松尾芭蕉の"奥の細道"に隠された深い意図

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_163.html 【松尾芭蕉の"奥の細道"に隠された深い意図】より

管理人は、ふとしたきっかけで、松尾芭蕉の句を、色々研究するようになりました^^;

と言うのも、芭蕉の旅の中に、只ならぬ思惑がある事に気が付いたからです。

松尾芭蕉は、名字に"松尾"とあることから、ほぼ間違いなく秦氏です。

(三重県伊賀市出身であることから、元々、服部の忍者なのかもしれません)

そして、実は、彼の句の中には、奇妙なタイミングで、烏(からす)について読まれているの句が幾つか見受けられるのです。

松尾芭蕉は"烏(からす)"に導かれた?

ここで、烏(からす)の出てくる歌を、年代順に並べて見ましょう。。。

からすの出てくる歌は、全部で3首あります。

(なお、芭蕉の句や訳文などは、「芭蕉発句全集」を参考にさせて頂きました)

①枯枝に烏のとまりたるや秋の暮(かれえだに からすのとまりたるや あきのくれ)

訳:日が沈みかけた秋の暮に、ふと見ると、枯枝に烏がとまっている。

延宝8年(1680年)、芭蕉37歳の作。

(※なぜか、鹿島神宮の要石の傍に、この句碑があります)

上記の句を詠んだ頃を境に、芭蕉は談林俳諧から脱し、蕉風俳諧へと転換していきます。。。言わば、芭蕉の転機となった頃の句です。

②何にこの師走の市にゆく烏(なににこの しはすのいちに いくからす)

元禄2年(1689年)、大津 膳所歳末の市を詠んだと思われる。

からすが師走で賑わっている街中に行こうとしている。

このカラス何のために人ごみめがけて出かけていくのだろうか。

この年元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)から、芭蕉は、あの『奥の細道』をスタート(江戸深川をスタート)させています。

そして、東北・北陸を巡り約150日間の行程を経て、1689年8月に終点大垣で奥の細道は終わってますが、、、

この年の暮れには、大津に居た・・・という事になります。ここでも、烏の歌が出てきている訳です。

③ひごろ憎き烏も雪の朝哉(ひごろにくき からすもゆきの あしたかな)

元禄4年(1691年)、大津義仲寺(木曽寺)(滋賀県大津市)での作。

雪の朝はみな新鮮で、そんな折には普段は薄汚いと敬遠しているカラスでさえも雪に映って、普段と違う感慨をもよおすから不思議なものだ。

カラスが憎まれ者だというのは、今も昔も変わらない。

最後に、この歌を詠んだ元禄4年(1691年)を境に、芭蕉は江戸に帰っています。

つまり、この年に関西から、江戸へと帰還しています。

・・・なんだか、芭蕉の転機の時に、烏の歌が詠まれているような気がしませんか。

私の勝手な推測ですが、芭蕉の詠んだカラスとは、本当に空を飛ぶ真っ黒なカラスのことを詠んで居たのでしょうか?もしかすると、"別のカラスの集団"に、いざなわれたのではないでしょうか。奥の細道に隠された、旅の目的とは?

では、もし仮に、芭蕉が、別のカラスの集団、、、はっきり言ってしまえば、八咫烏(ヤタガラス)に誘われて、旅に出たのだとしたら、芭蕉は、何を目的にして奥の細道に出かけていったのでしょうか?

【図は芭蕉と伊賀より】

45歳の芭蕉による『おくのほそ道』の旅程は六百里(2400キロ)にのぼり、これは当時のこの年齢としては大変な健脚でありスピードです。

何か使命が無ければ、こんな行程を踏破出来ないと思います。(旅が目的ならば、旅が終わった後、江戸に直帰しないのもおかしいですね)

そこで、ちっと長いですが、奥の細道の序文と訳文を、下記に列挙します。

(奥の細道の序文と訳文)(※おくのほそ道・序文を引用)

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。

古人も多く旅に死せるあり。

月日というのは、永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人である。

船頭として船の上に生涯を浮かべ、馬子として馬の轡(くつわ)を引いて老いを迎える者は、毎日旅をして旅を住処(すみか)としているようなものである。

古人の中には、旅の途中で命を無くした人が多くいる。

予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。

わたしもいくつになったころからか、ちぎれ雲が風に身をまかせ漂っているのを見ると、

漂泊の思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、去年の秋は、隅田川のほとりのあばら屋に帰ってクモの古巣を払い、しばらく落ち着いていたが、しだいに年も暮れて、春になり、霞がかる空をながめながら、ふと白河の関を越えてみようかなどと思うと、さっそく「そぞろ神」がのりうつって心を乱し、おまけに道祖神の手招きにあっては、取るものも手につかない有様である。

もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、 草の戸も住替る代ぞひなの家  面八句を庵の柱に懸置。

