https://omouhana.com/2017/09/13/%e6%9d%be%e5%b0%be%e5%a4%a7%e7%a4%be/ 【松尾大社】より
上賀茂神社・下鴨神社と共に京都で最古の神社と云われる「松尾大社」に足を運びました。
京都の人は東京は「東の都」、京都は「都の中の都」と言うそうです。
それは794年から明治2年まで(諸説あり)、日本の首都であった都だから、だそうです。
また、京都は古き良き日本の象徴ともされ、昔ながらの風情をあちこちに残しています。
かつては僕もそう感じていました。
しかし古史を旅していくと、京都でさえ新しい都だと感じてしまうようになってしまいました。
真に古い大和の都は、それは奈良であり、出雲であり、九州北部であったりして、京都は煌びやかな、新都であると感じるようになりました。
今回、京都を散策しても、神社などの創建は平安時代前後で、わりと新しい、と思ってしまいます。
さて、松尾大社です。
「両流れ造り」の美しい本殿と伺いましたが、なんと、神門を含め、修復中でした。
松尾大社の由来では、もとは背後にある松尾山の神霊を山頂近くの磐座に祀ってきたそうです。
それを渡来人「秦忌寸都理」(ハタノイミキトリ)が、大宝元年(701年)に社殿を構え、神霊を移して祀ったのが起源だと云います。
秦忌寸都理…そう、秦氏です。
秦氏は謎多き一族と云われていますが、古代出雲伝承を紐解くと、その実態が見えてきました。
秦氏は朝鮮からの帰化人だとよく云われていますが、秦氏の秦は支那秦国の秦です。
秦の始皇帝の時代、徐福とともに渡来した一族が、秦氏と呼ばれています。
彼らは製鉄・養蚕・漢方など、様々な技術と文化を日本にもたらしました。
ただ、秦氏と呼ばれる彼らが生粋の秦人であるかというと、そうではなく、秦が六国を滅ぼし支那を統一する中で最後まで抵抗したとされる「斉」(せい)の民であったと云います。
彼らは「イスラエルの失われた10支族」の末裔であったそうで、彼らの関わった日本の神社にはイスラエルの六芒星が残されていることがあるようです。
御祭神は「大山咋神」(オオヤマクイノカミ)と「市杵島姫」(イチキシマヒメ)です。
市杵島姫といえば宗像三姉妹のひとりです。
なぜここに祀られているのか。
大山咋神が秦氏の祖神「徐福」のことであるとしたなら、その関係にも納得がいきます。
徐福は二度、日本へやってきますが、最初の渡来では西出雲へ上陸し、「火明」(ホアカリ)と名乗ります。
そして出雲王「大国主・八千戈王」の娘「高照姫」を妻に迎えます。
やがて徐福は妻子を出雲に残し、祖国秦へ帰っていきます。
徐福が再び渡来したのは有明海の佐賀平野でした。
そこで徐福は「饒速日」(ニギハヤヒ)と名乗ります。
そして妻に迎えたのが出雲王家の分家である宗像「吾田片隅」(アタカタス)王の娘、宗像三姉妹の末の「市杵島姫」でした。
ちょっと疑問なのは、大山咋神の伝説によると、「丹波の開拓に尽力した」とあるので、大山咋神は徐福というよりは、その出雲での息子「五十猛」(いそたけ)のことであろうと思われます。
五十猛らは丹波に移り、海部家(あまべけ)の祖となって開拓します。
やがてその子孫たちが秦氏として、丹波から山代へ移住してきて、精錬、養蚕、醸造などの技術を太秦界隈にもたらし、やがて大きな力を持って松尾大社を建立したのでしょう。
とするなら、市杵島姫を祀るのではなく、母の高照姫、もしくは妻の大屋姫を祀るのが筋ではないでしょうか???
