みづうみの水のつめたき花野かな
日野草城
連体形で何々かなに掛ける。虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」もある。つめたいのは花野ではなくて水。日が当っているのは枯野ではなくて遠山である。最近では岸本尚毅の「手をつけて海のつめたき桜かな」も同様。こういう用法と文体はいつの時代に誰が始めたのだろう。何だって最初はオリジナルだったのだ。起源を知りたいとは思うがわかっても実作にはつながらない。自分のオリジナルを作りたい実作者にとっては用法の起源はあまり意味を持たない。古い時代の用法をたずねて今に引いてくるのは昔からよくあるオリジナルに見せかける常道である。新しい服をデザインする発想に行き詰ったら、そのとき古着のデザインに習えばいいと思うのだが。この句、水と花野の質感の対比、みづうみと花野の大きさの対比。二つの要素の対比、対照によって効果を出している。草城のモダニズムは自在にフィクションを構成してみせたが、誓子や草田男のように、文体そのもののオリジナルに向ける眼差しは無かった。そこが、草城作品の「俗」に寄り添うところ。そこに魅力を感じる人も多い。講談社『日本大歳時記』(1983)所載。(今井 聖)
流星やいのちはいのち生みつづけ
矢島渚男
季語は「流星(りゅうせい)」で秋。流れ星のこと。流星は宇宙の塵だ。それが何十年何百年、それ以上もの長い間、暗い宇宙を漂ってきて地球の大気圏に入ったときに、燃えて発光する。そして、たちまち燃え尽きてしまう。この最期に発光するという現象をとらまえて、古来から数えきれないほどの詩歌の題材になってきたわけだが、その多くは、最後の光りを感傷することでポエジーを成立させてきた。たとえば俳句では「死がちかし星をくぐりて星流る」(山口誓子)だとか「流れ星悲しと言ひし女かな」(高浜虚子)だとかと……。しかし、この句は逆だ。写生句だとするならば、作者が仰いでいる空には、次から次へと流星が現れていたのかもしれない。最期に光りを放ってあえなく消えてゆく姿よりも、すぐさま出現してくる次の星屑のほうに心が向いている。流星という天体現象は、生きとし生けるもののいわば生死のありようの可視化ともいえ、それを見て生者必滅と感じるか、あるいは生けるものの逞しさと取るのか。どちらでももとより自由ではあるが、あえて後者の立場で作句した矢島渚男の姿勢に、私などは救われる。みずからの遠くない消滅を越えて、類としての人間は「いのち」を生みつづけてゆくであろう。このときに、卑小な私に拘泥することはほとんど無意味なのではないか。そんなふうに、私には感じられた。うっかりすると見逃してしまいそうな句だが、掲句はとても大きいことを言っている。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)
白鳥にもろもろの朱閉ぢ込めし
正木ゆう子
朱はあけとも読むが、この句は赤と同義にとって、あかと読みたい。朱色は観念の色であって、同時に凝視の色である。白鳥をじっと見てごらん、かならず朱色が見えてくるからと言われれば確かにそんな気がしてくる。虚子の「白牡丹といふといへども紅ほのか」と趣が似ている。しかし、はっきり両者が異なる点がある。虚子の句は、白牡丹の中に自ずからなる紅を見ているのに対し、ゆう子の方は「閉ぢ込めし」と能動的に述べて、「私」が隠れた主語となっている点である。白鳥が抱く朱色は自分の朱色の投影であることをゆう子ははっきりと主張する。朱色とはもろもろの自分の過去や内面の象徴であると。イメージを広げ自分の思いを自在に詠むのがゆう子俳句の特徴だが、見える「もの」からまず入るという特徴もある。凝視の客観的描写から内面に跳ぶという順序をこの句もきちんと踏まえているのである。『セレクション俳人正木ゆう子集』(2004)所載。(今井 聖)
June 1662008
タイガースご一行様黴の宿
山田弘子
