みちのくの華

https://www.sankei.com/article/20200225-L2U4DKP24NKHLGUCB265Q6OGFU/ 【宮城 みちのくの金を日本の金に】より

 新元号「令和」の典拠となった「万葉集」。この日本最古の歌集に詠まれた「北限の地」を掲げているのが宮城県涌谷町だ。天平21(749)年に同町で日本で初めて金が産出し、奈良・東大寺の大仏の塗金用に献上。時の聖武天皇は大いに喜び、歌人の大伴家持(おおとものやかもち)が言祝(ことほ)いだ歌が万葉集に収められている。

 「日本初の産金の地」である同町や世界遺産の「中尊寺金色堂」がある岩手県平泉町など岩手、宮城両県2市3町の「金」にまつわる歴史や文化などで構成した「みちのくGOLD浪漫(ろまん)」が、昨年5月に文化庁から「日本遺産」に認定された。

 認定発表の当日、代表して申請した涌谷町に取材に行った。認定に向けて精力的に動いた当時の町長が同4月に急死。副町長も空席で、町長職務代理者の総務課長が「(亡き)町長が一番喜んでいると思う」と話していたのが印象に残る。

 日本遺産や産金の歴史を知ってもらおうと、2市3町でつくる推進協議会は今月16日に宮城県多賀城市でシンポジウムを開催。同町教育委員会の担当者は「日本の金といえば佐渡金山のイメージだが、『みちのくGOLD』が日本の金になるよう磨き上げたい」と力を込めた。

 家持が言祝いだ歌は「天皇(すめろき)の御代栄(みよさか)えむと東(あづま)なる陸奥山(みちのくやま)に黄金花咲(くがねはなさ)く」(天皇の御代が栄え行くと、東国の陸奥の山に黄金の花が咲くことよ)。地域の魅力を高めて「みちのくGOLD」の花を咲かせ、地域の活性化につなげてほしい。(石崎慶一)


http://www.town.wakuya.miyagi.jp/sangyo/kanko/mesho/rensai/h3002sakintori.html 【砂金採りとみちのくの金】より

涌谷町は日本で初めて金が採れた地で、それは天平二十一(七四九)年の出来事でした。採れた金は奈良で造営中であった東大寺大仏の表面に塗る金に用いられ、大仏は無事に完成しました。

箟岳山の川や沢では今でも金が採れます。それは砂のように細かくなった自然金で、砂金といいます。箟岳山には砂金を含む地層があり、その地層が雨や風によって風化し、浸食され、砂金は洗い流され、川底に溜まります。金は比重が非常に重く、水1に対し、金は約19倍の重さがあります。この金の性質を使って、昔の人は川底に溜まっていた砂金を採っていたと考えられます。

砂金天平二十一年以後、宮城県北部から岩手県南部の“みちのく”と呼ばれた地域では砂金採りが続けられ、平安時代末期頃には岩手県平泉町で奥州藤原氏が「中尊寺金色堂」に象徴される平泉黄金文化を築きました。その後、人々は金を追い求め、山から金鉱石を採掘する金山開発が始まりました。戦国時代から江戸時代頃には岩手県陸前高田市で仙台藩の伊達政宗などの財政を支えたと伝わる玉山金山が開発されたり、明治時代には気仙沼市で金鉱石の大きさと金の含有量が桁外れな怪物金「モンスターゴールド」を産出した鹿折金山が開発されるなど、“みちのく”には全国に誇る数多煌めく金にまつわるストーリーがあります。

現在、涌谷町と関連市町ではこれらの歴史的価値の高い文化財を日本遺産として認定されるよう「みちのくの金」をテーマに取り組んでいます。

https://jp.tohoku-golden-route.com/travelogue/ 【知られざるみちのくの黄金伝説】より

4つの時代、5つの地域そして6つの物語へ

最初に東北地方で「みちのくGOLD浪漫」という日本遺産が認定された、というニュースを聞いた時に思ったのが、そもそも世界遺産ではなくて「日本遺産」とは何だろう?という素朴な疑問だった。