よくわかりません。
松尾大社の裏にある山中には古代から祭祀されてきた磐座があるそうです。
ただ有料であるのと、二人以上でなければ登山できないこと、撮影等はできないなどの理由で参拝は諦めました。
松尾大社といえば、「酒造の神様」です。亀と鯉が神使であると云います。
残念ながら下戸な僕ですが、酒の神といえばどうでしょうか、三輪山の事代主の方が一枚上手なように、僕は感じます。
https://www.ritsumei-fubo.com/fudoki/y03/ 【松尾大社と秦氏】より
京都盆地の西部を南流する桂川、「保津川下り」で知られるように、この河川は丹波・亀岡から保津川として京都盆地に流れ込み、嵐山の渡月橋の辺りで桂川と名称を変える。一方で、大堰川(おおいがわ、大井川)とも呼ばれるが、実は大堰川という呼び名こそが、古代京都盆地の開拓との関係を物語っている。
名勝として知られる嵐山にかかる渡月橋、その橋上から上流を眺めると、川底に段差のあることがわかる。この段差が、古代に築かれた大堰、すなわち治水施設に関わるものと考えられ、京都の人はこの施設の存在する辺りを、殊更に大堰川と呼んできた。
京都盆地は、北高南低の傾斜の強い地形をしている。それ故、北部の地域は水利の便に恵まれず、元来耕作には不向きな土地であった。嵯峨野・北野といった地名は、もと「野」即ち原野であったことを示している。ところが、5世紀頃この地に高い技術をもった集団が入植し、その技術で治水施設を整備して、土地の開拓を進めていく。秦の始皇帝の末裔とも称する秦氏である。秦氏は、応神天皇の時代に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)の子孫と『日本書紀』は伝え、養蚕・製糸に従事する集団を形成した。同時に、農耕に関しても大いに力を発揮し、著しく生産性を向上させたと考えられ、京都盆地のみならず、近江や播磨など各地に、その痕跡を留めている。
秦氏のルーツについては諸説見えるが、新羅の波旦(はたん)から渡来したという有力な見解がある。入植後、秦氏は嵯峨野の地域に、自らの古墳を築造した。同時に、その氏神として祀ったのが、今日嵐山に鎮座する松尾大社(まつのおたいしゃ)である。
社殿の後方に聳える松尾山(標高223メートル)には、頂上部に古墳が所在するが、山頂近くの大杉谷上部に御神蹟の磐座(いわくら)があり、この磐座が信仰の対象となってきた。信仰の起源は秦氏の入植以前に遡り、渡来系の秦氏は、在地の伝統的信仰と融合させて、一族の氏神を奉祭したと考えられる。
松尾大社の祭神は、大山咋(おおやまぐい)神と中津島姫命の二座で、前者は近江・坂本の日吉大社、後者は北九州・筑紫の宗像(むなかた)大社の祭神と一致する。日吉大社・宗像大社共に、渡来人の足跡を色濃く残す地域の神社である点、興味がひかれよう。
ちなみに、中津島姫命は、戊辰の年に「松埼日尾(まつざきのひのお)の日埼岑(ひざきのみね)」に天降ったと伝えられ、松尾山の磐座がその地点とする見解も呈されている。
松尾大社の社殿は、大宝元年(701)に勅命により秦忌寸都里(はたのいみきとり)が造営し、御神蹟から神霊を遷したと言われる。秦氏の子孫が代々その祭祀を掌り、平安時代には名神大社に列せられた。現存する本殿は、応永4年(1397)建造、天文11年(1542)に大修理されたもので、両流造・松尾造と呼ばれる建築様式で、重要文化財に指定されている。
一方、松尾大社の境内・近隣に、一ノ井川・二ノ井川という桂川より引かれた水路が所在する。桂川の東側にも同じく水路があり、秦氏が築いた施設と考えられている。そして、東側水路の流路を辿ると、秦氏の本拠とされる太秦(うずまさ)の地に至る。この太秦は、地名の用字からしても秦氏と極めてゆかりの深い地域で、この地に秦氏の氏寺として広隆寺が建てられた。