なっ、なんだなんだ、これは。「失敬な」と思うのは、むろんタイガース・ファンだ。いつごろの句かはわからないが、私はこの「黴(かび)の宿」を比喩と見る。つまり遠征中のタイガースが黴臭く冴えない宿に泊まっているのではなくて、弱かった頃のタイガースの成績の位置がなんだか黴の宿に宿泊しているみたいだと言うのだろう。万年最下位かビリから二番目。実際にどんな宿に泊まっても、そこもまた黴の宿みたいに思えてしまえる、そんな時期もありました。作者は関西の人ゆえ、たぶん阪神ファンだと思うが、あまりの不甲斐なさに可愛さあまって憎さが高じ、つい自嘲を込めた皮肉の一つも吐いてしまったというわけだ。今季のタイガースにとてもこんなことは言えないが、ここにきての三連敗はいただけない。こういう句を作られないように、明後日からの甲子園ではあんじょうたのんまっせ。虚子に一句あり。「此宿はのぞく日輪さへも黴び」。こんなに黴レベルの高い宿屋には、二度と泊まらないですみますように。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)
座布団を猫に取らるゝ日向哉
谷崎潤一郎
冬の日当りのいい縁側あたりで、日向ぼこをしている。その折のちょっとしたスケッチ。手洗いにでも立ったのかもしれない。戻ってみると、ご主人さまがすわっていた座布団の上に、猫がやってきて心地良さそうにまあるくなっている、という図である。猫は上目づかいでのうのうとして、尻尾をぱたりぱたりさせているばかり。人の気も知らぬげに、図々しくも動く気配は微塵もない。お日さまとご主人さまとが温めてくれた座布団は、寒い日に猫にとっても心地よいことこの上もあるまい。猫を無碍に追いたてるわけにもいかず、読みさしの新聞か雑誌を持って、ご主人さましばし困惑す――といった光景がじつにほほえましい。文豪谷崎も飼い猫の前では形無しである。ご主人さまを夏目漱石で想定してみても愉快である。心やさしい文豪たち。「日向ぼこ」は「日向ぼこり」の略とされる。「日向ぼっこ」とも言う。古くは「日向ぶくり」「日向ぼこう」とも言われたという。「ぼこ」や「ぼこり」どころか、あくせく働かなければならない人にとっては、のんびりとした日向での時間など思いもよらない。日向ぼこの句にはやはり幸せそうな姿のものが多い。「うとうとと生死の外や日向ぼこ」(鬼城)「日に酔ひて死にたる如し日向ぼこ」(虚子)。「死」という言葉が詠みこまれていても、日向ゆえ少しも暗くはない。潤一郎の俳句は少ないが、他に「提燈にさはりて消ゆる春の雪」という繊細な句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
人形も腹話術師も春の風邪
和田 誠
子どもの頃、ドサまわりの演芸団のなかにはたいてい腹話術も入っていて、奇妙といえば奇妙なあの芸を楽しませ笑わせてくれた。すこし生意気な年齢になると、抱っこされて目をクリクリ、口パクパクの人形の顔もさることながら、腹話術師の口元のほうに目線を奪われがちだった。なんだ、唇がけっこう動いているじゃないか、ヘタクソ!とシラケたりしていた。腹話術師は風邪を引いたからといって、舞台でマスクをするわけにはいかないから、人形にも風邪はうつってしまうかもしれない。絶対にうつるにちがいない、と考えると愉快になる。――そんな妄想を、否応なくかきたててくれるこの句がうれしい。冬場の風邪ではなく、「春の風邪」だからそれほど深刻ではないし、どこかしらちょいと色気さえ感じられる。そのくせ春の風邪は治りにくい。舞台の両者はきっと明かるくて軽快な会話を楽しんでいるにちがいない。ヨーロッパで人形を使った腹話術が登場したのは、18世紀なかばとされる。イラストだけでなく、しゃれた映画や、本職に負けない詩や俳句もこなすマルチ人間の和田さん。通常言われる「真っ赤な嘘」に対し、他愛もない嘘=「白い嘘」を句集名にしたとのこと。ことばが好きであることを、「これは嘘ではありません」と後記でしゃれてみせる。ほかに「へのへのと横目で睨む案山子かな」という句も楽しい。虚子の句に「病にも色あらば黄や春の風邪」がある。『白い嘘』(2002)所収。(八木忠栄)
たべのこすパセリのあをき祭かな
木下夕爾
