https://www.yukichi-tsuntsun.com/entry/ThroneRainbow 【即位礼正殿の儀での虹は、神話の再現であったのか? 古事記での表現を確認してみた。】より
即位礼正殿の儀、テレビで見ていた人も多いかと思います。
来賓の数や厳重な警備体勢もすごいなと感じましたが、一番驚いたのは何といっても「虹」です。
多くのメディアにも取り上げられていましたが、あまりにも偶然の出来事。単なる自然現象としては、タイミングが良すぎます。
もちろん虹の出現は自然現象ではありますが、科学で説明できない何かの力が働いていたのではと、多くの人が神話を信じてしまうくらい完璧な演出でしたね。
日本の神話というと、国を生んだことが描かれている古事記が有名です。
古事記には「天の浮橋」という表現があり、虹のことを表していると説いている研究者がいます。ちょっと気になったので、調べてみました。
古事記での表現
古事記で「天の浮橋」を表現している場面は、以下の3つとなります。
淤能碁呂島
伊邪那岐命と伊邪那美命が、天の浮き橋に立って最初の国を創った場面です。
是に,天つ神諸の命以て,伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の神に詔はく,「是のただよへる国を修理ひ固め成せ」とのりたまひ,天の沼矛を賜ひて,言依し賜ひき。故,二柱の神,天の浮橋に立たして,其の沼矛を指し下ろして画きしかば,塩こをろこをろに画き鳴して,引き上げし時に,其の矛の末より垂り落ちし塩は,累り積りて島と成りき。是,淤能碁呂島ぞ。
葦原中国の平定
天照大御神の命により、天忍穂耳命を下界を統治させるために遣わしたけど、天忍穂耳命は天の浮橋まで来て様子を伺ってみて、下界はとても騒がしい状態だと言って高天の原へ引き返してしまう場面です。
是に,天忍穂耳命,天の浮橋にたたして,詔はく,「豊葦原千秋長五百秋水穂国は,いたくさやぎて有りなり」と,告らして,更に還り上りて,天照大神に請しき。
天孫降臨
天孫の邇邇藝命が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために、高天原から筑紫の日向の襲の高千穂峰へ天降らせる場面です。
故爾くして,天津日子番能邇々芸命に詔ひて,天の石位を離れ,天の八重のたな雲を押し分けて,いつのちわきちわきて,天の浮橋に,うきじまり,そりたたして,竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降り坐しき。
天の浮橋とは虹のことなのか?
この3箇所で共通しているのは、天の浮橋を神々の住む天界と人間の住む地上を結ぶための橋、2つの世界の接点として描いていることです。
古事記には虹の概念がどこにも出ておらず、天の浮橋を虹と見るか否かは、研究者によって意見が分かれています。
肯定派の意見として、以下のような説明が見られます。
昔は、虹を橋とみる考えがあった
虹の橋の概念は古代においては天空橋となっている
日本のみでなく、他国の神話にも虹を橋とみなす場面がある
諸説あるようで、正解は何であるか私には分かりませんでした。
終わりに
結局のところ、虹は何であったのか?
もし仮に虹が展開と人間界との接点となる橋であったなら、もしかすると歴代の天皇が天界から祝ってくれたのかもしれません。そう考えると、ロマンがありますね。
日本の天皇は今回で126代目ですので、かなり歴史は長いです。何か、目に見えない力が働いたのかもしれません。
【祭・祀り・奉り・間釣り】
敗戦を境に アメリカナイズされ続けた私たちは日本人としての誇り、日本人としてのメンタリティ、日本人としての文化と歴史を見失っているのではないでしょうか?
歴史の浅いアメリカでは骨董品に人気が集まると聞きます。
フロンティア精神でネイティブアメリカンを侵略し続けたピユーリタン達は祖国を追われた民でした。(西部開拓史)
しかし、新天地アメリカも「人種の坩堝」といわれるように真実の祖国とは成らず・・・
植民地をどれほど得ても満たされない彼ら、自分の祖国・ルーツを失った彼らは 満たされることのない所属欲求を 生理的欲求(物欲)で満たすが如く更なる富と権力を求め続けます。
ディアスポラの民ユダヤ人もそうですね。
ユダヤの祖とされるセム族はメソポタミヤ文明の中で生まれました。
しかし木材を伐採し続けたセム族は 飢饉に遭遇することになり 族長の一人イサクは息子ヨセフの援助を得て エジプトに身を寄せることになります。
しかし寄留の国エジプトで その子孫が繁栄し続けたイサクの民は エジプト人から恐れられ、奴隷の憂き目にあうことになります。
「出エジプト」こそ「奴隷から解放されたユダヤ人」の救いの原点であり、モーセ5書こそユダヤ教の聖典です。
しかし「出エジプト」から導かれた「約束の地カナン」は まもなく ローマに征服されてしまいました。
ユダヤ教の会堂で礼拝を捧げ学びをしていた クリスチャンもユダヤ教信者も ローマから迫害を受けることになりました。
イエスは反ローマ運動の指導者として処刑されました。
イエスの死後 クリスチャンは もちろんローマの敵として 抹殺され続けました。
そのローマがなぜキリスト教を国教会と定めたのでしょうか?
「戒律を重んじるユダヤ教」や「多神教」よりも、「神の愛を説くキリスト教」は楽に信者になる=仲間を作ることができる教えです。(自力本願のユダヤ教:他力本願のキリスト教)仲間が大勢になれば国の統治に利用され、それによってさらにキリスト教会の地位が増し、信者になりたがる人も増える構図が見えます。
迫害をし続けたにもかかわらず クリスチャンはより大勢となったため、テオドシウス帝が統治に利用するため国教と指定するに至ったと考えられます。
ユダヤ教はキリスト教に キリスト教はローマに 乗っ取られたと言えば言い過ぎでしょうか?ユダヤ人(ユダヤ教信者たち)は 約束の地カナンさえ失ってしまったのです。
祖国を失うとは 自分のルーツを失うことです。
それは満たされることのない飢えと渇きを産むことになるのではないでしょうか?
