桜子には不愉快だったに違いない。中田みづほ、浜口今夜による「秋桜子と素十」(1930年)も明らかに素十を贔屓している。みづほの「秋桜子君はもてはやされることは慣れて居られる故......」といった発言の節々にも、他意を感じざるを得ない。

 結果的に、この「秋桜子と素十」に怒った秋桜子は『ホトトギス』を離れて、『馬酔木』で反『ホトトギス』の立場をとることになる。『馬酔木』に掲載された「『自然の真』と『文芸上の真』」を読むと、主義の問題以上に感情問題なのではないか、と勘ぐりたくなるが、そういう人間臭いところも含めて秋桜子の魅力につながっているのだろう。

 素十自身はというと、誰から評価されようと、誰から批判されようと、不用意な発言をすることなく、自分のやり方で虚子の教えを守り続けた。秋桜子に噛みつかれても表面上は平静を保った。あくまでも自分は俳句を作るのみ、俳句の道はただこれ写生、というスタンスである。

 その作句法はどのようなものだったのか。素十は次のように説明している。

「ところで私の句というものは、外界から或る纏った景色、感じというものが出て来るのを待っているので、この点は秋桜子君のように豊かなる詩情を以て練り上げるのとは違う。従っていい句を作ろうという段になると大へん時間がかかる。手間というより時間がかかる」

 そして、作句の際の心のありようについては、「ある言葉を使うのは使うだけの心の要求がある」と前置きした上で、「私としてはいつも句を作る場合に、先ず自分の心を静かにする正しくするということが一番焦眉の急務であって、その他のことはあまり考えた事がない」と述べている。つまり、心の涵養も必要なのである。秋桜子は、客観写生は単に自然を描くだけで心の涵養を必要としない、というような見方をし、素十の作品を「やってみればなんでもないので、少し俳句的の表現を心得ればすぐにでもできる程度のものである」と断じたが、明らかに不当な批評といえよう。

風吹いて蝶々迅く飛びにけり

朝顔の双葉のどこか濡れゐたる

おほばこの芽や大小の葉三つ

甘草の芽のとびとびのひとならび

 いずれも賛否両論を巻き起こした句で、素十を論ずる際に必ず引用される。こうした一見平明な言葉の組み合わせは相当の技術を修得した後でなければ生まれてこない。風の音や水滴の具合や草の匂いまでも伝わってきそうな喚起力を備えている。ただ、「たったそれだけのことか」と思わせる面もあり、素十の最高傑作とすることにはやや抵抗を感じなくもない。

 それよりは、次の4句を、自然との間に障壁のない素十の感性と、他の追随を許さぬ着眼点と、磨き抜かれた言語感覚の賜物として賞揚したい。

柊の花一本の香かな

翠黛の時雨いよいよはなやかに

方丈の大庇より春の蝶

芦刈の天を仰いで梳る

 「翠黛の......」は、秋桜子が褒めた句でもある。「古来時雨と云うと私の嫌いな寂びだとか侘びだとか云うものに作者も読者も結びつけたがるのであるが、此句はその俳句初まって以来の趣味を破ったーー穏当に云えば趣味をひろげた句であって甚だ異色のあるものと云いたい」という評価の仕方は、いかにも秋桜子らしい。

 「芦刈の......」については、山本健吉が「素十の成功した句は他の誰よりも俳句という文学ジャンルの固有の方法をつかんでおり、いわば俳句そのものと言うべきであって、現代俳句の大高峰をなしている」と評しているが、たしかに仰ぎ見たくなるような句である。「梳る」にもうならされる。

 すぐれた俳人はすぐれた鑑賞者でもある。五・七・五の中に広がる世界を深読み出来ない人は、そもそも俳句に向いていない。虚子は、「解釈上の苦心が足りないというのは、作者の苦心を酌み取る同情の足りないのをいうのである」と明言しているが、俳句の鑑賞とは、作者の姿勢だけでなく、鑑賞者の姿勢を問うことも含んでいるのだ。

 それでは秋桜子はどうだったかというと、おそらく、彼は素十の人間性や作風を最も知悉していた同人の一人だったのではないか。しかし自分と同等の存在として認めることは出来なかった。それでも動向が気になって仕方ない。そんな複雑な心理が、秋桜子による素十評に見え隠れしているように私には思える。

