https://smcb.jp/communities/603/topics/20487 【参考文献 「八咫烏」「八岐大蛇」】より
神武天皇は東征の途中、神に使わされた八咫烏(ヤタガラス)に導かれ畿内に入るとある。
八咫烏は、全長八尺の鳥であり1尺・18センチとしても、144センチもありそんな大きな鳥は居ないであろう。
身体は黒く、烏(カラス)のようであるが、足は三本足であり伝説の鳥と思われる。
多くは、熊野大社に祭られ、神の使い、また同等の扱いを受けている。
人間と仮定するのならば、渡来系の鳥を崇(あが)める民族となるが、神武天皇がその民族であるとも言える。
しかし、畿内に入るまでに他の部族の攻撃に合い、八咫烏の助けによりとあるので熊襲系の1部の部族に助けられたと解釈しても良いだろう。
その他に注目すべき事が、隣国朝鮮に在る。
それは、高句麗の旗印である「三本足の黒鳥」である。
伝説によると、高句麗を象徴し、太陽の中に住んでいると言われる三足烏(サムジョッオ)です。
遥か古代から東アジアでは、この太陽に住む神聖な黒い鳥が神のメッセンジャーとして広く崇拝されていたので、これは高句麗だけの文化とは言い切れません。
しかし、高句麗の三足烏は、ほかの国の三足烏とは違う特徴を持っています。
三足烏は足が三本あるカラスだとよくいわれますが、高句麗の三足烏はカラスではなく、頭に冠がついた黒い鳥で、龍を餌にするほど強くたくましい最強の鳥なのです。
高句麗人は、「我々は神に選ばれた民族だ」という自負から、この太陽の鳥を大事にしていたのではないでしょうか。
韓国映画の高句麗を題材とした「太王四神記」「朱蒙」などを見ると必ず出てくるようです。
高句麗の古墳壁画に頻繁に登場する三足烏。その冠は数字の1と水や太古の生命を、翼は数字の2と和合、均衡、夫婦、温かみを、3本の足は数字の3と自然の生命、循環、夫婦の間で生まれた子供、完成、力を象徴します。
3は天と地と人を表わす天の数字でもあります。
これは、手塚治虫の「火の鳥」を思い出しますね。
火の鳥は、この鳥をモデルにしたと言っても良い様ですね。
http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-315.html?sp 【城北公園 花菖蒲 鴨 『八咫烏(鴨建角身命)の正体』】より
城北公園の花菖蒲園では鴨が気持ちよさそうに泳いでいました。
鴨という名前を持つ神様がいます。
鴨建角身命(かもたけつぬのみこと)といい、京都の下鴨神社に祭られている神様です。
↓ 下鴨神社
下鴨神社 蹴鞠始め2
鴨建角身命は賀茂氏の始祖とされています。
初代神武天皇は日向に住んでいましたが、あまりに国の端であるということで東征し、機内入りをめざしました。
そして河内国へ上陸し、地元の豪族・ナガスネヒコの軍と戦いますが、敗れます。
そこで神武天皇はいったん南に迂回して紀州から上陸することにしました。
神武は熊野を北上しますが、この際、鴨建角身命が八咫烏となって現れ、神武天皇を道案内しました。
咫は大きさを示す単位で、八は一般には大きな数字を表すと考えられています。
八咫烏とは大きな烏という意味だとされています。
しかし梅原武さんは「八は復活する数字」だとし、「八角墳は死者の復活を願って作った古墳、八角堂は死者の復活を祈って作ったお堂のことではないか」とおっしゃっています。
そういえば、八咫鏡は天岩戸にこもった天照大神を復活させた鏡のことですね。
神武天皇を道案内したのは八咫烏ですが、神武の先祖にあたるニニギという神が高天原から葦原中国へ天下る際、猿田彦という神が道案内しています。
猿田彦は天狗の姿をしています。
そしてニニギを道案内した神なので、祭りの行列では先導役とされることが多いです。
↓ 下の写真は大阪市平野区杭全神社の平野夏祭の猿田彦神です。
杭全神社 夏祭 猿田彦
猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」だと記述があります。
これにぴったりな神名を持つ神がいます。天照国照彦火明櫛玉饒速日命です。
天は高天原、国は葦原中國のことなので、「天照国照彦」とはまさしく「高天原から葦原中国までを照らす神」という意味になります。