一方メソポタミヤ文明の崩壊の憂き目に晒された ヤコブ一族以外のセム族は どのように生き残ったのでしょう?
シルクロードが示す如く 新天地を求めて 民は中央アジアへと移住したとは考えられないのでしょうか?
実際日本にはユダヤ同祖論が 有力な論として存在しています。
もしかしたら 私たち日本人のメンタリティの中には自分のルーツを失った民の痛みがあるのかもしれません。
では自分のルーツを取り戻すにはどうすればよいのでしょう?
夏祭りのシーズンです。
祭のお囃子を聞くと血が騒ぐと よく言われます。祭が深い意識レベルに関わることをよく示しています。
祭・祀り・奉り・間釣りとは 言霊的には「天とうつし世を繋ぐ「ま」を釣り合わせ すべてと調和バランスを回復する宴」と言えると思います。
その上、祭りに集う人々の心は一つになります。
天地人が一つになり、人々が一つになる=自分のルーツを取り戻す・・・
祭り(祭・祀り・奉り・間釣り)にはそんな力があるのではないでしょうか?
https://www.homemate-research-religious-building.com/useful/shrine_buddha/jinja/jinja07/ 【神社に祀られている神様 第七回 アメノウズメ(芸能の女神)】より
日本神話に登場する神のひとり「アメノウズメ」は、アマテラスが天岩戸に隠れてしまった「岩戸隠れ」の神話などで描かれている女神です。
こちらでは、アメノウズメに関する伝承やアメノウズメを祭神としている神社などをご紹介しましょう。
日本最古の踊り子 アメノウズメ
古事記には「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」、日本書紀と古語拾遺(こごしゅうい)には「天鈿女命」と表記されるアメノウズメ。
名前の由来は、かんざしを意味する「宇受(ウズメ)」から、髪飾りをして神祭りをする女神、さらには神がかった女性の神格化であるとされています。
天岩戸の神隠れで活躍
その昔、高天原でスサノオが暴れたことから、スサノオを恐れたアマテラスが天岩戸に身を隠してしまいました。太陽の神であるアマテラスの不在は世界を闇に変え、治安が乱れてしまいます。
これに困った高天原の神々は、天の安河に集まり話し合いをしたとき、知恵を司る神「オモイカネ(思兼神)」がある提案をしました。
それはアマテラスが籠る岩戸の前で様々な出し物をし、楽しそうな物音をさせてアマテラスの興味を引こうと言う計画でした。そこで活躍したのがアメノウズメです。
アメノウズメは、岩戸の前に桶を伏せ、その上で足を踏み鳴らしながら胸や下半身をさらけ出して踊りはじめました。これを見た八百万の神々は大笑いし、その笑い声は高天原に響き渡ったそうです。
作戦は成功、芸能の神様へ
その笑い声を聞いていぶかしんだアマテラスは天岩戸の扉を少し開き、「私がおらず世の中は真っ暗であろうと言うのに、何がそんなに面白いのですか」と尋ねました。
アメノウズメがそんなアマテラスに対し「貴方様よりも尊い神様が現れたので、喜んでいるのですよ」と言うと、天児屋命(あめのこやねのみこと)がアマテラスに向かって鏡を差し出しました。鏡に映ったその姿をもっと近くで見ようとアマテラスが身を乗り出したところを岩戸の影に隠れていたアメノタヂカラオが捕まえ、岩戸の外へ引き出すことに成功します。それからと言うもの世の闇は晴れ、平和な世界が戻ってきたと言われています。
このエピソードからアメノウズメは最古の踊り子とされ、歌や踊りの神様として祀られるようになりました。またこのアメノウズメの舞は、神様に奉納するために現代でも行なわれている歌舞である「神楽(かぐら)」の起源とされています。
サルタヒコとアメノウズメ
アメノウズメには、天孫降臨(てんそんこうりん)の際のこんな伝承も残されています。
日本神話の中にオオクニヌシが作った「葦原中国(あしはらのなかつくに)」をアマテラスが奪うと言うエピソードがあり、これを「国譲り」または「葦原中国平定」と言います。
この物語の中で、アマテラスは自分の子どもであるアメノオヒホミミに葦原中国を治めるよう言い渡しました。
しかしアメノオヒホミミは、自分の子どもであるニニギノミコトを降ろすことに。ニニギノミコトが天降りをしようとすると、高天原から葦原中国までの道のりを照らしている神がいることに気付きます。これを見たアマテラスが、その神の正体を探らせようと遣わせたのがアメノウズメでした。アメノウズメがその神のもとに行き、名を尋ねると「私は国つ神のサルタヒコと言います。天つ神の御子が降臨されると聞き、お迎えに上がりました」と答えました。
その後アメノウズメは天児屋命(あめのこやね)、太玉命(ふとだま)、玉祖命(たまのおや)、石凝姥命(いしこりどめ)と共に、五伴緒神(いつとものおのかみ)のひとりとしてニニギノミコトに付き添い、葦原中国へと降り立ちます。
サルタヒコとアメノウズメ
アメノウズメは、魚を集めニニギノミコトに使えるかどうかを尋ねましたが、皆が首を縦に振る中、ナマコだけが何も答えません。それを見たアメノウズメは、「何も答えないのはこの口か」と言ってナマコの口を小刀で切り裂いたそう。ナマコの口が裂けているのは、このときにアメノウズメに傷付けられたためであるとされています。
ちなみに、アメノウズメはサルタヒコの名前を明かさせたことからその名を譲り受けることとなり、「猿女君(さるめのきみ)」の祖先となりました。また、サルタヒコの妻となったとされる説もあります。
https://www.wabito.jp/%E5%A4%A9%E5%AE%87%E5%8F%97%E5%A3%B2%E5%91%BD%EF%BC%88%E3%81%82%E3%82%81%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%9A%E3%82%81%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%93%E3%81%A8%EF%BC%89/ 【天宇受売命(あめのうずめのみこと)】より