 虚子の愛弟子として客観写生の道を歩んだ素十だったが、最晩年(1976年)にはこのような句も詠んでいる。

わが星のいづくにあるや天の川

 およそ写生の鬼らしからぬ句である。山本健吉や森澄雄も、「主観的」とか「抒情派になってしまっている」と否定的な受け止め方をしている。

 かくいう私はこの句から素十の世界に足を踏み入れた。これは虚子の「われの星燃えてをるなり星月夜」を念頭に置いた一種の辞世の句であり、自分の中に溜めていた熱い感情を濾過せず、こぼれ出るままにした記録である。この句を以て自分の才能を認めてくれた虚子に最後まで殉じた、ともいえるだろう。

 晩年の素十は感情表現に傾斜しがちで、友人の死や自身の病気の影響により、それまで堰き止めていたものが流れ出たかのようである。倉田紘文氏が『高野素十研究』(1979年)で指摘しているように、「悲し」、「惜し」、「さびし」、「なつかし」といった言葉も増えている。それまで「先ず自分の心を静かにする正しくするということが一番焦眉の急務」と考えて、巧まざる一閃の写生句をものしていた孤高の人が、そうやって竟に真情をあらわにする時の言葉の選択の余地のなさ。その心境がひしひしと伝わってきて切なくなる。

 俳句は短い言葉の組み合わせにすぎないが、取り上げるテーマや選択される言葉によって、作者の才能、心理、人間性、主張、見解、趣味がどうしても見えて来る。主観的な句であれ、客観的な句であれ、そこは同じである。その言葉に織り込まれたものを読み取るのが、俳句の醍醐味である。そして、言葉を感受する力を解き放つ機会でもある。私には作句の心得はないし、模範的な鑑賞者でもないが、素十の俳句を目にしていると、五感が醒めるような心地になる。と同時に、言葉に対する意識も引き締まるような思いがするのである。

(阿部十三)


http://www1.odn.ne.jp/~cas67510/haiku/kyoshi.html 【虚子批判が「俳句」復活の道】より

 俳句は花鳥諷詠の文学   俳句は大衆文学   俳句は極楽の文学と虚子は言っている

文学であるからには 批判しなければならない 私は虚子を批判することで 俳句の文学性を取り戻したい

 今日、高浜虚子は、近代俳句の創始者・正岡子規をしのぐ「名声」を得ている。俳句に対してさほどの見識もなく才能もなく、ただ子規の残した俳句結社「ホトトギス」の運営に成功を収めただけではないか。結社運営の才に秀でていた事実と、俳人としての評価はまったく次元の異なる問題だ。

 虚子は確かに多くの門弟、俳人を育てた。その俳人がそれぞれ結社を構え、その結社の門弟が独立したりして系列結社が増え、それで一大勢力を成しており、また虚子の子孫がホトトギス等の有力結社の主宰の座にあることから、虚子を侵すべからずの「巨匠」に仕立て上げている。

    虚子門弟も過大評価の問題が

 35歳の若さで他界した子規と、86歳の長命を得た虚子の違いもあるだろうが、しかし、虚子自らそうした風潮を意図して作り出していった形跡がある。虚子の著作物や座談会での発言内容を当たれば、手取り足取り俳句に導いた師の子規をあえて過小評価することで、自らを大きく見せようと「背伸び」しているさもしさ、嫌らしさが随所に出ている。

 虚子はまた、門弟を育てたという評価に対して、私は、本当に門弟を育てたのかと、逆に問いたい。

 虚子門弟として著名な俳人がきら星のごとく並ぶが、著名性は優れた俳人を保証しているものではない。虚子の例で明らかなように結社運営に巧みな能力で力を得れば、駄句凡句であっても名句秀句と門弟たちがもてはやしてくれる。その虚名が一人歩きしただけのことではないか。

 虚子の高名な門弟の作句や選句・批評等を検証すれば、訳の分からない過大評価の実体が明らかになろう。

 文学的感性を有していれば、少し調べれば見えてくる世界だ。

 過大評価でないというのであれば、その事実を明らかにすればいい。蛇笏、石鼎、秋桜子、草田男、波郷など著名なほとんどの俳人は過大評価ではないか。私にはそのように思えてならない。

