http://kankodori.net/japaneseculture/treasure/063/index.html 【石山寺本堂、石山寺多宝塔】より
滋賀県南西部、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である瀬田川のたもと。珪灰石が露出した、珍しい地質を持つ伽藍山に建つ事からその名が付いた石山寺は、奈良時代に起源を持つ東寺真言宗の仏教寺院である。古くより一大観音霊場として栄え、数多くの人々の信仰を集めて来た石山寺は、歴史を通じて戦火を被るような被害を受けなかった為、その境内には今もなお、数多くの古建築や寺宝が残されている。そのうち建造物に限れば、平安時代に建てられ、後に豊臣秀吉の側室であり豊臣秀頼の母である淀殿(よどどの)の寄進を受けて増築がなされた本堂、および鎌倉時代前期に立てられた現存最古の多宝塔の二棟が、国宝に指定されている。
束柱を立てて斜面に建つ、懸造の石山寺本堂
寺伝によると、石山寺は天平19年(747年)、聖武天皇の発願により、東大寺の開山である良弁(ろうべん)僧正が開いたとされる。天平宝字5年(761年)には伽藍の整備が行われ、本堂を始めとする各種の堂宇が建てられた。平安時代には醍醐寺の影響を受けて密教化が進み、また貴族の女性の間で石山詣が流行した。清少納言(せいしょうなごん)による「枕草子」、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)による「蜻蛉日記」、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)による「更級日記」、和泉式部(いずみしきぶ)による「和泉式部日記」など、数多くの平安文学に石山寺の名は登場している。また、石山寺越しに見る秋の月は、近江八景の一つ「石山秋月」として名高い。
本堂は複雑な形状である為、見る角度によって姿が変わり、全体像がつかみにくい
現在見られる石山寺の本堂は、斜面の上に長い束柱を立てた懸造(かけづくり)となっているが、しかしその懸造の部分にあたる礼堂(らいどう)は、後世に増築されたものであり、元々は仏像を安置している正堂(しょうどう)部分のみの建築であった。平安後期の承暦2年(1078年)、当時の本堂が焼失したのを受け、永長元年(1096年)に本堂が再建され(この時の本堂が現在の正堂部分である)、その後、安土桃山時代から江戸時代に移り変わる慶長7年(1602年)に、淀殿の寄進によって礼堂部分の増築がなされ、今に見られる姿になったのだ。その規模は、正堂が桁行七間に梁間四間、礼堂は桁行九間に梁間四間。本堂と礼堂を繋ぐ相の間は桁行一間に梁間七間となっている。
平安時代に造られた部分である本堂正堂を背後から
本堂の屋根は、正堂、礼堂共に檜皮葺きの寄棟造。それらの棟と直交して相の間の棟が通り、礼堂の棟の上を越えて本堂正面に破風を作っている。屋根がこのように複雑な構造になっているのは、正堂より礼堂が低く作られている為である。礼堂の周囲には縁が巡らされているが、この縁周りのみ角柱が用いられており、礼堂内部や正堂には三斗の組物を持つ丸柱が用いられている。正堂の中央に据えられている巨大な厨子の中には、秘仏の本尊である平安時代作の如意輪観音半跏像(重要文化財)が祀られている。また、相の間の右端には、紫式部の間という小部屋が設けられている。これは紫式部が石山寺に篭り、源氏物語の発想を得たという逸話に基いたものだ。