[日本の神々, 聖母と純愛の神々]
【神祭をつかさどる神楽や芸能の祖の女神】
概要
天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、天照大神が天岩戸に隠れてしまったと(【古事記】天照大御神と須佐之男命~天岩戸「八百万の神の策」)きに、なんとか外に誘い出すため、おもしろおかしく、また熱狂的な踊りを披露したことから、日本の芸能のルーツとされるようになった女神であり、「日本書紀」には「巧みに俳優(わざおぎ)をなし」と記されている。
これは、俳優のルーツともいわれ、「わざ」とは神のわざ(所作、行為、技)のことで、神がのり移ったような振る舞いをさし、また「おぎ」は招くという意味である。このことから「俳優」とは、神霊を招いておもしろおかしく振る舞いを演じて、なぐさめ、楽しませることをいう。
そこから派生し日本の様々な芸能が生まれたと考えられ、芸能の祖神とされているのである。
天宇受売命の踊りは、神前で舞を演じる神楽の始まりとされ、語源は「神座(かみくら:神が宿る場)」であるといわれ、神を招き、降臨してきた神を歓迎し祝福するために、神座において踊りを捧げることを意味する。同時に神楽には神の心を楽しませ和らげる「神遊び」の意味を含まれる。
この天照大神の天岩戸の神話は弱った(冬至のころ)日の光(太陽のエネルギー)の再生と考える説もあり、それに従えば、この神の役割は、弱った太陽神の心を踊りによって癒し、元気を取り戻すことだといえ、また、鎮魂祭(太陽の活力の再生と天皇の遊離した魂を取り戻す(生命力の再生)ことによって、世の中の平安を祈願する儀式)の儀礼の起源を語るものとも考えられている。
また、天宇受売命の大神と会話を交わす姿は、恍惚(物事に心をうばわれて、うっとりするさま)状態になって神と交信する様子を映したものと考えられることから、シャーマン(巫女)の役割や機能を表している。
天岩戸の話しの後、天宇受売命はニニギノ尊の天下りに随行し地上に降りることになったとき、国つ神のサルダヒコ命と出会い結婚。サルダヒコ神の故郷である伊勢国(三重県)に住み宮廷祭祀の鎮魂祭や大嘗祭等に関わる猿女君の祖神となった。猿女君とは、宮廷祭祀で神楽を舞うことを務めとする神祇官の役職名である。
このように、天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、祭祀祈祷を行う超能力的な巫女集団の霊的パワーの神格化と考えられる。
https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960914,19970801,19970914,19980716,19990514,20000723,20010831,20050514,20060520,20061129,20070516,20070519,20070727,20080305,20090508,20090522,20100507,20100606,20100623,20100728,20120803,20120927,20130629,20140604,20140921,20160604,20160615&tit=%8D%D5&tit2=%8BG%8C%EA%82%AA%8D%D5%82%CC 【季語が祭の句】より
祭りの灯なかの一軒葬りの灯
中村苑子
町内の家ことごとくの軒先に祭りの提灯がつけられて、眺めが一変した秋の宵。歩いて行くと一軒だけ色合いの違う提灯がさがっている家があり、喪服の人がひっそりと出入りしている。どちらも、今生の、祭りの灯である。(辻征夫)
八月の炉あり祭のもの煮ゆる
木村蕪城
もとより、普段だったら真夏に炉を使うことはない。でも、今日はお祭りだ。来客の予定もある。竈での煮炊きだけでは間に合わないので、朝から炉を開き、自在鉤に鍋を吊るしてコトコトと煮物をしている。うまそうな、いい匂い……。忙しくもまた楽しい祭りの日の楽屋裏である。などと、男は呑気に俳句などひねっていればよかったが、昔の女衆は大変だった。(清水哲男)
女房は下町育ち祭好き
高浜年尾
なんとも挨拶に困ってしまう句だ。作者が虚子の息子だからというのではない。下町育ちは祭好き。……か、どうかは一概にいえないから困るのである。そういう人もいるだろうし、そうでない人もいるはずだ。たとえ「女房」がそうだったとしても、女子高生はみんなプリクラ好きとマスコミが書くようなもので、なぜこんなことをわざわざ俳句にするのかと困惑してしまう。祭の威勢に女房のそれを参加させてやりたい愛情はわからないでもないが、だったら、もっと他の方策があるだろうに。時の勢いで作っちまったということなのだろうか。この句のように「そうなんだから、そうなんだ」という類の句は、見回してみるとけっこう多い。しかもこういう句は、どういうわけか記憶に残る。そこでまた、私などは困ってしまうのだ。なお、俳句で単に「祭」といえば夏の季語で「秋祭」とは区別してきた。この厳密さに、もはや現代的な意味はないと思うけれど、参考までに。『句日記三』所収。(清水哲男)
祭まへバス停かげに鉋屑
北野平八
バスを待つ間、ふと気がつくとあちこちに鉋屑〔かんなくず〕が散らばっている。どこからか、風に吹かれてきたものだろう。一瞬怪訝に思ったが、そういえば町内の祭が近い。たぶん、その準備のために何かをこしらえたときの鉋屑だろう。そう納得して作者は、もう一度鉋屑を眺めるのである。べつに祭を楽しみにしているわけではなく、もうそんな季節になったのかという淡い感慨が浮かんでくる。作者は私たちが日頃つい見落としてしまうような、いわば無用なもの小さなものに着目する名人だった。たとえば、いまの季節では他に「紙屑にかかりしほこり草いきれ」があり、これなども実に巧みな句だと思う。じりじりと蒸し暑い夏の日の雰囲気がよく出ている。北野平八は宝塚市の人で、桂信子門。1986年に他界された。息子さんは詩を書いておられ、いつぞや第一詩集を送っていただいたが、人にも物にも優しい詩風を拝見して、血は争えないものだなと大いに納得したことであった。『北野平八句集』〔1987〕所収。(清水哲男)
