捨て聖(ひじり)

thanatology@thanatology_bot

自然な生き方、つまりインディアンの生き方には、死に対する恐れはない。死は自然なことだ。死は生命の環の一点なんだ。教化されてしまった俺たちの社会では時々忘れられてしまうインディアンらしさとは、死への心構えなくして、生を歩んではならないという悟りだ。(インディアンの言葉)


マノマノ稲穂@manomano_farm

「まいっか」と執着しない心は全員早急に身につけるべきスキル。

・執着するから苦が生まれる

・完璧を求めすぎると人生消耗する

・流れに身を任せる生き方もある

・心のモヤモヤは体に毒

「大切」には「切る」という字が入ってる。執着を「切ったとき」に「大きなもの」が手に入るのです。


ネイティブアメリカンの名言@Indianteachings

■「そこに辿り着こうと焦ってはいけない。「そこ」などどこにもないのだから。本当にあるのは「ここ」だけ。今という時に留まれ。体験を慈しめ。一瞬一瞬の不思議に集中せよ。それは美しい風景の中を旅するようなもの。日没ばかり求めていては夜明けを見逃す。」【ブラックウルフ・ジョーンズの言葉】


Facebook清水 友邦さん投稿記事「光明の世界」

光明に満ちた世界

妻子も家も財産もみな捨てて、寺を設けず 一所に定住せず、書も焼き捨てて日本全国を遊行して歩いた一遍上人は捨て聖と呼ばれました。

一遍上人は念仏をとなえながら全国各地を遊行したところから『遊行宗』とも呼ばれています。

時宗の開祖一遍上人は鎌倉時代後期の1239年に、伊予、道後(愛媛県)の河野家(河野水軍)に生まれました。

一遍上人は熊野で念仏札を配る布教活動をしていた時に「信心が起こらないので、受ければ、嘘になってしまいます」と言って札を受けない僧に出会いました。

そこへぞろぞろと人が集まって来ました。

もしこの僧が札を受けないと、みんな受けないことになるのではと一遍上人は動揺しましたが「信心が起こらなくてもいいから」と強引に僧に念仏札を渡してしまいました。

札を突き返されて動揺するような「やわな心」では、これから布教活動はできないと一遍上人は悩みました。

一遍上人は熊野本宮で一心に祈りました。その百日目に夢想で白髪の山伏姿で熊野権現が現れました。

「すでに一般大衆は極楽往生しているのだから信と不信、浄と不浄の区別せずに札を配りなさい」と現れた熊野権現が告げると一遍上人は涙を流して「われ生きながら成仏せり」と絶叫したといわれています。

一遍上人がお札を渡したからといって成仏するわけではなく、信心のあるなしに関わらず 人はすでに成仏しているのです。

一遍上人は一心不乱に祈っているうちに自我の境界を超えて微細(サトル)な領域に入り熊野権現と出会ったのでしょう。仏教の開祖、仏陀も瞑想中に肉体を持たない梵天が現れて助言しています。

シャーマンは微細(サトル)の領域に入りシャーマン意識状態で自然界の精霊や祖先の霊と交流します。沈黙の祈りの最中に通常の意識を超えた非物質的な存在と出会う事をキリスト教神秘主義では照明といいます。

意識は何層もの階層があり物質的な次元を超えると目に見えない微細な世界が現れます。そして、微細(サトル)な領域の先にはもっと微細なコーザルの領域があります。

岩手県花巻市の時宗の光林寺の境内に熊野神社があります。

光林寺の開祖が一遍上人(1239-1289年)の祖父、河野通信の従兄弟だった河野通次です。

岩手県北上市には時宗の開祖である一遍上人(1239-1289年)の祖父、河野通信( こうのみちのぶ)(1156-1223年)の墓所だと伝えられる聖塚(ひじりづか)があります。

平安時代の熊野信仰は皇族や貴族たちのものでした。一遍上人の念仏布教の原点が熊野権現の神託にあったので、時宗の念仏聖達は熊野信仰を庶民にまで広めて日本全土に『念仏踊り』の熱狂の渦を巻き起こしました。

一遍上人は三十七歳の修行時代に普化宗の初祖心地覚心(円明国師)に参禅していました。

一遍上人は心境を次のような歌にしました。

「問うなれば仏も吾もなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして」

阿弥陀仏の声が聞こえる自我がまだあるので覚心は徹底していないと告げます。

そこで一遍上人はやり直しの歌をしました。

「問うなれば仏も吾もなかりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」

南無阿弥陀仏と一体となったがそれだけはまだ足りません。

翌年の一遍上人の歌です。

「すてはてて身はなきものとをもひしに さむさきぬれば風ぞ身にしむ」

さらに大悟しただけでは十分ではなく人間の娑婆世界に戻ってこなくてはならなかったのです。

普通は極楽浄土を願って念仏を唱えるのですが一遍上人は違いました。極楽を願う心も捨てるのです。

「念仏の行者は智慧も愚痴も捨て、善悪の境界も捨て、貴き蹴高下の道理をも捨て、地獄を恐れる心も捨て、極楽を願う心も捨て、また諸宗の悟りも捨て、一切の事を捨てて唱える念仏こそが阿弥陀の本願にかなうのです。」

阿弥陀の語源はサンスクリット語のアミターユスあるいはアミターバが語源です。アミタは「無限」アーユスは「寿命をもつ」の意味なので無量寿という中国語訳があてられました。

アミターバはアーバーの意味が「光を持つ」なので無量光と訳されました。阿弥陀は意味を訳さず音を漢語にそのまま当てはめたのです。

阿弥陀の世界とは死んだ後の世界のことではなく、この宇宙存在が光そのものであることをあらわしているのです。

念仏を唱える宗派は臨終を迎えると雲間から光明がさし阿弥陀如来が現れ死者は西方浄土へ旅立つと教えます。

しかし、法然上人も親鸞上人も念仏を唱える宗派の開祖は阿弥陀の光明はどこにでも常にあると教えています。

つまり極楽浄土は死んだ後の何処か遠くにあるのではなく、まさに今ここに在るのです。

わたしたちは自我で光を遮っているために、世界が一つで光明そのものである事がわからなくなっています。そのような人のために用意されたのが念仏なのです。

ヨガでは短い言葉をくりかえし唱える瞑想をジャパ瞑想と言います。

一遍上人は1289年8月、16年間の遊行の最中、「亡骸は野に捨てて獣に施すべし」と言い残して兵庫県神戸市和田崎で51歳の生涯を閉じました。その直前に一遍上人は手元にある経典の一部を奉納し、残りのすべての書籍を焼き捨ててしまいました。

