https://www.jomon-no-mori.jp/jomon-no-mori/adventure/adventure-3/ 【縄文の食生活】より
環境の変化
旧石器時代の終わりから縄文時代の初めころになると,氷河期から温暖な気候へと変わっていきました。暖かくなり雨が多くなった大地では,落葉広葉樹の森が生まれ木の実を実らせるようになりました。
旧石器時代の人々は,ナウマン象やヘラジカなどの大型動物を獲って食べていましたが,彼らは徐々に滅んでいきました。滅んだ理由としては,人間に乱獲されたり,落葉広葉樹の森には大型動物の食べ物が少なかったり,大きな動物は森に住むのに適していないことなどが考えられます。
そして落葉広葉樹の森には,木の実を主食とする小型で敏捷な動物が姿を見せるようになりました。豊かな森の恵みは人間だけのものではなく,イノシシやシカなどの小型動物にとっても同じだからです。大型動物の捕獲に依存していた人々も,方向転換を余儀なくされました。
狩猟道具も,素早く逃げる小型動物を捕らえるために,それまでの槍主体の狩りから,弓矢などに変わりました。また,小さな動物は捕まえても食べられる量が少ないので,動物以外の食べ物が多く必要とされるようになりました。
氷河期が終わって水位が上昇したので,かつて草原だった土地は浅い海になり,魚や貝なども取れるようになりましたが,それだけでは足りません。
そこで,豊かな森から木の実や草の新芽や根っこなどを拾って食べることになったのです。ところが木の実の多くはそのままではおいしく食べられないので,熱湯で煮てアク抜きをして食べることになりました。
土器の発明
土器はアク抜きを要する木の実を煮たり,保存するために発明されました。焚き火の跡からカチカチに変形した粘土を偶然に見つけたことが,その始まりかも知れません。
人々は,大型動物を狩猟して生きていた時代に比べると,森から植物質の食料を多く利用することで,安定して豊かな自然環境の中で暮らし始めました。
栫ノ原遺跡で見つかった石皿・磨石(出展:加世田市教育委員会)
この時期,発達したのは土器だけではありません。旧石器時代には,狩りをしたり,捕まえた動物を調理するのに適した石器が多く作られましたが,この縄文時代には,植物を採取するための打製石斧(だせいせきふ)や植物を加工するための石皿(いしざら)・磨石(すりいし)・敲石(たたきいし)などの生産用具が多く作られるようになりました。
食物の調理法
ドングリやトチの実などは,土器の中で熱湯で煮てアク抜きをして食べました。
長野県などの遺跡では,炭化したパン状やクッキー状のものが出土しており,これらの成分を分析した結果,木の実・動物の肉・鳥の卵などを混ぜて作っていたことがわかっています。
縄文時代の遺跡では,大小多くの石が意図的に集められた「集石」という遺構が数多く発見されています。集められた石に焼けた痕があることや炭が発見されることから,石を焼いて蒸し焼きをした施設ではないかと考えられています。
【栫ノ原遺跡で見つかった連穴土抗(出展:加世田市教育委員会)
また縄文時代早期を中心に,大小二つの穴がトンネルで繋がった「連穴土坑」という遺構が見つかっています。トンネルの下の土が赤く焼けている場合があることから,火を使用したことが考えられます。この施設は燻製を作るためのものであったとする説もあります。
貝塚から発見される食べ物
貝塚は「縄文人のゴミ捨て場」とも呼ばれます。貝塚には貝殻や動物の骨が腐らずに残っているので,貝塚を調べれば縄文人が食べた動物の種類がわかるのです。
黒川洞穴出土の自然遺物
ホニュウ類 イノシシ,シカ,カモシカ,ツキノワグマ,オオカミ,イヌ, タヌキ, アナグマ,テン,イタチ,ノウサギ,ムササビ,モグラ
鳥類 キジ,ガン,カモ,ハト,ワシタカ目
ハチュウ類 カメ類,ヒキガエエル
魚類 マダイ,クロダイ,フナ
貝類 ハマグリ,アコヤガイ,マルサルボウ,オキアサリ, コベソマイマイ,マツカサガイ,タマガイ,タカチホマイマイ, イタヤガイ,ツメタガイ,マクラガイ,イシマキ,オキシジミ,カガミガイ,ヘナタリ,カワニナ
その他 モクズガニ
※上の表中で,オオカミ・ツキノワグマ・カモシカなどは,現在の鹿児島県では見られない動物です。
(オオカミは日本では絶滅しています) 【写真 市来貝塚の貝層】
https://www.hokto-kinoko.co.jp/kinokolabo/discovery/58935/ 【きのこは縄文時代から現代まで続く日本人の「食」のパートナー】より
きのこは縄文時代から現代まで続く日本人の「食」のパートナー
「攝津名所圖會」秋里籬嶌 著述[他](1798年)
今回は、日本におけるきのこ食の歴史と今につながるふしぎについて話ししたいと思います。
縄文時代から愛されていた「きのこ」!