神田川祭の中をながれけり
久保田万太郎
字面から見て、有名な神田明神の祭礼かと思いきや、浅草榊神社(私は場所も知りません)の夏祭を詠んだ句だという。となれば、そんなに大きな規模の祭ではないだろう。浅草神社の三社祭のように観光客が押し寄せる荒祭でもなく、小さな町内の人々がお互いに精一杯祭を盛り上げるなか、神田川はいつものように静かに流れているという情景。つつましい暮らしのなかの手作りの祭の味わいが、じわりと読者の胸に、川面に写る祭提灯の影のように染み込んでくる。井の頭に源を発する神田川(神田川上水)は、いかにも都会の川らしく、流れる場所や季節によって複雑に表情を入れ替える。そんな神田川の一面を、万太郎が鮮やかに切り取ってみせた句だ。ちなみに、句の季題は「祭」で夏だけれど、古くは単に「祭」というと、ちょうどこの時期に行われる京都の「葵祭」だけを意味していた。古典を読む際には、こんな知識も必要だ。でも、そんな馬鹿なことを、誰が決めたのか。もとより、千年の都が勝手に決めたのである。昔の都は、とてもエラかったから。『草の丈』所収。(清水哲男)
友も老いぬ祭ばやしを背に歩み
木下夕爾
単に「祭」というと、昔は京都の葵祭(賀茂祭)を指したが、現在では各地の夏祭の総称である。この句、句会ではある程度の支持票を集めそうだが、必ず指摘されるのは「作りすぎ」「通俗的」な点だろう。「『友』って、まさかオレのことじゃねえだろうな」などのチャチャまじりに……。以前にも書いたことだが、抒情詩人であった木下夕爾の句には、どこか情に溺れる弱さがつきまとう。俳句的な切り上げがピリッとしない。その点は大いに不満だが、掲句には一見通俗的にしか表現できない必然も感じられて、採り上げてみた。二人は、祭ばやしのほうへと急ぐ人波にさからうように、逆方向へと歩いている。だから、なかなか並んでは歩けないのだ。で、友人の背後について歩くうちに、ふと彼の「背」に目がとまり、はっとした。同時に、その「背」の老いに、みずからの老いが照り返されている。もとより、その前に通俗的な句意があって、若き日には祭好きだった「友」が「いまさら祭なんかに浮かれていられるか」と言わんばかりに、黙々と歩いている姿がある。すらりと読み下せば、そういうふうにしか読めない。すらりと読んだときの「背」は比喩的なそれだ。その「背」に、私は具体を読んでしまった。だから、捨てられなかった。私の年齢が、そうさせた。成瀬櫻桃子編『菜の花集』(1994)所収。(清水哲男)
父に金遣りたる祭過ぎにけり
藤田湘子
そろそろ秋祭のシーズンだが、単に「祭」といえば夏祭を指す。古くは京都の葵祭(賀茂祭)だけを意味した。八月も、今日でお終い。この句は、過ぎゆく夏を振り返っての作だ。眼目はむろん、父親に小遣いを渡したことにあり、そういうことをしたのはこの夏が最初だったのだ。このとき、作者は五十代。やっと一人前になれたという感慨に加えて、気がついてみたら、作者自身の人生の盛り(夏祭)が過ぎ去っていたことへの哀惜の念も込められている。息子から「祭」の小遣いをもらう身になった父親も十分に老いたが、渡した側ももう決して若くはないのである。ところで、この「遣(や)りたる」という言葉遣いに抵抗を覚える読者もおられるだろう。父親は目上の人だから、「あげたる」ではないのかと……。我が子にも「お菓子をあげる」と言い、犬にまで「餌をあげる」と言うのが一般的なようだから、無理もない。昔は両方ともに「遣る」と言った。すなわち、身内同士の振る舞いを掲句のように他人に示す場合には、一歩へりくだるのが礼儀だったからである。謙譲語に対して謙遜語とでも言うべきか。これを「あげたる」とすると、他人に対してたとえば「ウチのお父さんが」と言うが如しで、気色が悪い。そう言えば、テレビを見ていると「ウチのお父さん」派も増えてきた。内と外との区別がない。それも、内側の言葉を外へと押し広げていくだけのことだから、常識ではこれを「わがまま」と言う。『春祭』(1982)所収。(清水哲男)
生きのいい頭あつめてもむみこし
落合水尾
神輿渡御の景。句は「祭」に分類しておく。俳句で「祭」は夏祭のことだ。平仮名を多用しているのは、神輿を揉むダイナミックな様子を表現する意図からだろう。明日は東京・神田祭の宮入で、九十基もの神輿が練り回るというから、人、人、人の波となる。まさに「生きのいい頭」たちの晴れ舞台だ。岡本綺堂が明治期の東京の祭について書いているが、昔は実にすさまじかったらしい。「各町内の若い衆なる者が揃いの浴衣の腰に渋団扇を挿み、捻鉢巻の肌脱ぎでワッショイワッショイの掛け声すさまじく、数十人が前後左右から神輿を揉み立て振り立てて、かの叡山の山法師が京洛中を暴れ廻った格で、大道狭しと渦巻いて歩く」。そして、これからが大変だ。「殊に平生その若い衆連から憎まれている家や、祭礼入費を清く出さぬ商店などは、『きょうぞ日頃の鬱憤ばらし』とあって、わざとその門口や店先へワッショイワッショイと神輿を振り込み、土足のままで店へ踏み込む。戸扉を毀す、看板を叩き落とす、あらん限りの乱暴狼藉をはたらいて、またもや次の家へ揉んでゆくという始末」というのだから、ダイナミックもここに極まれり。さすがに警察も黙っていられなくなり、この文章が書かれたころには、神輿を若い衆に揉ませることは禁じられ、「白張りの仕丁が静粛に」かつぐことになっていたようだ。それがまた、いつの間にやら「生きのいい頭」たちの手に戻り、戦後のひところはまた静かになった時期もあったけれど、やはり祭は「静粛」では面白くない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)