妻子も家も財産もみな捨てて、寺を設けず 一所に定住せず、書も焼き捨てて日本全国を遊行して歩いた一遍上人は捨て聖と呼ばれました。


http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-152.htm  【捨て聖(ひじり)の歌】 より

                西林寺住職    大 橋  俊 雄(おおはし しゅんのう)

大正十四年横浜生まれ。昭和二十三年大正大学文学部仏教学科卒業。浄土宗西林寺住職。著書に「昭和新修法然上人全集」「法然上人研究の回顧と展望」「踊り念仏」「一遍―その行動と思想」「法然・一遍」ほか

                 東京大学名誉教授 脇 本 平 也(わきもと つねや)

大正十年岡山県生まれ。昭和十九年東京帝国大学宗教史科卒業。東京大学教授、駒沢大学教授を歴任。のち国際宗教研究所理事長、日本宗教学会会長を務める。著書に「現代宗教学」「詳伝清沢満之」「宗教を語る」ほか 

脇本:  今日は世に捨て聖と呼ばれています一遍上人(いっぺんしょうにん)の歌を取り上げて、一遍上人の生涯やその教えについて考えてまいりたいと思います。歌と申しましたが、いわゆる和歌もございますし、仏教の偈頌もございますし、或いは和讃もございます。一遍上人の歌の中にもいろいろございますが、先ずその中で和讃の一部を取り上げて眺めて見たいと思います。

     口にとなふる念仏を       普(あまね)く衆生に施して

     これこそ常の栖(すみか)とて   いづくに宿を定めねど

     さすがに家の多ければ     雨にうたるる事もなし

     ・・・・・・・・・

     詞(ことば)をつくし乞(こい)あるき    へつらいもとめ願はねど

     僅(わずか)に命をつぐほどは     さすがに人こそ供養すれ

     それもあたらずなり果ば      飢死(うえじに)こそはせんずらめ

     死して浄土に生れなば       殊勝の事こそ有るべけれ

     ・・・・・・・・・・

        (百利口語) 

これは百利口語(ひゃくりくご)という長い和讃の一部でございますが、ここにも見えておりましたように、「飢死こそはせんずらめ」というふうな覚悟を持って、一遍上人は遊行(ゆぎょう)の旅を続けられたわけでございます。この一遍上人について長らく専門的に研究を続けていらっしゃいました横浜西林寺(さいりんじ)のご住職の大橋俊雄(しゅんのう)さんにお出で頂いておりますので、これからいろいろその生涯や教えについて、お話を伺いたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。

大橋:  一遍聖という人は今お話のありましたように、どちらかと言えば二つの性格を持っておると思うんですが、第一は捨て聖という点、もう一つは詩人であったということが、又多くの人たちの共鳴を受けた、多くの人たちから信頼を受けた、そういうようなことが言えるのではないかと思いますけどね。

脇本:  この時代というのは、いわゆる鎌倉新仏教が起こって来た時代で、その鎌倉仏教の祖師たちが輩出した時代ということになりますね。

大橋:  そうですね。 

脇本:  そこで一遍上人と大体時代が等しくなるような、そういう時代の鎌倉仏教の祖師方の年代を先ず後づけて見ておきたいと思います。

     法然上人(ほうねんしょうにん)    1133-1212年

     親鸞聖人(しんらんしょうにん)    1173-1262年

     道元禅師(どうげんぜんじ)      1200-1253年

     日蓮上人(にちれんしょうにん)    1222-1282年

     一遍上人(いっぺんしょうにん)    1239-1289年 

浄土宗の開祖法然上人が西暦で1132-1212年のご生涯です。それから浄土真宗の親鸞聖人は1173-1162年まで、それから曹洞宗の道元禅師は1200-1253年、日蓮上人が1222-1282年、一番若いということになりますが、一遍上人が1239-1289年と、いわば優れたご上人さまたちが輩出した、豪華なる時代ともいうふうな仏教の時代だと思いますが、こういう方々の間で相互の関係というのは、どうだったですかね。 

大橋:  今お話のありましたように、この時代と言いますのは、鎌倉時代です。鎌倉時代は建久(けんきゅう)三年、1192年から、1333年、元弘(げんこう)三年まで、140年間あります。この鎌倉時代に、今お話のありましたような五人のお祖師さん、更に加えていくならば臨済宗の栄西禅師さんがいらっしゃると思うんです。この時代を考えて見ますと、先ず法然上人と親鸞聖人が浄土教の方です。その他一遍聖(いっぺんひじり)がおりますけれど、一遍聖が出ましたのは一番最後の時代ですね。一番最初と言いますと法然上人なんですが、法然上人が出られて浄土宗を開かれたのが、1175年、承安(じょうあん)五年という年です。一遍聖が一番最後に出まして、1274年ですから、その間丁度100年間ございますよね。で法然上人と親鸞聖人とは師弟関係がありますから、よくご存じだと思いますし、また臨済宗を開かれた栄西禅師も同時代の人、更にまた、親鸞聖人と道元禅師とも同時代ということになります。また一遍聖と日蓮上人とが同時代なんですね。

脇本:  一遍上人は浄土の教えを継がれるわけですが、法然上人とか親鸞聖人に直接というわけではございませんですね。

大橋:  そうですね。 

脇本:  大体、時代が100年ほど違うわけですね。

大橋:  ついでに申しておきますと、日蓮上人と一遍聖とは同時代。ご存じかと思いますけれど、日蓮上人のお首に、いわゆる白い布が掛けられておりますね。まあ襟巻きと言った方がよろしいかと思いますが、あの襟巻きは、丁度鎌倉におられた日蓮上人が流罪になったということがあります。佐渡にです。その時にですね、一遍上人と日蓮上人がどこかで出会ったという伝説が鎌倉地方に残っておりまして、その時にあの方はこれから佐渡に流されるんだ。佐渡というところはさぞかし寒いだろうなというようなことで、自分の衣の袖をちぎって差し上げたんだと、そういう伝えが残っています。一遍さんの行為に報いると言いますか、そのようなことで日蓮宗の方では、日蓮宗の方ではというよりも一遍上人に対してですね、やはり好意的な目で見ていらっしゃるようです。 

