ディアスポラ

中学生の頃 シェックスピア戯曲の「ベニスの商人」を読んだことがあります。

世界の財閥の営利追及の在り方を 見た時 この戯曲を思いだしました。

http://e-freetext.net/venice.html にダウンロード用テキストが紹介されていました。

「昔、シャイロックというユダヤ人がヴェニスに住んでいた。シャイロックは高利貸しであり、キリスト教徒の商人に高い利子を付けて金を貸すことで大金持ちになったのだった。

シャイロックは冷酷な心の持ち主であり、貸したお金の返済をとても厳しく要求してきたために、すべての善良な人たちに嫌われていた。

その中でも特にアントニオというヴェニスの若い商人がシャイロックを憎んでいて、シャイロックもまたアントニオを憎んでいた。

というのは、アントニオは困っている人によくお金を貸していて、そのお金に決して利息をつけなかったからである。

このことから、このどん欲なユダヤ人と寛大なる商人アントニオは互いに激しい敵意を抱いていた。

アントニオはリアルトー(すなわち取引所)でシャイロックに会うと、いつもシャイロックが高利で金を貸して厳しく取り立てることを非難していた。」と在ります。

中学生の頃はユダヤ商人の強欲な残忍さを思いました。

今改めて読むと シャイロックの無念な気持ちが良く分ってしまいます。

キリスト教徒はユダヤ教徒の子孫でした。

出エジプトを果たし 約束の地(しかしカナン人・原住民がいたのですが)に住み始めると ローマ帝国の支配と弾圧に脅かされることになります。

ローマ帝国はキリスト教徒にとっても、ユダヤ教徒にとっても共通の敵でした。

しかし、ローマはキリスト教を民の統治の道具とするため、国教会に定めます。

そして長い中世、キリスト教と政治の癒着が続きました。

その間ユダヤ人はユダヤ人強制居住区域. ゲットーに隔離されました。

ゲットーが形成されたのは、文化的、宗教的に少数派であるユダヤ人が中世ヨーロッパにおいて異質なものとしてみなされたためです。

結果としてユダヤ人は多くの都市で厳しい規則のもとに置かれました。

本来は共通の敵だったローマに 取り込まれた同族のもの つまりは親族に裏切られたユダヤ教徒の悔しさを感じます。

もしあなたがユダヤ人だったとして 厳しい規則のある ユダヤ人強制居住区域・ ゲットーに隔離され、憎しみと蔑みに晒され ただただお金だけを 誇りにせざるを得なかったとすれば・・・?

シャイロックはキリスト教徒と結婚した 自分の娘さえ許すことができないともあります。

しかも高利貸しと侮られ非難されたとしても 相手がシャイロックの噂を知りながら 借りることを求めているにすぎません。

非情な高利貸しだと知りつつ そんな相手から借りる者こそ愚かです。

シャイロックは怒りをそして憎しみを バネにして 人々を虐げてしまったのです。

「目には目を、歯には歯を」の教えを生きているにすぎません。

悪名高きロスチャイルドの話を聞くと 私はこのベニスの商人を連想します。

しかも世界は銀行制度を認め、簡単に印刷できる紙を お金と認め より快適に、より便利に、より多くの富を・・・と求め続けてしまいました。

仮に日本が紙幣を導入しないで 金貨その他のコインを通貨で通していたとしたら 紙幣のように大量に通貨を得ることは不可能です。

インフレを簡単に引き起こすことも困難であり 消費量を増やすことも簡単にはできません。

消費は美徳と叫ばれ、マスコミを活用した コマーシャル産業の餌食になり、大量消費の大きなつけが示されています。

政治は企業に支配され、企業は銀行に支配され、銀行は一握りの大財閥に支配されるというピラミット構造を 受け入れてしまいました。

愛を失った相手に、支配欲に取りつかれた相手に 「人道的に!」も何もあったものではありません。相手を告発しても真実に変えることは困難です。

では今私たちに何ができるのでしょうか?

この構造を容認してしまった 自分たちの在り方を振り返ってみる必要があります。

私たちは愛よりも富を優先してきました。その流れに無自覚に乗ってきました。

これまで世界には 石油を求めて多くの争いがありました。

原子力エネルギーさえ富のために導入されました。エネルギーを求めての争いが続いてきました。まず一つの可能性はエネルギー改革。フリーエネルギーの利用 太陽光、水力、風力、そして磁気の活用、ヘンプカーまで検討されています。

二つ目は私たちがしっかりした死生観を持つこと。

三つ目は 団結して声を上げること・祭や地域コミュニティの回復。

四つめは 教育を権力者の手に握らせないということです。

しかし何よりも優先する必要があることは 戦争回避です。

これは 戦争を起こして得をするものを除けば 誰もが 望んでいることです。

それでも正当防衛的な 武力の行使力は 備えておく必要があるのかもしれません。

教育も、医療も、食も、エネルギーも 財閥が支配しきっています。

ウーマンリブの運動さえ 子どもの教育を「財閥が管理支配できる公教育」任せにさせるもくろみのもとに推進されたということです。

神はすべての場所にいることができないために、母親を創造された。( ユダヤの格言 )

自己実現を「愛に生きる」ことと捉え直せれば、「ありのままの自分を受け止め愛し、本来の自分を表現しながら生きる」ことと捉えれば 富への渇きから 少しづつ解放されてゆくのではないでしょうか?