天照国照彦火明櫛玉饒速日命という神名は先代旧事本紀の記述で、古事記や日本書紀では単に饒速日命(ニギハヤヒ)となっています。
この天照国照彦火明櫛玉饒速日命は男神で、本当の天照大神ではないかという説があります。
天岩戸にこもった天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味をもって天岩戸から出てきますが、女神のストリップダンスに興味を持つのは男神だ、というのです。
さらに天照国照彦火明櫛玉饒速日命は物部氏の祖神とされているので、初代神武以前に物部王朝があったとする説もあります。
猿田彦と八咫烏はどちらも天孫の道案内をしているところから、同一神ではないかと私は考えます。
八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれることが多いです。
つまり、八咫烏とは復活した太陽神・ニギハヤヒなのではないかと思います。
神武以前に物部王朝があったとすれば、神武が初代天皇となったとき、物部王朝の王族は神武に服従するか、殺されるか、または未開の地へ逃げるなどしたことでしょう。
その物部王朝の祖神であるニギハヤヒ=猿田彦=八咫烏は神武に祟りこそすれ、神武の道案内などするはずがない、と思われるかもしれません。
しかしウィキペディアの祟り神の項目には次のように記されています。
「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。」
つまり、猿田彦や八咫烏とはニギハヤヒという祟り神を手厚く祀り上げることで、協力な守護神に転じさせた神のことではないかと私は考えています。
それにしても鴨建角身命は鴨なのに、なぜ烏に化身したんでしょうね?
https://yomiagaeru.exblog.jp/26076030/ 【出雲路幸神社の謎(1) 京都の出雲郷】より
京都の賀茂川の西に出雲路幸神社(いずもじさいのかみのやしろ)がある。
また、島根県安来市の飯梨川の川岸にも、同名の出雲路幸神社がある。なぜ、同名の神社なのであろうか。まずは、京都の出雲路幸神社。京都に出雲氏はいたのか。
平安時代初期のの『新撰姓氏録』(815年)を見ても、出雲氏族の名前が見られる。
左京 神別 天孫 出雲宿祢 宿祢 天穂日命子天夷鳥命之後也
左京 神別 天孫 出雲 天穂日命五世孫久志和都命之後也
右京 神別 天孫 出雲臣 臣 天穂日命十二世孫鵜濡渟命之後也
右京 神別 天孫 神門臣 臣 同上
山城国 神別 天孫 出雲臣 臣 同神子天日名鳥命之後也
山城国 神別 天孫 出雲臣 臣 同天穂日命之後也
※『新撰姓氏録』を見ると、出雲姓は大国主命、事代主命を始祖とするものは見られない。すべて天穂日命を始祖とするもので、天津神の系統としている。
京都の賀茂川
賀茂川と高野川が出町柳で合流して鴨川になるらしい。一般的には鴨川なのかもしれないが…。
上賀茂神社と下鴨神社で、かもの字が違う。「かも」の表記は難しい。
現在も京都賀茂川の西岸に、出雲路俵町や出雲路神楽町などの地名が見られる。平安京への遷都に伴って、出雲氏族が移動したのかと思いきや、正倉院の文書『山背国愛宕郡出雲郷計帳』(神亀3年ー726年)には、300名以上の出雲氏族の名前が書かれているという。
つまり、奈良時代にはすでに京都に住みついていたのである。
また、出雲郷は上と下に分かれており、雲上里と雲下里と言ったようだ。
奈良時代から、ここの出雲臣一族が多くの下級官人を輩出したらしく、『出雲郷計帳』によれば雲上里で12人、雲下里で18人の下級官人の名がみえ、ひとりを除くすべてが出雲臣氏出身であったそうである。
詳しくは→ 今出川校地と古代“出雲郷"
出雲路幸神社 京都府京都市上京区幸神町303
サイノカミ三神の猿田彦神を祀っているから幸神社というのは明らかである。
この出雲路というのは京都の地名なのであろう。
猿田彦神は、道の神でもある。それゆえ、出雲「路」なのかもしれない。
現在ここの神社の京都御所のちょうど東北に位置し、「平安京」の鬼門封じの神社とも言われておる。
しかし、京都御所の位置であるが、平安遷都(延暦13年・794年)時は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあったようだ。(→ウィキペディア 京都御所 )