脇本:  そうですか。 

大橋:  ですから、鎌倉でも、龍口寺(りゅうこうじ)というお寺さんがありますが、藤沢に清浄(しょうじょう)光寺(こうじ)があります。遊行寺(ゆぎょうじ)とも言いますが、ここでは割合にですね、一般的に申しますと念仏無間禅天魔というようなことで、大分仲が悪いように思いますけれど、そんなようなことも、時宗と日蓮宗に限ってはないようです。

脇本:  現在まで。ああ、そうですか。 

大橋:  ええ。これはあくまでも伝説ですから、そのような点で見ていかなければならないと思いますし、細かく時代的に見ますとちょっとズレはありますね。どこでそれならばそれをちぎって渡したのかというようなことで、日蓮宗の方は鎌倉の入り口と言いますか、現在円覚寺だとか、建長寺がありますところに小袋(こぶくろ)ケ谷(やつ)という所があります。そのところで出会ったということになっておりますし、時宗の方では相模原に当麻(たいま)という所があり、当麻の川向こうに依智(えち)という所がありますが、その依智辺りではないかと。その地はともかく親好関係と言いますか、そういうような関係がございますね。 

脇本:  それは面白いお話ですね。 

大橋:  また、ついでということになりますけど、この六人の方はそれぞれ知らないわけですけれど、もしも出会ったとするならば、鎌倉に光明寺(こうみょうじ)というお寺さんがあります。光明寺を開いた良忠(りょうちゅう)上人という方がおりますが、この良忠上人がお生まれになったのは一一九九年で、亡くなったのは一二八七年ということになっておりますから、もしも出会ったということになりますと、絶対にあり得ないことなんですが、良忠上人はこの六人の人に出会った可能性がありますね。 

脇本:  いやあ、大分昔の歴史のことですから、歴史の史実と、それから伝承されたお話とはいろいろ絡み合っているわけですけれども、面白いことがございますですね。この一遍上人が、やがて時宗という現在伝わっている宗派の開祖になられるわけでございますけれども、その一遍上人がそういう仏教に入っていかれる、それ迄の生涯の歩みというのはどういうふうなことだったんでしょうか。 

大橋:  一遍聖のお生まれになったのは、延応(えんおう)元年、1239年ということになっております。この一遍上人のお祖父(じい)さんが河野通信(こうのみちのぶ)という方、お父さんは河野七郎通広(みちひろ)という方ですが、一遍聖がお生まれになる一八年程前に、承久(じょうきゅう)の乱というのがございましたですね。承久の乱の時に河野家は没落するわけなんです。承久の乱の時、ご存知のように承久の乱と申しますのは天皇方と幕府方の戦いなんですが、その時に河野家はいわゆる水軍として大いに活躍するわけですけれど、とにかく天皇方に付いたということで所領も取り上げられますし、一族の中には亡くなっていく人もいる。或いは遠くに流罪になっていくという方々もあったわけなんです。そういうような時にお父さんの河野七郎通広ですか、この方は京都でですね、法然上人のお弟子さんに証空(しょうくう)という方がおられますね、証空さんの元で勉強なされておった。そのようなことで流罪にもなりませんし、所領も取り上げられなかった。河野家は承久の乱で没落するからお前帰って来いよというようなことで、伊予に帰って来たと思いますね。伊予に帰って来た時に生まれたのが一遍聖ということになるわけなんです。

脇本:  もともとはいわゆる河野水軍、武家の出でいらっしゃるわけですね。それでお父様は仏教に志を持って修行もなさったことがあったと、そういう家庭環境の中で育っていって、それで一遍上人が出家なさるというのは、出家と言いますか仏門に入られるという機会があったわけでございますか。 

大橋:  ありますね。これは二回あると思うんです。一度目はですね、伊予にお父さん帰って来まして、そして生まれて、十歳になった時に、お母さんがお亡くなりになった。お母さんがお亡くなりになったということで、 

脇本:  無常を感じて、 

大橋:  無常を感じて、そして出家なされた。出家なされたのはどこで出家なされたか分かりませんけれど、やはり天台宗のお寺さんで出家なされたんでしょう。更に、勉強しようということで九州の太宰府の近くにおりました聖達(しょうたつ)というところでお勉強なさる。この聖達という方とお父さんの通広とが京都におられた時に同門なんです。そのようなことで出かけて行ったと思いますけれど、ともかくここで第一回目の出家をいたします。しかし二十四歳の時にお父さんがお亡くなりになる。お父さんがお亡くなりになりまして、そしてまた帰って来るわけです。帰って来てまた武士になるわけですね。

脇本:  還俗すると言いますか。

大橋:  ええ。還俗致しまして、

脇本:  家を継ぐ為に、

大橋:  家を継ぐ為に。ですからやはり一時的には一遍聖は武士となって、妻を娶って子供さんまでおありなんですね。お父さんも京都から帰って来て再婚なされましたね。再婚なされますと、やはりここに子供さんがお生まれになる。この子供さんも成長する。成長しますと実のお母さんですね。やはり自分の子供に後を継がせたいという、

脇本:  相続のことですか。

大橋:  相続の問題ですね。その相続の問題がありまして、もうそのような煩わしい世の中と言いますか、煩わしい俗世間に居るよりも、やはり再び出家しようということで、二回目の出家を、 

脇本:  改めて出家なさる、

大橋:  ええ。私は最初の出家と再出家と二回あったんじゃないかなと、そのように思っておりますが。 

脇本:  その再出家というのは何時のことでございますか。

大橋:  再出家はですね、文永(ぶんえい)八年でした。この文永八年の時に、信州の善光寺にお詣りに参ります。信州の善光寺と申しますと阿弥陀さんが御本尊ですし、この阿弥陀さんはインド、中国、日本へと渡って来た三国伝来の阿弥陀さん。