日本遺産というのは、実は個々の文化財を認定するものではない。少し長いが、文化庁のステートメントを引用しよう。

「日本遺産(Japan Heritage)」は地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。

ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を,地域が主体となって総合的に整備・活用し,国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより,地域の活性化を図ることを目的としています。」

物や場所ではなく、ストーリーを認定する。

すなわちこれは、究極的には特定の一か所だけではなく複数のエリアで、しかも特定の時代だけではなく、複数の時代をまたぐことも可能な、とても自由な「発想力」と「編集力」が必要になるということ。

そして「みちのくGOLD浪漫」の特徴は、この「金」という物質を巡って、1,300年にもわたるストーリーがそれぞれの時代で広域に展開されているところに魅力がある。あえて時代を整理するなら、大きくは4つに分けられるだろうか?

金の発掘された1300年以上前の奈良時代。

奥州藤原氏が活躍した900年前の平安末期。

約400年前の江戸時代。

そして150年前の明治以降の近代。

これに、内陸部の涌谷町と平泉町、三陸沿岸の南三陸町、気仙沼市、そして陸前高田市の5つの「エリア」に分かれ、時代と空間の掛け算の立体的な6つのストーリーを展開している。

丘、山、そして海などの様々な空間を縦横無尽に周遊し、様々な時代を巡る。

時空を超えたタイムトラベルと謎解きの「箱庭冒険世界」の旅。それが「みちのくGOLD浪漫」の全てのエリアを回っての、率直な魅力と感じた点だ。

「みちのくGOLD浪漫」のストーリーの始まりである涌谷町は、いわゆる「観光地」ではない。であるがゆえに、実は太古の昔の痕跡を自分の足で歩いて探す、ちょっとした探求心がくすぐられる場所だ。とりわけ、天平ろまん館は「みちのくGOLD浪漫」を象徴するかのように、おそらく金の歴史を伝える上では日本でもっとも見ごたえのある施設。館内では砂金取り体験ができるが、今後は近隣の沢での砂金取りのアクティビティー化も構想されているそうだ。「みちのくGOLD浪漫」の旅は、まずは涌谷町からスタートするのが良いだろう。

そして「みちのくの金」を最も世間で知らしめているのは、平泉の奥州藤原氏の栄華の伝説的な存在感にあることは疑いない。実は涌谷町から意外に交通の便も良い。直線距離にして約50㎞で、車なら高速道路を使って約1時間、電車なら鈍行を乗り継いでも1時間40分ほどで到着できる。金が涌谷で見つかってから平泉が栄華を誇るまで400年ほどの開きがあるが、この距離は決して二つのエリアが無関係ではないことを示唆している。事実、「白山神社能舞台」の歴史が示すように、中尊寺は仙台藩祖伊達政宗以降伊達家の領地内にあり、江戸期を通じて金山開発に仙台藩は積極的だ。1853年(嘉永6年)に伊達家によって再建された、近世建築の能舞台では東日本唯一の「白山神社能舞台」も注目だ。

一方で今回の旅で改めて知ったのは、俳聖松尾芭蕉の存在感だ。松尾芭蕉は西行法師の500回忌を記念して「奥の細道」をスタートさせているのだが、西行法師と言えば源平の争乱の中で焼失した奈良の大仏の再鍍金のため、奥州藤原氏を頼っている。松尾芭蕉もまた、間接的にみちのくの黄金伝説に魅せられていたのかもしれない。

南三陸町は、そうした栄華を誇った平泉の「北夷の王」こと藤原秀衡が帰依した「田束山」が印象に残る。興味深いのが、この町は上山八幡宮や入谷八幡神社など、蝦夷側の視点だけではなく、朝廷や源氏方の視点のスポットも多いところだ。古代における「中央とみちのくの交差点」、あるいは「最前線」を想起させる。