なぜ、道祖神が「鬼門封じ」の神に選ばれたのであろうか。
たとえば、平安時代成立の法令集『延喜式・第一巻』(藤原時平/藤原忠平ら編集)6月祭条に記されている道饗祭(みちあえのまつり)であるが、毎年6月と12月の2回、都の四隅道上で、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、久那斗神(くなどのかみ)の3柱を祀り、都や宮城の中に災いをもたらす鬼魅や妖怪が入らぬよう防ぐ神事が行われた。(→ウィキペディア 道饗祭 )
いわゆる境界神サイノカミ三神は、京都では八衢比古神・八衢比売神・久那斗神と祭られたようである。
以上のように宗教上の理由も当然あったのだろうが、平安京の北東に出雲氏族が住む出雲郷があったことを思うと、実体上の守りを、出雲氏が担っていたのだろうか。
出雲路幸神社の社伝によれば、当社の祭祀は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年(661年)に再興され、桓武天皇の延暦13年(794年)、平安京の鬼門除守護神として改めて社殿を造営されたという。
また、平安遷都後は「出雲路道祖神」と云い、江戸初期に現在の地に遷座された際、「幸神社」と改めたという。
なお、歌舞伎の創始者である出雲の阿国が、幸神社の稚児であり、巫女として仕えたという故実があるため、芸能上達を願う人々の祟敬を集めているようだ。
京都や奈良など地名に見える「出雲」は、おそらく、出雲国を本源地とする豪族の出雲氏の足跡だろうと思う。壬申の乱(672年)には、大海人皇子(天武天皇)側についた人物として、出雲臣狛(いずもおみ こま)という人物が登場する。(→ ウィキペディア 出雲狛 )出雲臣狛が、どこに住んでいたかわからないが、出雲氏は飛鳥時代にはすでに奈良か京都に住んでいたと思われる。
古事記や日本書紀に目を向ければ、垂仁天皇時代の野見宿禰、応神天皇没後に淤宇宿禰(おうのすくね)という後の出雲氏の祖が見られる。となれば、出雲姓氏として存在しなくとも、弥生時代の後半から古墳時代すでに、近畿地方に存在したことになる。
なお、この出雲姓は、『出雲国造世系譜』によれば、17世宮向(みやむく)臣の時、初めて、出雲姓を賜ったと云い、反正(はんぜい)天皇4年のことであったという。
https://tenki.jp/suppl/kous4/2017/03/06/20821.html【生ける神ヘビが目覚めて戸を開く? 七十二候「蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)」】より
生ける神ヘビが目覚めて戸を開く? 七十二候「蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)」
冬眠から目覚めた蛇
3月5日より、啓蟄(けいちつ)の初候「蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)」。冬籠りしていた虫が「戸」をひらいて地上に姿を現す、という意味です。秋分次候の「蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)」と対応していますが、「坏戸」という言葉も不思議な言葉ですが、「啓戸」も、「たかが虫」の目覚めを表すにしてはやや仰々しく、まるで天岩戸から出てくるアマテラス神話のよう。しかしそれもそのはず、「虫」は本来ヘビのことで、そしてヘビは古代人にとって太陽神であり、畏怖と信仰の対象だったのです。
生命力の塊!仰天のヘビの生態
「啓蟄」の時期になると、暦どおり昆虫や節足動物を見かけることが急に増えてきます。筆者もつい先日大きなヒキガエルが道を渡っているところに出くわし、「春だなあ」と感じました。
でも、昆虫類やカエルなどと比べても「虫」の字の元になった蛇は格段に寒さに弱く、冬眠から目覚めるのはもう少し先になります。
日本に生息するヘビの種類は36種。そのうち本州、九州、四国には8種類(アオダイショウ、シマヘビ、マムシ、ヤマカガシ、ジムグリ、シロマダラ、タカチホヘビ、ヒバカリ)、北海道には5種のみが生息し、それ以外は亜熱帯の島嶼に生息するヘビです。
