いま読むべき戦争文学4編 心を蝕み続ける不条理

https://book.asahi.com/article/13635050 【いま読むべき戦争文学4編 心を蝕み続ける不条理 中川成美さん寄稿】より

極限の記憶 人間性との葛藤

 75回目の終戦の日がやってくる。1945年8月15日から四分の三世紀もの長い年月が経ち、実際の戦時を経験した人々も少なくなり、戦争の記憶の風化が強く懸念されている。

 だが一方に、6月23日の沖縄慰霊の日、8月6日の広島原爆忌、9日の長崎原爆忌と連なる日々が、75年もの歳月を重ねようとも、忘れ去ることなど到底できないものとなって、夏の燃え盛る太陽のイメージとともに、日本人の生活意識の中に強靱(きょうじん)に生き続けていることも事実である。

 戦争に敗北し、甚大な数の兵士が戦没し、生き残った兵隊は帰還した。故郷は焦土と化し、家族も過酷な運命に翻弄(ほんろう)されていた。

 戦後文学はそこから出発した。大岡昇平は、自らの過酷なフィリピン戦線での体験を基に、「野火」(1951年)を書き、戦争体験のトラウマを描出した。戦地での飢餓を焦点に書いたこの作品は、極限状態の戦時を生き抜いた主人公・田村一等兵が、戦後数年を経て精神を病んで書いた手記の体裁をとっている。正気では語り切れない戦争の本質がそこにある。原民喜(たみき)は、この作品が発表された年に自殺を遂げた。

 広島に疎開した原は、その被爆体験を「夏の花」(1947年)に余すところなく投入した。一瞬の閃光(せんこう)によって壊滅した街を「私」は逃げ惑いながら、「言語に絶する人々の群」に出会う。非戦闘員である普通の人々にくだされたあまりに過酷な運命のありさまを、淡々と原は叙述し、その後ついに自ら命を絶った。

 だが、生き延びたとしても、苦い記憶は消え去りはしない。目取真俊(めどるましゅん)の「水滴」(1997年)は、60歳を過ぎた徳正の右足が急にはれ上がり、そこから水が滴り落ちるようになった奇譚(きたん)である。毎夜その水を求めて、死んだ沖縄戦の戦友たちが部屋の壁からやってくる。徳正はその中の一人、石嶺という師範学校の同級生を置き去りにした過去を持つ。その贖罪(しょくざい)の思いで暮らした無為の戦後を、徳正は「この五十年の哀れ、お前が分かるか」と石嶺にぶつける。

 戦争を経験するということは、死から免れるための必死の闘争であったと同時に、自らの人間性との葛藤そのものであった。だから、法規上終わっても、人々の心のなかでは戦争は容易に終わることなどない。

 津島佑子の絶筆となった「半減期を祝って」(2016年)は、近い未来の日本を描いた小説である。戦後百年を祝う軍事独裁国家・ニホンは、30年前に起こったトウホクの原子力発電所事故によって、ウランの核分裂で生成されるセシウム137に汚染されていた。30年ごとにそれは半減していくので、それも併せて祝おうというわけである。トウキョウに避難していた老女は故郷を訪ね、気づくのだ。30年間、何も変わらないと自分に言い聞かせて何もしなかったことの誤りを。

 コロナとの戦いを戦争との比喩で語ることが、「非常時」の名のもとに個人の行動を制約し、社会統制を無防備に認めてしまうことは承知している。それでもなお、戦争をめぐる文学を読むことによって気づくのは、私たちの運命が政府や各地方自治体によってバラバラに発せられる恣意(しい)的な指針や要請に託されてしまっているのにもかかわらず、最終的には自分が責任を取らざるを得ない不条理の相同性である。

 私たちがいま欲しいのは、世界が共有する正確で科学的な情報である。しかも、それは真に人間に立脚した、人間性を保証するものであって欲しい。戦争は戦時の膨大な殺戮(さつりく)と破壊のみにとどまるものではなく、永く人々の心を蝕(むしば)み、責めさいなむ。戦後75年を経て逢着(ほうちゃく)するコロナ禍のなかで、戦争への思いは果てしなく広がっていく。=朝日新聞2020年8月12日掲載

『鉄男』シリーズなどの塚本晋也監督作!映画『野火』予告編

「俘虜記」「花影」などで知られる大岡昇平の小説を実写化した戦争ドラマ。第2次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島を舞台に、野戦病院を追い出されてあてもなくさまよう日本軍兵士の姿を追う。『KOTOKO』などの塚本晋也が、監督と主演のほかに、製作、撮影、編集なども担当。共演には『そして父になる』などのリリー・フランキー、『るろうに剣心 京都大火編』などの中村達也、オーディションで選ばれた新星・森優作と、バラエティー豊かな顔ぶれがそろう。戦争という極限状況下に置かれた者たちの凄惨(せいさん)な心象風景に胸をえぐられる。

http://www.cinematoday.jp/movie/T0019675


https://www.library.city.hiroshima.jp/haratamiki/01mainessay/mainessay01.html 【原民喜の文学について】より