青春や祭りの隅に布団干し
須藤 徹
季語は「祭(り)」。俳句で「祭」といえば夏のそれを指し、古くは京都の「葵祭」のみを言った。他の季節の場合には「秋祭」「春祭」と季節名を冠する。その葵祭や東京の神田祭も過ぎ、昨日から明日までは浅草の三社祭である。夏の祭とはいっても、各地の大きな祭礼はたいてい初夏の間に終わってしまう。掲句を読んで、京都での学生時代を思い出した。京都に住んでいると、春夏秋冬にいろいろな祭りや行事があるけれども、二十歳そこそこの私には、そのほとんどに関心が持てなかった。とくに京都の場合は多くが観光化しているので、人出だけがやたらに多く、ちゃんと見るなんてことはできなかったせいもある。が、それ以上に、祭りだと言って浮かれている人々と一緒になりたくないという、おそらくは「青春」に特有の偏屈さが働いていたためだと思う。句のように、なんとなく街中が浮いた感じの「祭りの隅」にあって、そんな祭りを見下す(みくだす)かのように、布団干しなどをしている自分の姿勢に満足していたのである。今となっては、素直に出かけておけばよかったのにと後悔したりもするのだが、しかし、そうはしないのが「青春」の青春たる所以であろう。何でもかでも無批判に、世間の動きにのこのこと付き従っているようでは、若さが泣こうというものだ。掲句はそこまで強く言っているわけではないが、青春論としてはほぼ同じアングルを持っている。遠くからの笛や太鼓の音が、青春に触れるとき、若さはまるで化学反応を起こすかのように、しょぼい布団干しなどを思いついたりするのである。『荒野抄』(2005)所収。(清水哲男)
湯豆腐や隠れ遊びもひと仕事
小沢昭一
よく知られている「東京やなぎ句会」がスタートしたのは1969年1月。柳家さん八(現・入船亭扇橋)を宗匠として、現在なおつづいている。小沢さんもその一人で、俳号は変哲。「隠れ遊び」には「かくれんぼ」の意味があるが、ここはかつて「おスケベ」の世界を隈なく陰学探険された作者に敬意を表して、「人に隠れてする遊び」と解釈すべきだろう。(「人に隠れてする遊び」ってナアニ?――坊や、巷で独学していらっしゃい!)「遊び」ではあるけれども、いい加減な仕事というわけではない。表通りの日向をよけた、汗っぽく、甘く、脂っこく、どぎつい、人目を憚るひそやかな遊び、それを真剣にし終えた後、湯気あげる湯豆腐を前にして一息いれている、の図だろうか。それはまさに「ひと仕事」であった。酒を一本つけて湯豆腐といきたいが、下戸の変哲さんだから、あったかいおまんまを召しあがるのもよろしい。万太郎のように「…いのちのはてのうすあかり」などと絶唱しないところに、この人らしさがにじんでいる。小沢さんは「クボマンは俳句がいちばん」とおっしゃっている。第一回東京やなぎ句会で〈天〉を獲得した変哲さんの句「スナックに煮凝のあるママの過去」、うまいなあ。陰学探険家(?)らしい名句である。「煮凝」がお見事。これぞオトナの句。2001年6月、私たちの「余白句会」にゲストとして変哲さんに参加していただいたことがあった。その時の一句「祭屋台出っ歯反っ歯の漫才師」が〈人〉を三人、〈客〉を一人からさらい、綜合で第三位〈人〉を獲得した。私は〈客〉を投じていた。句会について、変哲さんはこう述べている。「作った句のなかから提出句を自選するのには、いつも迷います。しかも、自信作が全く抜かれず、切羽つまってシブシブ投句したのが好評だったりする」(『句あれば楽あり』)。まったく、同感。掲句は『友あり駄句あり三十年』(1999・日本経済新聞社)の「自選三十句」より。(八木忠栄)
神輿いま危き橋を渡るなり
久米三汀
祭は夏祭の総称であり、神輿も夏の季語。他は春祭、秋祭となる。大きな祭に神輿は付きもの。ワッセワッセと勇ましい神輿が、今まさに町はずれの橋を渡っている光景であろうか。「危き橋」という対比的なアクセントが効いている。現今の橋は鉄やコンクリートで頑丈に造られているが、以前は古い木橋や土橋が危い風情で架かっていたりした。もともと勇ましい熱気で担がれて行く神輿だけれど、「危き橋」によっていっそう勢いが増し、その地域一帯の様子までもが見えてくるようである。世間には4トン半という黄金神輿(富岡八幡宮)もあれば、子どもたちが担ぐ可愛い樽みこしもある。掲出句は巨大な神輿だから危いのではない。危い橋に不釣合いなしっかりした神輿が、祭の勢いで少々強引に渡って行く光景だろう。向島に生まれ住んだ富田木歩の句に「街折れて闇にきらめく神輿かな」がある。今年の浅草三社祭は明後十八日から始まる。昨年は神輿に大勢の人が乗りすぎ、担ぎ棒が折れるという事故が起きた。そうした危険に加え、神輿に人が乗るのは神霊を汚す行為だ、という主催者側の考え方も聞こえてくる。今年はどういうことに相成るのか――。三汀・久米正雄は碧梧桐門。一高在学中に新傾向派の新星として俳壇に輝いた。のち、忽然と文壇に転じた。戦後は俳誌「かまくら」を出し、鎌倉の文士たちと句作を楽しんだ。「泳ぎ出でて日本遠し不二の山」三汀。句集に『牧唄』『返り花』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
簡単に通り過ぎたる神輿かな
劔持靖子
二年前、神幸祭の当日に神田明神界隈を歩いた。少しまとまった数の俳句を作る目的の一人吟行である。神輿、汗、熱気、祭太鼓に祭笛、などいかにもそれらしい連想が頭の中をめぐる。しかし実際には、鳥居の前の桐の花や、すれ違う洗いざらしの祭袢纏、どこからかかすかにきこえる風鈴の音に気持がいってしまう。これじゃなあ、それにしても御神輿はどこなのかしら、と思ってふと見ると、細い路地の向こうを通過中である。あわてて路地をぬけて後ろ姿を見送った。この句の作者は、私のように無計画ではない。神輿の通る道端の最前列に陣取って今か今かと待っていたのである。由緒ある祭の立派な御神輿が近づいてくるのが見える、そして目の前を汗と熱気のかたまりが通過、やはり後ろ姿を見送ったのだろう。案外あっけなかったなあ、という、ふと我に返ったような気持を、簡単に、と感情をこめずに叙したところに余韻が生まれている。通り過ぎたる、というのを、祭後(まつりあと)の寂寥感にも通ずる、と読むこともできるのかもしれないが、私には、もっとあっけらかんとした明るさと、逆に熱気に包まれた神輿の勇壮な姿が見えてくる。簡単に、という上五は、それこそ簡単には浮かばない。二十代前半からの句歴四十年の作者ならではだろう。同人誌「YUKI」(2007・夏号)所載。(今井肖子)
