秦氏の景教と支倉常長の卍

https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/1ac2d8ddf0ece9349fd4a3dc050fd727 【秦氏の景教と支倉常長の卍】より

古来からキリスト教は伝来していたのですが、中国には立派な景教碑があります。

大秦景教流行中国碑(だいしん)明末(1368年~1644年)に長安の崇聖寺の境内で発掘された古碑。

なぜか、高野山にも景教の碑があるのです。

空海だよね?(写真下)※きのくに風景賛歌より

それに石碑の下に、しれっと亀がいる…。しかもフリーメーソンみたいな図。逆マンジ!

※「かごめかごめの真実とは」より

https://blog.goo.ne.jp/kagome1248/e/26953577277fb97c4bcdefc91de41dd7

高野山 景教碑 

「これが景教碑ですかぁ!・・」 

景教碑のレプリカを建てたE,A ゴルドン夫人は、仏教もキリスト教も元は一つ、同根であることを実証しようと「仏基一元」の研究をされた人で、京都でお亡くなりになしましたが、墳墓も右隣にそっとありました。

今、私達は気づく時です。夫人のような立派な方が残した遺産を引き継ぎ、そして世界の人達の前にこれを明らかにしなくてはなりません。 そして全ての人達がこの事実を受け入れた時、いよいよ第七ステージが始まるようです。 勇気を出して皆が手を取り合い行動を起こすことによってはじめて、夜明け前の暗い晩も明けることでしょう。

「さぁ 勇気をだして・・」と、ひとりひとりを神様は抱きしめているようです。

弥勒の世が始まりますよ!と耳元で囁きながら・・・。

あれれ・・・・!

この景教碑を碑の上から見ると・・、なんとぉ・・碑の正面上にある十字と同じ形をしているようですよ。亀さんを縦の軸としたら碑が横の軸になり・・、正面上にある同じような十字になっていますねぇ。発見!

・・・あやしい~感じなんだけど。ちゃんと理由がありました。このレプリカを建てたのは、ゴルドン夫人という方で、1851年英国ビクトリア女王に女官として仕えた人でした。キリスト教と仏教の根本同一を確信し、その研究のため、来日していました。

細かいことは話ませんが、「羊」はイエスの象徴でもあります。羊太夫という多胡碑が群馬県にありますが、これも原始キリスト教であって、秩父小鹿野にも関係しますが、機織りを伝えた秦氏に関係する人です。群馬も秩父も養蚕で栄えました。

日本にキリスト教が伝わり、その教えを忠実にしていた人といえば、柿本人麻呂です。(景教だったかは不明ですが)

『柿本人麻呂の暗号』という衝撃的な本がヒットしました。

大学生の時に読んでましたが、今では古い本となってしまいましたが、この暗号は今では歴史好きな人は、みな知っていることだと思います。

この文章に記された中に、イエスキリストは罪なくして亡くなった。

といった意味の言葉を残しています。

上の段の水色部分:「イチヨラヤアエ」=「イーシ・エル・ヤハウェ」

下の段のオレンジ色:「とかなくてしす」=「咎なくて死す=罪なくして死んだ」

縦文を七文字におさえているので、北斗七星を意識して?あえて七文字にしているのだと思います。

このような歌の書き方も、陰陽師のように呪術が関係します。

柿本人麻呂も、何かあって島流しをされた人だったので、自身が無罪であることを主張するために、「いろは歌」を利用したと考えられます。

ですから、柿本人麻呂は熱心なクリスチャンだった…。

しかーし、この歌は、空海が作った説もあったりして、作者不明。

「和歌ができて達筆」であったことは確かです。

その柿本人麻呂は、仙台の瀧澤神社(祓戸大神=瀬織津姫)を祀る神社にも和歌三神として祀られています。

住吉神明・柿本人丸(柿本人麻呂)・衣通姫(玉津嶋明神)の三神。

また、青森県にある廣田神社に、藤原実方が創建の際に、歌を献歌したことが伝わっているのですが、ここにも柿本人麻呂の画と共に歌が御神宝だと言われます。

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さて、話を戻し、高野山の景教の碑の下にある亀をみて、どこかで見た事あるなぁ、と思いだしました。