岩崎 文人(広島大学名誉教授)

  ひとりの作家の著名な代表作が、時として、その作家の他のすぐれた著作を後景に退かせてしまう、ということがある。  

 原民喜を例にひくと、さしずめ、「夏の花」(昭和22・6)が著名な代表作ということになる。というのも、「夏の花」が原爆文学として突出した評価を得ているからに他ならない。こうした有りように異を唱えるつもりは、もちろんない。原爆の悲惨さ、非人間的行為に加えて、被爆した作家たちそれぞれの凄絶な戦後を知っているからである。  

 広島市幟町で被爆した原民喜は、〈このことを書きのこさねばならない〉という、強い使命感にかられ、「夏の花」をはじめとして、被爆体験を軸とした「廃墟から」(昭和22・11)「壊滅の序曲」(昭和24・1)などを発表するが、朝鮮戦争勃発の翌年、1951(昭和26)年3月、机上に十七通の遺書を残し、中央線吉祥寺・西荻窪間の線路上に身を横たえ、自らの命を絶った。翠町で被爆した峠三吉は、自らの命と引き替えのように、『原爆詩集』(昭和26・9)を世に残し、1953(昭和28)年3月、肺葉摘出手術中、西条療養所で死去した。『屍の街』(昭和23・11)で知られる大田洋子は、白島九軒町で被爆し、戦後、不安神経症などで苦しむが、1963(昭和38)年12月、取材のために訪れた東北猪苗代町の旅館で急逝した。2005(平成17)年3月、九十二歳で亡くなった栗原貞子の戦後も、たたかいの日々であり、九十歳を超えてなお、平和集会で自作詩を朗読した姿は、忘れることができない。  

 とは言え、原爆文学以外の作品をも視野に入れた原民喜の全体像は、やはり明らかにしなければならないだろう。それは、寡黙で誠実なひとりの作家に対する後代の読者の責任でもある。

  多くの作家が青春を主要な文学的題材にしたが、原民喜は青春という魅力的な対象に対してきわめて禁欲的であった。  

 慶應義塾大学時代の左翼運動への傾斜、横浜本牧の女性との同棲とその破局、カルモチン自殺未遂、と話柄にはこと欠かない。が、原民喜は、こうした青春を文学の上ではほぼ封印している。このことは、原民喜の文学を語る上で重要なことである。原民喜と似通った軌跡をたどった太宰治が、虚構という形ではあるがみずからの体験を、『斜陽』(昭和22・12)『人間失格』(昭和23・7)といった小説で発表していることを想起すれば、ふたりの文学的資質、さらには文学的距離もはっきりしてくる。  

 原民喜の文学は、短詩型文学はひとまずおくとして、少年時を回想したもの、妻貞恵を追慕したもの、被爆体験を軸にしたもの、の三つに大別できる。が、これらは、時代的に区分できるといったものではなく、原民喜の関心の中に同時的にあったものである。  

 戦後の原民喜の主要な文学的動向を年譜的に整理してみれば、次のようになる。

1946(昭和21)年 「忘れがたみ」(「三田文学」3月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕

「冬日記」(「文明」9月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕

1947(昭和22)年 「吾亦紅」(「高原」3月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕   

「夏の花」(「三田文学」6月号)〔被爆体験を軸にしたもの〕

「雲の裂け目」(「高原」12月号)〔少年時を回想したもの〕

1948(昭和23)年 「昔の店」(「若草」6月号)〔少年時を回想したもの〕   

「画集」(「高原」7月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕

1949(昭和24)年 「魔のひととき」(「群像」1月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕   

「苦しく美しき夏」(「近代文学」5・6月合併号)〔妻貞恵を追慕したもの〕

「鎮魂歌」(「群像」8月号)〔被爆体験を軸にしたもの〕

1950(昭和25)年 「美しき死の岸に」(「群像」4月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕

1951(昭和26)年 「遙かな旅」(「女性改造」2月号)〔妻貞恵を追慕したもの〕

  こうして原民喜の戦後の足跡のおおよそをたどれば、「夏の花」冒頭の独立した段落―

―八月のはじめ、〈夏の花〉を妻貞恵の墓に手向ける場面――が持つ意味もおのずと明らかになる。それは、貞恵の死とヒロシマの死者たちとの対比によってもたらされる、原爆の悲惨さを浮き彫りにするための周到な配置であった、ということである。