一瀑を秘めて林相よかりけり
京極杞陽
見えない滝を詠んでいる。目の前に林が広がる。滝音でもするのか、それとも滝はおそらくあると作者は推測しているのか。五感を通して直接感受したことや、感覚を通しての推測ならば、この「秘めて」は「写生」から逸脱しないが、その林の中に滝が存在するという事実を知識として持っているということだと理屈の勝った句になる。この「秘めて」は前二者のどちらかにとりたい。林相(りんそう)とは聞きなれない言葉だ。あるいは専門用語か。それにしても林の美しさを言うのに実に的確な言葉ではある。「祭笛吹くとき男佳かりける」(橋本多佳子)笛を吹く男の姿に見惚れる感覚と林の姿に美しさを感じる感覚はどこか似ている。三十数年前大学受験の折に農学部林学科というのを受けたことがある。獣医学科だの農芸化学科だのの農学部の他の学科よりは競争率が低かったのと、「林は国策の根幹である」だったか「林は地球の縮図である」だったかの言葉をどこかで見て興味を持っていたせいだ。そのときのこの学科は競争率1.8倍だったが、見事に落ちてしまった。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)
春うらら葛西の橋の親子づれ
北條 誠
こんなのどかな春の風景はもうなくなった、とは思いたくない。都会を離れれば、こういううららかな親子づれの光景はまだ見られるだろう。いかにものどかで、思わずあくびでも出そうな味わいの景色である。時折、こんな句に出くわすと、足を止めてしばし呼吸を整えたくなる。葛西は荒川を越えた東に位置する江戸川区の土地である。「葛西の橋」を「葛西橋」と特定してもいいように思う。もちろん葛西には旧江戸川にかかる橋もあることはある。江東区南砂と江戸川区葛西を一直線で結ぶ道路の、荒川にかかっているのが葛西橋である。葛西橋は他にも俳句に詠まれていて、のどかな時間がゆったり流れていることもあれば、せつなくも侘しい時間が流れていることもある。「葛西」という川向こうの土地がかもし出すイメージが、「親子づれ」をごく自然に導き出してくれている。小津安二郎(?)か誰かの映画のワンカットで、「葛西橋」とはっきり書かれた木の橋の欄干が映し出された画面が私の記憶に残っている。映画の題名も監督も、今や正確には思い出せない。この「親子」はどんな氏素性をもった親子なのか、何やらドラマの一場面のようにも想像されてくる。北條誠は脚本家として映画「この世の花」をはじめ、多くの小説や脚本を残した。「まつ人もなくて手酌のおぼろかな」「永代の橋の長さや夏祭」等々、気張らず穏かな俳句が多い。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
白粉を鼻に忽ち祭の子
深見けん二
端正な句。品格といってもいい。気品のようなものの出処をあれこれと思うのだが、表現内容はさることながら、切れにその要因があるように思った。「白粉を鼻に」でちょっと切れる。一拍短く置いて、「忽ち」に繋がる。意味からいってそこで切れるが、「写生」の被写体の動きとも時間的に並行してゆく。ぱたぱたと白粉を鼻に塗られ、一拍あって、さあ、祭の子の出来上がりである。祭の子の装いや化粧などを詠んだ句は山ほどあるけれど、この切れが文体のオリジナルを強調し、そこに品格が生じる。繊細丁寧で欲を見せない自然体。『蝶に会ふ』(2009)所収。(今井 聖)
たべのこすパセリのあをき祭かな
木下夕爾
中七の連体形「あをき」は下五の「祭かな」にかからずパセリの方を形容する。この手法を用いた文体はひとつの「鋳型」として今日的な流行のひとつとなっている。もちろんこの文体は昔からあったもので、虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」も一例。日の当たっているのは枯野ではなくて遠山である。独特の手法だが、これも先人の誰かがこの形式に取り入れたものだろう。こういうかたちが流行っているのは花鳥諷詠全盛の中でのバリエーションを個々の俳人が意図するからだろう。この手法を用いれば、掛かるようにみせて掛からない「違和感」やその逆に、連体形がそのまま下五に掛かる「正攻法」も含めて手持ちの「球種」が豊富になる。今を旬の俳人たちの中でも岸本尚毅「桜餅置けばなくなる屏風かな」、大木あまり「単帯ゆるんできたる夜潮かな」、石田郷子「音ひとつ立ててをりたる泉かな」らは、この手法を自己の作風の特徴のひとつとしている。夕爾は1965年50歳で早世。皿の上のパセリの青を起点に祭の賑わいが拡がる。映像的な作品である。『木下夕爾の俳句』(1991)所収。(今井 聖)
祭前お化けの小屋の木組建つ
橋詰沙尋
幽霊屋敷の木組ができあがる。木組に壁が貼られ、屋根で覆われ、その中に人間が扮した幽霊が配置され、それを観に善男善女が訪れる。木組のかたちを基点にしてやがて木組の目的や意図へ読者の思いがいたるときすっと作者の批評意識が見えてくる。この順序が要諦なのだ。皮肉も揶揄も箴言も象徴もその意図が初めから前面に出ると「詩」も「文学」もどこかに行ってしまう。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に優れたポエジーがあると思う人はあまりいないだろう。ものに見入って、そのままを写す。そこからかたちならざる観念に到れるか否か、それは詩神に委ねるしかない。「俳句研究」(1975年11月号)所載。(今井 聖)
