https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/66_yuimakyo/index.html【名著66 「維摩経」】より
聖徳太子によって日本で初めて解説された仏典の一つ「維摩経」。興福寺にある「維摩居士」の坐像は、今も多くの人たちに親しまれています。かの文豪・武者小路実篤も「維摩経を読んで偉大な知己に逢ったような気がした」と述べるなど、日本人に親しまれてきた経典です。しかし、現代人には、意外にその内容は知られていません。「100分de名著」では、この「維摩経」から一宗教書にはとどまらない普遍的なテーマを読み解き、私たちにも通じるメッセージを引き出していきます。
「維摩経」が成立したのは西暦紀元前後の頃。インドでは部派仏教と呼ばれる教団が栄え、出家者を中心にした厳しい修行や哲学的な思索が中心になっていた時代でした。仏教が庶民の暮らしから少し遠い存在になる中、リベラルな在家仏教者たちが一大仏教変革ムーブメントを巻き起こしました。自分自身の救いよりも、広く人々を救済しようという「大乗仏教」の運動です。「維摩経」はこうした流れの中で生まれた経典なのです。
主人公は釈迦でも仏弟子でもありません。毘耶離という都市に住む一市民、維摩居士です。この維摩がある時病気になりました。釈迦が弟子たちに見舞いに行くようにすすめますが、誰一人としてそれにこたえるものはいません。かつて維摩の鋭い舌鋒でことごとく論破された経験から、みんな腰がひけているのです。唯一人、見舞いに行くことを引き受けた文殊菩薩が維摩の元を訪れ、前代未聞の対論が始まります。その対論からは、「縁起」「空」「利他」といった大乗仏教ならではの概念が、単なる観念の遊戯ではなく、日々の暮らしの中の「実践」の問題として浮かびあがってきます。
「理想の生き方は、世俗社会で生きながらもそれに執着しないこと」「すべては関係性によって成立しており、実体はない」「だからこそ自らの修行の完成ばかりを目指さず、社会性や他者性を重視せよ」。維摩の主張には、既存仏教の枠組みさえ解体しかねない破壊力があります。それどころか、現代人の私たちがつい陥りがちな「役に立つ・役に立たない」「損・得」「敵・味方」「仕事・遊び」「公的・私的」のように、全てを二項対立で考えてしまう思考法をことごとく粉砕します。その結果、全てを引き受け苦悩の世の中を生き抜く覚悟へと私たちを導いてくれるのです。宗教学者の釈徹宗さんは、「維摩経」の最大の魅力は、「全編にわたって、いったん構築したものを解体し、また再構築する、そんなめくるめくドライブ感」だといいます。そして、その手順を踏めば、どんな時、どんな場所でも、生き抜いていける力をもらうことができるというのです。
排外主義が横行し分断されつつある社会、世界各地で頻発するテロ、拡大し続ける格差……なすすべもない苦悩に直面せざるを得ない現代、「維摩経」を現代的な視点から読み解きながら、「こだわりや執着を手放した真に自由な生き方」「矛盾を矛盾のまま引き受けるしなやかさ」「自分の都合に左右されない他者や社会との関わり方」などを学んでいきます。
第1回 仏教思想の一大転換
【指南役】
釈徹宗(如来寺住職・相愛大学教授)
…著書「なりきる すてる ととのえる」「お世話され上手」で知られる宗教学者・僧侶
【朗読】
哲夫(お笑いコンビ「笑い飯」)
出家者を中心に形骸化・硬直化が進んでいた紀元前後のインド仏教界。そこに風穴を開けようと、リベラルな在家仏教者が起こしたのが「大乗仏教」のムーブメントだ。「維摩経」の主人公・維摩居士は、それを体現するような人物。都市に住む一市民で、俗世間の汚れの中にありながらも決してその汚れにそまらない。そんな徳の高い維摩があるとき病気になる。その病気は、実は人々を導くための方便だというのだ。そこには、自分より他人を先とし、この世に苦しむ人が一人でもいる間はその汚れた世界にとどまり続け、自分だけが悟りの境地を目指さないという菩薩の生き方が象徴的に示されている。第一回は、「維摩経」が成立した背景や維摩の人物像を紹介しながら、既存の仏教体系を大きく揺るがした大乗仏教の基本構造を学んでいく。
第2回 「得意分野」こそ疑え
【朗読】
病気になった維摩を見舞うようにすすめる釈迦だが、誰一人それにこたえる弟子はいない。それもそのはず、維摩は、かつて釈迦の十大弟子全員をその鋭い舌鋒でことごとく論破していたのである。その論点を一つ一つ紐解いていくと、大乗仏教に解かれた重要な教えの数々が明らかになる。浮かび上がってくるのは、「自己分析」と「他者観察」という大乗仏教ならではの二つの手立て。この二つをしっかりやりきり、点検を続けていけば、人は決して独りよがりな偏りには陥らないのだ。第二回は、維摩と釈迦十大弟子や菩薩たちとの議論を通して、「得意分野」にこそ自分の弱点が潜んでいることや、自分との向き合い方の極意を学んでいく。
◯『維摩経』 ゲスト講師 釈 徹宗