さらに、784年の長岡遷都と794年の平安遷都、桓武天皇により敢行された相次ぐ遷都には、この地に居住していた渡来系氏族の存在が強く影響したとされる。言うまでもなく、京都盆地の開拓と経営を推し進めた秦氏の力に負う部分も大きかったと考えられ、以後、この松尾大社は、前回取り上げた上賀茂・下鴨神社と共に、王城の鎮護として永く朝廷の尊崇を受けることになるのである。
https://yamauo1945.sakura.ne.jp/matsuo.html 【松尾大社の祭神 秦氏本系帳の謎】より
はじめに
松尾大社の御祭神は、現在では大山咋神と中津島姫命である。
ここで、どちらが先に鎮座されたかを問うならば、おそらくすべての人が大山咋神と答えるであろう。
それは中津島姫命の鎮座は大宝元年(701)とされており、『古事記』に登場する松尾の大山咋神は神代からの地主神であるからだろう。
しかし、10世紀前半に成立した現在最古の年中行事書『本朝月令』の「四月上申日松尾祭事」所引「秦氏本系帳」には、松尾大神の御社(松尾社)の記載があるが大山咋神の名は見当たらない。
私はこのことから、秦氏が最初に奉斎したのは中津島姫命で、大山咋神はその後ではないかと思い、本稿を執筆したしだいである。
1 松尾山の磐座
(1)磐座祭祀の起源に関する見解
松尾大社の神奈備山と言われる松尾山に巨大な磐座が鎮座していることは広く知られている。
これについて、松尾大社編纂『松尾大社』(文献1①)は次のように述べている。
(松尾大社の)はじまりは、秦氏を中心とするこの地域一帯に居住していた人々が、社殿を創建して祭祀を行う以前から、背後の松尾山の大杉谷に現存する磐座で神々をまつり、尊崇してきたことに始まる。
松尾山の山頂近い大杉谷の上部に現存するこの磐座は、巨大な岩石からなり、古くより日埼岑(ひさきみね)とか、御神蹟とかよばれ、崇められてきた。
今日でも松尾山は、氏子から「おやま」と尊称され崇められているが、そうした松尾の神への信仰は、遠い古代から親から子へと脈々と受け継がれてきたのである。
本殿・拝殿などの建造物を伴う今日のような社を設け、神々をまつる以前、太古の人々は、神々は山や森に天降るとされたので、その神々を祭祀した場所である神聖な山や森を、「神奈備」とよんできた。・・・松尾大社の祭祀もそうした神奈備の信仰を受け継ぐものであった。
図1 松尾橋左岸南から見た松尾大社の鳥居と背後の松尾山の山並み
図2 松尾山山頂近くの磐座(Yahoo!検索 松尾大社画像集より)
松尾山の磐座祭祀の起源については、秦氏が渡来するはるか以前というのが定説となっている。・井上満郎「秦氏と松尾大社」(文献2)
(松尾大社の磐座には)はるか以前のナチュリズム(自然崇拝)にもとづく信仰があったのであり、それは渡来人たちが集中的に渡来して京都に住みつく五世紀後半頃より、はるか前に発生したものである。
松尾の神の原型が、こうした日本古来の信仰であることは疑いない。
・梅原猛「松尾大社 秦氏が祀る縄文の神と弥生の神」(文献3)
(松尾大社は)縄文時代以来の我が国の土着神・大山咋神と、渡来系の稲作農業の神である市杵島姫と合祀して、恰も夫婦神のように祀り、縄文と弥生が結合した正に日本民族、日本文化形成の秘密そのものを語る神社といわねばならぬであろう。
これに対して、あまり知られていないが次のような異論もある。
・丸川義広「松尾山古墳群と洛西の開発」(文献4①)
山全体を信仰する祭祀は神奈備信仰とも呼ばれ、巨石の麓を神の降臨する磐座に見立てることで行なう祭祀で、一般的には古墳築造に先だって行なわれた原初的な祭祀とされている。
しかし、松尾山の場合もこの見方ができるのであろうか。
松尾山全体が古墳時代後期には墓域として利用されたことを今までに述べてきた。
仮に、山全体が古くから信仰の対象とされていたなら、その山上に古墳を築くようなことが行なわれたとは思われない。
とくに山頂に築かれた古墳などは、磐座を見下ろす位置にあるため、いかにも不自然である。そこで、古墳の築造が終了した後に露出していた巨石が磐座に見立てられ、山全体が信仰の対象となった。そして、見上げる麓には社殿が構えられた。