読まず書かぬ月日俄に夏祭
野沢節子
普段は行かないのですが、今年は友人が朗読をするというので、5月末の日曜日に、「日本の詩祭」に行ってきました。会場に入ってまず驚いたのが、広い場内のほとんどの席がすでに埋まっており、その人たちがたぶん皆、詩人であることでした。日本にはこれほど多くの詩人がいるものかと思った後で、しかし「詩人」なるものの定義も、どこか曖昧だなと、あらためて思いもしました。わたしも、ものを書いて発表するときには、ほかにぴったりする呼び名もないので、名前のあとに(詩人)とつけられることがあります。しかし、言うまでもなく詩を書いて生活をしているわけでもなく、また、毎日毎日詩を書いているわけでもありません。では、読むほうはどうかといえば、これも、通勤電車で読む日経新聞と会社の書類以外には、まったく何も読まない日々もあり、月日はそれでも詩人を過ぎてゆくわけです。とはいうものの、心のどこかには、自分にはもっとすごい詩が書けるのではないのか、そのためにはきちんとした勉強を怠ってはいけないのだという気持ちはしっかりともっており、だからいつも焦っているわけです。焦って見上げる夕暮れの空からは、遠い祭囃子の音が風に乗って聞こえてきます。ああ、今年ももう夏祭の季節になってしまったのだなと、さらに人生に、焦りの心が増してくるのです。『俳句のたのしさ』(1976・講談社)所載。(松下育男)
立札のなき花ありて梅雨の園
田村泰次郎
花園に咲くそれぞれの花には、たいてい名前を書いた札が立ててある。薔薇園などでもうるさいほどマメに札が立てられている。プリンセス・ダイアナ、プリンセス・ミチコ……といった具合である。薔薇にかぎらず花に見覚えはあっても、名前まで詳しくない当方などにはありがたい(すぐに忘れてしまうのだけれど……)。もっともダイアナとミチコの違いなど、当方にはどうでもよろしい。梅雨どきの花園は、訪れる人も少ないだろう。そうしたなかで、なぜか立札がない花があったりする。立札のあるものはスッと見て過ぎるにしても、立札のない花には妙に気にかかって、しばし足を止めしまうことがある。掲句では、花の前に何人かかたまって覗き込んでいるご婦人方が、あれよこれよと知識をひけらかしているのかもしれない。さりげない花でも、立札があれば一人前に見えるからおかしい。雨が降っていたり曇天だったりすると、立札のないのが歯抜けのように妙に気にかかってしまったりする。何気ないこまやかな着眼にハッとさせられる句である。泰次郎は小説「肉体の悪魔」「肉体の門」などで敗戦直後にセンセーションを巻き起こした。映画にもなった。そんなことを知る人も少なくなった。泰次郎には多くの俳句がある。「故旧みなひと変りせる祭りかな」「昨日来し道失へる野分かな」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
釣りをれば川の向うの祭かな
木山捷平
祭と言えばこの時季、夏である。俳句では言うまでもなく、春は「春祭」、秋は「秋祭」としなければならない。祀=祭の意味を逸脱して、今や春夏秋冬、身のまわりには「まつり」がひしめいている。市民まつり、古本まつり、映画祭……。掲句の御仁は、のんびりと川べりに腰をおろして釣糸を垂れているのだろう。祭の輪に加わることなく、人混みにまじって汗を拭きながら祭見物をするでもなく、泰然と自分の時間をやり過ごしているわけだ。おみこしワッショイだろうか、笛や鉦太鼓だろうか、川べりまで聞こえてくる。魚は釣れても釣れなくても、どこかしら祭を受け入れて、じつは心が浮き浮きしているのかもしれない。私が住んでいる港町でも、今年は氏神様の三年に一度の大祭で、川べりや橋の欄干に極彩色の大漁旗がずらりと立てられていて、それらが威勢よく風にはためいている。浜俊丸、かねはち丸、八福丸……などの力強い文字が青空に躍っている。氏子でもなんでもなく、いつも祭の輪の外にいる当方でさえ、どことなく気持ちが浮ついて、晩酌のビールも一本余計になってしまうありさま。三年に一度、まあ悪くはないや。漁港では今日も大きなスズキがどんどん箱詰めされて、仲買人や料亭へ配送されて行く。さて、これから当地名物のバカ面踊りや、おみこしワッショイでも見物してくるか。「祭笛吹くとき男佳かりける」(橋本多佳子)。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
お祭りに行くと絶対はさんする
阿部順一郎
小学生がつくった句というのを目にするが、どうも嘘くさいのもある。発想と書き方を親が手伝ったんじゃないかと思わせる句があるのだ。親や教師が手伝うと往々にして切れに「ね」や「よ」がリズミカルに入る。形を整えるアドバイスはまあ仕方ないとしても発想が従来の俳句観に沿っていたり、ありきたりの「童心」のごときものを見せられるとがっかりする。大人から見た「童心」と子供の本心は違うんじゃないか。子供には大人の想像もつかないような発見や奇想が詰ってるんじゃないかと思うけど、逆にそれが過大な幻想なのか。この句は正真正銘小学生の感慨に思える。大人がアドバイスしたら「はさん」は出ないだろう。もう一度小学生に戻れたらこんな奴と親友になりたい。毎日楽しいだろうな。絶対東大には行けないだろうけど。『平成23年度NHK全国俳句大会入選作品集』(2011)所載。(今井 聖)
自転車を盗まれ祭囃子の中
山田露結
今週、近所の社では秋祭りが行われる。「祭囃子」は歳時記では夏の祭の傍題になっているようだけど、なぜだろう。秋祭りだってぴーひゃらら、と笛、太鼓を鳴らすのだからいいような気がするのだが。神輿が出て、祭囃子も聞こえる人ごみの中で自転車を盗まれ、探し回る心細さ。「自転車泥棒」と言えば有名なイタリアの映画を思うのだけど、うんと小さいころに見たので記憶はおぼろげで雑踏の中で自転車を探してさまようシーンしか思い浮かばない。掲句は「故郷」と題された八句のうちの一句。「海沿いの小さな田舎町に住んでいる。田舎町だからといつて純朴な人たちばかりが暮らしているというわけはない。ここでもやはり人は傲慢で強欲で怠惰で憂鬱で、それゆえに美しいのである」と作者の言葉がある。この句もかの映画のワンシーンのような味わいがある。「彼方からの手紙」(vol.5・2012/8/18)所載。(三宅やよい)