ヘビが太古の人類に恐れられ、またあがめられていたのはその生命力の強さと毒によります。ヘビの生殖はオスメスが大量に入り混じり(または一匹のメスにオスが大量に群がり)くんずほぐれつの大乱交を繰り広げることで知られ、これをブリーディングボールと言ったりします。オスメス二匹だけの交尾では、全身で絡み合ったまま数日間にもわたり交尾を続け、その姿はまるで、中国神話で人類を作ったとされる女媧と伏羲そのもの。人間はそれらの生態を目撃することで、ヘビの生命力と生殖力に驚異と畏怖の感情をもったに違いありません。
ちなみに、放出された精子はその後卵子に結合しないままでも数年間体内で生き続けるというから驚きです。こうしたことから、蛇は古くから滋養強壮の特効薬として知られてきました。
まん丸のヘビの目も特殊で印象的。まぶたがなく、そのかわりカプセルのように透明なうろこが覆っています。見開かれた無機質な瞳に不気味な印象を持つ人も少なくないでしょう。またその瞳の構造は、水晶体の厚みが変わらず、水晶体そのものを前後左右に動かして、厚みの違う部分を瞳孔に重ねることでピント調整するという特性を持っています。これは陸生生物ではヘビだけで、水生に適応したカメやワニにもない特性です。
このためヘビの祖先は水生爬虫類だったとも言われています。海生爬虫類から進化したとする説、淡水の爬虫類から進化したとする説(何とこの説は日本の石川県白峰村の桑島化石壁から1億3000万年前の地層から淡水生の蛇の祖先の化石が見つかったことによります)、やわらかい土、泥のような場所で進化したとする説が、今も議論されています。いずれにしても、それらの爬虫類から白亜紀にヘビと同じような姿をし、後ろ足だけが残ったパキラキス (Pachyrhachis ) が現れます。パキラキスは浅い海に生息していました。ヘビの祖先たちは波打ち際の泥海でハゼのように半水生生物として進化して、次第に乾燥地域にも適応していったものと思われます。
原始、蛇は太陽であった
爬虫類の仲間はどれも個性的ですが、とりわけヘビの姿は特殊できわめてインパクトがあるため、龍と同一視され、またそのモデルにもなりました。
「易経」(B.C1500年ごろ)の「繋辞下」には
龍蛇之蟄 以存身也
(龍蛇の蟄するは以て身を存するなり)
とあり、ヘビと同様、空想上の生物・龍も地中で冬眠するとされました。
先述したようにヘビの目にはまぶたがなく、常に見開いているため、ヘビの目、つまり「じゃのめ」は呪力の強いものと信じられ、古くから二重円の形に意匠化され、太陽、特に朝日に見立てられてもしてきました。
日本神話に登場するヘビの怪物「八岐大蛇(やまたのおろち)」は、日本書紀で「頭・尾、各(おのおの)八岐(やまた)有り。眼は赤酸醤(あかかがち)の如し。」と表記され、また、天照大神が日神に収まるまでの原始日本で太陽神としてあがめられてきた猿田彦神(さるたひこのかみ)は、同じく日本書紀に「一神あり、天八達之衢に居り、其の鼻の長さ七咫、背の長さ七尺余り、まさに七尋といふべし、また口尻明り耀れり、目八咫鏡の如くにして、てりかがやけること赤酸漿(あかかがち)に似れり」とあり、ほとんど八岐大蛇と同様の描写がなされています。猿田彦神の「尻が輝いていた」というのは、八岐大蛇の尻尾から神刀・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)があらわれた、という描写に対応しています。太陽神・猿田彦神もまた大蛇の神でした。ちなみに「赤酸醤」とは赤く色づいたホオズキの実のことです。「かがち」の「かが」は「かがやく」の語源で光り輝くもの、太陽を意味します。日本書紀に登場する邪神・天香香背男(アメノカガセオ)の「カガ」も同様。この神もまた太陽神でしたが、中央政権から貶められ、太陽から星=天津甕星に降格されて鎮圧されてしまうのです。
「大和」という国がはじめて誕生した当時、その中心地であり神体であった奈良の飛鳥の三輪山大神神社の神、大物主大神もまた典型的な大蛇の神でした。
神社などの神域に飾られる注連縄はヘビをあらわし、これは道切り(辻きり)行事などではその正体を現してヘビそのものの姿で村の境の魔よけの結界として道筋にかけられます。縄文土器の縄文文様もまた、ヘビを表現してその生命力と呪力を器にこめたものです。日本は蛇神をあがめる国であり、太陽そのものが「蛇」だったのです。
