https://www.kanjicafe.jp/detail/7909.html 【四字熟語根掘り葉掘り8:「山紫水明」の「紫」の謎】より
京都の鴨川の西岸、丸太町通りの少し北に、「山紫水明処」という建物があります。江戸時代の文人、頼山陽(らい・さんよう)の書斎があったところです。
頼山陽は、この場所からの眺めがとても気に入り、自作の漢詩で「最も佳(よ)し、山紫水明の間」とうたっています。書斎の名前は、それにちなんだもの。ここから、「山紫水明」は〈山や水辺に囲まれた美しい景色〉を表す四字熟語となりました。
「水明」とは、日光を浴びて鴨川の水面がキラキラと輝いている風景。とすれば、「山紫」で描かれているのは昼間の東山でしょうか? ただ、青や緑ならともかく、太陽に照らされた山が「紫」に見えるとは、具体的には、どのような情景を指しているのでしょう……。
辞書の原稿書きをしていると、ときどき、こういう何でもないところでつまずいてしまうことがあります。そこで、ああでもない、こうでもないと考えるわけですが、この謎の場合、私が現在、考えている答えは、2つあります。
1つめは、この漢詩で、「山紫水明」の直前に「黄樹青林(こうじゅせいりん)」とうたわれている点から思いついたもの。「黄樹」は、ふつうは紅葉した樹木を指しますが、だとすると、「青林」と季節が合いません。
これは、頼山陽の季節感がヘンなのではなくて、1句の中に2つの季節がうたわれているのだ、と解釈すべきでしょう。頼山陽は書斎から、紅葉の季節も青葉の季節も眺めをたのしんでいる、というわけです。
であるならば、「山紫水明」にも2つの時間帯がうたい込まれている、と考えてみるのはどうでしょうか。真っ昼間の鴨川と、夕暮れの東山。暮れなずむ山々であれば、「紫」と表現しても、おかしくはありません。
もう1つの答えは、京都の地図を眺めていて気づいたもの。「山紫水明処」の東には鴨川が流れていますが、西にほんの100メートルほど行けば、そこには御所があるのです。「紫」とは、昔から、天皇を象徴する貴い色。「山紫」とは、実は御所のことを指しているのではないでしょうか?
こういう疑問には、いわゆる〈正解〉はありません。折にふれて、いろいろと考えてみるのが、たのしいのです。みなさんも、京都にお出かけの際には、現地を歩いて、いろいろと考えてみてはいかがでしょうか?
http://www.kyoto-ga.jp/kyononiwa/2009/09/teien002.html 【山紫水明処(頼山陽書斎)の庭 さんしすいめいしょ/らいさんようしょさい】より
『山紫水明処』は、丸太町橋の北側、鴨川の西岸に面し、頼山陽の書斎兼茶室として使われた建物です。頼山陽(安永9年~天保3年・1780~1832年)は、江戸時代後期に活躍した儒学者・詩人・歴史家です。『日本外史』や『日本政記』などの著作は、明治維新に際して尊攘派の志士たちの精神的な支えとなりました。
山陽は、文化8年(1811年)、広島から32歳で京都に出て以後、塾を開くなどして生計を立てつつ転居を繰り返しました。4度目の転居で木屋町二条下ル(現在の中京区)に移ると、東山や鴨川の眺望が気に入ったらしく、屋敷を『山紫水明処』と名付けました。しかし、しばらくするうちに手狭になったのか、両替町押小路上ル(現在の中京区)に移り住みますが、その時から、自ら草木を植えて庭を作っていたことが史料からわかります。
しかし、家々が立て込み、東山への眺望が無い場所に満足できなくなった山陽は、より郊外の地に移り住むべく土地を探し、ついに6度目で東山の眺望絶佳なこの地に文政5年(1822年)に移り、晩年を過ごしました。以後、『日本外史』などの執筆を行い、『日本政記』をほぼ完成させて亡くなりました。
山陽はこの屋敷地を「水西荘」と名付け、庭にウメ、サクラ、モモ、ツバキ、ナツメなどの花木、実の成る木を好んで植えました。文政11年(1828年)には新たに書斎兼茶室を造営し、かつて木屋町二条下ルに住んでいた時の屋敷の名前をとって「山紫水明処」と名付けました。これが今の「山紫水明処」です。
当時、指折りの知識人で茶の湯にも精通していた山陽は、抹茶より煎茶を大変好んでいたようです。現在の地に水西荘を構えてからは、親しい友人が来ると、脇に流れる鴨川の水を汲んで煎茶を入れて振る舞うなど、形式にとらわれない、自由な茶の湯を楽しんでいました。
