平泉

http://furusatonosora.akiji.yokohama/2018/10/24/%E5%85%89%E5%A0%82%E3%81%AF%E5%8F%A2%EF%BC%88%E3%81%8F%E3%81%95%E3%82%80%E3%82%89%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E5%8D%83%E6%AD%B3%E3%81%AE%E8%A8%98%E5%BF%B5%EF%BC%88/【光堂は叢(くさむら)となるところ千歳の記念(せんざいのかたみ)となった―平泉でタイムスリップした芭蕉と曽良②】より

◆理想郷「極楽浄土」の建設を目指した奥州藤原氏

中尊寺金色堂に続く坂道(平泉町)、金箔で覆われた光堂は極楽浄土を現世に表わそうとしたという

五月雨(さみだれ)の降り残してや光堂(ひかりどう)  芭蕉

何百年もの間、毎年降ったであろう五月雨が、この光堂だけは避けて降り残したのか。今もその名のとおり、燦然と光り輝いている。夏―五月雨。風雪に耐えて永遠を保つ光堂を礼賛。「五月雨」は当季を生かし、建物を腐食させるものとして印象づけた。現在降っているのではない。(新潮日本古典集成「芭蕉句集」今栄蔵校注から)

前回のブログで触れたように、高館義経堂(たかだちぎけいどう)が平泉文化の「永遠なる喪失」を表わしているとすれば、中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)は「永遠なる創造」を表わしているといえよう。平泉文化が創造しようとした永遠とは、「極楽浄土」である。しかし、「喪失」と「創造」は裏腹のもので、矛盾しているようだが、そこに「ない」ことによっても永遠に創造することができるのだ。両者はまるで永遠の裏表であるようにも思えてくる。平泉には、失われたものと創造されたものが併存している。

金色堂を覆っていたかつての覆堂(中尊寺)、鎌倉時代に建てられたという

金色堂を画像で見せられないのは残念。今は近代的な覆堂(おおいどう)に覆われている金色堂の正面に立つと、けして大きくはないのにまばゆいばかりの荘厳さに圧倒されそうだ。「極楽浄土」を現世に表わそうとした奥州藤原氏の平泉文化のすべてが込められている。

中央の須弥壇(しゅみだん)の内には初代・二代・三代の遺体と四代の首級が納められ、その上に本尊の阿弥陀如来を中心に数多の仏たちが取り巻いている。須弥壇の立ち上がりや4隅の柱などにも、螺鈿(らでん)細工が施されて光を放ち、天井も屋根も、また金で覆われて輝いている。ただ見事というほかはない。芭蕉も「奥の細道」に次の通り書き残した。

「兼て耳(みみ)驚したる二堂開帳す。経蔵は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の佛を安置す。七宝散(ちり)うせて珠(たま)の扉(とびら)風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽て、既(すでに)頽廃空虚の叢(くさむら)と成るべきを、四面新たに囲て、甍(いらか)を覆て風雨を凌、暫時(しばらく)千歳の記念(かたみ)とはなれり。 五月雨の降り残してや光堂 」(岩波文庫「おくのほそ道」杉浦正一郎校注から)

◆浄土庭園を残す「無量光院跡(むりょうこういんあと)」と「毛越寺(もうつうじ)」

2018年9月26日、私は中尊寺を参詣した後、毛越寺を目指した。その途中、今も発掘調査が進められているという「無量光院跡(むりょうこういんあと)」に立ち寄った。三代藤原秀衡が創造しようとした「極楽浄土」である。もはや建物はすべて失われているが、中島に阿弥陀堂が建てられていたという広池は静かに水をたたえ、在りし日の姿への想像をかきたててくれた。

三代藤原秀衡が建立した無量光院は、宇治の平等院鳳凰堂がモデルだった

「毛越寺(もうつうじ)」もまた、「極楽浄土」の姿を今に表わす浄土庭園を残している。パンフレットによると、創建時の伽藍は焼失してしまったが、当時の堂宇・回廊の基壇・礎石、土塁などが残されていて、平安の伽藍様式を知る上で貴重な遺構として保存されている。また、大泉が池を中心とする浄土庭園は、日本最古の作庭書「作庭記」の思想や技法を伝えている池庭で、背景の塔山とともに自然を象徴する景観をもって仏堂を荘厳し浄らかな仏の世界を作り出している。

毛越寺創建時の建物は失われてないが、海を表現している池は静寂に包まれていた

芭蕉と曽良は、元禄2年(1689)5月13日に平泉に到着し、高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・光堂・泉城・さくら川・さくら山・秀衡やしき等を見た。月山、白山、金鶏山、シミン堂、無量劫院跡も見ている。これだけあわただしく回ったにもかかわらず、理由はわからないが、毛越寺は訪ねていないと思われる。夕方、宿に帰って水風呂に入った(以上は「曾良随行日記」による)。

◆「不易流行」の着想を得たのは平泉か?

