https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6865323/ 【エネルギー感覚・第六感を取り戻す】
エネルギー(気運)感覚に目覚めましょう
エネルギーの流れは 目で見たり、手で触って分かるものではありません。
エネルギーを感じるためには「弛緩した集中」が必要です。「弛緩した集中」は呼吸に意識を向けることで得ることができます。
息を吸うときは交感神経が働き、吐くときは副交感神経が働きます。
口から糸を吐くようにゆっくり・長く吐ききると 息は吸う意識なしに入ってきます。
吐く息を大事にし、吐く息に意識を向けていると 深いリラックスに誘われます。
緊張がほぐれていて 意識が一点に留まっている状態で 普段使っている感覚とは異なる 新しい感覚が目覚め エネルギーの流れを感じることができます。
外部に向った意識を内部に向け 五感と思考と感情を鎮め 深い集中(トランス状態)を通して気運を体感することになります。
止観トレーニングは 私たちの体で一番敏感な手を使って始めます。
手のエネルギー感覚が甦ると 他の身体部分も気運を感じるのが容易になります。
新しい感覚なので 最初は簡単にできませんが ゆっくり、続けて繰り返していると 誰もが気を感じることができます。
僅かな気の感覚も大切にしてください。疑ったり否定すれば 気の感覚は無いものになります。
https://www.min-iren.gr.jp/?p=27010 【日本人の本質には九条がある 俳人 金子兜太】より
花げしの ふはつくやうな 前歯哉 小林一茶
江戸時代の俳人、小林一茶が四九歳の時、今の千葉県木更津市で作った句です。抜けかかった前歯を舌でペコペコしていると、まるでケシの花が風に揺れているように感じる。花びらと歯の状態を一瞬でつかんだ、いかにも一茶らしい句です。
このような感覚は、日本人の多くが持ち合わせています。日本の大本の宗教は神道。「ご神木」があるように、杉の木一本にも神が宿ると捉える。昆虫でも植物でも、あらゆる命を尊重する。もともと森の多い国に住んでいた民族だから、こうした感覚が鋭いのでしょう。
日本民族の命を中心に据える本質が、戦後七〇年、憲法九条を守ってきた。命を本能的にいたわる習性を持っている人たちの間に、通用するのが九条です。
私の青春は、治安維持法でがんじがらめだった。男性の俳人の中には牢獄につながれた人もいましたが、女性は声を挙げなかった。でも、今は違う。
さいたま市の公民館が一昨年、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句を“政治的”と判断し、月報への掲載を拒否しました。作者の七四歳の女性は黙さず、訴訟を起こしました。これも戦後七〇年の成果です。
「他国が攻めてくる」と国民を脅す安倍政権は、一五年戦争と同じ発想ですよ。生きているものが、そのまま生きていることの大事さが分からない。そんな連中が増えるのは不幸です。
一茶は生涯、貧乏で苦労しました。おそらく、歯もがたがただったのでしょう。でも、その歯で遊びながら楽しんでいる。生きる喜びをかみしめている。私は九六歳ですが、まだ死ぬ気はしません。私たちは生のエネルギーを持っている。くだらない情報に惑わされず、命の強さを信じ、九条に確信を持ち、結集しましょう。
金子兜太(かねこ・とうた)
戦後俳壇の第一人者。1919年(大正8年)、埼玉県出身。父は開業医。現代俳句協会名誉会長、朝日俳壇選者。1944年、海軍中尉としてトラック島に赴任し捕虜を経て帰国。日本銀行に勤めながら俳句を作った。「アベ政治を許さない」と揮毫した書が、全国で掲げられている。
https://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/10_24.html 【【週俳10月の俳句を読む】
認知とことば】より
谷村行海
毎月第二日曜に「街」が行っている研究句会では、ここ半年ほど「○○を作ってみよう」と題して特定の俳人を取り上げている。その俳人の思想や生き方・生涯などを取り上げ、そのあとに作風の特徴を細かく見ていく。この「○○を作ってみよう」シリーズが始まってから鑑賞のことをいろいろ考え直すようになり、毎月参加するたびに自分がぐねぐねと変わっている気がする。
◆ありえない音楽が聞こえる 青本瑞季
一読して素直な作品だと思った。それと同時に、その素直さは自身に対する素直さであって、ときに読者を置いてきぼりに、ときに読者をこれまでの考えではありえなかった新たな世界に誘ってしまう魅力を秘めていると感じた。