書斎兼茶室だった「山紫水明処」も、形式にとらわれない生活・接客の空間として、煎茶の用に適した明るく開放的な造りとなっています。障子の明かり採りにガラスを用いたり、欄干に中国風の意匠を用いるなど、随所に煎茶の影響が感じられます。
東山と鴨川が眼前に広がるため、山紫水明処の東側に庭はなく、西側に庭があります。
この庭には、鴨川の伏流水が湧き出す「降り井」が設けられています。「降り井」は、地面から2mほど下に井筒が設けられた半地下式の井戸で、井筒まで降りて水を汲むことから、その名があります。適当な深さに湧き水がないと造ることができないため、京都の伝統的な日本庭園でもほとんど用いられてこなかった大変珍しい意匠です。文献では山陽自身がこの「降り井」を造ったかどうかは確認できず、後世に造られたとする説もあり、はっきりしたことはわかっていません。しかし、清らかな水との接点や自由な気風を大事にする煎茶らしい意匠として、注目されるものです。
水西荘は山陽の死後、人手に渡り、明治の中頃まで頼家の手を離れていたため、その間に「山紫水明処」以外の建物が失われました。山陽が植えた数々の樹木も生えかわりましたが、山陽ゆかりの木として、今もナツメが残っています。
昭和9年(1934年)の室戸台風、昭和10年(1935年)の大雨の後、鴨川の河床が洪水防止のために切り下げられ、『山紫水明処』は鴨川の流れから離れて「降り井」の水が枯れました。また、周囲に住宅が立て込むなど、水西荘をとりまく環境は大きく変わりました。
しかし、今でも夏には鴨川からの涼風が心地よく、また東山への眺望も残っており、かつて「風景無双」と山陽が絶賛した市中の山居の味わいが残されています。
手入れのポイント
山紫水明処(頼山陽書斎)の庭の画像
山紫水明処の外観。手前の石組は降り井の護岸につながる(写真は屋根ふき替え前。(財)頼山陽旧跡保存会提供)
水西荘及び山紫水明処は、頼家の代々の方により、維持管理が行われています。山紫水明処は近年、葛屋葺(くずやぶき)屋根をふき替え、清新なたたずまいがよみがえりました。
庭園の管理は、除草・清掃など日常的なものを除いて、樹木の剪定などを古くからなじみの造園業者にお願いしているとのことです。管理方法について、細々と注文はしないとのことですが、実生木を抜くなど植栽はできるだけ現状を保全すること、また、風通しが良くなるように剪定することに特に心がけているとのことです。
https://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000015587.html 【京都市のあらまし(紋章)】より
京都市の紋章は,昭和35年(1960年)1月1日に制定されたもので,「京」の字を図案化したものに御所車を配し,金色と古都を象徴する紫色の2色を用いています。 略章は,明治24年(1891年)10月2日に制定された京都市き章を,紋章の制定に伴い略章として用いているものです。
https://irocore.com/kyoumurasaki/ 【京紫】より
京紫(きょうむらさき)とは、京都で染めた紫の意で、赤みがかった紫色のことです。古いにしえから伝わる正統的な紫根染しこんぞめの紫色であり、『江戸紫えどむらさき』に対して付けられた色名。 また、京紫が伝統的な紫を受け継ぐ色ということで『古代紫こだいむらさき』と呼ばれ、江戸紫が江戸時代、当時の今風の色なので『今紫いまむらさき』とも呼ばれました。 ちなみに、同じ色とされている京紫と古代紫ですが、実際は京紫のほうが古代紫よりも鮮やかで明るい色になります。
古くからの都である京では「雅みやび」なものが好まれ、新興都市の江戸では「活気」があるものが好まれました。そういった両都市の性質が紫色の色みにも現れており、江戸紫は青みの紫色で「力強い活気」をあらわすのに対し、京紫は紅みの強い紫色で「優雅さ」をあらわしています。
ただ、江戸時代の有職故実ゆうそくこじつ研究家の“伊勢貞丈いせ さだたけ”によれば、「今世京紫といふ色は紫の正色なり。今江戸紫といふは杜若かきつばたの花の色の如し。是葡萄染えびぞめなり。」と自身の随筆『安斎随筆』に書き記しており、それをもって『京紫』を青みの紫とするという説もあります。
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