古い「自分」を解体し、新たな「自分」を構築する
『維摩経』と聞いても、よほど仏教に興味をもっている方を除けば、ピンとこないのではないでしょうか。早い時期に日本に伝わり、その後の日本仏教に多大な影響を与えた経典として、仏教界では重要なものととらえられています。しかし、その後の主流の仏教宗派の根本経典にならなかったこともあってでしょうか、一般の方たちにとっては意外に馴染みが薄いようです。ところが、実際に読んでみるとわかりますが、これほど面白い経典はなかなかありません。
十年ほど前に『維摩経』についての解説書を書かせていただく機会があり、全編の“超訳”に取り組んだことがあるのですが、訳しながらこのお経の面白さにどんどん引き込まれていきました。なぜなら、他の多くの経典は釈迦が教えを説き、それを弟子たちや菩薩たちが聴聞するスタイルで書かれているのに対して、『維摩経』は「維摩」という在家仏教信者のおじいさんが教えを説くというユニークなお経だからです。
在家者が仏教を説くという形態も特徴的ですが、このおじいさんのキャラクターがとにかく強烈でした。彼は、お経の中で、それまでの仏教のスタンダードな教義や考え方を根底からことごとくひっくり返していくのです。在家者にとっては尊敬の対象であるはずの釈迦の弟子たちや菩薩たちと維摩が真正面から対峙し、「あなたの言っていること、やっていることは本当に正しいのか」と問い、次から次へとやりこめていくストーリーは、まるで痛快活劇を見ているかのようです。「なんて嫌味なじいさんなのだろう」「このじいさんはいったい何者なのだ」と、心の中でほくそ笑みながら読んでいくうちに、私は全編をあっという間に訳し終えていました。
そんなふうに言うと、『維摩経』は、面白いだけで仏教の本筋から外れた経典であるようにも思われそうですが、そうではありません。よくよく読み込んでいくと、維摩は決して間違ったことを言っているわけではなく、誰よりも仏教というものの本筋をきちんと理解したうえで、出家者たちをかきまわしているのがわかってきます。そのかきまわし方が、また巧妙です。いったん投げ飛ばしたと思ったら、いきなりもとの場所(仏教の基本)に引き戻したり、また遠くに再び投げ飛ばしたり……、一度構築されたものを解体し、また再構築していく作業を延々と繰り返しているとでもいったらいいのでしょうか。読者はいつのまにか維摩の術中にはまり、ぐるぐると行ったり来たりを繰り返しながら螺旋状の階段をのぼらされて、ふと気づくと仏教についての理解が深まっているという、なんともよく考えられた構成になっているのです。
今回、数ある大乗仏教経典の中から名著として『維摩経』を取り上げようと考えたのも、私がそのときに味わったドライブ感や面白さを、みなさんにもぜひ体験していただきたいと思ったからです。また、このお経には、成熟した時代に悩みを抱えながら生きている人にとっての「苦悩の世界を生き抜くヒント」が示されていると感じたのも、『維摩経』に注目してもらいたいと思った理由です。
仏教経典というと「俗な暮らしを捨ててストイックに生きろ」とか「成仏した先にはこんな素晴らしい世界が待っている」といったことが書かれていると思われがちですが、『維摩経』にはそのようなことはほとんど書かれていません。大乗仏教の教えをベースに話が展開されているという点では他の大乗経典と変わりませんが、じつはこの経典には、それまで当たり前だと思っていたものを一度解体して、新たな価値観や視点を作り出すための手順、プロセスが示されているのです。
現代を生きる私たちは、これまで自分が積み上げてきたものや自分が作りあげた物語に固執し、「自分は常にこうあらねばならない」と思い込んで、逆に人生を生きづらくしてしまってはいないでしょうか。しかし、じつは「自分というもの」を小さくしていけば、もっと楽に生きられるのです。アナーキーで破壊力に満ちた『維摩経』を読むと、今までの自分が壊されていくような感覚を味わうことになります。そしてその先には、今まで気づかなかった扉が見えてきます。その扉を開けた先には、いったいどんな風景が広がっているのか── それでは、維摩じいさんの運転するジェットコースターに一緒に乗り込んで、その風景とやらを見に行くことにしましょう。ゴールまで振り落とされないよう、しっかり安全バーにつかまっていてくださいね。
第3回 縁起の実践・空の実践
唯一人、維摩のお見舞いを引き受けた、随一の智慧をもつ文殊菩薩。見舞い先の邸宅で、いよいよ維摩と文殊菩薩との本格的な対論が始まる。そこから浮かび上がるのは、「すべては関係性によって成立しており、実体はない」という空の思想。「だからこそ自らの修行の完成ばかりを目指さず、社会や他者と関わっていけ」という縁起の思想。第三回は、維摩がもたらす予想外の答えや不思議な出来事から、単なる観念の遊戯ではなく、生きるための智慧として示された大乗仏教の精髄を学ぶ。
第4回 あらゆる枠組みを超えよ!