夜ゆゑに文月は草木はれやかに 青本瑞季
「はれやかに」ということばは俳句に使うにはちょっと大胆で、ものに接したときの作者の心情が素直に表現されている。読者側にとっても、このことばからイメージはふっとわいてくる。一方で、「夜ゆゑに」は読者側(少なくとも私)にはわからない。「はれやかに」ときたから昼間の様子ならしっくり(すぎるほどしっくり)くる。それに対して「夜」だからイメージが崩れてしまう。しかし、作者にとっては「夜」こそがしっくりきたもので、「ゆゑに」の強い言葉・書き出しにそれが表れている。
焦がれては舟が芒となる夜か 同
ぱれーどよ棗が舌に瘦せてゆき 同
「焦がれては」では、読者はなにに焦がれたかがわからず、それは作者のなかに秘められたままになる。同様に「舌に痩せてゆき」はどう痩せていくのかがカットされ、読者側としてはそれを想像していくしかなくなってしまう。これも素直さの表れで、具体性をカットしてでも自己の心情・感覚を描き出そうとしているように感じられる。今まさに舌のうえで棗が痩せていっているぞ、という体験をしているときにはいちいちそれをどう痩せていくのか記憶しておく暇などないのだ。大切なのはそのときの一瞬を味わうことなのだろう。
感光の渦の鰯よさやうなら 同
最後におかれたこの句も「さやうなら」が「はれやかに」以上に強く、自身を描き出そうという強い意志のようなものが感じられた。ここまで挙げた四句の内容に関しては作者のみ知る世界で、句に表れたエネルギーを味わう俳句といった趣がある。
孔雀から梵字あふれて秋の風 同
一方、この句だとその自己の放出が奇妙な普遍性を伴って読者のもとにやってくる。孔雀から梵字があふれてきましたなんて言われたら一瞬首をかしげてしまうだろう。しかし、そう言われたあとに自己のフィルターを通して孔雀を眺めてみると、形状から厳かな雰囲気に至るまで不思議なほどにしっくりとくる。これ以降に孔雀を見るたびに梵字のことを思い出してしまいそうだ。自身を表すことがそういった世界に読者を誘導してしまう力を持っている。
萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす 同
この句も孔雀と同様にそのときの感覚を表しつつも読者を別世界に連れて行ってしまう。水がこぼれてしまうとか、ものがこぼれて崩れてしまうといったように、「こぼれ」はネガティブな雰囲気も伴っている。しかし、「歌ふ」とくるとイメージが変わり、こぼれることも別に悪いことではないなと妙に納得させられてしまう。この作品が掲載された号で上田信治さんがふれられていたリズムもイメージの転換に一役買っているのかもしれない。
◆水の回遊記 青本柚紀
瑞季さんの俳句はどちらかというと日常を生きての素直さ・感覚であったのに対し、柚紀さんの俳句はどこか日常と地続きの不思議な世界に迷い込んだときのような感覚・感動が出ているように感じられた。
わたくしを傾け壺に棲む獏は 青本柚紀
壺に棲むわけだから、動物園などで大衆の目に晒されている獏(壺に棲む大きさ的に子どもの獏かもしれない)だろうか。周知のとおり獏は夢を食べるなどと言われている。獏枕ではなく単に獏と表記されているから、現実世界で獏を見たと考えるとそのときに味わったのは傾けられているという感覚。像を見ているのか犀を見ているのかわからなくなってしまう獏独自のあのフォルムは認知をゆがませ、自身を傾けてしまうのに十分な迫力を持っている。
見えてゐる痣に芒がかかり笑む 同
痣は極力人に見られたくないものだ。「見えてゐる」とわざわざ書くということは見えていないところにも痣はあるのだろう。そこに芒がかかったというだけのなんともないことではある。しかし、それは心をくすぐられてしまうようにも思えてくる。ただでさえ痣は見られたくないのに、そこに芒がかかるともうどうしようもない。どうしようもないとき人は笑うしかなく、自分でも予期しない身体の深いところからこの笑いがやってきたのだろう。
ここは月の間千の夜がどしや降りで来る 同
この俳句も感覚的。田舎に帰ると星がやけにきれいに見える。その感じは都市部では味わえず、月の世界に迷い込んだような錯覚に陥る。これまで過ごしてきた夜が一瞬で自分の中をめぐり、今見ている夜の光景に辿りついていく。どしゃ降りということばは少し強いようにも感じられるが、そのくらいのインパクトがあったのだろう。また、三音(「ここは/月の」「千の/夜が」)でたたみかけ、それが変調するリズムもこの俳句の内容に対して効果的だと思う。リズムによってどしゃ降りらしさが味わえる。
明け暮れの散らかる川を骨は葉に 同