最も美しい多宝塔と名高い、石山寺多宝塔
伽藍の中央に見られる荒々しい珪灰石の後方高台には、鎌倉前期に建てられた多宝塔がそびえている。多宝塔とは下層が方形、上層が円形の二重塔で、大日如来を祀る日本独自の塔だ。元は高野山の金剛峰寺に建立され、その後に各地の密教寺院に広まったとされる。石山寺の多宝塔は、源頼朝の寄進を受けて建立されたものと伝わっており、須弥壇の墨書より建久5年(1194年)に建立された事が分かっている。これは現存する多宝塔の中で最古である。総高は約17メートル。下層には幅の広い裳階が付き、組物は出組である。漆喰塗りの亀腹から突き出た上層は、軒が非常に深く四手先の組物も見事。バランスが良く、非常に美しいシルエットを作り出している。
極めて複雑な多宝塔の組物
多宝塔の内部に置かれた須弥壇には、運慶(うんけい)と共に鎌倉時代を代表する仏師である快慶(かいけい)によって彫られた、大日如来坐像(重要文化財)が安置されている。檜の寄木造で、多宝塔の建立と同じ時期に作られたものと考えられている。四天柱や天井、長押などには宝相華などの壁画が描かれているが、現在は剥落が非常に激しい。しかしながら、平安時代から鎌倉時代に至る過渡期の仏画として価値が高く、重要文化財に指定されている。多宝塔と同じく鎌倉時代の遺構として、末広がりの漆喰塗り袴腰を持つ鐘楼がある。他にも、室町中期に建てられた御影堂、本堂が増築されたのと同時期の東大門、蓮如堂および三十八所権現社本殿、経蔵(いずれも重要文化財)など、数多くの古建築がその境内にひしめいている。
http://youyou.way-nifty.com/blog/2012/06/post-b065.html 【石山寺と紫式部】より
石山寺と言えば、やはり紫式部だろう。名月の夜、源氏物語を着想したと言われる源氏の間がある。本堂と隣り合った部屋だ。廊下の花頭窓から覗くと、御所人形の紫式部がいる。有職人形司、第10代伊東久重氏の作だ。誰が策したか、柵がなくなり、よく見える?。
右手に毛筆をもって~いずれのおんときにか女御…~と書き出したところだろうか。十二単衣は紫、所謂パープルが基調だ。J1目指す京都のサッカーチームはパープルサンガだ。関係あるや、なしや?。源氏の間、ロボットクリエーター、高橋氏制作の式部ロボットも同居だ。ボタンを押すと映像の中でそろりそろりと動く。源氏物語千年紀記念という。
国宝多宝塔の近くに芭蕉が源氏の間を詠んだ句碑がある。どんな句碑か悔いのないよう句を紹介しておく。~あけぼのは まだむらさきに ほととぎす~だ。芭蕉さん、目覚めが早すぎたようだ。多宝塔は他方からの観光客多くだ。中秋の名月観賞の高台から瀬田川が見える。ボート練習、どこのクルーが来るか、えっ、エイトだ。洒落反省して、再三案内板のあった紫式部像へ。あっ!後ろ姿だ。黒髪長く、式部さん、バックシャンシャン?。
https://www.pref.kyoto.jp/rinmu/14100034.html 【森の彩り 季節の話題 ムラサキシキブ】より
秋に紫色の実を群がるようつけるムラサキシキブ。
クマツヅラ科の落葉低木で、湿り気の多いところを好みます。
6月頃に淡い紫色の花を咲かせますが、私たちにとっては、晩秋まで残る美しい紫色の実の方が印象的です。