古墳群と磐座の関係は、このように考えるのが最も妥当ではなかろうか。
松尾山古墳群の発掘に携わった者ならではの、事実に立脚した冷徹な視点と言えよう。
私は、この磐座は古墳の石材を切り出した跡ではないかと想像している。
群集墳は小規模であるため、石材の調達も身近なところに求めたのではないだろうか。
古墳群と磐座の関係について本格的に取り組んだ論文は見当たらないが、これは今後の重要課題となろう。
(2)磐座と古墳分布
ここで、松尾大社(松尾山)と日吉大社(八王子山)の遺跡地図を比較しよう。
<松尾大社(松尾山)>
図3 松尾山古墳群の分布(『京都市遺跡地図』1996年より作成)(文献4②)
<日吉大社(八王子山)>
『古事記』に登場する「大山咋神。亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐す。」の近淡海国の日枝の山とは、
滋賀県大津市坂本にある日吉大社の八王子山(牛尾山)のことである。
山容は上賀茂神社の神奈備山である神山(こうやま)に良く似たドーム型をしている。(図4)そして、ここにも山頂近くに巨大な磐座が鎮座している。(図5)
その磐座は金大巌(こがねのおおいわ)と呼ばれ、八王子宮と三宮の社殿の間にある。(図6)
図4A 日吉馬場から眺めた八王子山 図5 八王子山の磐座 図4B(参考) 上賀茂神社の神奈備山 神山山容は左図の八王子山に相似『古事記』に登場する大山咋神のまたの名は「山末之大主神」である。
「山末之大主神」の「山末」は山の頂上部を意味する。逆に「山本(山口)」は山麓を意味する。つまりは山頂に坐す山の大主神(地主神)の意である。
古代には、山頂近くの岩や樹木がこれにあてられた。
図6 八王子山 日吉社古墳群の分布(文献5) 金大巌の磐座(山頂の八王子宮と三宮の社殿の間にある)八王子山の磐座と松尾大社の磐座は山頂ちかくにあり、位置的には大山咋神の御座にふさわしい。
しかし注目すべきは、日吉大社の古墳分布が八王子山の麓にあるのに対し、松尾大社の古墳分布が磐座の周囲にあることである。
中でも、山末之大主神たる大山咋神の御座である松尾山の山頂に、古墳があるのは驚きである。(注)この問題については次項(3)で別途検討する。
(注)よく神社と古墳の関係が話題になる。
例えば、図6の日吉社は、古墳分布の中に神社があるといっても過言ではない。
しかし、神社と古墳では成立年代が異なる。
神社は古墳が風化したのちに建てられたものである。
それに対して、磐座は古墳時代以前の存在であることから、古墳と磐座の関係はリアリティを有している。
群集墳に関して、辰巳和弘氏は論文「密集型群集墳の特質とその背景」において次のように述べている。
畿内政権は、6世紀後半に各地に台頭しつつあった中小首長層に墓域を与えることにより、造墓をうながし、従来の散在型群集墳の被葬者を通じての地域支配を、より下位のレベルまで拡大することにより貫徹しようとしたのであり、新しく造墓集団として墓域の賜与を受けた集団にあっても、造墓を認められることは、地域における社会的・政治的位置の上昇と安定を手中にすることができるという効果があったのである。
そして従来から群集墳を築造してきた散在型群集墳の被葬者集団との造墓地をめぐる対立を避けて、経済的にも利用価値の少ない、丘陵急傾斜面に墓域が設定されることとなったとみられる。(文献6)
上記の「新たな造墓集団」として、秦氏の中間の支配者の人々を当てはめてみたらどうであろうか?即ち、松尾山は秦氏が進出してきた当初は、利用価値の少ない土地であった。
まして在来勢力の磐座の鎮座する聖地ではなかった。
このことから、八王子山の磐座が本来のものであるのに対し、松尾山の磐座は秦氏によって後世に磐座とされたものといえる。
尚、松尾山の群集墳は嵯峨野の古墳群と関係が深いためその終末は、7世紀後半と推定される。(文献7①)
(3)住居・墳墓・祭祀エリアの関係