中七の連体形「あをき」は下五の「祭かな」にかからずパセリの方を形容する。この手法を用いた文体はひとつの「鋳型」として今日的な流行のひとつとなっている。もちろんこの文体は昔からあったもので、虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」も一例。日の当たっているのは枯野ではなくて遠山である。独特の手法だが、これも先人の誰かがこの形式に取り入れたものだろう。こういうかたちが流行っているのは花鳥諷詠全盛の中でのバリエーションを個々の俳人が意図するからだろう。この手法を用いれば、掛かるようにみせて掛からない「違和感」やその逆に、連体形がそのまま下五に掛かる「正攻法」も含めて手持ちの「球種」が豊富になる。今を旬の俳人たちの中でも岸本尚毅「桜餅置けばなくなる屏風かな」、大木あまり「単帯ゆるんできたる夜潮かな」、石田郷子「音ひとつ立ててをりたる泉かな」らは、この手法を自己の作風の特徴のひとつとしている。夕爾は1965年50歳で早世。皿の上のパセリの青を起点に祭の賑わいが拡がる。映像的な作品である。『木下夕爾の俳句』(1991)所収。(今井 聖)
柿の花こぼれて久し石の上
高浜虚子
あの小さな柿の花がこぼれて落ちて石の上に乗っている。いつまでも乗っている。「写生」という方法が示すものは、そこから「永遠」が感じられるということが最大の特徴だと僕は思っている。永遠を感じさせるカットというのはそれを見出した人の眼が感じられることが第一条件。つまり「私」が見たんですよという主張が有ること。第二にそこにそれが在ることの不思議が思われること。これが難しい。川端茅舎の「金剛の露ひとつぶや石の上」は見事な句と思うが露の完璧な形とその危うさ、また露と石の質感の対比に驚きの目が行くために露がそこに在ることの不思議さとは少し道筋が違う気がする。それはそれでもちろん一級の写生句だとは言えようが。どこにでもある柿の花が平凡な路傍の石の上に落ちていつまでもそこにある。この句を見るたび、見るかぎり、柿の花は永遠にそこに在るのだ。『ホトトギス季題便覧』(2001)所収。(今井 聖)
紙伸ばし水引なほしお中元
高浜虚子
いまどきのデパート包装のお中元を考えていたものだから、どうして紙は皺になったのか、水引の紐は直さざるを得ない状態になってしまったのかと不思議に思った。運ぶ途中で乱れを生じたと単純に考えればよかった。でも虚子のことだから何かあるなと考えたわけである。これはひょっとしたら人からもらった物を使いまわして誰かに持っていったのかも知れぬ。それなら紙を伸ばし水引をなおす理由があるだろうと。これはきっとそうに違いないと考えて、一晩置いてもう一度この句をみたら、いや、これは単に大切な方にお中元を出すとき失礼のないように整えて出したというだけではないかと思い始めた。つまり日頃の感謝というお中元の本意だ。そう思った途端、自分の想像が恥ずかしくなった。そういう可能性を考えたということは自分の中にそういう気持ちの片鱗があるということだ。ああ、俺はなんてセコイことを考えるんだろうと自己嫌悪に陥ったが、この句、単なる感謝の配慮なら当たり前の季題の本意。どこかで僕の解釈の方が虚子らしいんじゃないかとまだ思っている。『ホトトギス俳句季題便覧』(2001)所収。(今井 聖)
秋風や拭き細りたる格子窓
吉屋信子
今年のように猛暑がつづくと、一刻も早く秋風にご登場願いたくなる。同じ秋風でも、秋の初めに吹く風と、晩秋に吹く風では涼しさ寒さ、その風情も当然ちがってくる。今や格子窓などは古い家屋や町並みでなければ、なかなかお目にかかれない。掃除が行き届き、ていねいに拭きこまれた格子は、一段と細く涼しげに感じられる。そこを秋風が、心地良さそうに吹きぬけて行くのであろう。もともと細いはずの格子を「細りたる」と詠んだことで、いっそう細く感じられ、涼味が増した。格子窓がきりっとして清潔に感じられるばかりでなく、その家、その町並みまでもがきりっとしたものとして、イメージを鮮明に広げてくれる句である。女性作家ならではのこまやかな視線が発揮されている。信子には「チンドン屋吹かれ浮かれて初嵐」という初秋の句もある。また、よく知られている芭蕉の「塚も動け我が泣く声は秋の風」は、いかにも芭蕉らしい句境であり、虚子の「秋風や眼中のもの皆俳句」も、いかにも虚子らしく強引な句である。「秋風」というもの、詠む人の持ち味をどこかしら引き出す季語なのかもしれない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