  貞恵は、1944(昭和19)年9月28日、肺結核に糖尿病を併発し、千葉市登戸町で原民喜と貞恵の母にみとられ、亡くなる。三十三歳という生涯は短かく、それゆえ悲しくもあるが、与えられた生を生き抜いた一生でもあった。その臨終に誰も立ち会うことのない、〈自分の死を全うして〉いないヒロシマの死者たちを描いたのが、竹西寛子の「儀式」(昭和38・12)であるが、貞恵の死は、〈さまざまな儀式〉をともなった、〈確かな死〉であったことはまちがいがない。

 これに対して、「夏の花」で描出される死者たちは、当然あり得たその後の人生を原爆によって剥奪された人々なのである。「死のなかの風景」(昭和26・5)で原民喜は、貞恵の〈顔に誌されている死の表情〉は、幾時間かののち、〈苦悶のはての静けさに戻って〉いた、と記すが、ヒロシマの死者たちの表情は、安らぎからほど遠い、〈人間的なものは抹殺され〉た〈何か模型的な機械的なものに置換えられ〉た表情として描出される。

 冒頭部の墓参の場面と呼応するように、「夏の花」は、妻〈の死骸〉を、妻の〈勤め先〉である〈女学校〉、宇品近くの自宅、西練兵場、〈いたるところの収容所〉と捜しまわるNの姿が描かれて終わる。〈どこにも妻の死骸はなかった〉、という一文は、生まれ、生き、死んでいくという自然の摂理とは異なる生――生まれ、生き、殺される――を強いられたヒロシマの死者たちを象徴してもいるのである。

 貞恵を追慕する一連の短編群は、原民喜の死後、『美しき死の岸に』としてまとめられることになる。一方、「夏の花」は、「夏の花」「廃墟から」「壊滅の序曲」の三作をまとめ、『夏の花』(昭和24・2)として刊行された。また、少年時を回想した作品は多数あるが、その中の九編をまとめたのが『幼年画』である。少年時を回想した作品の核にあるものが、小学校一年時の弟六郎の死、五年時の父信吉の死、高等科に入学した年の次姉ツルの死にあるとすれば――じっさい、ツルの死を描いた「焔」(昭和10・3)では、〈つぎつぎに死ぬる、死んでどうなるのか〉という一文がある――、原民喜はこうした作品を通して、いわば不条理と存在への懐疑、不安を描いたのである。

 原民喜は、肉親の死、妻の死、被爆者の死と、死を凝視し続けた作家といってよいし、鎮魂の歌をうたいつづけた作家といってもよい。

 が、ここで注意しなければならないのは、妻貞恵の死、ヒロシマの死者それぞれに対する原民喜の有りようである。  

 妻貞恵の死を描いた『美しき死の岸に』は、〈妻と死別れてから彼は、妻あてに手記を書きつづけていた。彼にとって妻は最後まで一番気のおけない話相手だったので、死別れてからも、話しつづける気持は絶えず続いた〉〈もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために〉(「遙かな旅」)という文章に象徴的なように、基本的には、〈私〉あるいは〈僕〉の〈お前〉(貞恵)に対する呼びかけによって成立している。それはきわめて個人的な、いわば〈私〉の鎮魂歌である。しかし、ヒロシマの死者たちに対する鎮魂の歌は、〈自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かして僕を感動させるものがあるなら、それはみなお前たちの嘆きのせいだ〉(「鎮魂歌」昭和24・8)と記されているように、社会化された〈僕〉の、〈お前たち〉(ヒロシマの死者たち)に捧げられた、いわば〈公〉の鎮魂歌なのである。  

 戦後の原民喜は、妻貞恵を鎮魂する個人的な〈嘆き〉とヒロシマの死者たちを鎮魂する社会的〈嘆き〉というふたつの悲しみを生き、そして、孤独な生をみずから閉じたのである。

(原民喜の文章の引用は、『原民喜戦後全小説上・下』〈講談社文芸文庫〉による)


https://blogos.com/article/170529/ 【目取真俊の芥川賞受賞作「水滴」を読んでみた】より

辺野古で逮捕されて話題になった目取真(めどるま)俊氏の芥川賞受賞作「水滴」を読んでみました。目取真氏は1960年生れで、芥川賞を受賞したのは1997年、36歳のときでした。受賞作「水滴」は、戦争体験を持つ沖縄県民を主人公にしていますが、目取真氏には直接の戦争体験はありません。しかし県民として周辺には多くの戦争体験者がいたことでしょう。この作品は影書房から出ている「目取真俊短編小説選集」の第2巻「赤い椰子の葉」に採録されていて、思ったより短い短編でした。