白鳥信仰の蔵王だ!!2016年10月。「蔵王権現の陰から陽へ」という記事タイトルでした。わ~、やっぱり陰陽の鶴亀統べってるのがシンクロしてる。

3人で蔵王麓、白鳥信仰を参拝した話。一緒にいったNさんが義経の夢をみた話をして、義経の衣服のマークが、三角を上下に重ねたマークでした。これは水のマークですが、あわさるとダビデの六芒星。

NさんとRさんは、その年の7月に日本海の縄文遺跡にいっており、その日に私は最上川へいき、義経と弁慶ゆかりの瀬見温泉にいってました。

その時は、義経の符号が多かった時期でした。

白山社を巡った後、古墳の「鉾附神社」へ参拝し、そこで亀を発見したのです。

燈籠の下に亀がいる。

なぜ亀?と思い、その時はわからなかったのですが、このような置き方が、景教の亀とよく似ているのです。

蔵王麓にある白鳥信仰は、物部氏と言われていますが、というよりは、秦氏が仕掛けたものだった。

鷺は八坂神社でも鷺舞が披露されます。鷺舞は、七夕の伝説に由来し、祇園祭りで行われると。これは「カササギ」の方でしょう。ヤタガラスですね。

白鳥や鷺、鶴といった「水鳥」は、水=陰で稲作と養蚕。

猛禽類のタカを貴重とした阿蘇氏系の九州王朝などは、火=陽で焼畑と麻。

火は拝火教のゾロアスターかもしれないのですが。海部氏や物部氏は、後者の九州王朝に関係するが、物部氏は蘇我氏や秦氏側について、後に白鳥信仰にされたのでしょう。

また白鳥も製鉄用語に関係します。

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ところで、景教の碑に、卍マークがありましたが、「伊」の国だった話に繋がりそうです。

蔵王の鉾附神社は「ホコツキ」と読むのですが、源義家伝承があります。

その丘に弓矢の鉾が刺さったことから「鉾附神社」と名付けたとあり、やはり弓矢なのです。鉾は「鏃(やじり)」の意味で、弓矢の先端です。

これがアジスキタカヒコネのことだと思います。

ホコツキ→倒語ツキホコ→ツポコ→ツツコ。都々古別神社は、ツッポコと呼ばれたことがありました。ポコって泡みたいだ。

ここに縄文の痕跡があってユダヤなり原始キリスト教の亀を置いたのか。

何かあったから亀と弓矢だということなのです。これが伊達政宗の時代になってまた再び芽をだします。

「伊」の名をもつ人には、倭(イ)の国の人を示すのでは?

そうなると四国だから、伊達藩は愛媛に行ってますよね。

宇和島藩の伊予国です。そこで鹿舞を伝えています。

※裏町一丁目八ツ鹿踊り(1615年宇和島藩伊達秀宗が伝えた)

支倉常長が選ばれたのは、偶然ではなく家紋をみて思うことです。

以前「支倉常長と逆卍」で書いたことを再度書きますが、ローマで支倉常長と取り交わされた「公民権証書」の左端に、逆卍があります。

これが支倉常長の印で、右端はローマ市のものになっています。

『奥州の王伊達政宗の大使として、国王とその国とを聖父パウロ五世の保護下に置くことを願い出るために遠路当地にやってきたフィリッポ・フランシスコ支六衛門を、ローマ市の公民とし、貴族に列するべきものであると信じる。』といった内容で、ローマ市民権を得るのです。