漢名はその姿から「紫珠」、学名はCallicarpa japonica(カリカルパ・ヤポニカ)日本に産する美しい果実という意味です。
ムラサキシキブという名前は、源氏物語の作者である紫式部に由来するものです。
江戸時代以前には「むらさきしきみ」などと呼ばれていたようですが、その美しさから紫式部と呼ばれるようになった木です。
ムラサキシキブの仲間には、コムラサキやヤブムラサキなどがあります。
コムラサキは、全体に少し小ぶりですが、実はみっちりとつき、また色も鮮やかなので、庭木や鉢植えにされたりします。
一般に私たちがムラサキシキブとして目にしているのは、このコムラサキの改良品種であることが多いようです。
ヤブムラサキは、葉がビロードような手触りで、実のまわりに毛がびっしりと生えた萼(がく)がついています。
ヤブムラサキは、最近の研究で葉に金を蓄積する性質があることがわかったので、金鉱脈を探す目印になるのではないかと期待されています。
山紫水明の地、京都を象徴する色である紫。
サッカーチームの京都パープルサンガのパープルは紫色、サンガは、サンスクリット語で仲間や群れを意味するのですが、京都の美しい山河(さんが)という意味も含んでいるそうです。
美しい色の実を群がるようにつけるムラサキシキブ、葉が黄色くなってからもしばらく実をつけており、そのコントラストにも趣きがあります。
京都の秋を彩ってくれる木の実のひとつです。
https://plaza.rakuten.co.jp/yakamochi35/diary/201509040000/ 【石山寺散策(続) (4)】より
(承前)
三十八社を回り込んですこし上ると校倉造りの経蔵があり、その脇に紫式部の供養塔と芭蕉の句碑が並んで居る。
紫式部と芭蕉。余り似合わない二人であるが、どちらも石山の地にはゆかりの深い人物であるから、まあ、このように並んでいてもいいのではある。一方が供養塔で他方が句碑とアンバランスなのはこの二人のミスマッチを象徴しているようでもある。
石山寺・芭蕉句碑
あけぼのは まだむらさきに ほととぎす
題詞には「勢田に泊りて暁石山寺に詣、かの源氏の間を見て」とあるから、紫式部の名を意識しつつ、枕草子の「春はあけぼの。・・紫だちたる雲の・・」をも踏まえた句である。まあ、小生の「ミスマッチ」というコメントに抗議してでもいるかのような句でありますな。
はつ秋の まだ昼下がり 石山に
鳥も鳴かねば 獺(かはうそ)もなし (偐家持)
今回の一連の記事の冒頭部分で記した「獺の祭見て来よ瀬田のおく」という句をも踏まえて偐家持も1首でありました。
芭蕉句の「瀬田の奥」は信楽川が瀬田川に流れ込む大津市大石地区付近(鹿跳橋の下流、佐久奈度公園付近)のこととされるから、石山寺からは5kmほど更に下流の山の中。二ホンカワウソが絶滅していなかった芭蕉さんの時代の元禄時代でも、石山寺の前の瀬田川辺りでは獺の祭は見られない光景であったのでしょう。
因みに獺祭(だっさい)の候は七十二候の一つで1月16日から20日までの5日間を指す。「獺の祭」とは、獺が捕った魚を川岸に並べる習性があり、これを先祖祀りに見立てて「祭」と呼んだもの。俳句の春の季語ともなっている。
鐘楼を経て、多宝塔へと向かう。(略)
https://www.shikibunosato.com/f/monogatari20 【紫式部 発想の源泉〈後〉】より
◆清少納言は無粋な女?
