http://takachika.seesaa.net/article/99790342.html 【隠れキリシタン 芭蕉コード】より
松尾芭蕉。実は隠れキリシタンだったという説がある。芭蕉の詠んだ俳句の中に聖書の話しを彷彿させるものがたくさんあると言う。
草の戸も 住み替わる代ぞ 雛の家
学校の時は、松尾芭蕉が奥の細道に旅に出るので、家を売ってしまった。売り払った家で新たな住民が新しい雛飾りをするだろう。という意味で習った。なぜ、雛飾りなのか?不思議でならなかった。
ところが、聖書では雛とは、キリスト教徒の意味で使う。この解釈でいくと、
現在はキリスト教徒は弾圧されているが、時代が変わり終焉するだろうの意味となる。
また、旅立ちの時、友人と別れのつらさを詠んだとされる
行く春や 鳥なき魚の 目は涙
魚は聖書ではイエス・キリストのこと。聖書的に解釈すれば、キリシタン弾圧の現在を悲しむキリストの目に涙ということになる。
奥の細道の最初の序文
松島の月 まず心に かかりて
とある。この松島の月。実は松島に月浦という漁港がある。実は伊達正宗の時代、支倉常長がローマに派遣されたときの出向した港が、月浦なのだ。
奥の細道で芭蕉が訪れた場所は、隠れキリシタンにまつわる遺跡のある場所と一致するという。じつは、奥の細道は隠れキリシタンの巡礼の旅だった!!
タカチカのダビンチコードは止まらない。
http://takachika.seesaa.net/article/99741790.html 【いろは歌 キリストコード】より
「そんなのわからないのか?」「そんなのいろはだよ。」
なんて言い方をよくする。つまり、いろはとはいろは歌のいろは。昔、国語はいろはから習った。ものごとの基本中の基本の意味。
いろは歌を漢字であらわすと「色は匂えど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ・・・・」だ。
実はこの「いろは歌」大変な暗号が隠されている。
ゑあやらよちい
ひさまむたりろ
もきけうれぬは
せゆふゐそるに
めこのつをほ
みえおねれへ
すしてくなかと
よく読んでもらいたい。一番下の段。 右から読むと とかなくてしす つまり咎なくて死すそして上の段の左端と右端と、下の左端 ゑ・・・・・い・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・す・・・・・・・いゑす つまり イエス
咎なくて死す イエスとなる。そして一番上の段
いちよらやあゑ 実はへブライ語 イーシ・エル・ヤハウェ 意味は神ヤーベの人
つまり神ヤーべの人イエス・キリストは咎なくて死んだの意味だ。
いろは歌。実はキリストの暗号が隠されている!
http://takachika.seesaa.net/article/281137043.html?seesaa_related=category 【君が代は ヘブライ語】より
君が代は 千代に 八千代に 細石の 巌となりて 苔の生すまで
よく知ってる我が国の国歌だが、サイトで面白いのを見つけた。これをヘブライ語にする。
クミガヨワ 立ち上がる テヨニ シオンの民 ヤ・チヨニ 神・選民
サッ・サリード 喜べ・人類を救う残りの民として
イワ・オト・ナリァタ 神・予言・成就する
コルカノ・ムーシュマッテ 全ての場所・語られる・鳴り響く
つまり
立ち上がれ、神を讃えよ!神の選民、シオンの民!選民として喜べ!人類に救いが訪れ!
神の予言が成就する!全地あまねく宣べ伝えよ!
まぁこういう意味になるらしい
http://takachika.seesaa.net/article/470299727.html?seesaa_related=category 【ユダヤ的発想】より
夫婦生活で女は男を助けるもの。男がいて女が助けて夫婦生活は成り立つ。と言いかたをすると、日本固有の古い考え方であると思うと思う。
しかし実は、これ旧約聖書の創世記の最初に書かれており、ユダヤ的発想である。
日本人の慣習や古来の考え方、風習にはユダヤ的要素、聖書を題材にしているものが実に多いのだ。
たとえばひな祭り。ひな祭りの原型は、ヒトガタと呼ばれる人の形に切り抜いたものを身体を撫でてケガレを移し、川や海に流す『祓え (はらえ)』という行事であると言われている。この発想の原点は、身代わりである。キリストが、人類の罪を背負って十字架にかかると言う身代わりがあったおかげで救われている。という発想から来ているようなのだ。
また、ひな 雛とは、キリストを意味する隠語であるとも言われている。たとえば、教科書にも出てくる松尾芭蕉の句。
草の戸も住み替る代ぞひなの家
学校では、松尾芭蕉が前に住んでた家に新しい住民が来てひな祭りを楽しんでいるよという意味と習ったはずだが、これでは何のことか分からんし何故ひなの家なのか?と普通に疑問を持つし、こうだから覚えろ!と言われると興味も失せる。
しかし、ひなはキリスト教を意味する隠語であると考えると
現在はキリスト教徒は弾圧されているが、時代が変わり弾圧は終焉し、キリスト教は復活するだろうの意味となる。キリスト教が弾圧されていた江戸時代を考えると頷ける。
また、『南無阿弥陀仏』を唱えるだけで救われるとか、歎異抄の有名なフレーズ、「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」とかもなぜ何もしないでも救われるか、念仏を唱えるだけで救われるかが意味不明であるが、キリストが身代わりになって十字架にかかっているからという枕言葉があると考えればスッキリする。
このように聖書の考え方は、我々日本人の考え方に意識的にも無意識にも深く影響及ぼしているのは間違いない。
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