是の身は芭蕉(ばしょう)の如し、中に堅有ること無し

http://biwa-kame.seesaa.net/article/302908297.html 【この身はバショウのごとし】より

またまた空-くう-の話。『維摩経』(ゆいまきょう)というお経の中には、維摩という主人公が病気のふりをして「是の身は芭蕉(ばしょう)の如し、中に堅有ること無し。」と言う場面があります。バショウという植物は、バナナに似た植物で、その茎は葉が堅く重なり合っているだけで、むいていけば中身は空っぽ。しかもすぐに折れる。人間のカラダはバショウのように、芯があると見えるが、実は何もない、実体性のない存在である。無我で、無常で、空なるものであると、そういう譬えです。

大きな葉が風にゆれる様や、鮮やかな緑の葉に光が透過して、のんびりした南国を想わせます。庭にこの木があったなら、夏はデッキチェアにビールといきたいところです。が、経典では、無常であり、空、あるいは苦の例とされます。実体があるかのように見えて実は、中身の無い、頼りない、瞬間的なもの、うつろうものであること、すなわち空を表します.

写真は建仁寺。なぜ、お寺に芭蕉?と思いましたが、空に譬えられると知って納得。


http://biwa-kame.seesaa.net/article/303490648.html【浄土を見たければ・・・】より

死んだ後、地獄はやだ!浄土に行きたい!と考えた、お金持ちな権力者、平安時代の藤原頼道。彼は作ってしまいました。なんと宇治に、光輝く平等院。そう、十円硬貨の表に画かれるあの、平等院鳳凰堂。浄土とはきっとこんなとこだ、と想像して作られた庭は浄土式庭園といわれます。翼を広げた鳳凰のような阿弥陀堂が、池の水面に映る様子は、極楽浄土をあらわしているそうです。

でもね、浄土って、誰でもどんな人でも受け入れてくれるのが、阿弥陀の浄土といわれます。

貴族である頼道さんが、自分の為に作ったこの空間。もちろん、一般人は当時、入ることも見ることもできなかったことでしょう。この場所で、本尊の阿弥陀様と五色の糸でつながって亡くなったとか。壮麗な寺院を造った自分は浄土に行けるはずだ!とか、考えていたのでしょうか。浄土の意味を勘違いしてたのでは?とも思うけど、そこは、どんな人も受け入れてくれる浄土です。考え違いをしていても、受け入れてくれるのでしょうか、阿弥陀の浄土。

https://okwave.jp/qa/q8172005.html 【時間と空間の、無限の空虚さを表現した俳句か短歌】より

諸行無常の概念……世界の無限の空虚さ、人間の心の空虚さ、時間の空虚さを表現しているような、俳句or短歌を 探しています。

当方俳句には疎いのですが、最近興味があり、恋愛系ではないスケールの大きなうたを探しています。

なお、うたの中に、「無常」「無我」「空」などの言葉を直接は用いずに、それを表現しているものを探しています。よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

芭蕉より二句ほど。

「荒海や佐渡によこたふ天河」

7月4日の夕刻、柏崎に着いて眺めた佐渡島のいかに大きく長かったことか。海原に横たえているその島影を見つめていると順徳天皇の、また日蓮上人も眺めた、その歴史の重みに思い巡らさざるを得ない。やがて雀色時に至るや蒼天には無尽の星屑が瞬き、とりわけ銀河は悠久の流れを湛えている。洋ノ原(わたのはら)に横たう佐渡島は歴史の流れを語り、天ノ原(あまのはら)に横たう銀河は自然の悠久を湛えている。夜半に降り出した雨音が波音と混じるのを耳にしていると、乾坤すらも暗冥の内に渾然と溶け込むに及んで、今やとうとう「佐渡<に>よこたふ」銀河であるかのような、時空融和の不思議な心象風景が露わになってしまったのかも知れません。

「此秋は何で年よる雲に鳥」

臨終の二週間足らず前に詠まれた一句。芭蕉自身が、下五の「雲に鳥」に至るまでは「腸を裂くほどの苦心をした」と伝えられているもの。古来「浮雲」は山辺に帰り、「倦鳥」は林に帰る(白居易)とか、「心ない雲は山間より出で、飛ぶに倦んだ鳥は還るを知る」(陶淵明)とも謳われているようだが、芭蕉の断腸の思いとは果たして「人生往く所を知らず」なのでしょうか。





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