最近では、上山八幡宮の「きりこ体験」や入谷八幡神社の「オクトパス君」など、伝統に場で新しい取り組みが積極的に行われているところが興味深い。「南三陸さんさん商店街」に行けば、復興の「いぶき」を感じることができる。新しいことへのチャレンジを通して、東日本大震災から復興しようという「気迫」を感じることができる。

気仙沼は「みちのくGOLD浪漫」によって、最も印象が変わったエリアかもしれない。「港町」気仙沼の印象があまりにも強いが、「鹿折金山」や「大谷鉱山」など近代の「日本版ゴールドラッシュ」から昭和の現代に至るまで、確かに日本の金の歴史において主役だった時代がある。驚くべきことに、気仙沼を中心に太平洋側の宮城県北部から岩手県の南部にかけて、把握されているだけでも実に90以上の金山跡があるという。これは想像以上に多い数だ。日本人はもとより、宮城県民・岩手県民も、この地域がこれほどまで密度の濃い「金山密集エリア」だという認識はないだろう。大谷鉱山を今も管理する担当者の「本当はまだまだ膨大な金が地下には眠っていて、現在は採算性の問題で採掘がされていないに過ぎない。技術革新や金の世界的な需要などによっては、未来にまたこの一帯で金の採掘がはじまるかもしれない」という「予言」は、まさにロマンだ。

陸前高田の「玉山金山」は、そんなみちのくの金山群の中でもとりわけ伝説的であり抒情的であり、そして訪れて楽しいスポットだ。千人抗や玉山神社の伝説の裏にあった、豊臣秀吉や伊達政宗、日露戦争に備える近代日本政府など、時の権力者たちの権謀術数の舞台。そんな歴史好きの好奇心を刺激するだけではなく、実際に氷上山の水晶採り体験で体を動かす楽しみもある。「こんなに簡単に水晶が見つかるのか」と、非常に驚くこと請け合いである。

一方、今回の陸前高田の旅で特に印象に残っているのは、実は「ホタワカ御膳」こと「陸前高田ホタテとわかめの炙りしゃぶしゃぶ御膳」だ。東日本大震災をきっかけに、街の飲食関係者が共同で開発したというこの「ホタワカ御膳」。南三陸町もそうだったが、巨大災害などに街が大きく影響を受けたとき、普段温厚な東北人の隠された情熱を見ることができる。

そう、これらの5地域を実際に廻ってみて、やはり「1000年ぶり」と言われた2011年3月に発生した東日本大震災を無視することはできないと、改めて感じる。特に陸前高田、気仙沼、南三陸町の3つのエリアが壊滅的な被害を被ったことは、多くの日本人がまだ生々しく記憶していることだろう。

記録上もっとも古い超巨大津波「貞観津波」が発生したのが、金が発見されてから120年後の869年(貞観11年)。そのあとの超兄弟津波「慶長大津波」が発生したのが、伊達政宗による仙台開府の頃の1611年(慶長16年)。明治三陸津波は1896年(明治29年)。

現代ですらこれほどの規模の被害なのだから、昔の被害はいかほどだったか。

注目すべきは、そうした災害が発生してきた「みちのく」においても、1000年以上金の採掘は途切れることがなかったということだ。金を掘るのは生きるための生業であったろうし、復興への希望だったのかもしれない。

東日本大震災から10年を前にして、新たに日本遺産として認められた「みちのくGOLD浪漫」。時には1000年以上の歴史を新たに再発掘し、時には生き生きとしたストーリーとして改めて再編集する。今回の旅はそういったものだ。

「みちのくGOLD浪漫」の旅を通して、単に金の歴史は痕跡として残っているのではなく、先人の積み上げてきた歴史と今も受け継がれてきた豊かさを見つけることができた。そしてそこには、多くの先人の努力と英知があった。