「奥の細道」本文に「千歳の記念(せんざいのかたみ)」という言葉が出てくる。多賀城跡の「壺の碑」とこの「平泉」の条だけである。その意味について少し考えてみたいと思う。

三省堂「芭蕉ハンドブック」は、「千年の意だが、芭蕉は永遠・多年の意で頻用する。昔から今に至る悠久な時の流れの中で残されたものをいう時に用いることが多い。これらは「センザイ」と音読し、「松」と縁語関係にある場合は、「チトセ」と訓読するのがふさわしい」と解説する。ちなみに、以前の「武隈」の条に「今はた千歳のかたちととのひて」と出てくるのは松のことで、「ちとせ」と読む。

どちらにしても「千歳(せんざい・ちとせ)の」と修飾するため用いられる場合は、単に「永遠・多年」の意味になるだろう。しかし、「千歳の記念(せんざいのかたみ)」と表現されたときには、それ以上に「永遠に変わることがない」というニュアンスが含まれるように思うのである。「壺の碑」や「光堂」に感動したわけは、これらが永遠に変わることがない姿を表わしているからである。

建物は朽ちて夏草の叢(くさむら)に変わり、山は崩れ川の流れさえも変わってしまう。しかし、たとえ以前の姿が失われようが残されようが、そこに夏草の叢があり山河がある。「千歳の記念」というべき永遠なる姿を感じて、身も心も時代をタイムスリップしてしまうのである。私も、在りし日の芭蕉と曽良の姿を思い浮かべながら、あわただしく平泉をあとにした。


https://www.library.pref.iwate.jp/ex/hiraizumi/alacarte02.html 【平泉を訪れた人々(2) 芭蕉・曾良】より

江戸時代の俳人・松尾芭蕉[1644-1694]とその弟子・曾良[1649-1710]が「おくのほそ道」の旅に発ち、初夏の平泉を訪れたのは、西行の旅より遅れて約500年後の元禄2年(1689)のことでした。芭蕉は46歳、5歳年少の曾良が41歳の時です。

「おくのほそ道」は、歌枕をたずねる旅だったと言われています。旅が始まった元禄2年は、丁度、西行の500年忌にあたりました。かつて西行が先人を慕ってみちのくの歌枕をめぐったように、芭蕉もまた敬愛する西行や能因の足跡を追い、また、義経ゆかりの地を訪れようと旅立つのです。旅の直前、門人に宛てた手紙の中で、芭蕉は「能因法師、西行上人の踵の痛みも思い知らん」と記しています。

元禄2年3月27日(新暦5月16日)の早朝、曾良を伴い、江戸・深川を発った芭蕉は、日光、松島、平泉、象潟、金沢などを経て、同年8月21日(新暦10月4日)頃、「おくのほそ道」むすびの地・大垣(岐阜県)に到着します。大垣にしばらく滞在した後、芭蕉は今度は伊勢に向けて出立し、江戸に戻ったのは深川を発ってから2年7ヵ月後の元禄4年(1691)10月27日(新暦12月16日)でした。

「おくのほそ道」が完成するのはそれからさらに2年半後、元禄7年(1684)春のことになります。

おくのほそ道

芭蕉が訪れた頃の平泉は、西行が見た黄金期とは違い、仙台藩四代藩主綱村が整備をはじめてはいたものの、中尊寺等の整備はまだ行われておらず、「三代の栄耀一睡の中にして」滅び、わずかに金色堂と経蔵が残るだけでした。

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高舘にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高舘の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時の移るまて泪を落し侍りぬ

夏草や 兵どもが 夢の跡

卯の花に 兼房みゆる 白毛かな  曾良

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に圍て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

五月雨の 降りのこしてや 光堂

『おくのほそ道』(萩原恭男 校注/岩波書店/1991)

「おくのほそ道」

平泉に到着した芭蕉一行は、まず源義経最期の地と言い伝えられている高館にのぼりました。北上川と両岸に広がる古戦場跡に、義経らをしのび、世の無常さを感じながら、「時の移るまて泪を落し」たとあります。曾良の句にある「兼房」とは、室町時代に書かれた軍記物語『義経記(ぎけいき)』の登場人物・十郎権頭兼房のことです。兼房は義経の正妻・久我の姫君の守り役で、義経に付き従い、衣川の館で最後まで戦い奮死しました。

高館を後にした二人は中尊寺へ向かっています。現在、金色堂脇には、「五月雨の降りのこしてや光堂」の句碑が建てられていますが、芭蕉が金色堂を詠んだとして有名なこの句は、草稿にはなく、代わりに「五月雨や年々降りて五百たび」「蛍火の昼は消つゝ柱かな」の二句が掲載されています。この二句は、浄書の段階で抹消され、新たに案じられた「五月雨の降りのこしてや光堂」の句が残されました。これらの推敲の跡は、曾良が芭蕉から与えられ、その子孫に伝えられたといわれる「おくのほそ道」(曾良本)に残っています。

曾良旅日記

「おくのほそ道」行脚に随行するにあたり、曾良はさまざまな書物から巡歴予定の歌枕を抜書きして、それをまとめたノートを旅に携帯しました。この歌枕覚書(名勝備忘録)のあとに収められている「元禄二年日記」には、芭蕉との旅の様子が詳細に記されており、創作部分も多い「おくのほそ道」を研究する上で、貴重な資料となっています。

平泉行について書かれているのは、5月13日(新暦6月29日)の日記です。この日の午前10時頃、芭蕉と曾良は、前日泊まった一関から平泉に向けて出発しました。

十三日 天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リに近シ(伊沢八幡壱リ余奥也)。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色堂)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金鶏山見ル。シミン堂、无量劫院跡見。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。

『おくのほそ道』(萩原恭男 校注/岩波書店/1991)

「曾良旅日記」

日記中に見える「さくら山」は西行が歌に詠んだ束稲山、月山・白山はそれぞれ月山神社・白山神社、また「シミン堂」は新御堂が訛ったもので無量光院の通称です。芭蕉の「おくのほそ道」では「二堂開帳す」とありますが、実際には、二堂のうちの1つ、経堂は、「別当が留守にて開かず」拝見できなかったことが、曾良の日記から分かります。達谷窟は遠かったため断念、また毛越寺にも立ち寄っていないようです。

芭蕉と曾良が一関の宿に戻ったのは、午後4時頃。このとき二人が泊まったと伝えられる金森邸は、芭蕉が2泊したことから「二夜庵」と呼ばれ、現在その跡地には石碑が建てられています(一関市地主町)。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000