おとなしく人混みあへる初電車
武原はん女
新年の季語には「初」が付くものが驚くほど多い。笑って「初笑い」、泣いて「泣初」である。まあ、めでたいと言えばまことにめでたい。売っても、買っても、「売初」「買初」と「初」は付いてまわるのだから愉快だ。日本人の初ものに対するこだわりの精神は相当なもの。武原はん(俳号:はん女)の場合だったら「初舞」だろう。正月気分で電車は特ににぎやかなことが多いだろうけれど、着飾って妙にとり済ましている人もあるにちがいない。正月も人が出歩く頃になり混み合っているにもかかわらず、乗客はおとなしく静かに窓外に視線を遊ばせて、新年を神妙にかみしめているという図だろう。あわただしい年末、先日までの喧噪との対比が、この句の裏にはしっかり押さえられていると言える。ホッとして、しばしこころ落着く世界。「初電車」にしても「初車」にしても、電車や車はあまりにも私たちの日常身近なものになってしまったゆえに、季語として格別詠みこまれる機会が今は少ないかもしれない。はんは俳句を虚子に学び、句集『小鼓』などがある。虚子の句に「浪音の由比ケ浜より初電車」がある。のどかな江ノ電であろう。鎌倉の初詣とは別ののんびりした正月気分がただよう。平井照敏編『新歳時記・新年』(1996)所収。(八木忠栄)
春水をたたけばいたく窪むなり
高浜虚子
この句とか同じ虚子の「大根を水くしやくしやにして洗ふ」などの機智はまさに今流行のそれ。虚子信奉の現代の「若手」が好んで用いる傾向である。窪むはずもない液体が窪んでいるという、液体を個体のように言う見立て。くしゃくしゃになるはずもない水をそう見立てる同類の機智。同じような仕立ての句を見たら、あ、この発想は虚子パターンだろと言ってやるのだ。虚子の発想の範囲を学びその埒の中で作り、自作の典拠としての虚子的なるものの数を誇る。そのままだと俳句は永遠に虚子から出られない。バイブルの方には責任はない。学ぶ側の志の問題だ。『五百五十句』(1943)所収。(今井 聖)
川面吹き青田吹き風袖にみつ
平塚らいてう
女性解放運動家らいてう(雷鳥)は、戦時中、茨城県取手に疎開していた。慣れない農作業に明け暮れながら、日記に俳句を書きつけていたという。小貝川が利根川に流れこむ農村地帯だったというから、いずれかの川の「川面」であろう。見渡すかぎりの田園地帯を風は吹きわたり、稲は青々と育っている。いかにも男顔負けの闘士の面目躍如、といった力強い句ではないか。疎開隠棲中の身とはいえ、袖に風を満たして毅然として立つ女史の姿が見えてくる。「風袖にみつ」にらいてうの意志というか姿勢がこめられている。虚子の句「春風や闘志いだきて丘に立つ」が連想される。らいてうが掲句と同じ土地で作った句に「筑波までつづく青田の広さかな」がある。さすがにこせこせしてはいない。らいてうが姉の影響で俳句を作りはじめたのは二十三歳の頃で、「日本及日本人」の俳壇(選者:内藤鳴雪)に投句し、何句か入選していたらしい。自ら創刊した「青鞜」にも俳句を発表していたようだ。戦後は「風花」(主宰:中村汀女)の句会に参加した。他に「相模大野おほふばかりの鰯雲」という壮大な句もある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)
一つ蚊を叩きあぐみて明け易き
笹沢美明
あの消え入るような声で、耳もとをかすめる蚊はたまらない。あの声は気になって仕方がない。両掌でたやすくパチンと仕留められない。そんな寝付かれない夏の夜を、年輩者なら経験があるはず。「あぐ(倦)みて」は為遂げられない意味。一匹の蚊を仕留めようとして思うようにいかず、そのうちに短夜は明けてくる。最も夜が短くなる今頃が夏至で、北半球では昼が最も長く、夜が短くなる。「短夜」や「明け易し」という季語は今の時季のもの。私事になるが、大学に入った二年間は三畳一間の寮に下宿していたので、蚊を「叩きあぐ」むどころか、戸を閉めきればいとも簡単にパチンと仕留めることができて、都合が良かった。作者は困りきって掲句を詠んだというよりは、小さな蚊に翻弄されているおのれの姿を自嘲していると読むことができる。美明は、戦前の有力詩人たちが拠った俳句誌「風流陣」のメンバーでもあった。「木枯紋次郎」の作者左保の父である。他に「春の水雲の濁りを映しけり」という句がある。虚子には虚子らしい句「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)