そうしたわけで、ももひきの破れをつくろい、笠の緒を付けかえ、三里のつぼに灸をすえて旅支度をはじめると、さっそくながら、松島の名月がまず気にかかって、住まいの方は人に譲り、旅立つまで杉風の別宅に移ることにして、その折に、人の世の移ろいにならい、草葺きのこの家も、新たな住人を迎えることになる。

これまで縁のないことではあったが、節句の頃には、にぎやかに雛をかざる光景がこの家にも見られるのであろう。と発句を詠んで、面八句を庵の柱にかけておいた。

上記では、旅に出る理由として、"道祖神の手招きにあった"と書かれています。

この道祖神とは、元々はのルーツは、記紀にある猿田彦神なのですが、、、

芭蕉自身は道祖神のルーツには、何ら興味を示してはいません。そういう訳で、道祖神のルーツと言うよりも、"道"という事が大事だったのかもしれません。

管理人は、この"道"という語句が、下記のフレーズと非常にダブってきたのです。

(マタイの福音書7:13~14)

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない。

もし、仮に芭蕉が隠れキリシタンで、上記のマタイの福音書を意識して、"奥の細道"という題名をつけたのだとしたら・・・???

もしかしたら、何か、後世の我々に対して、暗に道を示すために、"奥の細道"を書いたのかも知れません。

なお、秦氏や八咫烏について知らない方に言っておくと、、、八咫烏(ヤタガラス)は、元々イエス・キリストの12使徒をルーツにする原始キリスト教団だとも言われています。

そして、その中心となっているのが、秦氏であると言われています。

(その辺の事情は、下記の本をご参照下さい)

そう考えると、決して、「マタイの福音書で示す道=奥の細道」だという説は、あながち、馬鹿には出来ないのではないかと思います。

塩竈に祭られた、塩土の翁とは?

さて、仮に芭蕉が、後世の我々に、道を示すための重要な役割を果たしていたのだとしたら・・・

"道"を見つけ出すためのヒントは、奥の細道にあると言ってよく、さらに言えば、序文にある、旅の目的地"松島"にヒントがあると言って良いでしょう。

その松島に何があるかと言えば、、、その付近には"鹽竈(塩竈)神社"があります。

(鹽竈神社には、境外末社に御釜神社もある)

この"塩竈神社"は、非常に不思議な神社で、色々と謎が多いのです。

(鹽竈神社の謎)

① 奥州一ノ宮と言われる大社にも関わらず、延喜式の式内社ではないこと。

② 式内社ではないにも関わらず、弘仁式や延喜式において全国で四社しかない正税からの祭祀料を受けていたこと。

③ 鹽竈社以外の、全国で正税から祭祀料を受けていた他の三社「伊豆国三島社」「出羽国月山大物忌社」「淡路国大和大国魂社」は、いずれも式内社であったこと。

④ 鹽竈神社が受けていた祭祀料は他の三社の五倍以上で最高額であったこと。

上記の鹽竈神社の謎は、「はてノ鹽竈」さんのサイトで、詳しく考察されていますので、ご参考下さい。

なぜ、鹽竈神社は、こんなに不思議な扱いを受けていたのか?

もしかすると、この事は、芭蕉の旅の目的とも何かリンクしているのかもしれません。

この鹽竈神社の謎を解くためには、その由来を調べて見る必要がありそうです。

「wikipedia 鹽竈神社」の項目を調べると下記のように書いてます。

鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。

そうです。鹽竈神社の祭神は、珍しいことに"塩土老翁神"なんです。

(※塩土老翁神を祭神にしているのは、鹽竈神社だけです)

記紀において、"塩土老翁神"が出てくる箇所は、合計3箇所です。

①『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。

一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。

②海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。

ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、

そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の井戸の近くの

桂の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。

③『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が

東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある。

よーく見て見ると分かりますが、、、塩土の翁は、"全て、道を指し示す役として記紀に出てくる"のです。

まさに、奥の細道で言う所の道祖神とは、塩土老翁神の事を指しているとしか思えません。

海彦山彦の話にも関係している塩土老翁神

ところで、若干、話は変わりますが、先日、こういうニュースがありましたよね。

●<古事記の「神宝」>宮崎の鵜戸神宮が戦後初公開へ

日向灘に面する観光名所、宮崎県日南市の鵜戸神宮が、古事記編さん1300年を記念し、

来月3、4の両日、古事記にも登場する神宝「潮満珠(しおみつたま)」「潮涸珠(しおふるたま)」を戦後初めて一般公開する。

「潮満珠」は丸い水晶型、「潮涸珠」は大きさの違う円柱を4段重ねた形で約5~7センチ。

古事記には、初代天皇(神武天皇)の祖父に当たるホオリ(山幸彦)が海の神様ワタツミから授かり、釣り針を巡ってけんかした兄のホデリ(海幸彦)を「潮満珠」でおぼれさせた後、「潮涸珠」で助けてひざまずかせたと書かれている。

