芭蕉が夢見た長崎

https://4travel.jp/travelogue/11129855 【傘寿旅行・「海の細道」周遊旅情 10,芭蕉が夢見た長崎(目次)】より

「・・しばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞き馴れぬ人の詞も聞かん」と芭蕉が願った長崎。

雇った船で茂木に着いた各務支考は、陸路で長崎に向い,佐敷を舟出してから4日を要して長崎の宿に入る。支考の長崎の宿は去来の門人卯七宅。

その翌日、卯七宅に故郷長崎の両親の墓参りに来た嵯峨野の去来が突然現れ、支考始め面々の嬉しい驚きの様子が「梟日記」に見える。

  萩咲て 便あたらしみやこ人  支考

その様なこともあってか、支考は長崎に14日間も滞在する。

その間何度か句会が開かれており、芭蕉翁の思い出にも耽ったに違いない。

しかし滞在日の長い割には、訪問先の記述は少ない。

「梟日記」に記載がある地名又は場所は清水寺と丸山界隈、夜の舟遊び、最終日に訪れた諏訪神社の3か所。

私も天草の富岡港から連絡船で長崎本土の南端の茂木港に着き、長崎の夜景を見ようと稲佐山展望台へ。

長崎湾の西サイドを訪れたのはこれが初めてであった

翌朝、対岸に遠望した雨のオランダ坂を辿り、思わず寄り道したのが活水女子大学のキャンパス。

そのままグラバー園の東側からグラバースカイロードを伝ってグラバー園を回遊。

しかし予定していた諏訪神社へは、寄り道したお陰で回る時間が足らなくなり、大浦天主堂の前を素通りして、長崎駅からJRで唐津へ。

10,芭蕉が夢見た長崎 目次

10,-1天草から長崎への玄関・茂木港

10,-2新世界三大夜景・稲佐山からの眺望

10,-3雨のオランダ坂の大浦東山手居留地区

10,-4グラバー庭園大浦南山手居留地区

10-,5国宝大浦天主堂と「日本之聖母」

この旅で長崎は5回目であり、関心のお在りの方は下記をご覧ください。

(略)

http://4travel.jp/travelogue/11139863 【10,芭蕉が夢見た長崎10-,5国宝大浦天主堂と「日本之聖母」】より

グラバー園の出口の先に”長崎伝統芸能館”が待ち受けており、殆ど全員がここを通る。

館内は長崎の最大の祭り諏訪神社の”くんち”に奉納される蛇踊りの”白龍と青龍”、

各町の”鉾”が展示されている。

諏訪神社を訪れたという支考だが”くんち”とは「9月9日」の事だそうだから、4月に訪れた支考は祭りを見に行ったわけではない。

私もTVでしか”くんち”を見たことがないが、”魅力性”からいえば個人的には日本の祭りのトップだと思う。

長崎くんち(写真が素晴らしい)

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1509/index.html

NPO法人祭プラス(動画あり)

http://matsurip.org/nagasakikunchi

”長崎伝統芸能館”を出、坂を下ると先ず目に入るのが赤レンガ壁の”大浦司祭館”。

その先にかなり急な石段があり、見上げると正面に国宝・大浦天主堂がその美しい姿で建ち、尖塔の十字架が天に伸びている。

入り口前には純白のマリア像。

この美しい姿を一目見ようと観光客が増加し、落ち着いてミサを挙げられなくなったので、やむを得ず”大浦司祭館”が建てられた。

お陰で観光客は開館時間内なら時間に制限されることなく、いつでも聖母マリアに会うことができる。

入り口前のマリア像は、”隠れキリシタン”発見(1866年)を記念してフランスから送られたもので、”日本之聖母”とも呼ばれている。

大浦天主堂の主祭壇裏にはステンドグラスのキリスト像と、その脇にイエスを抱いた”聖母マリア像”あり、その”聖母マリア像”前で「われ隠れキリシタンなり」と告白したという。