脇本:  有名な阿弥陀さんですね。

大橋:  また生きてまします阿弥陀さんという信仰がありましたから、その善光寺にお詣りして自分たちはどのように生きていったらいいか、またどのようにして多くの人たちを指導していったらいいかと、まあそのようなことをですね、善光寺でお詣りし念じたと思うんです。善光寺でお詣りして「二河白道(にがびゃくどう)の図」というのを感得致しまして、そして窪寺(くぼでら)に帰って来た。 

脇本:  二河白道というのは、火の河と水の河があって、その真ん中に細い白い道が通っている。そしてお釈迦様から行きなさいと進められ、向こうから阿弥陀様が招いて下さる。それで行者が白い道を渡って行くという、あの浄土教の、 

大橋:  そうですね。そのご本尊を窪寺に掛けまして、そして、

脇本:  伊予に戻って、

大橋:  伊予に戻りましてですね、

脇本:  窪寺で、 

大橋:  修行をなされるということに、

脇本:  二河白道の図をお描きになった、それをご本尊に窪寺でご自身で修行、

大橋  そうなんですね。

脇本:  そうですか。その窪寺の修行をどの位お続けになるわけですか。

大橋:  やはり三年位です。

脇本:  それじゃ前に一度は還俗したけれども、また家を捨てて窪寺に籠もって。そうですか。 

大橋:  ええ。

脇本:  そこで何か感得なさったとかいうふうなことが、何かあるように伺いましたですが。

大橋:  それが「十一不二偈(じゅういちふにげ)」と。

脇本:  十一不二の偈というのは有名でございますですね。今出ておりますが、読んでみましょう。

     十一不二頌

     十劫正覚衆生界(じっこうしょうがくしゅじょうかい)

     一念往生弥陀国(いちねんおうじょうみだこく)

     十一不二証無生(じゅういちふにしょうむしょう)

     国界平等坐大会(こっかいびょうどうざだいえ)

これはどういう意味なんでしょう。かなり難しい偈になっているようですが。 

大橋:  十劫というのはですね、遠い昔ということになろうかと思いますが、十劫という遠い昔に法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が悟りを開いた。悟りを開いて阿弥陀さんとなられたのですが、その時に衆生の往生することが決まって往生が約束された。というのが十劫正覚衆生界ですね。そして次が一念往生弥陀国。衆生は阿弥陀様を念ずるただ一遍のお念仏で、生きながらこの身このままの姿で弥陀の国浄土に往生することが出来るのですというのが一念往生弥陀国。で更にですね、十劫の昔法蔵菩薩が悟りを得て仏になったと、これが十なんです、衆生がただ一遍のお念仏で往生する、これ一ですけれど、

脇本:  その十と一ですね。 

大橋:  ええ。このようにして十劫の昔法蔵菩薩が悟りを得て仏になったのと、衆生がただ一遍の念仏で往生することとは一つものであって、そこには生もなければ死もないんですと。そして更に最後の句になりますが、弥陀の国とこの世とは一つのものであって法会(ほうえ)の席には仏も衆生も同じ時、同じ場所に坐っておられるのですと。これが十一不二頌と呼んでおります偈なんですが、まあこのようにして阿弥陀仏の悟りと衆生の往生とは一つものであって不二だというのが、これが一遍上人の得られましたところの十一不二偈なんです。そのようなことでですね、この時宗では一遍聖が、自阿弥陀仏、私ですが、それに対してお弟子さんに真教(しんきょう)という方がおりますが、私は阿弥陀さん、あなたも阿弥陀さんだよということでですね、他阿弥陀仏。代々の方々が他阿弥陀仏を名乗っておるわけです。同じようなことで、今浄土宗になっておりますけれど、滋賀県に番場(ばんば)というところがありまして、米原の在なんですが、そこに蓮華(れんげ)寺というお寺さんがある。昔は一向衆(いっこうしゅう)の本山でした。一向衆というのは鎌倉時代にはかなり栄えたお宗旨なんですけれど、そこのところでは代々住職は同阿弥陀仏と呼ばれています。同阿弥陀仏ということはやはり阿弥陀さんと私とは同一なんだと。ただ私で言いますと、私は俊(しゅん)雄(のう)と申しますから、俊(しゅん)阿弥陀仏ということになります、時宗や一向派では代々の人たちが阿弥陀仏号を名乗っておりますが、それはですね、やはり阿弥陀さんと私とが同一なんだということに基づいていると思います。

脇本:  念仏によって一つだという。そうですか。そういういわば、一つの悟りにだけとも言われる体験をお持ちになって、それから一遍さんはどう活躍なさるわけですか。

大橋:  それからですね、窪寺というところで修行なされるわけですが、更に菅生(すごう)の岩屋というところがあります。菅生の岩屋と言いますと、これは高知県境なんですね。とても厳しい山の上なんです。私も去年の秋に参りましたけれど、それはそれは厳しい岩山と言った方がよろしいかと思いますが、そこで修行を又なされるわけです。このところで修行なされて、更に今度はですね、故郷に置いておいた奥さん、この人は超一房と言いますが、超一房と子供と。在俗の生活をしておりましたから子供さんももうけておりますから、その超二房というお子さんを連れて熊野さんにお詣りするということになります。 

脇本:  それがいわゆる本格的な遊行の始まりと。 

大橋:  これから遊行に初めて行くことになりますね。 

脇本:  いわゆる『一遍聖絵』の遊行の始まるところでございますか。 

大橋:  そうですね。一枚のお札をお配りしながら出かけて行ったわけです、熊野さんに出掛けて行きますね。で熊野さんに出掛けて行った時にハプニングが起きるわけです。 

脇本:  それは、 

大橋:  行き交う人たちにはですね、お札を与えた。

脇本:  念仏の札ですね。

大橋:  念仏札ですね。この時はやはり今のお札とは多少違いまして、唯、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)だけしか書いてなかったんじゃないかなと思いますけれど、とにかくお札を渡した。でそのお札を渡す時にですね、一念の信を起こして、南無阿弥陀仏と唱えて、お札を受け取って下さいと。まあそういうようなことでそれぞれの方々にお札を配っていたわけですね。ところが、熊野さんを下りて来た一人のお坊さんが居た。そのお坊さんの後には道者が付いている。このお坊さんに与えようとしましたところが、お坊さんは受け取るわけに行かないと言うわけです。何故かと言いますと、自分の信じている仏さんではないから。