先ほども言いましたが、山彦に対して、海神の宮を指示したのが、塩土老翁神です。

そして、その物語の重要な宝物(潮満珠・潮涸珠)が出てきたのが、宮崎県です。

もし、カラスが裏で関わっているとすれば、これは、単なるニュースではありません。

このタイミングで、神宝を出すと言うのは、何か重要なヒントを与えてくれているような気もします。

芭蕉風に言うならば、"奥の地で 烏が啼くや 秋の暮"って感じでしょうか^^;

"奥"とは何処だ?隠された神様のおわす場所

ここで、もっと深く考察するために、"奥の細道"の"奥"について考えてみます。

実は、"奥"とは、漢和辞典には、こう書かれています。

"部屋の南西の隅を言い、部屋の中で最も尊い所。ここに神を祭った"

[論語:八ユウ(ユウは人偏に有)]

王孫賈問曰、与其媚於奥、寧媚於竈、何謂也。

与其媚於奧。寧媚於竈

... 当時のことわざ。奧の神のご機嫌をとるより、かまどの神のご機嫌をとれ

ちょっとびっくりしてしまいますが・・・

"奥"と言う漢字は、論語の八ユウのことわざで、かまどの神をも暗示しているのです。

そして、論語には、「かまどの神のご機嫌を取れ」と書いてます。

芭蕉の"奥の細道"は、まさに、[論語]に謎かけされていると見て良いでしょう。

そして、"奥の細道"の目的は、鹽竈神社を明示する事にある!と言って良いのではないでしょうか。

しかし、ここで、ちょっと待って下さい。論語には、続きがあるのです。

正確な論語の一文は、下記の通りです。

王孫賈問曰、與其媚於奥、寧媚於竈、何謂也、子曰、不然、獲罪於天、無所祷也。

(訳文)

衛国の実力者であった王孫賈(おうそんか)さんが、先生にむかって次のようにおっしゃった。

「こんな言葉がありますな、『何もない綺麗な奥座敷に上がり込むよりも、少々汚れていても、食べ物のある台所に行ったほうが得だ』。先生はこの言葉をどのように思いますかな。」 

上記の質問は、本によっては、「『奥の神様に媚びるより、竈の神様に媚びよ』という諺がありますが、どういう意味ですか?」とも書かれている

衛国では君主(※奥の神)より王孫賈さん(※竈の神)の方が権力を握っていた事から、

彼の言った言葉が「君主(奥の神)ではなく実利のある自分=王孫賈(竈の神)の言うことを聞け」という意味である事に先生は気がついた。

そして、先生は次のようにおっしゃった。

「いやいや、その言葉は間違いでしょうな。何にせよ、天の道に背いてしまったら、それ以降、どれだけ天に祈っても無駄になってしまう。道にはずれない生き方をしたいものです。」・・・上記の通り、論語の全文を読むと、竈の神よりも、奥の神よりも、天の神が大事だって言っているので、お間違えなく。

(ただし、ことわざのみ見ると、「奧の神のご機嫌をとるより、かまどの神のご機嫌をとれ」なので、こちらも正解なのです。)

要するに、論語全体では、奥の神 とか 竈の神 うんぬんより、天の道に従うことこそ大事で、道に外れない生き方をせよ・・・という意味です。

ちなみに、「奥の神」とは、何処にいらっしゃるのか?もう一度、奥の漢和辞典を開いて見ると、こう書いてます。

"部屋の南西の隅を言い、部屋の中で最も尊い所。ここに神を祭った"日本の南西の隅で、神を祭る最も尊い場所とは・・・?日本の場合は、宮崎の高千穂でしょうか?(orそれとも沖縄か?)高千穂は天皇家の発祥の地であり、天孫降臨の場所です。

そして、この高千穂の霧島連山の山頂にあるのは、有名な"天の逆鉾"・・・

最初の方で言いましたが、、、塩土老翁神は、天孫降臨のニニギの命にも、しっかり道案内してます。

①『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。

一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。

以上のように、奥の細道の"奥"について、奥と言う字の意味だけを辿っていけば、なぜか、目的地の塩釜とは、丸っきり反対側の高千穂も思い浮かべてしまいます。

取りあえず、今まで述べた事は、現時点で推測の域を出ない話です。

しかし、"奥の細道"に、塩釜や高千穂が暗示されていることは、ほぼ間違い無いのではないかと管理人は思います。

【天逆鉾~御釜神社のライン:なぜか京都や淡路島が、直線上に・・・???】

我々に与えられた使命は、"その道を解くこと"・・・です。

道を解くためのヒントは、日本の記紀や古文献、その他、昔からの風習や文化の中に、幾つも落ちています。

だからこそ、記紀や風土記、万葉集、古典文学などなど・・・暇な時にでもいいので、もう一度読み返してみて下さい。

また、日本の古い風習や習慣などを、もう一度よく観察して見て下さい。

すぐには気付かなくても、ある日、「あっ!」と思うような発見があるかもしれません。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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