以上三句は感覚的な俳句に感じられたが、これは趣を別にしていると思った。川は確かに四方に流れ、散らばっているように思えてくる。「骨は葉に」のフレーズは最初よくわからなかったが、読み返していくにつれて不思議としっくりくるような気がした。輪廻転生を表しているようにも見えるし、人生を表しているようにも見えてくる。世界をどう認知しているかが表れた句で、読めば読むほど魅力的に思えてくるするめのような句だと思った。
◆はつ恋考 田中惣一郎
タイトルの通り恋に関する句もあるが、恋そのものを詠むというよりは恋からのイメージの広がりを意識された俳句が多いように思えた。また、十八字切字を使うことで句の内容を拡張しているようにも感じられた。
葦の舟神話のために未来あれ 田中惣一郎
一瞬平易な句に見えたが、読み返してみると「未来あれ」がおもしろい。確かに神話として残り続けるためには未来がなくてはならない。また、すでに神話化されたものも未来がなくては永遠に失われてしまう。そういった意味では神話も無力感のあるものだ。それはどことなく初恋の感覚にも似ている。恋をしている際は全能感を感じていても、すぐにもろく崩れ去ってしまう。よくよく考えると神話にも恋をベースにしたお話が多い。
初恋よどこ澄む水の夕つ方 同
掲載時の後記を拝見すると十八字切字を多く使うようにとのオーダーに基づいて作られた作品群だとわかるが、この「よ」は実に効果的だと思う。呼びかけのようなかたちにすることで読者の興味をぐっと引き付けてしまう。その後に来るフレーズには時間帯に水と感傷に浸るに十分すぎるアイテムが配置されていて、初恋に対した思いが一挙に伝わってくる。「や」で切ってしまうよりも「よ」のほうが思いの伝わり具合がよく、後からもじわじわと効いてくる感覚がする。
てのひらを懐しうする火もがな 同
「火もがな」が非常に巧いと思った。字足らずになってはいるが、声に出して読んでみるとこの前に来る「しう」の伸ばしたような印象から「火」も「ひぃ」と伸ばしたように言え、五音になりはしないにしてもそれに近い音数のように体感させられる。十八字切字を多く使うようにというオーダーがあったにせよ、一応はそのままストレートにほしいと詠むこともできはする。しかし、「もがな」だと声にしたときの不思議な感覚も相まって、先ほどの「初恋よ~」のように余韻があとに残り続ける。それによって火に対する思いについてしばらくの間考えさせられてしまう。やはり「もがな」でないとこの句はいけないと思う。
◆風 島田牙城
惣一郎さんと同様に十八字切字を多めに使うとのオーダーによってつくられているが、牙城さんの俳句はことばそのものに対して真剣に向き合い、そのおもしろさを抽出するとともに世界に対しての振り返りの機会を提示しているような印象があった。
かなそれからの流れにも澄むことを 島田牙城
「かな」はもちろん切字の1つ。切字に対してはさまざまに語られてきた。その切字の歴史、つまり流れをみてみると議論はどれも真剣そのもので、ことばに対して澄んだ心で向き合い続けている。それは何百年、何千年と時代を経ても変わることはなく、2019年の今を生きる私たちにも生き続けているものだ。
ほれそれと言ふに飽きたり秋の風 同
ながながと秋はありけり水たまり 同
とはいっても同じことばに向き合い続けていると飽きてしまう瞬間がふとやってくる。しかし、それも一瞬のことで、時間が経てばまたそれまでのように澄んだ気持ちで向き合えるようになる。四季を通じた風のなかでも「秋の風」はしみじみとした感慨が深く、そうしたことばに飽きてしまった瞬間には最適だろう。一度これまでの自分と向き合って世界をどう見てきたかを考え直してみると同じことばが別の姿を見せてくれる。「水たまり」はこれまでの堆積の1つでもある。
そこにあるかなやけりやや秋の風 同
そして最後にまた秋の風がくる。この句を見たときに永井陽子の「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊」という短歌が頭をよぎった。永井陽子のこの歌は一度聞くとこのリズミカルな韻律が頭を離れなくなってしまう。この句も同様に中七のフレーズが心地よい余韻を残し続けてくれる。また、現代でよく使われる「かな」「や」「けり」の切字で構成されているため、読者は同時にこれまでに自分が使ってきたこれらのことばと向き合うことにもなる。世界を今後どう見ていくかあらためて考えなおさせられる機会に出会えて幸福だった。
以上、四名の作家の作品をみてきた。これらの感想は2019年11月の私によるものであって、来月にはまた別の感想を持っているのかもしれない。ちなみに「○○を作ってみよう」シリーズ、12月は三橋敏雄を扱うとのことだ。
0コメント