「みちのくGOLD浪漫」が示した努力と英知の記憶と記録が、この地域の新たな復興の道しるべとして、そしていつの日か復興の象徴となることを信じている。

https://jp.tohoku-golden-route.com/area_article/rikuzentakata/ 【陸前高田市

時の権力者たちを魅了してきた伝説の黄金の山】 より

- Off the beaten path - 知られざる黄金伝説を訪ねる陸前高田の冒険譚

岩手県陸前高田市は、「陸中」ではなく「陸前」の名が入っていることから分かる通り、元々は仙台藩領の一部で、その「辺境」に当たる。陸前高田の金にまつわるスポットも、人里離れた玉山金山の周辺に広がっている。それらを周った率直な感想は、この地は私たちの探求心をくすぐるような、まるで「冒険の地」ということだ。まだ多くの人には知られていない、こんなワクワクするようなエリアが残っていた。

玉山金山中腹の湯治温泉「玉乃湯」から5分ほど登ったところにある「千人抗跡」。その名の通り一度に千人が金の採掘をしたとなると、たとえ実際のその数が半分だったとしても、当時としては相当な作業員数ではないか。車もないような昔では、この地に食料を運ぶのも容易ではなかっただろう。それだけの人数が、この標高874mの山の中に逗留していたほど、ここにはその価値があったということになる。

「千人抗」の名は、鉱夫千人が犠牲となった落盤事故と、唯一生き残った「飯炊き女のオソトキ」伝説が由来だという。「信心深い『オソトキ』だけが生き残る」というという、教訓を含んだ物語の構成と結末は日本の昔話では定番だが、大体そういった伝説の裏には時の支配者の野望があるに違いない、と想像をたくましくする。実際、豊臣秀吉がわざわざ直轄にして、その後も伊達政宗が金山を管理し、イタリアに派遣した慶長遣欧使節の費用を賄ったとすらいわれているほど。江戸時代が終わって明治に至っても金の産出があったようで、この山自体が日露戦争の軍資金の借入金の担保となった、との記録もあるそうだ。

Tamayama Shrine千人抗跡を越えてさらに10分ほど登ると、目の前に階段の参道が現れる。見上げると鳥居を発見。これが噂の「玉山神社」に違いない。文字通り「遺跡」の中を探検する冒険者のように、落ち葉で埋もれつつある階段を登っていく。

登りきると、周辺の森とは異質なやや広い空間が目の前に広がる。静かに鎮座する鳥居と小さな社殿の前で、想像を働かせる。かつてこの辺りには、金採掘のための多くの人々の喧騒があったはずだ。今やここには燃え立つばかりの紅葉の景色に、風の音が山々に潮騒のような音を立てて響くのみである。「兵どもが夢の跡」は松尾芭蕉の平泉での句だが、この人里離れた山の頂に、屈強な別の「つわものども」が黄金を求めていたのだと想像する。

いや、ただ金を求めていただけだろうか?海でも平地でもない、この神々しい天上の世界での採掘。古代人が残した様々な痕跡。もしかして昔の人にとってこの地の金の採掘は、単なる「商い」の一環だけではなく、山岳宗教のような信仰の一つだったのかもしれないな、などと想像するほど、この山はどこか神々しい。

玉山神社の前の分かれ道を別に進むと、いよいよ今回のメインイベント「氷上山の水晶採り」の現場にすぐ到着。一見すると「ただのガレ場」か?と思って地面に顔を近づけると、早速ところどころ光っているではないか。「え?こんなに簡単に見つかるの?」というほど、すぐに小さな小さな水晶を発見。これには今回同行したアメリカ、中国、台湾、タイのライターさんたちも大興奮。最初はみな嬉々として楽しそうに山を探し回るが、やがて皆しゃべりもせず黙々と周辺を探し始める。

これが何とも面白い。

もしかして、鉱物を探すのは人間の本能なのではないか?と思うほど、みんな真剣に集中している。探し当てた水晶は、お土産に持ち帰ることができる。「発掘ツアー」は要予約で事前に申し込みが必要だが、是非とも体験したい。

一通り山野を巡って水晶の発掘を終え、その後に玉乃湯の温泉で疲れを癒すのもよいだろう。おすすめは「金箔アイス」。他の観光地にもある、金粉がフリカケられているものではなく、本当に巨大な金箔が載せられている。同行した中国人ライターさんが早速チャレンジ。「味は?」と聞くと「金の味!」という。金の味って、どんなだろう?