「逆卍に違い矢斜め十字」が、支倉常長の家紋の意匠になっているのです。

本来、先住民の用いる卍は、LEFE LIGHT LOVE GOOD LUCKの意味があるそうです。

※「愛すべき道具達・・・」より

ナバホ族の 卍マーク横にある矢の模様。

卍は西洋では、「Swastika(スワスティカ)」と言います。定説では、左回りの卍は、「和の力」逆卍は、右回りの卍で「力の元」と言われます。

両方描くと、卍はスパイラルな遺伝子の回転になります。

逆卍だとヒトラーを思う人が多いでしょうが、卍と逆卍も、陰陽といった働きを示すものです。

※メソポタミア文明の卍

確かに、ホピでは逆卍は、悪い所(水害や土砂災害など)破壊されたような場所に、逆卍を記すことがあるといわれます。

卍は、右か左か回転を示すマークで、本来の形は、丸に十字らしい。

※縄文時代の亀笛復元。

北斗七星は魂が還る場所。

伊達政宗も「伊」で、支倉常長も「伊藤」姓でした。

支倉氏は、先祖の伊藤壱岐守常久の時、息子らが奥州合戦に軍功をあげ、

川崎町の支倉に領地を得たので、支倉姓にしました。

なので、川崎町の支倉は何度も書いてますが、新羅の郷です。秦氏の場所でした。

秦酒公が、乱闘が起きそうな時(巫女の話でしたが)歌で和ませた。

という話は、八戸えんぶりの発祥と似てます。

酒場で乱闘が起きそうになった時に、藤九郎(とうくろう)という人が、踊りで和ませた話が八戸えんぶりの発祥と言われます。

しかもその舞いの中に「藤九郎の鶴の羽返し」というのがあるのです。

馬の首象だけではなく、鶴や亀もある。それに、「鴨の練り首」もあった!

その新羅の郷の支倉は、「はせ」→長谷であり、長谷寺は、中将姫が「長谷観音」のお告げで麻の曼荼羅を織った人でした。

阿波忌部の倭織(しずおり)のこと。

忌部の織物は、麻と絹があわさった倭織(しずおり)でした。

そういえば、阿波古事記でも「猪鼻」の地名がありました。支倉の地にも忌部がおり、秦氏が養蚕を伝えたことと繋がり、麻と絹が婚姻関係を結んで、剣山の日ユ同祖論というのが誕生し、「鶴亀山」とした。それが「かごめ歌」として記録されています。

伊達政宗が、支倉常長に頼んだのは、当時、世界のキリスト教を統括するローマで、逆卍を記したかったのだと思います。

迫害されたネストリウス派の想いもこめて…。

支倉常長もその目的のためだけに、ローマを目指したと思います。

(最初はメキシコに訪れているので、先祖ルーツのマヤ文明を?)

その卍の意味は、「和の力」であり、伊達政宗が望んだ世界の理想郷。

※和を掲げて伊達政宗を祀る青葉神社

秦氏・物部氏ができなかったトミナガスネヒコとの和解。

伊達政宗は、トミナガスネヒコの子孫だからです。

青葉神社の租霊社は、日月星マーク。

伊達政宗の紋様。

※「地羅背板五色乱星」といって水玉は星。

五色の地球人。

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ということで、長い妄想になりました。

秦さんと一緒に歩いた京都みたいですが、意外にも東北にも濃い足跡を残しているもんですね~・・・。

イエスの双子説もあるのですが、長くなるので割愛します。

「誰かとそっくり」な記紀の話は、関連すると思います。

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おまけ

八坂神社。

人がたくさんいて、何がなんだかわかりませんでした。

女子も群がる美の神様。悪とされたスサノオ。だれも参拝してない・・・。

悪王子の荒魂。悪とは、強力の意味だそうです。皇室の祖先神。

スサノオの姉にあたる天照大神(内宮)と衣食住を始めとする豊受大神(外宮)。

やっぱり落ち着きます。

下:えべっさん(蛭子神)

この後、なぜか風と大雨になった・・・

猿田彦命の白髭神社と太田神社。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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