源氏の言葉にある「すさまじき例に言ひ置きけむ人」は清少納言を指すといわれています。
写本によってちがいがありますが、『枕草子』の「すさまじきもの」の段に「おうなのけさう しはすの月夜」とあるからです。
父親の元輔は冬の月を素晴らしいといっているのに、その娘は老女の化粧と同じで興ざめだなどという。「もののあはれ」がわかっていない人だと。
「御簾巻き上げさせたまふ」も『枕草子』を意識したと思われます。
清少納言は中宮定子に「香爐峯(こうろほう)の雪いかならん」と問われ、
意を察して御簾を巻き上げて差し上げたと、自慢げに書き記しているのです。
この一言で「心浅い人」がだれなのかを特定しているように思えませんか。
◆白氏文集の影響
当時さかんに移入されていた漢籍のなかで、とくに愛読されていたのが『白氏文集(はくしもんじゅう)』でした。言ってみれば平安時代の海外ベストセラー。
清少納言の自慢話も『白氏文集』にまつわる逸話です。
『源氏物語』は『白氏文集』からの引用も多く、最初の巻「桐壺」は『長恨歌(ちょうごんか)』に強く影響されていることが知られています。
『長恨歌』は唐の玄宗皇帝と楊貴妃の恋を扱った長編詩。
桐壺帝が身分の低い更衣に夢中になってしまうこと、政(まつりごと)がおろそかになることなど、いくつかの設定を借用しているといえるでしょう。
「桐壺」には『長恨歌』を描いた屏風絵を毎日のように見ていたとあり、『長恨歌』の言葉そのものも語られます。
朝夕の言種(ことぐさ)に羽をならべ枝をかはさむと契らせたまひしにかなはざりける命のほどぞ尽きせず恨めしき朝夕の口癖に 比翼(ひよく)の鳥となり連理(れんり)の枝となろうと約束なさっていたのに思いの通りにならなかった人の命がいつまでも恨めしかった
「比翼連理(ひよくれんり)」という四字熟語にもなっていますが、これは『長恨歌』の次の一節から採られています。
在天願作比翼鳥 天に在りては 願わくば比翼の鳥と作(な)り
在地願爲連理枝 地に在りては 願わくば連理の枝と為らんことを
玄宗と楊貴妃が七月七日に誓い合ったという言葉。
比翼の鳥は翼がつながった二羽の鳥、連理の枝は枝がつながった二本の木をあらわします。
今月の☆光る☆雑学
【白氏文集】
唐の詩人白居易(はくきょい)の詩文集『白氏文集』は平安朝の文学に大きな影響を与えました。
その後江戸時代に至るまでさまざまな文学作品に引用され、インスピレーションを与えています。ことに『長恨歌』や『琵琶行(びわこう)』は民衆にまで愛され、俳句や川柳にも出てくることがあります。
上記「比翼連理」はひと頃常套句のように使われていました。
現在でもまれに結婚披露宴のスピーチで使う人がいますが、はたして通じているのやら。
https://blog.goo.ne.jp/raishou0213/e/81dbe27f2f13943badf6803769a3de42 【比翼連理】より
男女の仲や夫婦仲が極めて睦まじいことを例えて使用する言葉に「比翼連理」があります。
この言葉は「比翼の鳥」と「連理の枝」を組み合わせた言葉です。
今日は「比翼連理」の由来について調べました。
比翼連理とは、中国の伝説上の鳥と木のことです。
比翼という鳥は雌雄それぞれ一目一翼のため、つねに並んで一体となって飛ぶといわれ、連理の木は2本の木でありながら、枝が連なって1本となり、木目(もくめ)も相通じているとされていることから、ともに男女の契りの深さに例えられます。
「比翼の鳥(ひよくのとり」
比翼の鳥は、一眼一翼(一説には、雄が左眼左翼で、雌が右眼右翼)の伝説上の鳥で、地上ではそれぞれに歩きますが、空を飛ぶ時はペアになって助け合わなければ飛べないと言われ、このことから、後の人は仲のいい夫婦を「比翼の鳥」に譬えるようになったと言われています。
・伝説上の比翼の鳥です。(ウィキペディアより)
「連理の枝」