ユダヤとキリスト教の対立

①キリスト教をローマの国教会に指定

テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言した。さらに392年には帝国内の異教信仰が禁止された。

②ニカヤ会議:キリスト教間の派閥の調整

キリスト教の派間の暴力抗争を解決するため、ローマ皇帝コンスタンティヌスはニカイア公会議(325年)を開いた。

③ユダヤ教からのキリスト教の自立(ギリシア語の七十人訳聖書)

紀元60年代のヤコブの処刑、続くペトロやパウロの刑死、さらに第一次ユダヤ戦争(66-70年)の結果としてエルサレム神殿が崩壊した後で、(現在のユダヤ教主流派に近い)ファリサイ派がヤムニア会議で(旧約)聖書正典を決定するプロセスにおいて、ギリシア語の七十人訳聖書を主要テキストとしたキリスト教と完全に袂をわかつことになった。

ここにおいてユダヤ教とキリスト教の信条の相違は決定的となる。これ以降「キリスト教」としての歴史が始まったといえる。

④イスラム教の誕生

西暦610年頃にマホメットはメッカ郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受けたと主張し、アラビア半島でイスラーム教を始めた。

アダム・ノア・アブラハム・モーセなどの預言者たちが説いた教えを、最後の預言者であるマホメットが完全な形にしたとされている。

キリスト教はユダヤ教から生まれ、イスラム教は キリスト教の胎動の中から生まれ、いずれもモーセ5書を共通の聖典としています。そしてセムを共通の祖先としています。

⑤機会があってナジルびとを調べました。

ウィキペディアには以下のように記されています。

ナジル人(ナジルびと)とは、聖書に登場する、自ら志願してあるいは神の任命を受けることによって、特別な誓約を神に捧げた者のことである。

実名で知られている者としてはサムソンが挙げられるが、他にも大勢のナジル人が存在したことを聖書は示している。また、サムエルもナジル人であったとする意見もある。

ヘブライ語のナジールは、「聖別された者」を意味する。

この同じ語は、ヨセフが祝福されたことに関連しても用いられている。

ナジル人の誓約[編集]

「民数記」6章にその規定が存在する。ありとあらゆる葡萄の木の産物を口にすることを禁止される。葡萄酒、葡萄酢(ワイン・ビネガー)、生のまま、干したもの(レーズン)、まだ熟していないもの、皮、が列挙されている。

髪を切ってはいけない。死者に近づいてはいけない。たとえそれが自分の父母であっても

例外は存在しない。

旧約聖書に従えば 葡萄及びその加工品を口にすれば 神の祭司としての資格を失うことになります。

⑥しかしクリスチャンはキリストの血と肉(十字架の死による贖い)に預かるシンボルとしてパンと葡萄酒を使います。(ミサ・聖餐式)ミサや聖餐式は過ぎ越しの食事の象徴だともいわれます。

災いを過ぎ越し 奴隷から導き出された 神の民の感謝の儀式です。

「パン」は出エジプトの時に朝ごとに与えられた「マナ」を象徴し「葡萄酒」は 出エジプトの時 神のもたらす災いを通り過ぎさせるために 門に塗った「子羊の血」の象徴といえます。またイエスは神の子羊とも言われます。「主・イエスは真の葡萄の木、私たちはその枝です」と告白します。ミサも聖餐も信者以外は預かることができません。

神の民として聖別されるはずの儀式が ナジルびととしての誓約を破棄する儀式となっていることになります。

礼拝の中心にあるこの典礼式の「モーセ5書」に対する矛盾を どのように受け止めればよいのでしょう?

キリスト教は旧約聖書のメシア出現の預言を イエスが成就した(それ故にイエス・キリストと呼ばれます)と説きますが ユダヤ教徒からみれば パンと葡萄酒で象徴されるイエスが メシアであるはずがないということになります。

マタイによる福音社が新約聖書の冒頭に置かれているのは 新約が旧約の成就を証するものだと示すためだと言われています。

メシア・イエスという信仰が モーセ5書に照らし合わせると 眉唾だと知れば 新約が旧約の成就であるはずがないという当然の主張になります。

⑦ところが人類の祖だとされる ノアは ぶどう酒を飲んで酔い その結果 ハムとその子カナンを呪うことになりました。

しかし出エジプトでモーセに示された「乳と蜜の流れる約束の地」はカナンでした。

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新共同訳  創世記 / 9章 18節 ~

箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。

この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。

さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、

天幕の中で裸になっていた。 カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、

彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。

神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。 また言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ」

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ノアの長子セムは、アジア人の先祖と言われ、ユダヤ人の先祖アブラハムの父祖として系図に登場する。(ヘブライ語、アラム語、アラビア語やエチオピアの諸言語は比較言語学的に親縁関係にあることが明らかになり、アウグスト・シュレーツァーによってセムにちなみセム語と名づけられた。)

ハムの家系は「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」エジプト、バビロン、ぺリシテ、カナンびとの祖先とされる。

エジプト、バビロン、ぺリシテ人はいずれもイスラエルを脅かした民です。だからカナンだけがしもべのしもべとなれと言われているのでしょうか?