まあそういうようなことでこれは困ったなあというわけですね。しかし、果たして私が今までお札を配ったことが正しいのかどうか、またこれから考えなければいけないと、それには先ず熊野権現(くまのごんげん)にお籠(こ)もりして、啓示を受けようというようなことでですね、熊野さんにお参りしました。

脇本:  それで熊野の証誠殿(しょうじょうでん)ですか、そこにお籠もりになるわけですか。 

大橋:  ええ。 

脇本:  そこで熊野権現の示現に与るというわけなんですか。 

大橋:  そうですね。

脇本:  その示現によって、結局、熊野権現の示現というのは、そういう一念の心を起こして受け取って欲しいというふうな、そういうことを一遍上人がおっしゃったけれども、それが良いことかどうかということに対する回答のような教えが示現として与えられるわけなんですか。

大橋:  そうです。やはりこのお札にはですね、もう既に法蔵菩薩と申し誓いを成就した時に、阿弥陀さんになっているから、その時に往生は決まっているんだから、お前がですね、そのようなことを言わなくても、既に決まっているんだと。ですからもう浄不浄を嫌わず、信不信を問わず、ただそのお札を配ればいいんだと。ただお札を配る役目をするのがそなたなんだよというようなことですね。

脇本:  はあ、なるほど。信があっても無くても、浄であれ、不浄であれ、とにかくそのお札を配りなさい。そのお札によって成仏は遂げられると。それで南無阿弥陀仏が成仏するんだと、そういうふうな教えを受けられるわけですね。

大橋:  そうなんですね。 

脇本:  そこで一遍上人が又偈を作られるわけなんですか。 

大橋:  その偈が六十万人偈と呼ばれている偈ですね。 

脇本:  これは、 

     六十万人頌

     六字名号一遍法(ろくじみょうごういっぺんほう)

     十界依正一遍体(じっかいえしょういっぺんたい)

     万行離念一遍証(まんぎょうりねんいっぺんしょう)

     人中上々妙好華(にんちゅうじょうじょうみょうこうげ)

これでございますね。 

大橋:  ええ。 

脇本:  これを六十万人の頌(じゅ)というふうに、各行最初の語の六十万人を取っているわけですね。

大橋:  そうですね。六字名号一遍法と申しますのは、南無阿弥陀仏の六字の名号は、あらゆる全ての仏の教えをおさめた絶対の教えであり、一切のことにあまねきわたっている教えだということがですね。それに対して十界依正一遍体と申しますのは、現前の生きとし生けるもの全てが善にしても、悪にしても邪(よこしま)なことも、正しいことも諸ともにこの名号に照らされた時に、その身は仏につつみ込まれて一体となるんだと。万行離念一遍証と申しますのは、しかも全ての仏道修行は名号の中に包み込まれていますから、己のはからいを捨て名号さえ唱えるならば、衆生の極楽浄土と阿弥陀仏の悟りとは一つものとなって悟りを得ることが出来るのです。更に最後の人中上々妙好華と申しますのは、このようにして名号を唱え、悟りを得た人こそ、人間の中でもこの上なく善い人であって、泥の中から咲きでた白い蓮華のような優れた人と言えるのですということですね。これから先は六十万人という字を入れました「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書きましたお札を配るのですね。 

脇本:  それがお札でございますか。

大橋:  これがお札ですね。

脇本:  南無阿弥陀仏決定往生六十万人。 

大橋:  この六十万人という数字にはですね、やはり二つの意味があると思うんです。一つは、今申しました六十万人偈の中から頭を一つずつとったということがありますけれど、と同時に又六十という数字にはですね、日本全国六十ヶ国ありますから、六十ヶ国の人たちに念仏の縁を結ばせてあげたいというようなことだと思います。このお札を念仏札と申しますけれど、この念仏札をですね、持って全国に遊行に参るわけです。

脇本:  そうですか。

大橋:  遊行に参ると言いましても、やはり遊行ということになりますと、旅行と同じじゃないかというようなことになりますが、遊行と旅行とは根本的に違いますからね。旅行ということになりますと、目的の土地があって、やはり見て来るものがあるわけですね。また帰って来るところがあって、迎え入れてくれる人がいるわけです。遊行というのはそうではありません。やはり修行ですから、帰って来る家はないわけですね。行きっぱなしというと語弊がありますけれど、縁に任せて行くということになるわけですね。ですから一遍上人はどこに行くかというようなことは決まっておりませんから、行きつ戻りつというようなことになるわけなんです。ただ一回だけですね、行き先を決めて行ったところがあるわけです。それはまた後で申しますけれど、河野通信という、お祖父さんのお墓をお詣りする時だけは一目散に出掛けて行っています。これ以外はほとんど縁に任せてということじゃないかと思っておりますが。 

脇本:  この熊野権現の示現ということがございますが、神道(しんとう)といいますか、神祇(じんぎ)と言いますか、それが非常に一遍上人の信仰には関わっておるわけですね。これはどういうことでございますか。

大橋:  やはり一遍上人がですね、お詣りしたお宮さんというのは、三つに分けられると思うんですね。第一番目は八幡神社(はちまんじんじゃ)に行っております。石清水(いわしみず)八幡だとか、或いは松原の八幡、或いは九州の大隅(おおすみ)八幡、八幡神社ですね。それから厳(いつく)島(しま)神社に行っておりますね。そういうようなお宮さんは本地垂迹(ほんじすいじゃく)ですね。いわゆるインドの仏さんが、日本の国の、

脇本:  神様。日本の国の神様。 

大橋:  いわゆる阿弥陀さんが垂迹されて、神となったのが厳島であり、八幡であると。そういうようなところが第一番目にあって、第二番目に、 

脇本:  熊野権現様もそうですね、

大橋:  熊野権現様もそうですよね。それから二つ目はですね。伊豆の三島神社にもお詣りしておりますし、伊予の大三島ですか、お詣りしておりますけれど、三島神社は河野水軍の河野家の先祖神と言いますか、

