過去の捨て方として俳句がある。

https://fragie.exblog.jp/32322183/ 【過去の捨て方として俳句がある。】より

泰山木の花。仙川沿いの公園に咲いていたもの。神代植物園には大きな泰山木が数本ある。

今年はそれを見ることもできない。

緊急事態宣言にともないこういう植物園も同時に閉園となってしまうと、いったいどこに行ったらよいのだろうか。そろそろ開園にならないかなあ。

6月15日付けの朝日新聞で、「俳句のまなざし」のコーナーで岩岡中正氏が、渡辺誠一郎著『佐藤鬼房の百句』と取り上げている。その部分を紹介したい。

タイトルは「鬼房ふたたび」

昨年、佐藤鬼房俳句集成第一巻『全句集』(朔出版)が出たが、今回、渡辺誠一郎著『佐藤鬼房の百句』(ふらんす堂)は愚直、弱者、屈折、韜晦(とうかい)、ユーモア、ヒューマニズムなど興味尽きない鬼房俳句を、「成熟に抗して」というキーワードで集約して紹介する。その無限の「精神の飢餓感」や「永遠の飛翔願望」というロマンチシズムや詩精神に光が当てられていて、とくに若い人への鬼房入門書として薦めたい。

 赤光の星になりたい穀潰         壮麗の残党であれ遠山火

 海嶺はわが栖なり霜の聲         愛痛きまで雷鳴の蒼樹なり

今日は新刊紹介をしたい。

松本余一句集『言霊』(ことだま)

四六判ハードカバー装帯あり 200頁 一句組

著者の松本余一(まつもと・よいち)さんは、昭和14年(1939)東京・小金井市生まれで現在も小金井市にお住まいである。平成29年(2017)、NHKの俳句講座を経て、俳誌「ひろそ火」に入会し、木暮陶句郎に師事。NHKの俳句大会や「ひろそ火」の賞に応募して入選されたり佳作をとられたりしてその進歩のほどがすばらしい方だ。本句集は一句立てで、序を木暮陶句郎主宰が寄せ、跋を杉山加織編集長が寄せている。

陶句郎主宰の序をまず抜粋して紹介したい。

この度、「ひろそ火」東京支部長の松本余一さんが第一句集を出版することとなり心から喜んでいる。

本名、松本成雄さんはたいへん多才な人である。趣味はゴルフ、油絵、カラオケのほかにもさまざまに手がけられていたが、三年前にそれらを全てやめて俳句一本に絞る決意をされた。俳号の余一はその想いの表れである。「おのれにひとつ」これから打ち込むべきは俳句だけ、という気概からの命名なのだ。(略)

そんな余一さんが令和二年二月、脳卒中で倒れた。幸い少しの左半身麻痺が残る程度で快方に向かいながら句会にも復帰されている。私はそのことで余一さんの俳句が益々深みを増してきたように感じている。ことばが「言霊」になったのである。

 こともなく生きて万朶の花のなか

 人の世を離れて消ゆる遠花火

などの作品には季題に託した抒情に加え、余一さんの人生観が詠み込まれている。一読して、その作品世界に引き込まれる魅力がある。

 しみじみと十指の皺に秋の風

 それからは杖つく冬に馴れてをり

 水仙を活けて背筋を伸ばしけり

など、たくさんの句をあげて陶句郎主宰は句集『言霊』に言及している。

跋を書かれた杉山加織編集長の跋文を抜粋して紹介したい。

 百色の色鉛筆や初夏の街      森若葉少年街を捨ててゆく

 目薬に光の混じる今朝の秋     蜩や逢ひたき人の皆遠し

 星になることを願ひて冬ざくら

目に映る街を百色で描く明るさ。住み慣れた街を捨てるほどの覚悟を抱いた少年を包む森若葉の大きさ。目覚めの瞳を潤す立秋の光。もう逢うことのない人たちを手繰り寄せる蜩の旋律。寒さの中に白く咲く小さな花へ向けた眼差し。これらの句から、季題を通してご自身の中に眠っていた記憶や願望に出会い、魂を浄化するように十七音の言霊を放つことをご自身が心から喜んでいるように感じました。