鯖の旬即ちこれを食ひにけり
高浜虚子
一瞬で、ぺろりと鯖鮨を食った。旬だから、好物だから、足が速いから、握られて置かれてすぐに召しあがった。鮨屋のカウンターならば、これがよい食べ方です。山本健吉の歳時記には、「五月十四日作る」とあります。鯖は五月が味の旬とされているので、それを逃さず、これも季節と人との出会いです。それにしても、ただ鯖を食っただけなのに俳句になっているのはなぜでしょう。また、俳句としては例外的に「即ちこれ」といった接続語と指示語を使っています。この効果について、思いついたことをいくつか書きます。一、五七五の定型にするため。二、一瞬で食べられてしまう鯖を「これ」で指示して注目させるため。三、韻律の効果。前半を「サ行音」で、後半を 「カ行音」でまとめた。四、五七五 を三コマのフィルムとみれば、一コマ目は眼の前の鯖鮨、二コマ目は手に取った鯖鮨、三コマ目は腹に入った鯖鮨。と分析しましたが、こんな野暮な考えよりも、句のスピード感が心地いいからでしょう。とくに、「旬」と「即」が漢語でカチンとぶつかっていながらも、「シュン・スナワチ」の音が、速度のある食いっぷりを形容しています。最近の研究で、鯖などの青魚は肝臓がんの抑止効果があると発表されましたが、八十五歳まで健筆を奮った虚子を内側から支えていたのかもしれません。「鑑賞俳句歳時記・夏」(1997・文芸春秋)所載。(小笠原高志)
子規逝くや十七日の月明に
高浜虚子
子規が亡くなったのは明治三十五年九月十九日だった。この句にある十七日は陰暦八月十七日の月という意味だという。夜半過ぎに息を引き取った子規の急を碧梧桐、鼠骨に告げるべく下駄を突っかけて外に飛び出た虚子は澄み切った夜空にこうこうと照る月を見上げる。「十七夜の月は最前よりも一層冴え渡つてゐた。Kは其時大空を仰いで何者かが其処に動いてゐるやうな心持がした。今迄人間として形容の出来無い迄苦痛を舐めてゐた彼がもう神とか仏とか名の附くものになつて風の如くに軽く自在に今大空を騰り(のぼり)つゝあるのではないかといふやうな心持がした」と子規と自分をモデルにした小説『柿二つ』に書きつづっている。子規が亡くなって110年。病床にいながら子規の作り上げた俳句の、短歌の土台の延長線上に今の私たちがいることを子規忌が来るたび思う。講談社「日本大歳時記」(1971)所載。(三宅やよい)
薔薇呉れて聖書貸したる女かな
高浜虚子
大きい朱色の折り鶴が描かれた表紙を開くと写真が載っている。喜壽の春鎌倉自邸の庭先にて著者、とあるその表情は穏やかだがちょっと不機嫌にも見え、男物にしては華奢な腕時計をした手首に七十七歳という齢が確かに感じられる。そんな『喜壽艶』(1950)の帯には、喜壽にして尚匂ふ若さと艶を失はぬ永い俳句作品の中から、特に艶麗なる七十七句を自選自書して、喜壽の記念出版とする、と書かれている。掲出句、自筆の句の裏ページの一文に「ふとしたことで或る女と口をきくやうなことになつた。その女は或とき薔薇を剪つてくれた。そしてこれを讀んで見よと云つて聖書を貸してくれた。さういふ女。」とある、さういふ女、か。薔薇を剪ってくれた時にあった仄かな気持ちが、聖書を読んでみよと手渡された時、やや引いてしまったようにも感じられるが、明治三十二年、二十六歳の作ということは、五十年経っても薔薇の季節になると思い出す不思議な印象の彼女だったのだろう。(今井肖子)
焼藷がこぼれて田舎源氏かな
高浜虚子
以前初めて『五百句』を読んだ時、その一句目が〈春雨の衣桁に重し戀衣〉で、いきなり恋衣か、と思ったが、必ずしも自分の体験というわけではなく目に止まった着物から発想したのだと解説され、え、そういう風に作っていいの、と当時やや複雑な気分になった。その後「戀の重荷」という謡曲をもとにしていると知り、昔の二十歳そこそこはそういう面は大人びているなと思いながら、恋衣と春雨にストレートな若さを感じていた。掲出句の自解には「炬燵の上で田舎源氏を開きながら燒藷を食べてゐる女。光氏とか紫とかの極彩色の繪の上にこぼれた焼藷」とある。ふと垣間見た光景だろうか、五十代後半の作らしい巧みな艶を感じるが、春雨と恋衣、焼藷と光源氏、対照的なようでいて作られた一瞬匂いが似ている。『喜壽艶』(1950)所収。(今井肖子)