  ぞんざいな表現で子規を扱う虚子

 まず、虚子の人間性について、事実をあげて問題提起をしたい。

   子規逝くや十七日の月明に  虚子

 子規は明治35年9月19日午前1時頃他界した。病室で添い寝していた母親が気づいた時には、子規の息がなく、周囲の状況から午前1時頃とされている。

 虚子の「子規逝くや」は虚子の句の中では秀句の一つに数えられているが、この「子規逝くや」はそれこそ単なる報告の句ではないか。座五の「月明に」が在り来たりで、どうも芝居がかっているところが嫌味になっている

 子規が息を引き取った部屋に寝泊まりしていた中に、虚子もいた。虚子はそのありさまを、子規が他界した当日の十九日に記した「終焉」の短文のなかで時間経過を追って具体的に書いている。そのなかで虚子は子規のことを「碧梧桐の電話に曰く子規君今朝痰切れず」「子規子昏睡の牀打ちつづく」と記している。前段の「子規君」は碧梧桐が電話で言った呼称として記し、後段の「子規子」は自らの思いとして表現。碧梧桐は郷里・松山時代からの馴染みで、子規を幼名の升(のぼ)さん、あるいは「正岡」と呼ぶのが普通ではなかった。子規を「子規」「子規君」と呼ぶのは、後年の座談や著作で明らかなように虚子の口調ではないか。

 碧梧桐は後に子規の妹律子から聞き取り(インタビュー)をしているが、そのなかで「升さん」「升さん」と一貫して幼名で追想している。この聞き取りの内容が発表されたのは昭和8年のこと。

 「玉藻」研究座談会の虚子の言いたい放題

 虚子は「玉藻」の研究座談会(昭和29年4月)で、敏郎の「先生が、子規に初めてお会いになったのは何時ですか」の問いに、虚子は「十九かな、十八かな。松山の中学校におる時分、東京の大学にいる子規に手紙をやって、文学に志があるから宜しく頼むと言うたら、すぐに返事をよこして」と発言している。

 さらに、虚子は、同じ座談会のなかで、帰省した子規と会った時のことを語っている。明治25年7月から8月にかけてのことで、虚子が19歳、子規26歳。子規はこの年の5~6月にかけて「かけはしの記」を新聞「日本」に連載、また6月26日からは「獺祭書屋俳話」を連載しており、虚子からして7歳上の子規はまさに仰ぎ見る郷土の大先輩であったはずである。実際、子規の死まで、虚子は表面的にはひたすら子規に仕えている。

 子規に送った虚子の書面にしても碧梧桐の紹介を得てのことである。それを「子規に手紙をやって、文学に志があるから宜しく頼むと言うたら、すぐに返事をよこして」とぞんざいな口調で語っている。それだけではない。その口調のつづきで「その折だったかどうか忘れたが、漱石が松山の子規のところを訪ねて来たことがある。その席に、私もいました。それから子規が、漱石の句稿に手を入れていたことを覚えている。漱石はこの時分から句を作っていた。私もその頃から子規に句を直してもらいましたが、直してもらって、よけいまずくなっている。(笑声)余計月並になってしまっている。子規も当時は、月並臭いものを作っていましたから」と子規の添削を揶揄している。

  子規を酷評する虚子の師弟関係

 師の子規の手直しによって、虚子のいうように余計まずくなっているかどうか、その事実を虚子の原句と、子規の添削句を明らかにすることで具体的に言うべきではないか。それを単に門弟との座談のなかで観念的に揶揄する「神経」はいかがなものか。

 それが「ホトトギス」の師に対する遇しかたなら、今日の俳人の虚子への過大評価は、見当違いもはなはだしいことになる。

 「虚子に手を入れてもらってまずくなったよ。駄句凡句になったよ。あれは俳句がも一つ分かっていなかった」などと師を酷評しなければならない。俳句において大きな業績を残した子規の手直しを観念的に門弟に笑いながら揶揄する虚子にふさわしい「師弟関係」を形成すべきではないか。今日の俳句界の師弟関係は、虚子が師の子規に対して取った師弟関係とはあまりに大きな隔たりがある。

 俳句が文学であるなら、虚子が子規に取った態度が本当である。

 俳人は、虚子を間違っても「虚子先生」などと呼んではならない。虚子の選句・作句を積極的に批判しなければならない。あえて足を引っ張るような酷評をせずとも、客観的な批判には事欠かないはずだ。客観的かつ論理的な真っ当な批判ができないなら、俳人の名前を返上し、「俳句作り」と名乗るべきだ。虚子が子規をどのように扱ったか、虚子の著述を見ればいい。

 



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