ここでは古墳時代における住居・墳墓・祭祀エリアがどのような関係にあったかを、
八王子山から琵琶湖を介した対岸にそびえる三上山(みかみやま)を例として示そう。
三上山は滋賀県野洲市近郊にある高さ432mの山で、「近江富士」の名で知られる典型的な神奈備山である。
この近くは、有名な24個の銅鐸を出土した大岩山古墳群がある。
この山の麓には式内社の御上(みかみ)神社があり、頂上には奥宮と奥津磐座が鎮座している。『古事記』開化天皇の段に「近つ淡海の御上の祝がもちいつく天之御影神」とあり、
社伝に「孝霊天皇の御世、三上山山頂に天之御影命が出現し御上祝が三上山を盤境と定めて祀った」とある。
当社は、奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社と同様に、古は社殿がなく神奈備山の遥拝所であったと想像される。
<御上神社(三上山)>
図7 三上山(Yahoo!検索 三上山の画像集より)これぞ典型的な神奈備山である
図8 三上山山頂の磐座 磐座の背後に奥宮の鳥居が見える
図9 三上山周辺の遺跡 「野洲市遺跡地図」野洲市教育委員会(HP1)
磐座のある三上山山頂付近には古墳がなく、磐座のある聖地・住居・古墳は独自のエリアを占めていることがわかる。
磐座のある聖地は、今も三輪山に見られる禁足地にあたるものであろう。
図6八王子山と図9三上山においては、山頂の磐座を仰ぎ見る形で古墳が麓に分布しているのに対し、図3松尾山は磐座と古墳が山頂部に混在しており明らかな相違が認められる。
松尾山の山容(図1)も、神奈備山の典型であるドーム型(八王子山 図4)や円錐型(三上山 図7)とは異質で尾根の一部と見なされる。
土生田純之(はぶたよしゆき)氏も、古墳時代における聖域(神の宿るところ)と古墳は決して混在することはないであろうと述べている。(文献39)
2 筑紫胷形坐中部大神の勧請
(1)筑紫胷形坐中部大神の伝承
『本朝月令』(注)「四月上申日松尾祭事」は、松尾社の祭事について述べた最古の文献である。その中に、松尾社の祭神に関して「秦氏本系帳(はたうじのほんけいちょう)」の逸文がある。
しかし、不思議なことにそこに記載された祭神は中部大神(現在の中津島姫命)のみで大山咋神の記述はまったくない。
その理由は後ほど述べるとして、ここではまず『秦氏本系帳逸文』の解釈をおこなう。
(注)『本朝月令(ほんちょうがつりょう・ほんちょうげつれい)』は、10世紀前半に著された年中行事の書。
撰者は惟宗公方(これむねのきんかた)と伝えられる。
一年間に行われる朝廷の儀式・行事のそれぞれについて、関係する先例・法令・伝承などを『六国史』や『類聚三代格』その他の文献から引用している。
年中行事の古例を知るうえで貴重な書であると同時に、「秦氏本系帳」「高橋氏文」などの氏族志の逸文が含まれている。
<『本朝月令』「四月上申日松尾祭事」所引「秦氏本系帳逸文」>原文:『群書類従』(文献8①)
正一位勲一等松尾大神御社者。筑紫胷形坐中部大神。
戊辰年三月三日。天下坐松埼日尾。又云日埼岑。
大寶元年。川邊腹男秦忌寸都理。自日埼岑更奉請松尾。
又田口腹女。秦忌寸知麻留女。始立御阿禮乎。
知麻留女之子秦忌寸都駕布。自戊午年為祝。
子孫相承。祈祭大神。
自其以降。至于元慶三年。二百三十四年。
筆者訳
正一位勲一等、松尾大神の御社(みやしろ)は、筑紫胷形(つくしむなかた)に坐(ま)す中部(ちゅうぶ)の大神。
戊辰(つちのえたつ)の年三月三日、松埼日尾(まつざきひお)(又、日埼岑(ひさきみね)と云ふ)に天下(あも)り坐す。
大宝元年、川辺腹男(かわべのはらお)、秦忌寸都理(はたのいみきとり)、日埼岑より更に松尾に奉請す。
又、田口腹女(たぐちのはらめ)、秦忌寸知麻留女(はたのいみきちまるめ)、始めて御阿礼(みあれ)を立てり。
知麻留女の子秦忌寸都賀布(はたのいみきつがふ)、戊午(つちのえうま)の年より祝(はふり)となる。
子孫相承し、大神を祈祭す。其れより以降、元慶三年に至ること二百三十四年。