一方、「連理の枝」は、中国・東晋王朝期(317-420年)に著された志怪小説集『捜神記』のある説話に由来します。
志怪小説とは、六朝時代(222年~589年)に書かれた奇怪な話で、「捜神記」は、4世紀に東晋の干宝(かんぽう)が著した志怪小説集です。
その中に著された説話です。
戦国時代、宋の国の大臣・韓凭(かんひょう)と夫人の何氏は仲睦まじい夫婦でした。
ところが、酒色に溺れ非道であった宋の国王・康王は、何氏の美貌が気に入り、韓凭を監禁してしまったのです。
何氏は密かに夫に次のように手紙を書きました。
「雨が降り続き、川の水かさが深くなっています。出かける時は気をつけてください」
ところが、この手紙は康王の手中に落ち、夫の元には届きませんでした。
実は、これは何氏の絶命詩で、「出かける時は気をつけてください」とは、自ら命を絶つ覚悟を表していたのです。
果たして、何氏は、康王に付き添って出かけた際に高台から飛び降りて自殺したのです。
一方、夫の韓凭も間もなく愛する妻のために命を絶ちました。
康王は激怒し、この二人を同じお墓には入れず、わざとすぐそばに別々に埋葬したのでした。
それは、お互いがすぐそばにいるにもかかわらず、いつまでも一緒になれない辛さを味わせるためでした。
ところが、なんと数日後には二つのお墓から木が生え、枝と葉が抱き合うように絡み合い、根も繋がって絡みついていたのです。
そして、その木の上ではつがいの鳥が何とも物悲しい声でさえずりあっていました。
これが「連理の枝」の由来と言われています。
・連理の木です。(ネットより)
「比翼連理の由来」
比翼連理の由来は白居易の長恨歌(ちょうごんか)です。
唐代の詩人白居易(白楽天)は唐の6代皇帝・玄宗と楊貴妃との悲恋を『長恨歌』に詠みました。
その中で、「天に在りては比翼の鳥となり、地に在りては連理の枝とならん」と詠っており、これが比翼連理の由来となっています。
参考までに長恨歌のあらすじです。
(参考)
「長恨歌あらすじ」
漢の王は長年美女を求めてきましたが満足しえず、ついに楊家の娘を手に入れました。
それ以来、王は彼女にのめりこんで政治を忘れたばかりでなく、その縁者を次々と高位に取り上げたのです。
その有様に反乱(安史の乱)が起き、王は宮殿を逃げ出すことになります。
しかし楊貴妃をよく思わない兵は動かず、とうとう王は兵をなだめるために楊貴妃殺害を許可する羽目になったのです。
反乱が治まると王は都に戻ったのですが、楊貴妃を懐かしく思い出すばかりでうつうつとして楽しめません。
そこで、道士が術を使って楊貴妃の魂を捜し求め、苦労の末、ようやく仙界にて、今は太真と名乗る彼女を見つけ出します。
太真は道士に、王との思い出の品とメッセージをことづけました。
それは「天にあっては比翼の鳥のように」「地にあっては連理の枝のように」で、この言葉はかつて永遠の愛を誓い合った思い出の言葉だったのです。
これが漢詩を意訳したあらすじです。
http://manabinome.com/archives/80 【『源氏物語』と漢文学】より
講師:佐竹保子氏(東北大学文学研究科教授 中国文学)
日時:2015年12月15日(火)18:00~19:30
場所:東北大学マルチメディア教育研究棟6階大ホール
在天願作比翼鳥、在地願為連理枝。
天上では二羽一体で飛ぶ比翼の鳥に、地上では二本の枝がくっついた連理の枝になろう。
8世紀 唐の玄宗皇帝とその愛人楊貴妃の悲劇的な恋物語を描いた「長恨歌」の一節である。ここから「比翼の鳥」「連理の枝」は夫婦の仲のむつまじいことの 例えとなり、男女の深い契りを意味するようになった。長恨歌は源氏物語をはじめ日本文学にも多大な影響を与えていると言われている。作者の白居易自身や長 恨歌の内容を知り、今以上に源氏物語を楽しみたかったので今回の講座に参加した。