 「徳正(とくしょう)の右足が突然膨れ出したのは、六月の半ば、空梅雨の暑い日差しを避けて、裏座敷の簡易ベッドで昼寝をしていた時だった。」と物語は始まります。目を覚ましても体の自由がきかず、声も出せません。ずっとそのままの状態で十日あまりの異常な体験をすることになります。足は冬瓜(すぶい)のように成長して生っ白い緑色になったというのですが、冬瓜とは何か、私にはわかりませんでした。今になって調べたら冬瓜(とうがん)のことで、沖縄での呼び方だそうですが、そんなことはどうでもいいのです。

 やがて腫れた右足の親指の先端が破れ、透明な水のようなものが滴り始めました。この水が曲者でした。やがて沖縄戦で死んだ戦友たちが壁の中から順番に現れ、足から出る水を吸って行くのです。戦友たちを壕の中に残して自分だけ生き延びたことを徳正は思い出します。兵隊たちは水を吸うと徳正に敬礼してから消えて行くのでした。この現象は他の人のいない間ですから、妻も医者も親戚の看護人も気がつきません。

 しかしやがて、看護人は、足から出る水の不思議な効用に気がつきます。禿げていた頭につければ毛が生えるし、飲むとたちまち精力がつく回春剤になるのです。そこで水を集めて瓶詰にし、魔法の水として売り出すと、これが大当りして人々は先を争って高価でも買い求めるようになりました。このあたりから、沖縄らしいというか、深刻ながらも滑稽なドタバタ劇に近い意表を突く展開になります。

 しかしハッピーエンドにはなりません。足の水は出なくなり、腫れも引いて本人が正気を取り戻すとともに、魔法の水を使った人たちは、一様に醜い老化した姿をさらすことになります。その騒ぎをよそに、徳正は冬瓜の黄色い花を眺め、目を潤ませるのでした。

 さて、この小説の受賞を決めた審査員の評決資料というものをネット上で見ることができました。丸谷才一、石原慎太郎など9人の審査員の中で、河野多恵子と池澤夏樹が高い評価をしていることがわかりました。この二人に共通しているのは、50年前の戦争を、非リアリズムの手法で現代に結んでいるという視点でした。受賞当時は50年前でしたが、70年後の今も、目取真氏は、あの戦争を現代に結ぼうとしたのでしょう。


https://mihiromer.hatenablog.com/entry/2017/08/29/203937 【30年という時間―津島佑子『半減期を祝って』】より

今回は津島佑子『半減期を祝って』という本について感想を書いていきたい。この本には表題作のほか「ニューヨーク、ニューヨーク」「オートバイ、あるいは夢の手触り」という短篇小説が収録されている(初出はいずれも『群像』)。

半減期を祝って

半減期を祝って

作者: 津島佑子

出版社/メーカー: 講談社

発売日: 2016/05/17

メディア: 単行本

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みなさま、おなじみのセシウム137は無事、半減期を迎えました。祝いましょう!

30年後のニホンの未来像を描き絶筆となった表題作のほか、強くしなやかに生きる女性たちの姿を追った「ニューヨーク、ニューヨーク」「オートバイ、あるいは夢の手触り」を収録。女性や弱者、辺境のものたちへの優しい眼差しと現状への異議――。

日本を越えて世界規模の視野を切り拓き続けた津島文学のエッセンスがここにある!

(本の帯文より)

表題作「半減期を祝って」には、セシウム137の半減期を迎えた30年後のニホンが描かれる。生活は確実に苦しくなっていて、自殺者数、死刑の執行数も増加しているのに「平和がなによりですね」というコメントが流れるテレビの街頭インタヴュー(ほとんど誰も見ていない)。戦後百年というキャンペーンでメディアはみんな大騒ぎ。そんな社会には14歳から18歳までの四年間、子どもたちが入ることになるASD愛国少年(少女)団なる組織がある。そのあと今度は男女問わず国防軍に入らなければならないという社会が設定されている。ちなみにこのASD出身者は国防軍では優先的に幹部候補として扱われることになるらしいが、ASDには厳しい人種規定があって、純粋なヤマト人種だけが入団を許されているというのだ。アイヌ人もオキナワ人もトウホク人も入団できないという。『狩りの時代』にヒトラーユーゲントが描かれていることをふと思い出した。何の罪もないはずの美しい者(子供たち)が政治的に利用されていくという悲しい姿がいつまでも心に黒い染みとなって残るようだ。