啓蟄の時期に行われる奇祭・天道念仏、オビシャに見られる太陽信仰
今でも仏教や山岳信仰と習合しながら、原始の太陽信仰の名残は存在しています。
畿内地方では彼岸に、朝は東の、昼は南の、夕方は西の寺社を巡り歩く「日の伴」「日迎え日送り」と呼ばれる行事があり、これは原始的な太陽崇拝の名残と考えられます。東日本、関東から福島あたりでは、寺の境内や仏堂の前に天棚(てんだな)を設けて日天・月天の木牌を立て、周囲を回りながら踊る天道念仏があります。天道念仏は五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈念するもので、福島県白河の天道念仏は「さんじもさ踊り」とよばれ、赤く太陽を描いた扇を持って、舞庭の中央に組まれたお棚を回って踊ります。
千葉県印西市武西(むざい)では「称念仏踊」「しょうねえ」とよばれ、1月16日の鉦おこし念仏、1月18日~20日の寒念仏、2月15日の天道念仏、3月・9月の彼岸念仏、6月10日前後の虫送り念仏、8月13~16日の棚念仏・施餓鬼念仏、9月10日前後の荒除け念仏などが延々と行われ、太陽信仰の原型をうかがうことができます。
また、天道念仏の盛んな地域では、旧正月前後に関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事も盛んです。
オコナイは豊作祈念行事のことで、その年の頭屋(とうや/村社の年回りの持ち回り当番)の家で鏡餅づくりや茅の輪くぐり、丸い的に矢を射るなどの行事を行います。関東のオビシャは、三本足の烏(ときに三つ目の兎)を描いた的を弓で射る、地域の鎮守の森で行われる豊作祈念行事。烏の絵の場合「カラスビシャ」とも呼ばれ、利根川流域、特に千葉県では盛んに行われています。これは、道教の思想に見られる太陽に住むという八咫烏を的にしたものですが、つまり太陽の目に見立てた烏の目を射抜くことにより、その年の太陽の恵みをゲットするという願掛け。太陽なのに蛇じゃなくて烏じゃないか、といわれるかもしれませんが、神社には「鳥居」があります。原型となった朝鮮半島の神域を現すソッテとかチントベキという木標は、木造の鳥を止まらせています。これらの元になった東アジアの古代集落の「鳥竿」(とりざお)祭りには鳥居にかけられるのはやはり注連縄。つまり、「カラスビシャ」で描かれて射られる的は、眷属の烏の姿に描かれていても、的そのものは「蛇の目」なのです。(これらについての話は、いずれ童謡「七つの子」で詳しく述べさせていただきます。)
マヤ族のチチェンイツァの古代都市遺跡にあるマヤ族最高神ククルカン(ケツァルコアトル)を祀るピラミッド神殿、エル・カスティーヨでは、春分と秋分の1年に2回、「ククルカンの降臨」と呼ばれる現象が起きます。ククルカンは何と、羽を持つ蛇の神、つまり鳥であり、ヘヒなのです。マヤ・アステカのピラミッドの特徴である階段状の段々の形状。階段の最下部に地上にふれた場所にはククルカンの頭部がきざまれていて、春分と秋分の日にのみ、側壁にピラミッドの影が投影されて、ぎざぎざしたヘビの胴体の姿が日の光となって浮かび上がって頭像と合接し、空から滑り落ちてくる巨大なヘビの姿となって現れるのです。言うまでもなく、ククルカンも太陽の神です。
「礼記」月令孟春には二月の半ばごろを「蟄虫始振」、落葉の季節の11月ごろを「蟄虫墐戸」とあらわしています。
なぜ秋分を迎えた直後(9月末)に蟄虫坏戸が入れられ、春分前の蟄虫啓戸が入れられているのか。もし蟄虫の「虫」が特に蛇を想定しているのなら、9月末ごろにはまだ冬眠に入るには早く、3月の最初では冬眠から目覚めていません。また他の「虫」、つまり昆虫類や両生類などにしても、やはり9月末に「戸を塞ぐ」=冬眠に入るのはやや早すぎます。七十二候で「虫」に仮託されているのは、太陽そのものの大地、気象、生物に及ぼす作用の盛衰なのではないでしょうか。つまり9月末に太陽はその作用を注ぐことをやめ(杯を返す)、3月はじめにふたたびその戸口をおごそかに「啓く」。それはそのまま農事の一年の始まり・終了の目安でした。
太陽とともに生きる変温動物「虫」たちは、暦上ちょっと無理に眠らされたり起こされたりしているのかもしれませんね。
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