維摩は、数多くの菩薩たちに向けてこういう。「菩薩はどのようにして『不二の法門』に入るのか?」。「不二の法門」とは、相反するものが即一になる世界のこと。菩薩たちはその答えとして、「善と悪」「悟りと迷い」「身体と精神」「自分と他者」「光と闇」といったあらゆる二項対立の概念を語りながら、その構造が解体された世界こそ不二の法門であると述べる。同じ質問を問い返された維摩はどう答えたか? なんと、黙ったまま一言も発しないのだ。「維摩の一黙、雷の如し」と呼ばれたこの沈黙が意味するものとは? 第四回は、既存の枠組みにとらわれず、解体、再構築を繰り返しながら、融通無碍に生き抜く自由なあり方を維摩から学ぶ。
こぼれ話。
すぐそばにある「原理主義」、その上手な脱け出し方
「原理主義」というと、「イスラム原理主義」「キリスト教原理主義」といった、ニュースでしかお目にかからないような主義・思考と思いがちですが、実は、人間誰でもが陥りがちな思考であることを教えてもらったのが、今回の講師、釈徹宗さんの「なりきる すてる ととのえる」という維摩経を解説した本でした。そこにはこんな例が紹介されています。ちょっと引用させていただきます。
「あなたが毎日曜日に『街をきれいにしよう』と、ゴミ拾いのボランティアを始めたとしましょう。代償を求めて始めたわけでも、誰に褒められようとして始めたわけでもない。純粋に"自分が気持ちいいから”という思いから始めました。立派です。あなたは誰にも知られず、その活動を続けたとしましょう。(中略)でも、一歩間違えれば、あなたは無神経にゴミを捨てる人を許せない人間になってしまいます。そういう人を心から軽蔑し、ゴミを捨てている行為に対してはげしい怒りを感じるかもしれません。もしそうなれば、あなたは『街をきれいにする人』と『街を汚す人』との二項対立で組み立てられた人格になってしまうんですよ。ここがワナなんですね」
(釈徹宗「なりきる すてる ととのえる」より)
ほら、こう考えると、思いあたるでしょ? これが組織レベルになると、もっとたちが悪い。毎日曜日に嬉々として集まっていたボランティア・ゴミ拾いグループ。ところが半年もすると少々惰性になり、欠席をする人も目立ってくる。そして、毎回出席しているメンバーがこんなことをいい始める。「なんだよ、あいつらサボってばかりで! 絶対に許せない。今度きたら糾弾してやる!」 もう、こうなってしまうと内ゲバです。
最初は理想に燃えていた集団が、正義を純粋に追及してしまうあまり、世界を「敵か味方か」の二色だけに塗り分けて、敵を糾弾、殲滅しようとし始める。「原理主義」なんて自分たちには関係ないと思っていたら大間違い。SNSでのつぶやきをちょっとのぞいてみるだけでも、すべてを「愛国者か反日か」「右翼か左翼か」等の二色に塗り分けないと気がすまないといった発言のいかに多いことか。それだけではありません。趣味のサークルだって、ママ友の間だって、サラリーマン組織の中だって、程度の差はあってもこうした二項対立のワナにはまってしまっている例は、ちょっと見回すだけで、枚挙にいとまがありません。人間は、ほおっておくと、どうしても、こうした偏りをもってしまう性向があるようです。
こうした二項対立のワナ、原理主義のワナに陥られないためには、どうしたらいいのか? そのヒントが「維摩経」にはちりばめられている・・・といった直観が、今回、この名著を取り上げるきっかけとなりました。そして、釈さんは、現代社会に「維摩経」を活かす読み解きを見事に果たしてくださいました。
「いったん構築されたものを解体し、また再構築するという手順を繰り返す」。「維摩経」が説く、原理主義に陥らない方法を一言でいうとこうなるでしょうか? そうはいってもなかなか難しいですよね。釈さんは、「空の実践」「縁起の実践」というキーワードで、私たちが、この成熟社会にあって、どう生きていったらよいかというヒントをいろいろ教えてくれました。番組でも少しだけ触れましたが、取材の際にうかがったお話も合わせて少し敷衍してみましょう。
