http://kemanso.sakura.ne.jp/koke.htm 【 万葉の植物 こけ を詠んだ歌】より
こけ (万葉表記 苔 蘿 薜 ) コケ類の総称
コケ類には、スギゴケのようなセン類(鮮類)、ゼニゴケのようなタイ類(苔類)、ツノゴケ類、ウメノキゴケやニワツノゴケのような地衣類があります。
セン類、タイ類、ツノゴケ類は日陰や林床や湿った樹皮や岩などの上にも生えます。対してウメノキゴケの仲間は乾燥した樹皮などに生えます。サルオガセは樹皮や枝に着生。
歌に詠まれた「苔つきの枝」「苔松」などに生える苔は、地衣類のウメノキゴケやサルオガセの仲間と考えられます。
歳月を経ることを表現するのに「苔生す」、「苔生すまでに」という言葉が使われています。
苔のたもと、苔の衣、苔の庵など出家した人が着る衣や隠遁者の住まいをさす言葉としても「苔」が使われます。
忘れてはならないのは、次の歌:
わが君は 千世に八千世にさざれ石の 巌となりて苔のむすまで 詠み人しらず 古今集
み吉野の 玉松が枝ははしきかも 君が御言を持ちて通はく 額田王 巻2-113
(弓削皇子から苔むした松の枝を贈られたのに対して詠んだ歌。弓削皇子とは天武天皇の皇子。『万葉集』に天武天皇の子供としては最多の八首の歌が収録されている。歌を愛した風流人だったのでしょう。それとも政治的な動きを見せなかっただけなのか?)
妹が名は 千代に流れむ姫島の 小松がうれに蘿生すまでに 河辺宮人 巻2-228
(和銅4年(711年)、河辺宮人が淀川の河口にあった姫島に、どこからか流れ着いた乙女の屍があるのを見て悲しみ慰霊するために詠んだ歌。なぜこの乙女は亡くなったのか? 若い人生のその一瞬にいったいなにが起こったのか?)
( この歌は挽歌です。早死、刑死、自殺といった異常死した死者を鎮魂するために歌われる歌。古代は死者の無念の思いがこの世に残り、生者に祟ると恐れられていました。死者の霊を慰めるため、悲しみを最大限に表現し、死は魂を慰撫することによってはじめて定まります。
死は穢れでした。異郷から来て行路死した人間は、村落共同体に属する人々にも、同じように旅する人々にも恐れの対象であり、畏怖すべき存在です。
魂が荒ぶることのないように、言葉を尽くし、冥福を祈り、祟り無きよう呪歌として詠みあげ、穢れを祓います。非情な姿に心を寄せ、魂の鎮魂を祈ります。永遠にその死を語り継ぐ行路死人歌を歌うことが慰霊の方法でした。)
いつの間も 神さびけるか香具山の 桙杉の本に苔生すまでに 鴨足人 巻3-259
奥山の 岩に苔生し畏くも 問ひたまふかも思ひあへなくに 葛井広成 巻6-962
(「奥山の岩に苔生し」は「畏くも」の序詞。恐れ多くもこんな晴れがましい席で歌をうまく考えることもできません。
み吉野の 青根が岳の蘿むしろ 誰れか織りけむ経緯なしに 作者不詳 巻7-1120
(青根が岳とは、吉野宮滝の対岸の三船山の南にある山。「蘿むしろ」が木から垂れ下がってむしろのように見えたのですね。)
安太へ行く 小為手の山の真木の葉も 久しく見ねば蘿生しにけり 作者不詳 巻7-1214
奥山の 岩に苔生し畏けど 思ふ心をいかにかもせむ 作者不詳 7-1334
敷栲の枕は人に言とへや その枕には苔生しにたり 作者不詳 巻11-2516
結へる紐 解かむ日遠み敷栲の 我が木枕は苔生しにけり 作者不詳 巻11-2630
我妹子に 逢はず久しもうましもの 安倍橘の苔生すまでに 作者不詳 11-3227
神なびの 三諸の山に斎ふ杉 思ひ過ぎめや苔生すまでに 作者不詳 13-3228
https://www.543life.com/shun/post20210613.html 【苔こけ】より
朝、目を覚ますと雨のそぼ降る音が聞こえてくる。思考はまだはっきりとせず、ぼんやりとその音に耳を澄ますだけの時間がとても好きです。梅雨の季節、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
こんにちは。ライターの小島杏子です。