春風の真つ赤な嘘として立てり
阪西敦子
作者の意識には、たぶん虚子の「春風や闘志いだきて丘に立つ」があるのだと思う。これはむろん私の推測に過ぎないが、作者は「ホトトギス」同人だから、まず間違いはないだろう。二句を見比べてみると、大正期の自己肯定的な断言に対して、平成の世の自己韜晦のなんと屈折した断定ぶりであることよ。春風のなかに立つ我の心象を、季題がもたらすはずの常識通りには受けとめられず、真っ赤な嘘としてしか捉えられない自分の心中を押しだしている様子は、いまの世のよるべなさを象徴しているかのようだ。しかしこの句の面白さは、そのように言っておきながらも、どこかで心の肩肘をはっている感じがあるあたりで、つまり虚子の寄り身をうっちゃろうとして、真っ赤な嘘を懸命に支えている作者の健気が透けて見えるところに、私は未熟よりも魅力を感じたのだった。「クプラス(ku+)」(創刊号・2014年3月)所載。(清水哲男)
峰の湯に今日はあるなり花盛り
高浜虚子
日本最古と言われる和歌山県湯の峰温泉に句碑があります。熊野古道につながる湯の峰王子跡です。熊野詣での湯垢離場として名高く、一遍上人が経文を岩に爪書きした伝説が残り、小栗判官蘇生の地でもあります。句碑の脇の立て板にはこう記されています。「先生は昭和八年四月九日初めて熊野にご来吟になり、海路串本港に上陸され潮の岬に立ち寄られてその夜は勝浦温泉にお泊まりになり、十日那智山に参詣『神にませばまこと美はし那智の滝』と感動され新宮市にご二泊。翌十一日にプロペラ船で瀞峡を経て本宮にお着きになり、旧社跡から熊野巫神社に参詣された後、湯の峰温泉の『あづまや』に宿られて私どもと句会をしこの句を作られました。十二日に中辺路から白浜温泉に向われたのであります。途中野中の里にて『鶯や御幸ノ輿もゆるめけん』とお残しになられました。先生は昭和二十九年十一月、文化勲章を受賞されましたが、同三十四年四月八日八十四歳で逝去されました。 昭和五十五年七月 先生にお供した福本鯨洋 記」。名湯と花盛りと、虚子を慕って集った人々と、その喜びが「今日はあるなり」に集約された挨拶句です。なお、「湯の峰」を「峰の湯」としたのは、地名よりも場所を写実した虚子らしい工夫で、凡庸を避けています。(小笠原高志)
役者あきらめし人よりの年賀かな
中村伸郎
根っから芝居がたまらなく好きで堅実に役者をめざす人、ステージでライトに照らし出される華やかな夢を見て役者を志す人、他人にそそのかされて役者をめざすことになった人……さまざまであろう。夢はすばらしい。大いに夢見るがよかろう。しかし、いっぱしの役者になるには、天分も努力も必要だが、運不運も大いに左右する。幸運なめぐり合わせもあって、役者として大成する人。ちょいとした不運がからんで、思うように夢が叶わない人。今はすっぱり役者をあきらめて、別の生き方をしている人も多いだろう。(そういう人を、私も第三者として少なからず見てきた)同期でニューフェイスとしてデビューしても、一方は脱落して行くという辛いケースもある。長い目で見ると、そのほうが良かったというケースもあるだろうし、その逆もある。このことは役者に限ったことではない。「役者をあきらめし人」の年賀をもらっての想いは、今は役者としての苦労もしている身には複雑な想いが去来するのであろう。親しかった人ならば一層のこと。そういう感懐に静かに浸らせてくれるのが年賀であり、年頭のひと時である。虚子の句に「各々の年を取りたる年賀かな」がある。平井照敏編『新歳時記・新年』(1996)所収。(八木忠栄)
祖父逝きて触れしことなき顔触れる
大石雄鬼
大寒のころになると「大寒の埃の如く人死ぬる」という高浜虚子の句を思い出す。一年のうちでもっとも寒い時期、虚子の句は非情なようで、自然の摂理に合わせた人の死のあっけなさを俳句の形に掬い取っていて忘れがたい。私の父もこの時期に亡くなった。生前は父とは距離があり、顔どころか手に触れたことすらなかった。しかし亡くなった父の冷たい額に触れ、若かりし頃広くつややかだった額が痩せて衰えてしまったことにあらためて気づかされた。多くの人が掲句のような形で肉親と最後のお別れをするのではないか。掲載句は無季であるが虚子の句とともにこの時期になると胸によみがえってくる。『だぶだぶの服』(2012)所収。(三宅やよい)