杉山加織さんが、松本余一さんに初めてお目にかかったのは、木暮陶句郎主宰の作陶展であったということ。「こちらが恐縮するほど深々と一礼をされ」たとその跋文に書かれている。

 こともなく生きて万朶の花のなか

好きな一句である。松本余一さんは、今年82歳を迎えられる。それなりに、いやりっぱに長い時間を生きてこられた方だ。昨年は脳卒中で倒れられたと序文にあるように、そして、〈それからは杖つく冬に馴れてをり〉と詠まれているように、すこし身体が不自由になられたのだろうか。つまりは82年の歳月には一言ではかたづけられないほどさまざまなことがあったはずだ。しかし、万朶の花のなかに身をおいてみると過ぎ来し方が走馬燈のようにわが身をかけめぐる。桜咲くことも万物流転のなかにあり、ましてや人の一生などあっというまの夢とも思える、そんな思いを咲き満ちた桜が呼び起こすのか。人の世の迅速を思い、その身におこった艱難辛苦など、こうしていま桜花を愛でることのできるわが身にとっていかほどのことがあるのだろうか。「こともなく生きて」という腹のくくり方がなんともカッコいい。これは、桜という圧倒的な美なるものへの、松本余一さんの精いっぱいカッコつけた挨拶かもしれないと思った。年若い人間にはとうてい詠めない一句だ。

 夏佐渡の潮目のかはる昼下り

この句も好きな句。スケールの大きな句である。季語は「夏」であるが、佐渡の夏の一瞬の景を詠んだものだ。「夏佐渡の」という措辞が思い切っている。「潮目のかはる夏の佐渡」では平凡となってしまうところを、「夏佐渡の潮目のかはる」と大きくつかんで勢いがある。下五の「昼下がり」で人間の気配を点じた。一気に読み下すことができて、映像的でもあり感覚的でもある句だと思う。

 数へ日の犬のしづかな眼に合うて

この句は、陶句郎主宰も杉山加織さんもとりあげておられなかった一句なのだけれど好きな一句だ。「犬のしずかな眼に合う」という表現は既視感があるかもしれない。この句、季語の「数へ日」がいいのだと思う。年の瀬のあわただしい日々である。みなせかせかと雑事におわれ、あるいはすることがなくてもどこか落ち着かず心急く、そんな日々だ。この一句、「犬のしづかな眼」を作者の静かなこころがとらえたのだ。作者のシーンとした心持ちが伝わってくる。この一句から、わたしは作者の世俗の価値観からはなれたゆるやかな諦念のようなものさえ感じるのだ。これもまた、ある年齢を経ないと生まれない一句かもしれない。

 雪虫の手にとりやすし死にやすし

小さな命に向き合う作者だ。素直でシンプルな表現がいい。この一句は、校正者のみおさんも好きな一句だ。「儚い……」とひと言。

句集をまとめたいと思うようになった。八十過ぎなので時間切れに近い。焦ったが仕方ない。俳句には焦りが禁物と聞いたことがあった。いま脳卒中の後遺症がくっついて離れない。ただ俳句には夢中でいられるのが幸いしてかくの如きに至った。句集は大それた作業と言える。

木暮陶句郎先生に出会ったのは幸運だった。めんどうがらずによく教えて下さった。それが今につながっている。先生とは相性が良いのか、素直に身に入みたものだ。先生は「無理するな」が口癖で、「感動即俳句にせよ」と言われる。その境地にはほど遠い。