陸前高田の「食」といえば、東日本大震災後に新たに「開発」された「ホタワカ御膳」がお勧めだ。正式名称は「陸前高田ホタテとワカメの炙りしゃぶしゃぶ御膳」。その「開発史」は、現在の「高田大隅つどいの丘商店街」をはじめ地元の飲食店関係者の苦闘の歴史が込められている。2011年に発生した東日本大震災をきっかけに、「新しい陸前高田の名物料理を作りたい」と、首都圏の専門家などのアドバイスを受けながら地元の飲食店メンバーなどが共同で開発。現在は市内のホテルや飲食店などで提供されている。とりわけ「ワカメのしゃぶしゃぶ」は、三陸地方では家庭料理になるほど定番だが、他の地域では滅多に食べられない。地元では当たり前だと思っていても、外からの目線で初めてそのよさに気づくことは多い。あの未曽有の大災害を乗り越える中で、新しい取り組みにチャレンジする「強さ」を、この絶品の料理は伝えている。

陸前高田は、いわゆる「観光地」ではないかもしれない。しかし、玉山を中心に散りばめられた様々な「歴史の紐解き」は、「冒険者」にとって珠玉のもの。そういったエリアは「Off the beaten path」といって、まだ観光客がほとんど踏み入れていない場所として、日本を訪れる外国人の旅人の好むところだ。

インターネット時代のこの世の中に、もう冒険する場所などないのではないか?

いや、一見すると何もないように見えるこの場所に、自分の足で廻ることで様々な昔の痕跡を発見し、今自分が冒険中だと確信できる。伝説を求める冒険好き・探検好きの旅人は、是非とも訪れたい。

https://jp.tohoku-golden-route.com/area_article/kesennuma/  【気仙沼市極東の港町に近代ゴールドラッシュの夢】より

日本屈指の大漁港気仙沼の、知られざるもう一つの物語を求めて

気仙沼も「みちのくGOLD浪漫」の舞台?日本遺産登録のニュースを聞いた時、正直そう思ったのも確かだ。気仙沼と言えば、日本を代表する大漁港。遠洋漁業の船は世界中を回り、その水揚げ種類は日本一とか。東北人にとって気仙沼は、あまりにも「漁業の町」の印象が強い。

幕末を過ぎて明治の頃、ここが世界的な「ゴールドラッシュ」の表舞台に立っていたというのは、意外と知られていないかもしれない。あるとき気仙沼は、近代鉱山史の中で凛然と輝く栄光の地だったのだ。

その発端となったのが「鹿折金山」。1904年(明治37年)に発見された、重さ2.25㎏で金の「異常な」含有量約83%の金塊「モンスターゴールド」の発見が、近代日本のゴールドラッシュの幕開けだったという。興味深いのは、採掘を行う合資会社「徳永鉱業所」の設立役員を見ると、海軍大将や陸軍大将、警視総監や大審院判事など、国の中枢を担う人物が堂々と名を連ねていることだ。鹿折金山が一時、壮大な明治な国家プロジェクトの現場だったことを物語っている。

手掘り中心だった鹿折金山から南に直線距離で約17㎞の大谷鉱山は、コンクリートの巨大な遺構が残り、産業遺産ともいうべき威容を現在も現わしている。昭和51年の現代まで稼働していたが、実は歴史的にはこちらの方が古く、記録上は平安中期まで遡れるそうだ。仙台藩の重要な財源だった時期もあり、明治から昭和にかけては近代的な採掘方法の採用により、国内屈指の金山に成長したとのこと。

残念ながら現在は採掘は行っておらず、流出する鉱物や水の管理を行っている。一般の立ち入りはできないが、麓の「大谷鉱山歴史資料館」で様々な資料を見学できる。今回の取材では、特別に立ち入り禁止区域の内部に入らせていただいた。