うなり落つ蜂や大地を怒り這ふ
高浜虚子
仕事でよく訪れる長野県の人々は、蜂と密接な暮らしをしています。森を歩けば「蜂を保護しています。近寄らないでください」の立て看を見かけます。高校には養蜂部があり、秋になると市場では蜂の巣が売られていて、蜂の子が羽化してブンブン飛ぶのを見かけます。蜂蜜の味がする蜂の子の缶詰も売られていて、長野特有の食文化が生きづいています。一方で、花が咲き始める頃になると、家の軒下では蜂が巣作りを始めます。蜜蜂ならば歓迎するのですが、スズメバチが巣を作り 始めたら大きくなる前に退治しなくてはなりません。句集では、掲句の前に「巣の中に蜂のかぶとの動く見ゆ」があり、連作です。(昭和二年三月十七日の作)。「かぶと」と見立てるところに蜂に対する身構えがあります。蜂蜜は、このうえなく甘い味をもたらしてくれるけれど、刺されたことのある身は、生涯その一撃を忘れることができません。私も小学六年の時、蜂の巣箱を襲撃した後、自転車をこいで逃げても逃げても追いかけられて、頭皮を突き刺された痛みを恐怖とともに覚えています。多かれ少なかれこのような経験は皆もっていて、蜂をモチーフに句作する場合も畏怖の念をともなうことになるのでしょう。掲句は、上五と下五で動詞を二つずつ使用して、それらが対称的に配置されています。「うなり落つ」は、羽ばたく音の激しさと落下をやや客観的に描写しているようなのに対して、「怒り這ふ」は、主観を含んで擬人化されています。ただし、その擬人化は比喩というよりも、作者の身から率直に出てくる表現で、蜂は、蝿や蚊とは違った「怒り」の情念を持てる種として尊重しているように思われます。また、中七では「蜂や」で切ることによって、一匹の蜂と「大地」という言葉を同じスケールの中で受けとめることを可能にしており、蜂の最期を広大な空間における一つの出来事としてその様態を注視しています。「うなり、怒り」は、雷神のようであり、「落つ、這ふ」は、落ち武者のようです。『虚子五句集』(岩波文庫・1996)所収。(小笠原高志)
神にませばまこと美はし那智の滝
高浜虚子
滝は夏の季語です。しかし実際は、昭和8年4月、南紀に遊んだ時の作句です。参道の脇には句碑が建っています。一方、山口誓子は昭和43年、前書を那智として「鳥居立つ大白滝を敬へと」と詠みました。私も初めて那智に行ったとき、鳥居をくぐると本殿・社殿はなく、じかに大白滝を拝むことに驚きました。それまで神道にはほとんど関心がなかったのですが、「那智の滝が枯れる時は世界が終わる時」という言い伝えは聞き及んでいたので、たしかに、この滝が枯れたら那智川流域の植物も枯れてしまうと思いました。ここ、飛瀧神社は、那智の滝を中心にして成り立っている鎮守の森の生態系それ自体を聖域とみて、鳥居で俗界と区切り、滝の下り口には注連縄を渡して神さ まであることを示 しています。那智の滝は、植物にも動物にも人にも水を与え、元気にしてくれます。それが、神さまのはたらきなのでしょう。また、鳥居をくぐり抜けて滝をおがむ者は、133mの落差のなか、水が多様に変化しながら落ちていく様を見ます。滝壺からは轟音がこだまして、風は涼しい飛沫(しぶき)を運び参拝する者を包みます。この動態を、虚子は「美(うる)はし」の一語で切ります。日本の神さまは、このように直接的な自然現象を人に与えている場合が多く、人々は、山や岩や海や樹や稲など、それぞれの土地の恵みを崇拝してきました。それにしても、滝そのものをご神体にしている事例は、ここ以外に知りません。ご存知の方がいたら、教えてください。『虚子五句集』(岩波文庫・1996)所収。(小笠原高志)
September 1292015
芋虫に芋の力のみなぎりて
杉山久子