お面らの笑みて祭を売れ残る
坊城俊樹
子どもの頃、お祭りは数少ない楽しみのひとつだった。お小遣いとは別にもらえる、当時は直径二十五ミリと大きかった五十円玉を握りしめて、夜店の出ているお地蔵さんまでの道を歩いている時のなんと幸せだったことか。必ず買うのは、ハッカパイプと水風船、綿あめを妹と半分ずつ食べながら歩いていると、いつか夜店の端に着いてしまう。お面はそのあたりに売られていたような気がする。当時、欲しいと思った記憶はないのだが、セルロイドの匂いと白くて細いゴムの記憶はある。掲出句の、お面ら、には、慈しみと郷愁が入り交じる。祭りの翌日、ハッカパイプにお砂糖を入れてみても何の味もせず、ねだって買ってもらったお面は、ぼんやり笑いながら畳の上にころがっていたことだろう。『日月星辰』(2013)所収。(今井肖子)
夏衣新仲見世の午下り
北條 誠
このごろの夏の衣服は麻やジョーゼット(うすもの)をはじめ、新しく開発された繊維がいろいろと使われて、清涼感が増してきている。かつての絽、紗、明石、縮緬などは、いずれも軽くて涼しいものだ。「夏服」ではなく「夏衣」というから、ここでは和服であろう。いかにも浅草である。にぎやかな仲見世通りとちがって、そこに交差するむしろ幾分ひんやりとした通りである。昼下りののんびりとした新仲見世通りの静けさを、夏衣に下駄履きのお人が、軒をならべる店をひやかしながら歩いているのだ。お祭りどきの浅草は、路地にも人が入りこんでごった返してにぎやかだが、ふだんは静かで睡気を催したくなるような空気が流れている。新仲見世と言えば、老舗「やげん堀」本店の七味唐辛子。浅草へ行ったら、私は必ずここに立ち寄って好みの辛さを調合してもらうことにしている。また、お向かいの「河村屋」の玉ネギのたまり漬けなどは珍しくて、おいしさもこたえられない。浅草でひとりちびりちびりやる昼酒……おっと、横道へ入りこんでしまいそう……。誠の句に「永代の橋の長さや夏祭」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
ちちろ鳴く壁に水位の黴の華
神蔵 器
昭和57年9月12日。台風18号の影響で、都内中野区の神田川が氾濫。作者は、この時の実景を15句の連作にしています。「秋出水螺旋階段のぼりゆく」「秋出水渦の芯より膝をぬき」都市にいて、水害に遭う恐怖は、底知れなさにあるでしょう。膝をぬくことで、一命をとりとめた安堵もあります。「鷺となる秋の出水に脛吹かれ」水中に立つ自身を鷺にたとえています。窮地を脱して少し余裕も。「炊出しのむすびの白し鳥渡る」何はともあれ、白いおむすびを食べて人心地がつきます。「しづくせる書を抱き秋の風跨(また)ぐ」家の中も浸水していて、まずは水に浸かった愛蔵書を救出。「出水引くレモンの色の秋夕日」レモンの色とは、希望の色だろうか。オレンジ色よりも始まりそうな色彩です。「畳なきくらしの十日萩の咲く」「罹災証明祭の中を来て受けぬ」。掲句は、この句の前に配置されています。「ちちろ」はコオロギのこと。「壁に水位の黴の華」というところに、俳人の意地をみます。凡人なら、「黴の跡」とするでしょう。しかし、作者は「華」として、あくまでも水害の痕跡を風雅に見立てます。水害を題材にして俳句を作るということは、体験から俳句を選び抜くことでもあるのでしょう。そこには自ずと季語も含まれていて、作者自身も季節の中の点景として、余裕をもって描かれています。『能ケ谷』(1984)所収。(小笠原高志)
人待ちの顔を実梅へ移しけり
中田みなみ
最近は駅などで待ち合わせをしている人はほとんどややうつむき加減で手元を見ているので、人待ち顔で佇んでいる姿を見ることは少ない。人待ちの顔、とは本来、待ち人を探すともなく探しながら視線が定まらないものだが、掲出句はそんな視線が梅の木に向けられた、と言って終わっている。葉陰に静かにふくらんでくる青梅は目立たないがひとつ見つけると、あ、という小さな感動があり、次々に見えてきてついつい探してしまう、などという言わなくても分かることは言う必要がないのだ。移しけり、がまこと巧みである。他に〈爪先に草の触れゆく浴衣かな〉〈紙の音たてて翳りし祭花〉。『桜鯛』(2015)所収。(今井肖子)
梅雨空に屋根職(やねしき)小さき浅草寺
玉川一郎
鬱陶しい梅雨空がひろがっている。参道から見上げると、浅草寺本堂の大きな屋根を修繕している職人の姿が、寺の大きさにくらべ小さく頼りないものとして眺められる。梅雨曇りの空だから、見上げるほうも気が気ではない。はっきりしない梅雨空に、屋根職の姿と寺の大きさが際立っていて、目が離せないのであろう。「屋根職」は屋根葺きをする職人のこと。先日のテレビで、せっかく浅草寺を訪れた外人観光客たちが、テントで覆われた雷門にがっかりしている様子が紹介されていた。気の毒であったけれどやむをえない。そう言えば何年か前、私が浅草寺を訪れたとき、本堂改修のためあの大きな本堂がすっぽり覆われていて、がっかりしたことがあった。ミラノの有名なドゥオーモ(大聖堂)を初めて訪れたときも、建物がすっぽり覆われていたことがあって「嗚呼!」と嘆いた。しかもそのとき、無情にも2月の雪が降りしきっていた。そんなアンラッキーなこともある。一郎には他に「杉高くまつりばやしに暮れ残る」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
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