脇本:  先祖の、

大橋:  氏神様、鎮守神というようなことで、お詣りしておりますね。三番目は各地域の一宮にお詣りしております。或いは二宮ですが、吉備津神社とか、三島神社は備前国、伊豆国の一宮ですが。そういうところは多くの人たちが集まるところですよね。多くの人たちが集まるところで布教なされる、或いはお札を配られる。そのようなことで阿弥陀さんとの縁を結ばせてやりたいということです。ですからそのようなことでいきますと、やはり宿場にも市場にも積極的に出掛けて行っているのは、そのようなことがあったからだと思います。一宮のお詣りしたのは多くの人たちと結縁したいというような意味があったようでございます。

脇本:  それで神社というものとの繋がりもちゃんと論拠はあるわけですね。それで伊勢神宮にはお詣りしていないということですね。 

大橋:  ええ。伊勢神宮にはお詣りしておりませんけれど、二代目に真教(しんきょう)という方がおります。二代目さんが行っておりますから、その道は通らなかったというようなことじゃないんですか。 

脇本:  そういうことですかね。

大橋:  縁がなくて、そこを通らなかったと。私はそういうふうに思っています。 

脇本:  先程のお話で遊行というと遊ぶという字が入るもんだから、観光旅行かなんかのように、つい思っちゃうとそれは実は大間違いで、先程の和讃にもありましたように一所不住といいますか、宿るところもあるかないか分からない。食べるものもあるかないか分からないというふうな、そういう状況の中でいわば餓死しても人々の為に念仏のお札を配ろうという、そういう心を持って廻っていかれるわけですね。

大橋:  そうですね。 

脇本:  その遊行の一遍の心境を詠んだ和讃があるようでございますね。これも一つ読んでみましょう。

     口にとなふる名号は            不可思議功徳なる故に

     見聞覚知(けんもんかくち)の人もみな    生死の夢をさますべし

     ・・・・・・・・・

     本来仏性一如にて       迷悟の差別なきものを

     そぞろに妄念おこしつつ    迷とおもふぞふしぎなる

     ・・・・・・・・・

        (百利口語)

こういうふうな和讃を唱えながら遊行の旅を続けられるわけでございますが、一遍聖と言いますと、いわゆる踊り念仏というのが有名でございますが、その踊り念仏というふうなものはどのようにして始まり、どのような意味を持っていたもんなんでございましょうか。

大橋:  踊り念仏を始めましたのは空也上人の真似をするというようなことがあったと思いますけれど、やはり鎮魂(たましずめ)だと思うんですね。

脇本:  鎮魂。日本の伝統的な祖先の霊を鎮めるという。 

大橋:  そうですね。やはりそれには祖先の霊もありますし、個人的なものもございますけれど、とにかく霊を鎮めるというようなことで、始めたものと思いますが。 

脇本:  そうですか。

大橋:  今、『一遍聖絵』という絵巻物が見えておりますけれど、この絵巻物の上のところを見ますと、添え木のついた木が植えられております。この木にはですね、霊魂がついているのです。

脇本:  依(よ)り代(しろ)ですか。

大橋:  ええ。依り代なんです。踊り念仏を始めましたのは信州の佐久、小田切の里というところですね。この小田切というところで、先程申しました承久の乱の時にですね、叔父に当たりますところの河野通末という方が流されたということになっていらっしゃる。 

脇本:  流罪になった。 

大橋:  ええ。このところに流され、亡くなった。その通末の霊魂を慰めるというようなことで始められたと思うんです。今写真で見ますと、図で見ると分かりますけれど、今にも植えられたような木があって、木は塚の上に植えられていますね、その前のところで踊っておりますね。 

脇本:  これが踊り念仏ですか。 

大橋:  踊り念仏ですね。 

脇本:  始まりですね。 

大橋:  踊り念仏の始まりですね。左の方を見ますと、武士の館のところで、一遍聖が鉢を叩いておりますね。

脇本:  これが一遍聖。 

大橋:  ええ。そうです。普通ですと、このところでやはり鉦(かね)だとかね、撞木だとかいうものを使うんでしょうけれど、そうではないですね。やはり今にも始まったというような感じが致します。

脇本:  この機会に急に始まったというような印象を。それで鉢を叩いたというそういう感じですね。

大橋:  そうですね。信州の佐久にまいりまして、このところ辺りに叔父が流されたんじゃないか。もしもこの絵にですね、当時叔父さんが生きておったということになれば感激的な、劇的な図が描かれたと思うんですが。そうではなしに、踊り念仏が描かれてるということは、ここに流されたんだ、亡くなったのだ、霊魂を慰めたいんだというようなことで始めたのですね。この後にですね、もうどこにも寄らずに陸奥(みちのく)と言いますか、江刺(えさし)に行くんです。江刺と言いますと北上市なんですが、このところにはお祖父さんのですね、 

脇本:  先程お話の、 

大橋:  通信のお墓があるわけです。このお墓にお詣りするというのが目的ですから、先程申しましたように、目的地はやはり縁に任せてということですけど、ここだけは別なんですね。 

脇本:  お祖父さんのお墓に。

大橋:  そうなんです。で、まあ私、一遍上人と言ったり、一遍聖と言ったりなんかしますけれど、一遍上人というよりも、私自身としてはですね、一遍聖と言った方が適切だと思っています。と申しますのは、『一遍聖絵』は「一遍聖は」という書き出しになっており、それから河野通信のお墓は現在まで聖塚と呼んでいるわけなんです。 

脇本:  そのお祖父さまのお墓も聖塚(ひじりつか)。

大橋:  聖塚。 

脇本:  そうですか。

大橋:  塚に行く道のことを聖道(ひじりみち)、水田は聖田(ひじりた)と言っておりますから、やはり一遍聖と当時の方がですね、呼んでおったんじゃないかなと思っておりますけど。

脇本:  当時は高野聖とか、善光寺聖とか、いろいろ聖がいらっしゃった。

大橋:  そうじゃないかなと思っております。

脇本:  そこから始まった踊り念仏というのが、だんだん発展していくというか、形を整えていくわけなんですか。 

大橋:  そうですね。 

脇本:  今のあれですと、何か手前勝手に、それぞれが勝手に踊っているようなちょっと印象でございますね。

大橋:  ええ。勝手に踊っているということは、やはり今、始まったんだということですね。ここでは南無阿弥陀(なんまんだ)、南無阿弥陀とですね、お念仏を唱えているようなふうに思われます。これが更に片瀬の浜というところになりますと、形がきちんと整っておりますね。