自分は過去に引きずられる性格で苦労する。過去の捨て方として俳句があるような気がする時がある。捨てなければ新しいものが見えない。かくて三年が過ぎた。

「あとがき」を抜粋して紹介。

「過去の捨て方として俳句がある」はとても含蓄のある言葉だと思う。

やはり、カッコイイお方である。

本句集の装釘は、君嶋真理子さん。希望された色を主体にしての装釘となった。

タイトルは金箔押し。クロスはつむぎ風の渋いもの。上品である。

扉。花布は黒。栞紐はグレー。

本句集には未収録だが、私がどうしても紹介したい余一さんの俳句がある。令和二年の「ひろそ火」十二月号に掲載された次の作品である。

 爽やかに病み抜ける業俳句道

余一さん、これからも益々佳い俳句を生み出し続けて欲しい。

近影写真を送ってくださった。松本余一氏。

第一句集の上梓を機にさらなるご健吟をお祈り申し上げます。


https://fragie.exblog.jp/32677623/ 【爽やかに病み抜ける…】…より

ある日の薔薇。

「現代人は賢明となるにはあまりにも多くの本を読み、美しくあるためにはあまりにも余計に考えごとをしすぎる。」これはいま読んでいる小説の一節である。しかし、現代の小説ではない。19世紀に書かれたイギリスの小説のことばである。

「現代人は賢明となるにはあまりにも多くの情報を得、美しくあるためにはあまりにも余計な企みをしすぎる。」これは、21世紀に生きている仙川のヤクザなR女(つまりはyamaoka)のことばである。あはっ。。。。

新刊紹介をしたい。

松本余一句集『言霊II』(ことだま2)

46判ハードカバー装帯あり 206頁 1句組

著者の松本余一(まつもと・よいち)さんは、昭和14年(1939)東京生まれ、現在は俳誌「ひろそ火」(木暮陶句郎主宰)と俳誌「海光」(林誠司主宰)に所属しておられる。本句集は三冊目と成る。第1句集『言霊』を2020年(令和3年)に上梓され、今年のはじめに第2句集『ふたつの部屋』(アトラス刊)を上梓、そしてここに『言霊Ⅱ』と短期間のうちに3冊の句集を上梓されている。今年83歳になられる松本余一さんは、お身体がすこし不自由である。お身体が不自由な分だけ、というとへんかもしれないが、ものすごく俳句熱心である。ふらんす堂の本もよく買ってくださり、時にお電話でお話したこともある。そのときは「取り合わせ」の句がいかにしてつくれるようになれるか、それをもっぱら考えておられたようだった。

本句集にもご自身の肉体の不自由さについて詠んだ句がいくつかある。

 万歳は吾のリハビリ葱坊主    麻痺の手に苦労をさせる更衣

 片麻痺の脚に気合を入れ立夏   爽やかに病み抜ける業俳句道

ほかにもあるがいくつかあげてみた。

半身不随となられても、それを俳句に詠み込んでいじいじしていないところが素晴らしい。

私にとって俳句は迷路のようだ。出口の見えないままに日が暮れそうな不安がつきまとう。すぐ突き当り戻り、また進む。気分よく行った分だけ帰りは遠い。進む道は多岐に分かれる。そのなかで不可欠なのは読み手という存在である。読者不在の俳句は成り立たない。この辺りで私は困惑する。

はじめから読み手に頼ると私の居場所がなくなる。時空も意味も飛び越えてしまう。それでもよしとするならば、ある部分読み手に委任すると言う私の覚悟が必要になってくる。こんなふうに十七音の俳句の立ち位置を、少し知ることになってしまった。いまだ迷路の中にいるようだ。

これは私と読み手の感性の共有なのかも知れない。旅遍路の同行二人に近いものかも知れないとの思いから、俳句遍路も楽しい。

「あとがき」を紹介した。

俳句をつくる側にとって読み手というのがいかに大切かを書かれている。作り手と読み手が「感性を共有すること」それによって新しい読みが生まれるということか。しかし、「感性を共有する」ってどういうことなんだろう。わかるようでちょっとわかりにくい。それを松本さんは、「ある部分読み手に委任する」と書かれている。要は、わたしはこう感じた、あなたはどう感じますか、とそのやりとりをするということを「感性を共有する」と語っておられるのか。つまり、あなたの感じたことが、若干わたしの作意とちがっていてもそれをわたしは共有します、ということなのか。そうであれば、わたしがここで勝手に鑑賞しても許してくださいますのね、松本さま。