語句注解
<正一位勲一等松尾大神御社者。筑紫胷形坐中部大神。>
これによれば、松尾大神の御社、即ち松尾社の祭神は、「筑紫胷形坐中部大神」となる。
「筑紫胷形坐中部大神」については、次項で詳述する。
ここには大山咋神の名は見当たらず、また中部大神が大山咋神のもとに合祀されたとするニュアンスも感じられない。
尚、松尾大社が正一位勲二等に叙されたのは、『日本三代実録』貞観八年(866)十一月二十日条であるが、正一位勲一等に叙されたという記録は『六国史』にはない。(HP2)
『六国史』の終了は仁和三年(887)八月二十六日である。
尚、『松尾大社史料集』所収「松尾皇太神宮記」には「貞観八年ニ神階ヲ正一位勲一等ニ進メ奉ル」(文献9)とあるが、上記に照らして誤りである。
<戊辰年三月三日。天下坐松埼日尾。又云日埼岑。大寶元年。川邊腹男秦忌寸都理。自日埼岑更奉請松尾。>
「筑紫胷形坐中部大神」は「戊辰年三月三日」に「松埼日尾」またの名を「日埼岑」へ降臨し、大宝元年(701)に秦忌寸都理により、そこから更に「松尾」へ勧請されたとある。
これには様々な疑問点が多くあり、明確な根拠の乏しいものではあるが、ただ松尾社の社殿の創建については、『伊呂波字類抄』第六(文献10)や『江家次第』第六 四月松尾祭頭注(文献11)、「松尾社神主東本家系譜」(文献12)に大宝元年に秦忌寸都理が初めて社殿を建立したことが記されている。
図10 松尾大社の社殿 辺津磐座であろうか、後方に巨大な岩塊が見える。
尚、文中の「川辺腹男」は、川辺の家系に生まれた男という意味であろう。
(注)「戊辰年」を、天智天皇が近江大津宮で即位した天智七年(668)とする説がある。
「松埼日尾」については、松尾山の磐座、京都市左京区の松ヶ崎、出雲の美保関や日御碕にあてる説がある。(文献13②)
<又田口腹女。秦忌寸知麻留女。始立御阿禮乎。>
「田口腹女」は、田口の家系に生まれた女という意味であろう。
「始立御阿礼乎」の「乎」は、『群書類従』所収の『本朝月令』では「平」となっているが意味がよく通らない。
そのため、以下のような校異がある。
『年中行事抄』(文献14①)は、これが「乎(コ)」になっている。
字の形からいえば「乎」は「平」に近いので、ここではこれを採用した。
意味としては、目的を示す助字「を」、詠嘆の助字「かな」が考えられる。
他には、『本朝月令要文(尊経閣善本影印集成)』(文献15)の「畢(ヒツ)」がある。「畢」には、終えるの意味がある。
また、大和岩雄氏は「(御阿礼)木」(文献16①)としている。
さらには、「平」を削除し、「其」の字を次の「知麻留女」の頭に置いて「其知麻留女」とする校異もある。(文献17①)
いずれにせよ、知麻留女が御阿礼神事を行ったことにかわりがない。
御阿礼(御生)とは神が姿を現すことで、御阿礼神事は磐座に榊を依代として立てておこなう降霊の神事である。
いこま山手向はこれか木の本に岩くらうちて榊立てたり
永久四年百首(堀河院後度百首) 源兼昌(かねまさ)
上賀茂神社の御阿礼神事、下鴨神社の御生神事は良く知られている。
私は、知麻留女の御阿礼神事こそが、松尾山の古墳群の中にある岩壁が「御神蹟」と呼ばれる磐座に変貌した時であると想定している。
それゆえ、私はこれを中部大神の磐座と呼びたい。
<知麻留女之子秦忌寸都駕布。自戊午年為祝。子孫相承。祈祭大神。自其以降。至于元慶三年。二百三十四年。>
文中の「自其以降、至于元慶三年。二百三十四年」には干支において不可解な点がある。(文献13①)
元慶三年(879)から二百三十四年遡った大化元年(645)の干支は乙巳であり、
秦忌寸都駕布が祝となった戊午年とは異なるが、「元慶三年」自体はほぼ問題なかろう。
それにしても、大宝元年(701)の社殿建立からずいぶん年月がたっていることに留意すべきである。
(略)
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