よかとこ長崎の春?大浦天主堂

http://4travel.jp/travelogue/10235294

芭蕉の没後およそ200年後の出来事。

・・なのでこの旅行記の主題とは外れるが、少し気になるのでマリア像の話を続ける。

それは隠れキリシタンが祈ったイエス・キリストを抱いた聖母マリアと、大浦天主堂の入り口前に建つスタンドアロンの聖母マリアとは同じマリア様なの?・・ということ。

旧約聖書で数度しか登場せず、登場した場面でも、父なる神の子で、なんでも承知のはずのイエスに、一度も「母」と呼ばれなかったマリア。

その僅かな登場場面でマリアとイエスの親子らしい関係を示す一つは、親子で招待された”カナでの結婚式”で、ワインがなくなってきたことを知ったマリアがイエスに頼み、イエスが奇跡で水瓶の水をおいしいワインに変える場面。

生前のマリアは父なる神に選ばれた女性かも知れないが、神の子イエスのように”奇跡”を持ち合わせていない”普通の女性”であった。

マリアの死後約2000年の後の1854年12月8日、教皇ピウス9世の回勅によって、”無原罪の御宿り”の教義が発せられる。

それは「マリアはその存在の最初(母アンナの胎内に宿った時)から原罪を免れていた」というもので、だからと云って「マリアはイエスと同じ神性を持つ」と主張しているわけではないようだ。

”無原罪の御宿り”の教義が発せられた4年後、フランスのピレーネ山脈の麓の小さな町ルルドで、14歳の少女ベルナッタが一人の若い婦人に出会う。

ベルナッタが目にしたその姿は、よく知られるイエスを抱くマリアでなく、スタンドアロのマリアだったらしい。

しかしその姿はベルナッタ以外誰も目にした者は居ない。

その婦人は自らを”無原罪の御宿り”(聖母マリアのこと)と名乗り、生前のマリアからは考えられない、神か魔女でしか使えないだろう”奇跡”で、難病に効くとされるようになる泉を湧き出させる。

キリストの神を覗く旅路第3部五島列島の小さく質素だが美しい教会群巡礼27洞窟から現れたルルドのマリア・曽根カトリック教会

http://4travel.jp/travelogue/10821768

ポルトガルは500年前、ユーラシア大陸の西の果て、リスボンから大航海時代の魁のとなる船出をし、1541年、西欧諸国の中から最初に世界の東の果て日本の大分に到達する。

prt512大航海時代のポルトガルの心意気の象徴・発見のモニュメント in リスボン

http://4travel.jp/travelogue/10576771

その途上、上陸した国々での住民支配の手段とし活用したのがキリスト教会。

それは当に後期の西ローマ帝国がパンと娯楽に変えて、キリスト教を利用して住民を懐柔したのと同じ手法。

その際尖兵として活躍したのが、フランシスコ・ザビエルが創始者の一人であった、イエズス教会でパリに本部があった。

明治維新前夜、幕府に肩入れしたフランスは、多くの宣教師を日本に渡来させる。

プティジャン神父もその一人で、当初はまだ来日フランス人のために創建された大浦天主堂の神父であった。

プティジャン神父のもとに日本の隠れキリシタンが現れたのを記念し、フランスが送った聖母像が大浦天主堂入口の聖母マリア像で、別名”日本之聖母”。

フランスが送っただけあってその像は、イエスを抱くマリアでなく、ベルナッタがルルドで目にしたしたのであろう、スタンドアロンのマリア像。

この像は隠れキリシタンが大浦天主堂で出会った、イエスを抱くマリア像と同じマリアですか?

五島列島の教会はその殆どの教会でマリア像に出会うが、その大半は大浦天主堂の入口のマリア像と同じ、スタンドアロンの美しく、優しい眼差しのマリア像。

苦しみに打ちひしがれた人々が求めたのは、その美しく、優しい眼差しで、”無原罪の御宿り”かどうかなどはどうでも良かったのではなかろうか。

時間が無くなり、諏訪神社は諦め、次の訪問予定地”唐津”に向かうため長崎駅へ。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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