講座は【紫式部と漢籍】【「源氏物語」桐壷巻と漢籍】 の二つに分かれて進められた。平安時代、公文書の読み書きは漢文でするのが普通だったので、男子は漢字で書かれた漢籍を学習したが、女性が読んでいると眉 を顰められる性質を持っていた。【紫式部と漢籍】では子どもの時から漢籍に親しんだ式部が、成長し周囲から陰口を言われるも、中宮彰子に見いだされ漢籍の 手ほどきをするまでを紫式部日記を引用して解説した。【「源氏物語」桐壷巻と漢籍】では源氏物語第一帖となる桐壷巻を読み進めながら、長恨歌、更に長恨歌 に影響を与えたといわれている「李夫人伝」の3作の比較をした。
桐壷巻は非常に大まかに説明すると「当時の最高権力者である帝が一人の 女性(=光源氏の母)を寵愛するも、周囲から嫉妬され、それを氣に病んだ女性が亡くなってしまう」という話だ。桐壷巻が長恨歌・李夫人伝と共通する記述は 「寵愛の深さ」や「(死による事で)帝の悲嘆」の部分になるが、決定的に異なる箇所がある。それは長恨歌・李夫人伝では描かれなかった女性側からの視点が 足されたことだ。氣位の高い女御からのいじめ、一人だけ愛されてしまった負い目、御付きの命婦が故人を偲ぶ姿など宮中で生きる女性の「愛されない悲しみ」 「愛される苦しみ」「女性同士を大切に思う氣持ち」が、源氏物語では紫式部の宮中での生活を反映して繊細に描かれている。
この講座が終 わった後、偶然にも友人達からたてつづけに連絡が来た。転職したが前の会社の待遇の方が良かったので戻りたい、大学を辞めて就職を考えている、出産し仕事 復帰に向けて保育園を探している、新婚で子どもを儲けたいが正規雇用では無いので今は難しい…など様々な話を聞いた。一人一人考え方も生き方も違うので、 私は自分の人生で選んだ事しか話せなかった。けれど、「愛されたい」という女性の願いは千年前と全く変わっていない氣がする。こういった相談をうまく受け 取れるようになりたいし、自分自身ももっと器用に生きたい。その為にも、更に女流文学の世界に浸りたいなと感じた。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9622635 【花鳥恋詩】より
お花畑で詩作を試みるホトトギスちゃんの短い短い一場面。
その日のブロッサムヒルは、見事なまでに晴れ渡っていた。
刺すような日差しとまでは行かなくとも、人々が空を見て「今日は随分と気候が良いなあ」と口々に交わすほど、太陽の機嫌が良い。こんな日には、人々もついふらりと外に出てその身一杯に日差しを浴びたくなるものである。
そして、市街から少し離れた花畑では、一人の花騎士、ホトトギスが空を見上げていた。
面隠しを兼ねたつばの広い帽子で影を落とした顔に、うっすらと汗を浮かべながら、こぼすため息はどこか艷やか。手に持ったメモ帳と筆記具は、彼女が詩作のアイデア出しに用いているものだが、今日の分のページは白紙のままになっている。
美しい花があり、透き通った空があり、時折吹く風の音はそれだけで音色になる。
人によってはいくらでも詩を乱作できそうな光景に満ちた花畑の中にあって、彼女は何かを書き残すこともなく、ひたすらにひそやかな呟きを繰り返していた。
――花開く。開く……。想い、咲く……。
もともと小さな声は、今や草花の揺れる音にすらかき消されるほどに細い。とはいえ、彼女自身、自らの言葉を誰かに聞かせようとはしていない。詩として詠んだ時の響きを確かめるために、自分にだけ聞こえていれば良い。そんな声だった。
――空高く。空、青、光……。
言の葉を手ですくっては宙を舞わせるような、静かな思案。
時の流れすら緩やかに感じられる静かな時は、しかし、唐突に花畑へと飛び込んできた音に遮られた。
「……ひゃっ」
ばさり、と音を立てて、ホトトギスからわずか数歩先へと降り立ったのは、一羽の鳥だった。茶色の翼を持つその鳥からわずかに遅れて、もう一羽が、やはり似たような羽音を立てながら花畑へと足を下ろす。
――鳥。