脇本:  踊りを踊るということは、いわゆる何と言いますか、知識階級と言いますかね、ものの考え方が少し合理的なそういう人々から見ると、何だおかしいことをやっているんじゃないかというふうな批判や何か、いろいろあったんでございましょうか。

大橋:  それはもう多くにあったと思いますね。あの時代に踊った人としては、一向俊聖(しゅんじょう)という方もおります。

脇本:  この一向は親鸞さんの一向宗、あれとは違うわけですね。あの一向俊聖さんという。

大橋:  一向俊聖さんという人はですね。この人は鎌倉時代の一遍聖と同時代の方です。やはり踊り念仏しているわけです。いま一向宗と言いますと、真宗を意味しておりますけれど、真宗の八代目に蓮如さんという人がおりまして、蓮如さんという方がですね、「お文(ふみ)」に自分たちの宗旨のことを一向宗、一向宗と言ってはいけないと書いております。一向宗というのは一遍・一向の流れであって、その元は江州番場(ごうしゅうばんば)の道場、蓮華(れんげ)寺なんだと言っております。やはりそういうふうに踊り念仏というのはあちこちにあったんだと思いますね。

脇本:  今申しましたこの踊り念仏に対する批判と言いますか、疑問と言いますか、そういうものを出した方がいらっしゃるということなんですが、延暦寺の重豪(じゅうごう)というお坊さんが、「踊りて念仏申さるることけしからず」と、踊って念仏をするのはけしからんじゃないかというふうに言ったので、一遍上人が、

     はねばはね踊らばをどれ春駒の のりの道をばしる人ぞしる

こういうふうに一遍上人がお答えになったと。そうするとこれに対して重豪が、また返しの歌を寄越して、

     こころ駒のりしづめたるものならば   さのみはかくや踊りはぬべき 

こう言った反論をしたと。それに対して一遍上人がまた答えて、

     ともはねよかくてもをどれ心こま  弥陀の御法(みのり)と聞くぞうれしき 

とこういうふうにお答えになったという、そういう伝えがあるようでございますが、これはある意味で言えば現代人の疑問なんかにも応えるところがあるんじゃないかと思うんですがね。 

大橋:  ここにありますことは、重豪という方はですね、「踊りて念仏申すことはけしからず」ということは、やはり経典の中には信心歓喜、踊躍歓喜と言うことが。しかし、書いてあってもそれは踊ることではないんだ。やはりそれは言葉の上のことだけですね、実際に踊ることではないのですね、一遍にしてみればやはり本当に有り難いんだと、浄土に往生させて頂けるというようなことになりますとですね、これ程有り難いことはないんだということで踊ったのですね。 

脇本:  思わずその手が舞い、足が踊るという、

大橋:  そうですね。自分が踊りたくなってしまった。

脇本:  こういう踊り念仏の歴史を遡ると空也上人まで繋がるという話もございますが、この空也上人のことを一遍聖は、「空也上人は吾が先達(せんだつ)なり」というふうに言って大変私淑していらっしゃったということでございますね。その空也上人について述べられた言葉があるようなんで、それを今度は読んで見ます。

     むかし、空也上人へ、ある人、    念仏はいかゞ申〔す〕べきや

     と問〔ひ〕ければ、『捨てゝこそ』   とばかりにて、なにとも仰

     〔せ〕られずと、西行法師の      選集抄に載〔せ〕られたり。

     是誠に金言なり。

これは一遍聖が空也上人について語った言葉でございますね。 

大橋:  そうですね。 

脇本:  この「捨ててこそ」という空也上人の言葉を、一遍聖も受け継いでいらっしゃると、そういうことでございますか。

大橋:  そうですね。 

脇本:  その捨ててということでございますが、次にこの言葉に続いて出て来るのが、

 念仏の行者は知慧をも愚癡をも  捨〔て〕、善悪の境界をもすて、

 貴賤高下の道理をもすて、  地獄をおそるゝ心をもすて、

 極楽を願ふ心をもすて、 又諸宗の悟をもすて、一切の

 事をすてゝ申〔す〕念仏こそ、 弥陀超世(ちょうせ)の本願にはかなひ候(そうら)へ。

これはもう全てを捨てて極楽を願う心をも捨てる、まあそういう捨てきった境地がここへ述べられているように思いますが、これが一遍聖の捨て聖と呼ばれるバックにあるわけなんですね。

大橋:  そうですね。一遍聖にしてみれば、やはり衣食住も全て三悪道だというようなことを言っておりますね。

脇本:  衣食住の三は、三悪道だと。何を着ようかとか、何を食べようとか、どこに住もうかとか、そんなことを思っておるのは、これは悪道に落ちるもんだと。

大橋:  ええ。徹底してもう捨ててしまいますから、先程熊野山に詣でたと申しましたけれど、熊野山に詣でた時にですね、もうこれから自分は修行に行くんだということになりますと、妻や子供まで捨てちゃうわけですね。妻や子供にしてみれば、故郷に帰って行って、果たしてそこに待っている人がいるかどうか、これから先のことを考えなければいけないわけです。不安があります。ところが一遍聖は「捨て放てつ」と言っております。これは厳しいと思いますね。

脇本:  厳しいですね。 

大橋:  ですから奥さんとしてみれば、子供さんとしても、どうかご迷惑はおかけしませんから、連れて行って下さいと言ったでしょうけれど、それも「捨て放てつ」と。これは厳しい。すべてを捨ててしまった一遍聖は、本当にたった一人で、妻子と別れ遊行の旅に出たのです。

脇本:  これは何と言いますか、そういう全てを捨てるというふうなことが出来るような方というのは、余程難行苦行が出来る非常に優れた方という印象になりますね。

大橋:  ですから妻や子供が居てもですね、修行出来る人は結構なんだろうけれども、しかし自分は妻や子供がいては、或いは家があっては、到底修行が出来ないんだと。ですから全てを捨ててしまうんだと、そのようなことも言っておりますね。