「半減期」という言葉は、おそらく東日本大震災の原発事故後しばらく経ってから一般に馴染みだした言葉だろう。「放射性元素が崩壊して、その原子の個数が半分に減少するまでの時間。放射線の強さが半分に減少するまでの時間」(URL)と説明されているが、一体なんのことやら……というのが私の生活の実感としての正直な感慨だ。「私の生活の実感」を他者に押し付けるのはあつかましいが、しかし多くの人にとって「半減期」はそういう感慨をもって眺められている言葉ではないだろうか。作中で「半減期を祝っている」人々も同じような感慨も持っているように思える。「半減期の厳密な定義なんてぶっちゃけよくわかんないけど、なんかヤバいやつの影響が30年経って半分になったってこと? それなら良かったじゃん!」という程度の認識。実際は半減期を迎えたというセシウム137の他にも(たとえばプルトニウムなんかも)原発事故によって私たちの暮らしの只中にばらまかれたのだけれど、人々はそんなことも忘れてしまっているかのようだ。忘れてしまっている、というか忘れさせられているというか。そもそも原発の抱える根本的な問題さえ認識しないまま、人々が営む日常は「大きな声」によってだいぶ歪められた社会に見える。

(アナウンスの声)

……みなさま、おなじみのセシウム137は無事、半減期を迎えました。正確にはすでに四年前、半減期を迎えていたのですが、今年は戦後百年という区切りの年です。すべてにおいてまだ原始的だった百年前の戦争で、どれだけ多くのひとたちが理不尽な苦しみのなかで死んでいったか、そのことを偲ぶための記念すべき年でもあるのです。戦争において、兵士が餓死するなど決してあってはならない事態です。しかも、一般市民の頭のうえに、原子爆弾がはじめてアメリカによって無慈悲にも落とされたのでした。

(前掲書、78-79頁)

踊らされてはいけない、大きなメディアの大きな声、この言葉いつだって上滑りだということを、私は東日本大震災をめぐる一連の報道の中で感じていた。こういう暴力も存在するのだ。

作者はこの暴力の存在を描きながらも、しかしそれだけのディストピア小説が書きたかったのだろうか? というのが読了後ずっと私の頭の中にあった。著者は単に近未来ディストピアを書きたかったわけではないだろうと思えてならないのだ。では何を書こうとしたのか? もちろん、原発を取り巻くあらゆるものへの「告発」であり「挑戦」なのだが、それよりもむしろ「30年という時間の感覚」を書きたかったのではないだろうか、と思った(これは本当にブログ管理人の単なる雑感ですが)。

身の回りにある昔より便利になったあらゆる物の存在を思えば、30年は充分に長い年月のように思え、しかし生活の実感としては本質的な変化があるようには感じられない。と同時に、原発事故で避難を余儀なくされた人々が避難先に定着するのに充分な時間でもある。

三十年後の世界を想像せよ、と言われると、それじゃ三十年前はどうたったのか、と反射的に考えたくなる。

(前掲書75頁より引用、この作品の冒頭)

三十年後にしても、三十年前にしても、人は自分の生活の実感でしかその距離を感じることはできないのかもしれない。同じ三十年に対して、あっという間だったと思うひとも、ひどく長かったと思うひとも当然いる。そういう思いの背景にはいつもそれぞれの生活の実感というものが横たわっているのだ。それを無視してひたすら「半減期を祝う」ということが、どれほど残酷なことであるのか、本書を読みながらひとり考えてしまった。

津島佑子は『狩りの時代』において、「差別」とは何か、はっきりと言葉にされていない「差別」を言葉の力で浮き彫りにして読者の目に「見える」ようにした。とすると、この作品にも空気のように漂う形の無い暴力を捕まえようとする意志があるのかもしれない。

併録されている「ニューヨーク、ニューヨーク」は、トヨ子という大柄な女性が男と離婚してから亡くなるまで辿った時間を、息子の薫が男に伝聞するという形式の物語。トヨ子はニューヨークにあこがれていたのではない、ニューヨークを自分の体に呑みこんでやりたかったのだ、ということに気がついた時には何もかもが遅く、すべては過ぎ去ってしまったあとなのだった。「オートバイ、あるいは夢の手触り」は、主人公の景子という人物が見聞きした「オートバイ」にまつわる思い出をあれこれ思い出していく物語。そしてそれらのオートバイの手触りを、景子はもう二度と感じることはないという寂寥がなんとも言えない余韻を残す(少し渋いな、と感じた)。「聞き慣れたオートバイの音は二度と、景子の人生の時間に戻ってはこなかった。」(72頁)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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