ホトトギスに見られていることなどお構いなしに、やってきた二羽の鳥は、花畑で戯れはじめる。何を目的としているのかは分からない。ただ、ホトトギスはその光景から目を離すことができなかった。
くちばしで花をつつき、互いの背を追いかけ、翼に顔を埋め。仲睦まじく、見ているものを和ませる振る舞い。やがて、陽光と花の香りをその身に十分蓄えてから、鳥たちは来た時と同じく、唐突に飛び立った。
巣に帰るのか、まだどこかへと遊びに行くのか。どちらにせよ、青空を飛び去る二羽は、まるで手を繋いでいるかのようだった。
――比翼、連理。
鳥たちの消えた彼方を見つめたまま、ホトトギスはつぶやいた。
昔、読んだ本に書いてあった。互いに片翼しか持たない鳥で、二羽が並んでいないと飛ぶことも叶わない、不思議な鳥。そして、その姿は、仲睦まじい男女にもたとえられていた。対になる連理の枝とともに。
今になるまで忘れていたわけではないが、それでもやはり、実際に似たようなものを見ると、言葉に景色が重なり、新たなものが生まれる。
比翼の鳥、連理の枝、と繰り返して、ホトトギスは手元のメモ帳へと目を落とす。
ずっと上を見ていたせいでずれていた帽子が、今度は逆方向へとずり落ちる。それを手で直し、ペンの先を紙へと乗せる。
並び、共に。
その美しさを、その喜びを、言葉に。
ひとつ、ふたつ、みっつ、と、鳥によってもたらされた言の葉が、次々に、胸の内へと浮かび上がる。何を取れば、この気持ちを余すことなく詩にできるだろうか。この、甘い、夢のようなあこがれを。
「……ふふっ」
自分でも気付かぬ内に、ホトトギスは笑みをこぼしていた。詩作は楽しいが、笑みまで浮かんでしまうのは、それがもっと幸福な想像につながってしまったからかもしれない。
そして、その気持ちに浸るあまり、後ろから近づいてきていた足音にすら、気付いていなかった。
――ホトトギス。
名を呼ばれ、それでも気付かず、夢想に浸るホトトギスの視線は宙をさまよう。
「……ホトトギス?」
「えっ……あ、だ、団長様!」
確かめるように呼ばれて、ようやくホトトギスは、すぐそばまで来ていた団長へと振り向いた。
心の内に向いていた視線が目の前にいる想い人へと半ば無理やり引き戻され、にわかに忙しなくなった感情が、内気な少女をあわあわと戸惑わせる。
それに加え、「ホトトギスが外にいるなんて珍しい」という思いを隠そうともしない団長の視線が、すでに紅潮していた顔を耳まで赤く染めてしまう。
だが、ホトトギスは緊張と羞恥をまとめて飲み込むと、帽子をおさえながら立ち上がった。
メモ帳と筆記具を握りしめ、口を開けては閉じ、「だんっ」という裏返った声は一度飲み込み、緊張で渇いた喉からどうにか、言いたかった言葉を絞り出す。
「団長様をっ……お迎え、に……」
花畑での詩作は、外に出てきた理由の一部でしかなかった。
この一帯の害虫に対する備えについて話し合うために団長が出向いているということは、ナズナから聞いていた。他の花騎士を伴わず、一人で来ているということも。
それを「良い機会だ」と思ってしまった自分を少しだけ卑しいと思ったのも、否定はできなかった。
「……そうか。ありがとう」
「はいっ、いえ、お礼、なんて……」
短く礼を言って歩き始めた団長の隣に、ホトトギスが並ぶ。
城までの距離は、さほど長くない。並び歩く時間も、長くは取れない。隣に立っているのに、手を繋ぐわけでもない。
それでも。
「団長様」
「うん?」
「……いえ、なんでも、ありません」
「そうか」
比翼連理って、ご存知ですか。
団長がどのように答えても、構いはしない。知っているとも、知らないとも。質問の意味を汲んでくれたら、間違いなく幸福ではあるだろうが。
それでも。
私と、団長様。二人が、ともにある。
隣り合わせに想うだけで幸福になれるその言葉は、もう少しだけ、一人で楽しむことにした。
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