脇本:  そうすると親鸞聖人なんかは妻があり、子があり、それで念仏をなさって往生なさるというわけですが、それとはちょっと違うわけなんですね。

大橋:  やはり一遍聖はですね、「念仏の機に三品(さんほん)あり」と言って、いわゆる念仏する人を分けると三種類になると言っています。第一番目は妻や子供もいるし、更に家があっても、お念仏出来、修行できる人が上根(じょうこん)。

脇本:  上根。上の優れた方。

大橋:  ええ。ですから親鸞聖人は上根だと言うんですね。妻や子供が無くて、しかも衣だとか、住だとかのある人は中根(ちゅうこん)だと、そういうことになりますと、法然上人は中根になります。私はですね、妻や子があっては、或いは住まうところがあっては修行ができない。食べるところがなくともいいんだと。そういうようなものがあることによって修行が妨げになると。

脇本:  そういうものがあると、私は修行が出来ないと。

大橋:  だから私は下根(げこん)だと。そういうようなことで、一遍聖は下根だという意識を持って、全国を遊行なされた。

脇本:  普通の上根、中根、下根の考え方と逆のようですね。そういう下根の自覚を持って念仏を唱えるという。そういう念仏を唱える状況がまた次の言葉に出てまいります。

     かやうに打〔ち〕あげ、打〔ち〕あげ   となふれば、仏もなく我もなく、

     まして此内に兎角の道理もなし。    善悪の境界皆浄土なり。

     外に求〔む〕べからず、厭〔ふ〕    べからず。よろづ生〔き〕とし

     いけるもの、山河草木、ふく      風たつ浪の音までも、念仏

     ならずといふことなし。      人ばかり超世の願に預〔る〕にあらず。

これはまた人だけが極楽往生の願に預かるのではなくて、山河草木吹く風、たつ浪の音、これ全部念仏だとおっしゃるわけですね。

大橋:  そうですね。念仏札は生きとし生けるもの、魚や鳥・けものにまで与えているのです。

脇本:  いやあ、ここには何と言いますか、宇宙全体が念仏一色だというふうな、そういう景色が描かれておりますね。

大橋:  ですから念仏札にしてもですね、人に与えるばかりでなしに、やはり池に居ればですね、魚にも与えると。

脇本:  念仏札というのは人に渡すだけではなくて池の魚にも、 

大橋:  全てに渡したというようになりますね。そうしませんと一生の間に二百六十万枚与えるということはないと思います。

脇本:  あの念仏札を配った数が、

大橋:  二百六十万枚です。

脇本:  二百六十万の札を。その当時の人口の何割に当たるのでしょうか。総人口というのもそんな多くはございませんですね。

大橋  ないと思いますね。ですから日本全国の人たちに与えるということは勿論、六十万人の目的はあったけれど、やはりそうでなしに全ての人たちに渡す、全ての生きとし生きるものに渡すんだというようなことがあったんじゃないんですか。

脇本:  獣にも魚にも草にも木にも、更には吹く風にまで念仏札をまいて渡す。成る程、そういうのが賦算(ふさん)ということの本当の意味でございますか。まあそういう全てが念仏というそういう境涯から、更に一遍聖はこういうふうにおしゃるわけですね。

     またかくのごとく愚老の申  〔す〕事も意得(こころえ)にくゝ候はゞ、

     意得にくきにまかせて愚老が  申〔す〕事をも打〔ち〕捨て〔て〕、

     何ともかともあてがひはからず   して、本願に任〔せ〕て念仏し

     たまふべし。念仏は安心して  申〔す〕も、安心せずして申〔す〕

     も、他力超世の本願にたがふ事なし。

これは、私が説明するけれども、私の説明が分からなければ、私の説明をも捨てろと。みんな捨てろと 

大橋:  ええ。みんな捨てちゃうんですね。

脇本:  そうすると残るのは超世の本願、念仏だけと。そう言えば、念仏を申すのは私が念仏するんじゃなくて「念々の称名は念仏が念仏を申すなり」というお言葉もあるようですね。

大橋:  ええ。 

脇本:  そこまで徹底した念仏の一遍聖が長い遊行の果てには、やはり栄養失調なんかもあったんじゃないかと思いますが、やはり身心共に相当に疲れて、やがてご臨終も近いというふうなそう状況になるわけでございますね。

大橋:  親鸞聖人は九十歳まで生きておられますし、法然上人は八十歳という、まあ長命でしたけど、一遍聖は五十歳ですから、そういうようなことを考えますとですね、やはりどこへ行っても、食べるものにありつけるということではありませんから、心身を使い果ててしまったんじゃないでしょうかね。 

脇本:  そうですか。そのご臨終が近い頃に、ご自身のいわば最後を予感したような形で歌を詠まれたという、そういうのもあるようでございますので、それを挙げてみますと、これはいろいろお体の調子が悪かったけれども、ここかしこと歩き遊行して、そしてちょっと身を休めた時に詠まれた歌、

     旅ごろも木の根かやの根いづくにか 身の捨てられぬ処あるべき

まあこういう歌をお残しになっているわけですね。でこれは一所不住、縁に任せての旅ごろもの身であれば、自分の身を捨てる処というのはもう、人間至るところ青山ありと言いますか、そういうご心境の歌ですね。

大橋:  ええ。 

脇本:  そして最後は遊行の途中と言いますか、兵庫にいらっしゃっていたわけですね。兵庫の観音堂にお籠もりになって往生が近づいた時の歌というのがございますですね。

 

     南無阿弥陀ほとけの御名のいづる息

       いらば蓮の身とぞなるべき

 

この歌はどういう意味でございますか。南無阿弥陀仏と唱える、仏の御名のいづる息、まあ唱名を唱えるというのは息を吐いて唱えるわけですね。南無阿弥陀仏と。いらば仏の身とぞなるべきというと、入るというのは

大橋:  息が入るわけですね。

脇本:  息を吸う。 

大橋:  吸うわけですね。出る息、吐く息と。

脇本:  吸うというのは息を引き取るということですか。

大橋:  そうですわね。 

脇本:  いらば蓮(はちす)の身とぞなるべき。

大橋:  そういう句を残して、お亡くなりになったわけですね。

脇本:  まだまだお聞きしたいことはたくさん残りましたけれども、今日はどうもいろいろとありがとうございました。

 

 

     これは、平成八年三月三日に、NHK教育テレビの

     「こころの時代」で放映されたものである。



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