芋虫といえば丸々と太っているのが特徴だ。手元の歳時記を見ても〈芋虫の一夜の育ち恐ろしき〉(高野素十)〈 芋虫の何憚らず太りたる〉(右城暮石)、そしてあげくに〈 命かけて芋虫憎む女かな〉(高浜虚子)。なにもそこまで嫌がらずともと思うが。しかしこの句を読んであらためて、元来「芋虫」はイモの葉を食べて育つ蛾の幼虫のことだったのだと認識した。大切なイモの葉を食い荒らす害虫として見れば太っていることは忌々しいわけだが、ひとつの生き物、それも育ち盛りの子供としてみれば、まさに生きる力がみなぎっているのだ。芋の力、の一語には文字通りの力と、どこか力の抜けた明るいおもしろさがあって数少ないポジティブな芋虫句となっている。「クプラス」(2015年・第2号)所載。(今井肖子)
百八はちと多すぎる除夜の鐘
暉峻康隆
作者、暉峻(てるおか)康隆は江戸文学の泰斗で、とくに西鶴研究の第一人者です。1980年代にはNHKお達者文芸で短歌・俳句・川柳の撰者として、その洒脱な話術で小鳩くるみと共演して視聴者を楽しませました。私は、大学を卒業してからも社会人講座で先生の話芸を楽しみながら芭蕉と蕪村と一茶を学びました。その時、「蕪村も生前は句集を出さなかったのだから俺も出さない」とおっしゃっていたことを覚えています。掲句は先生の死後、早稲田大学の教え子たちが遺稿一千余枚を編集した『暉峻康隆の季語辞典』(2002)に所載された句です。先生は句集は出しませんでしたが、季語と例句解説の最後に「八十八叟の私も一句」と締めます。この季語辞典で、鹿児島県志布志町の寺に生まれた暉峻は、百八の鐘のルーツを探っています。以下、要旨を記します。江戸中期の禅宗用語辞典『禅林象器箋』(1741)に「仏寺朝暮ノ百八鐘、百八煩悩ノ睡ヲ醒ス」とあり、寺の百八の鐘は毎日の朝暮の鐘のことだった。それをサボッテ、除夜だけ百八鐘を撞くようになったのは江戸後期からである。「百八のかね算用や寝られぬ夜」(古川柳)は、宝暦年間(1751~1764)の作で、除夜の鐘の句の初見である。句意は、西鶴の『世間胸算用』にもあるように、大晦日の夜更けは借金取りが押し寄せるので安眠できない庶民の実情。つぎに、「どう聞いてみても恋なし除夜の鐘」(乙二・1823没)。辞典をそのまま引用すると、「この人は歳時記にとらわれない実情実感派であったようだ。人間の煩悩の中でもっとも重い性愛を筆頭とする百八煩悩を浄めるための除夜の鐘なのだ、と思いながら聞くのだから、色気がないと思うのはもっともだ」。さて、「除夜鐘・百八鐘」が季語として定着したのは意外に新しく、改造社版『俳句歳時記』(1933)と翌年刊、虚子の『新歳時記』からで、その虚子に「町と共に衰へし寺や除夜の鐘」がある。だから、一般的な歳時記の例句も近現代なんですね。掲句に戻ります。私の記憶では、掲句は先生が1988年(八十歳)頃の朝日新聞夕刊でインタビューされていた時に引用されていて、当時の仕事仲間もこれを読んで、「年をとるとこんな心境になるのかねぇ」と云っていました。自身は辞典の中で「実感であるが、煩悩を根こそぎ清算されると、いくら因業爺でも来る年が淋しい。」と書き、「新しき煩悩いずこ除夜の鐘」で締めています。米寿を過ぎて、この前向き。(小笠原高志)
書くほどに虚子茫洋と明易し
深見けん二
昨年冬号を以て季刊俳誌「花鳥来」(深見けん二主宰)が創刊百号を迎えられた。その記念として会員全員の作品各三十句(故人各十五句)をまとめ上梓された『花鳥来合同句集』は、主宰を始め句歴の長短を問わず全員の三十句作品と小文が掲載されており、主宰を含め選においては皆平等な互選句会で鍛錬するというこの結社ならではの私家版句集となっている。掲出句はこれを機会に読み返してみた句集『菫濃く』(2013)から引いた。作者を含め、虚子の直弟子と呼べる俳人は当然のことながら少なくなる一方であり筆者の母千鶴子も数少ない一人かと思うが、その人々に共通するのは、高濱虚子を「虚子先生」と呼ぶことだ。実際に知っているからこそ直に人間虚子にふれたからこそ、遠い日々を思い起しながら「虚子先生」について書いていると、そこには一言では説明のできない、理屈ではない何かが浮かんでは消えるのだろう。茫洋、の一語は、広く大きな虚子を思う作者の心情を表し〈明易や花鳥諷詠南阿弥陀〉(高濱虚子)の句も浮かんでくる。(今井肖子)
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