学生時代は、クセ毛をもてあそぶ梅雨という季節が苦手でしたが、出かける用事も誰かと会う予定もない在宅ワークになって以降、心からこの季節を楽しんでいます。仕事の手を休め、窓から外を眺めると、露に濡れた植物は今だけの美しさを見せてくれます。
なかでも目を引くのは庭の端の翳った地面に広がる苔。露をたっぷりと含んだやわらかな苔は、今、1年でもっとも深い色あいを見せます。そんな「苔」が本日のテーマ。
苔。湿り気のある地面や岩、樹木などを平たく覆うようにして生える植物です。ただ苔とひとくちに言っても、ミズゴケやスギゴケなどの蘚類、ゼニゴケなどの苔類のほか、地衣類やシダ類などさまざまな植物の一群を総称して「苔」と呼んでいるのだそうです。
苔の美しさは『万葉集』でもうたわれています。
み芳野の青根が峰の蘿(こけ)むしろ誰か織りけむ経緯(たてぬき)無しに
この歌では苔の美しさを「縦糸も横糸もないムシロ(敷物)のようである、これは一体誰が編んだのだろうか……」という表現で讃えています。
「苔」ではなく「蘿」という字が当てられているのにお気づきかと思います。現在よく使われる「蘚」や「苔」といった漢字が主流になったのは江戸時代中期以降だとも言われますから、もしかしたら私が想像する苔と、作者の見た蘿とは厳密には少し趣が違うのかもしれません。
とはいえ、目の前に佇むどこまでも深い緑に、美しいとため息をついてしまう気持ちそのものには時や空間を超えて繋がることができる気がします。
苔は、「千代に八千代に〜苔のむすまで」という文句にも表れるように、「長い時間の経過」を象徴するものでもあります。私は長らくこれを自分とはあまり関係のない、ただの知識としか捉えてこなかったのですが、先日ちょっと考えを改めました。何気ない日常の一齣(ひとこま)が教えてくれたことです。
一日よく降った雨があがった夕刻のこと。庭の端に生えている苔を縁側からぼんやり眺めていると、一匹のダンゴムシが苔の上を横断していくのが目に入りました。どこに向かっているのか、私ならば一歩、二歩で移動できるような距離を、ダンゴムシはじりじりと、それでも確実に進んでいきます。その様子を見ていると、なんだか不思議な気持ちが湧いてきました。
ダンゴムシの平均寿命は約3年。死んだあとはカビによって分解され、土に還り、その土地の養分となります。私の目の前を移動するダンゴムシが、約3年の寿命のうち、どれくらいを生きてきた個体なのかはわかりませんが、とにかく今ダンゴムシが歩いている。それも長い時間の経過を象徴する植物である苔の上を歩いていて、それを人間(平均寿命80年ほど)である私がじっと見ている。
その事実に、妙に心打たれたのです。それぞれ寿命は異なっていても、「今ここにいる」ということだけは動かしようのない事実なのだなと。
私たちの誰もが時間を止める術を持たず、なにがあっても時は流れていきます。時間が経過するということは、変化するということであり、変化の先には死があります。自分の死の訪れがいつになるのかはわかりません。けれど、「今ここにいる」ということだけは、それなりに実感を持てることだろうと思うのです。
最近の私はついつい過去を悔やんだり、未来への不安で頭をいっぱいにすることに時間を割いてしまっていた気がします。もちろん社会生活をする上でそれも悪いことではありません。でも、たまには「今ここにいる」ことを意識するのも忘れないようにしないとなと思ったのです。
たいそうなことである必要はありません。目の前にあるささやかな一瞬に心に留めてみるだけです。庭でダンゴムシを見つめている今、洗濯したタオルを畳んでいる今、くるまっている布団の肌触りを感じている今、猫を撫でてその毛並みを感じている今。「今」だけに心を傾けてみる。
だからなんだという話でもないのですが、少なくとも私には必要な時間だと感じています。
苔とダンゴムシ、自分とは違う時間軸のいのちと隣り合って生きることは、こんな発見をもたらしてくれるんだな……とぼんやり思う、梅雨の一日でした。
0コメント