鉱山というものは閉山しても、「半永久的」に管理し続ければならないらしい。しかも周辺は近代鉱山になる以前の、平安時代から千年にもわたる採掘坑や、近代以降も地元の人々が掘った穴などもあり、管理会社も全ては把握することは不可能なのだそうだ。

「そうやって、気仙沼一帯の金を掘りつくしたんですね」と感想を持ったが、管理をされているスタッフの方が言うには「それはちょっと違う」のだそうだ。実はこの辺りには、まだまだ金は多く眠っているかもしれいないが、「採算が取れない」から掘られなくなった、ということらしい。

「何か技術革新などがあったり、世の中が金をもっと大量に必要とする時代が来れば、未来にはまたこの一帯で、再び金の採掘が行われるかもしれません。」

気仙沼の豊かさを象徴するもう一つは「塩」だ。かつて金が陸の道を通って内陸の平泉や仙台に富をもたらしたように、岩井崎地区一帯の塩田で生産された塩は、周辺地域一帯に貴重な塩をもたらしたことは、案外知られていない。現在は化学的な塩の大量生産の時代となって、塩田こそなくなってしまったが、「岩井崎塩づくり体験館」で塩づくりを体験できる。30分程度で気軽に体験できるため、気仙沼で人気になりつつあるアクティビティだ。

もちろん、気仙沼は塩だけではなく食べ物にも恵まれている。気仙沼といったら、やはり「寿司」だろうか。寿司ネタである魚介類と、寿司屋御用達のササニシキに代表される「シャリ」の両方が名産になっていて、しかもその地域で寿司を「地産地消」できるのは、日本国内でも宮城県の他には実はそんなにないらしい。であれば、気仙沼に来たのなら、迷わずまずは寿司を食べてみるべきだ。地元気仙沼の人に必ず勧められるのが、「寿し処 大政」だ。「フカヒレパイスープも食べて」といわれるが、カラッとしたパイの下には濃厚な味のフカヒレスープがあり、ここでしか食べられない逸品だ。

今回の旅で、気仙沼の「海の街」としての奥深さで一番印象に残ったのは、古館の「鈴木家住宅」だった。かつて漁業や醸造業、そして近代においては金山開発など、地域経済のリーダーシップを執ってきた鈴木家の矜持を感じることができる空間だ。「この地域の歴史の大半は陸路ではなくて海路がメインで、自分たちの若い頃でさえ、大島や気仙沼港には船で通っていた」という現当主の話も、印象に残る。

実は同じ苗字の「鈴木家」、例えば距離にして200㎞以上南の福島県のいわき市にも、その地域経済で重要な役割を担い、現代でも料亭を営んでいたりする。気仙沼の鈴木家もいわきの鈴木家も、熊野方面からやって来たとの伝承なのだそうだ。東北の太平洋沿岸には「アンバ(安波)様信仰」がところどころで残ってるのだが、かつて紀伊半島から移住してきた神官の末裔の「鈴木」一族が、漁法や安波様信仰の伝播に、各地で重要な役割を果たしたという説もあるとか。気仙沼の古代史も、なかなか深い。

一方で気仙沼の経済的な豊かさに加え、文化的な深さを象徴すると感じたのが、「煙雲館庭園」だ。江戸時代初期に仙台藩の茶道頭であった、清水動閑の作と伝わっている。日本庭園で伝統の「借景」の技法で、岩井崎や大島などの遠くの自然風景もデザインの一部に取り込んでいるが、実は海を借景する日本庭園は、意外に多くはないそうだ。我々宮城県の人間は、「海の借景」と聞くとついつい日本三景松島を連想してしまうが、もっとも精密な形で設計された日本庭園は、実は気仙沼に存在していたのだ。

塩、日本庭園、そして「ゴールドラッシュ」。普段我々が持っている「港町」のイメージとは別の姿がそこにあり、多様な豊かさを誇る気仙沼。他にも我々の知らない側面がまだまだありそうで、「みちのくGOLD浪漫」は「まだ知らぬ気仙沼」を発見する、道しるべになるだろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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