現代社会では、「他者に迷惑をかけない限り何をやってもかまわない」という倫理を構築してきました。こうした自己決定社会では、人々は老いてくると、どうしても孤立しがちです。だからこそ、意識的にコミュニティへ首を突っ込んで暮らしていくよう心がける。これを釈さんは「縁起の実践」と呼びます。「あらゆる存在や現象は、関係性で成り立っている」という縁起の思想を、「関わる態度」として拡大解釈して、関係性のニューロンを常に延ばしていくことを釈さんは勧めるのです。
しかし、一度関わったコミュニティにしがみつくのもよくない。そうなると、人はたやすく原理主義のワナにはまってしまう。ここで、一度結んだ関係性をたやすく手放せる「こだわりのなさ」が大事になってきます。縁があればつながり、縁がなければ離れる。これが「空の実践」です。この両輪を回してくことが、高齢化社会、成熟社会にあって、「こだわりや執着を手放した真に自由な生き方」「自分の都合に左右されない他者や社会との関わり方」を実践する上で重要だなあということを、釈さんの解説を聞きながら、しみじみ思いました。
こうした理想的なあり方を、釈さんは、「お世話され上手」と呼びます。「お世話上手」はよく聞くけど、「お世話され上手」とはこれ、いかに? 逆説的なのですが、釈さんによれば、本当に自由で自立している状態というのは、「多様に依存している状態のこと」なのだそうです。生まれながらに四肢が不自由な知人の方が、かつてこんなことをおっしゃったそうです。「自分は生まれながらに四肢が不自由なので、他者に迷惑をかけねば生きていけない。だから、いかに上手に迷惑をかけるかが生きるすべなのだ」と。これは、程度の差はあれ、すべての人にいえることではないでしょうか? どんな人だって、弱いところや人に頼らざるを得ない部分ってもちあわせているわけですから。
しかし、現代人は迷惑をかけるのも、かけられるのも苦手になってしまっています。かつては濃密な地域共同体が曲がりなりにも機能していて、こうした互助関係は日常茶飯事。迷惑をかけたりかけられたりする心身が鍛えられていました。でも現代社会は、こうしたしがらみから逃れたい・・・というベクトルで動いてきました。特に、都市に住む人たちはそうですね。とはいえ、老いや病によって、わが身を他者にゆだねなければならない日が必ずやってきます。では、どうすればよいのか?
釈さんが勧めるのは「コミュニティへの重所属」。単一のコミュニティへの所属だけだと、どうしてもそこにしがみついてしまったり、関係性が息苦しくなってしまいます。そこで、いろいろなところに顔を出す暮らしを心がけるのです。どこから外れても孤独にならない、縁があれば関わり、縁がなければ離れるという緩やかなつながりを保つ。そうしていくことで、都市にいながらにして、誰かにたよったり、たよられたりする心身を育て、「お世話され上手」を目指していく。実際に、釈さんは、「練心庵」という寺子屋を運営しながら、都市の中での「コミュニティの重所属」の場づくりに取り組んでいます。
でもね、結構こういうことって、男性たちの方が苦手なんですよね。介護施設でよく聞くのが、現役時代ばりばり活躍していた男の人に限って、体を他者に預けるのが下手くそで、かえって介助がやりにくいという話。「誰にも面倒みられたくないバリア」をはりがちなんですよね、そういう人って。なんだか自分もそうなりそうで心配です(笑)。「維摩経」をしっかり読み込んで、私も今から「お世話され上手」を目指していきたいと思います。
世を見回すと、正義を振りかざして他者を支配しようとしたり、ひとつの主義主張を何の疑いもなく信じ込んで少しでも異質な主張があれば徹底して排除する風潮がはびこったりと、どうもプチ原理主義のようなものがいたるところに根をはって息苦しい限りです。「維摩経」は、そうした人間の性向をきちんと照らし出し、そこから脱け出す手立てをきちん指し示してくれる、まさに今、読まれるべき名著だと、あらためて思いました。
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