しかし、あまりとんちんかんになりすぎないように、松本余一さんの俳句を紹介していきたい。

 そのままの子の空部屋の余寒かな

寒さを感じる一句だ。この句、季語が「余寒かな」でなく、「寒さかな」としたらどうだろうか。そこには寒々とした子の空き部屋が氷りつくようにあり、人を排する気配がただよう。「余寒かな」はどうだろう。一度人間の肉体は春の温もりを経験してそこにいるのである。寒くてもどこかゆるく人を許容する気がある。するとかつてそこで暮らしていた子どもの気配も蘇ってきて、これから春へとむかう寒さを感じながらも、子どもの息遣いなどが感じられて、人懐かしい思いも立ち上がってくる。寒くても人間の気配が濃厚である。「余寒」が多くを語っている。

 パティシエの帽の高さに初蝶来

この句、陶句郎主宰も帯に選ばれている句である。わたしも好きな一句。「パティシエ」は、「洋菓子職人さん」のこと。真っ白で糊の良く聴いた高さのある帽子をかぶっている。野外でお菓子づくりでも披露しているのだろうか。そこに初蝶がやってきたその一瞬をとらえたもの。「初蝶来」と下5をとめ、余計な言葉をもちいず最小限に言葉をとどめた。清々しい空気とパティシエの白い帽子、初蝶のいきおい、すべてが春を喜んでいる。

 武蔵野の雨意を斬りゆく親燕

この一句の面白さは「雨意」という言葉だ。辞書によれば「雨もよい」「雨気」「雨が降り出しそうな気配」である。燕が飛ぶ季節は、雨雲がたちこめていまにも降り出しそうなときが多い。「武蔵野」という地名をおくことによって景色を現実化し、その鬱々とした薄暗い大気を勢いよく燕が斬って飛ぶ。いまにも雨がふるぞ、という「雨意」が充満する大気である。「親燕」とすることによって、その飛ぶことの意味を切実化した。

 山を消し人を消しゆく牡丹雪

牡丹雪は春に降る雪だ。水分をたっぷりふくんで大きな塊となってべたべたと降る感じ。そんな大きな粒の牡丹雪が降るときは視界はかなり遮られる。「山を消し」それから「人を消し」というほど激しく降る牡丹雪だ。「山を消し」と思い切った表現を上五にすえ、さらに「人を消しゆく」として「牡丹雪」で着地させるところが巧みであると思う。

 ふたりしてはぐれてをりぬ花野みち

秋草に満ち、気持ちのよい風がとおりすぎていく花野。ややさびしい風情の秋の草花のつつましさは、人をやさしく招き入れる。この句、ふたりで花野で他の人たちとはぐれてしまったのだ。皆はどこか遠くに行ってしまったのか、姿がみえない。しかし、この句からは焦った心情は感じとれない。いや、そのはぐれていることさえも味わいながら花野の道をべつに急ぐ出もなく辿っているのだ。「あらあ、はぐれてしまったわ」「そうですね、他の人たちはもう先に行ってしまったかもしれないな」なんていう会話をしながら、芒やコスモスにふれながら、歩いていく。ひとりはさびしいけれど、ふたりではぐれてしまうのは悪くないかも、なんて思いながら、花野をゆっくりといくふたり。「はぐれる」という言葉が秋という季節がもつさびしさと相俟ってとても効果的な一句である。

 女郎花たむけ仏間に野を広げ

この句も秋の句である。校正のみおさんが好きな一句だ。仏前に女郎花を供えた。女郎花は野の花である。野に咲いていたものを斬ってきたのだろう。野原の荒々しい匂いがする。数本の女郎花を挿すだけで、一瞬風を感じ、野の風景を呼び込んだ。「野が広がった」のだ。校正者のみおさんが言うように「野を広げ」って素敵な表現だと思う。

ほかに、

 アイスコーヒー刻が薄めてゆくばかり   崖線の土手裏返す葛の風

 言霊は胡桃のなかの響かな        白菜の燃ゆるかたちに巻いてをり

 幸せは大地すれすれ福寿草

本句集の装釘は、前句集『言霊』と同じ、君嶋真理子さん。

ひびきあうものをと御願いした。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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