中世から近代までのヨーロッパやイスラム圏ではヤペテの子孫が今の白人であるとする説が広く信じられた。

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キリスト教を国教会と定めた中世ヨーロッパでは ユダヤ教徒は市民権を与えられず ゲットーに収容されるに至りました。

ウィキペディアでは「1096年の第1回十字軍遠征以降、ヨーロッパでは十字軍遠征のたびにユダヤ人は迫害を受け、また社会不安が高まるごとにユダヤ人は迫害の対象とされていった。

13世紀後半以降、まずドイツでユダヤ人の強制隔離が実施されるようになった[1]。

こうしてできたユダヤ人の強制隔離居住区は、周囲が壁で囲まれ、出入りが制限され、また黄色の印などユダヤ人であることを示すマークを付けさせられるなどの様々な制限が課せられていた」と記しています。

これがヴェニスの商人の背景物語です。

参考ブログ 

http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/seisho4.htm

http://meigata-bokushinoshosai.info/index.php…

敗戦を境に アメリカナイズされ続けた私たちは日本人としての誇り、日本人としてのメンタリティ、日本人としての文化と歴史を見失っているのではないでしょうか?

歴史の浅いアメリカでは骨董品に人気が集まると聞きます。

フロンティア精神でネイティブアメリカンを侵略し続けたピユーリタン達は祖国を追われた民でした。(西部開拓史)  しかし、新天地アメリカも「人種の坩堝」といわれるように真実の祖国とは成らず・・・植民地をどれほど得ても満たされない彼ら、自分の祖国・ルーツを失った彼らは 満たされることのない所属欲求を 生理的欲求(物欲)で満たすが如く 更なる富と権力を求め続けます。

ディアスポラの民ユダヤ人もそうですね。

ユダヤの祖とされるセム族はメソポタミヤ文明の中で生まれました。しかし木材を伐採し続けたセム族は 飢饉に遭遇することになり 族長の一人イサクは息子ヨセフの援助を得て エジプトに身を寄せることになります。

しかし寄留の国エジプトで その子孫が繁栄し続けたイサクの民は エジプト人から恐れられ、奴隷の憂き目にあうことになります。

「出エジプト」こそ「奴隷から解放されたユダヤ人」の救いの原点であり、モーセ5書こそユダヤ教の聖典です。

しかし「出エジプト」から導かれた「約束の地カナン」は まもなく ローマに征服されてしまいました。

ユダヤ教の会堂で礼拝を捧げ学びをしていた クリスチャンもユダヤ教信者も ローマから迫害を受けることになりました。イエスは反ローマ運動の指導者として処刑されました。

イエスの死後 クリスチャンは もちろんローマの敵として 抹殺され続けました。

そのローマがなぜキリスト教を国教会と定めたのでしょうか?

「戒律を重んじるユダヤ教」や「多神教」よりも、「神の愛を説くキリスト教」は楽に信者になる=仲間を作ることができる教えです。(自力本願のユダヤ教:他力本願のキリスト教)仲間が大勢になれば国の統治に利用され、それによってさらにキリスト教会の地位が増し、信者になりたがる人も増える構図が見えます。

迫害をし続けたにもかかわらず クリスチャンはより大勢となったため、テオドシウス帝が統治に利用するため国教と指定するに至ったと考えられます。

ユダヤ教はキリスト教に キリスト教はローマに 乗っ取られたと言えば言い過ぎでしょうか?ユダヤ人(ユダヤ教信者たち)は 約束の地カナンさえ失ってしまったのです。

祖国を失うとは 自分のルーツを失うことです。

それは満たされることのない飢えと渇きを産むことになるのではないでしょうか?

一方メソポタミヤ文明の崩壊の憂き目に晒された ヤコブ一族以外のセム族は どのように生き残ったのでしょう?

シルクロードが示す如く 新天地を求めて 民は中央アジアへと移住したとは考えられないのでしょうか?

実際日本にはユダヤ同祖論が 有力な論として存在しています。

もしかしたら 私たち日本人のメンタリティの中には自分のルーツを失った民の痛みがあるのかもしれません。では自分のルーツを取り戻すにはどうすればよいのでしょう?

夏祭りのシーズンです。祭のお囃子を聞くと血が騒ぐと よく言われます。

祭が深い意識レベルに関わることをよく示しています。

祭・祀り・奉り・間釣りとは 言霊的には「天とうつし世を繋ぐ「ま」を釣り合わせ すべてと調和バランスを回復する宴」と言えると思います。

その上、祭りに集う人々の心は一つになります。

天地人が一つになり、人々が一つになる=自分のルーツを取り戻す・・・

祭り(祭・祀り・奉り・間釣り)にはそんな力があるのではないでしょうか?

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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