4月の「きのこふしぎ発見」でもお話ししたように、きのこ類は今から1.5~2億年前には既に地球上にいたと考えられています。私たちの直接の祖先である新人類が誕生したのが今から約20万年前と考えられていますので、私たちの祖先は現在とほぼ同じ種類のきのこを山野などで見ていたことでしょう。
日本人は世界的にもきのこ好きの民族といわれていますので、恐らく様々なきのこを口にしていたと思われます。
日本人ときのこの関わりを示すもっとも古い証拠が残っているのは縄文時代です。今から約4千年前の縄文時代の遺跡から、様々な形をしたきのこ(子実体)の土器が発見されているのです。
縄文遺跡からは、イワシ、ブリ、ヒラメなどの多彩な魚類、クルミ、クリなどの堅果類、イネ科植物などを縄文人が食料にしていた痕跡も見つかっています。
その中でも縄文人がなぜきのこ型の土器を作ったのか?どのように利用されていたのか?は想像するしかありません。しかし、様々な形をしたきのこの土器が造られていたことから、食べられるきのこを見分ける食品サンプル的な用途があったのかも知れません。何にせよ、種々のきのこ類も縄文人にとって貴重な食料だったに違いありません。
(略)
当時の椎茸の人工栽培は、倒した樹木に傷を入れ、そこに胞子を落とす方法でした(ナタ目式栽培)。それでも生産量は増加し、主に乾燥椎茸として利用されていたようです。乾椎茸は中国にも輸出され、日本産は中国でも人気があったようです。国内で広く流通されるようになったのは江戸時代からですが、普段の食事に使われることはあまりなく、正月などの特別の日の料理の食材だったようです。
現在主流の菌床栽培は昭和から
現在のきのこ栽培の主流である菌床栽培は、昭和3年にエノキタケで開発されたのが始まりです。戦後になって、これまで原木で栽培されていたナメコやヒラタケでも菌床栽培がされるようになりました。
そして、1970年代に入ってからは、ブナシメジを始めとする様々な種類のきのこで菌床栽培が行われるようになりました。人工栽培が始まる以前、自然の恵みだった野生きのこは秋の味覚のひとつでしたが、今では栽培きのこのほとんどは四季を問わず店頭で手に入る食材になっています。(略)
きのこの適切な摂取量はいくらなのかは意見の分かれるところですが、現状よりもっと多く食べた方が私たちの健康維持などにとって有益だと思われます。その考えの参考になる以下のような疫学的データがあります。
最もきのこの消費量が多いとされる長野県において、エノキタケ栽培家庭(エノキタケ摂取量約240グラム/週)のがん死亡率は、長野県全体の死亡率に比べ有意に低いという疫学的データがあります。特に、食道がんや胃がんの死亡率が低かったようです。
また、エノキタケ栽培家庭の中でも、エノキタケをあまり食べないグループ(月に3回以下)に比べると、積極的に食べるグループ(週に3回以上)では、がんの死亡率は約半数だったことが示されています。
また、近年「第六の栄養素」として注目を集めている「食物繊維」もきのこに豊富に含まれています。腸内環境を整えたり、脂質や糖質の吸収を穏やかにしたりという働きがあり、健康維持には欠かせない栄養素。腸の善玉菌のエサとなって善玉菌を増やすのにも役立つので、できるだけ毎日食べると良いですね。
古代からあらゆるかたちで日本の食卓を彩り続ける「きのこ」
きのこは、その多様な種類、栄養素の高さ、幅広く料理に使用できる柔軟な食材である特徴から、縄文時代から日本人の「食」に関わり、日本の食文化とともに歩み続けてきました。はるか古代から、現在、毎日の食卓を彩るきのこを見て、「縄文時代の人もこのきのこを食べていたんだ…長い歴史の間、人の健康を支え続けてきたきのこが今、目の前に並んでいる…」と思うと、どこか不思議な浪漫を感じます。
https://www.kobayashi-foods.co.jp/washoku-no-umami/washoku-culture 【なぜ和食が「文化」になったのか?5つの分野でやさしく解説】より
「和食文化」っていったいなんだろう?
和食が無形文化遺産に登録されて国内だけでなく世界からも注目されています。そのためか海外からの旅行者の目的のひとつは「和食を食べること」ともいわれています。
まず、「文化」とは、『広辞苑』より抜粋すると「人間が自然に手を加えて形成してきた成果」「衣食住をはじめ、技術・学問・芸術・道徳・宗教を含む。」とあります。そもそも「食事」という日常の行為は本能的なもので、広い意味では動物にも共通しています。
しかし人間は文明が進むにつれて、マナーをつくり調理法や盛り付けなど「食」にまつわることを洗練された行為にかえてきました。
このことは世界中で発生した流れです。結果として最初に「フランスの美食術(ガストロノミー)」がユネスコの無形文化遺産として登録され、とうとう日本も平成25年(2012年)12月4日「和食:日本人の伝統的な食文化」として登録されました。
このことで「和食」が食文化として世界中に認められたのです。
ここでは「和食」の何が文化として認められたのかの経緯とこれからどのように継承していくべきかを各文献をもとに私目線でやさしく解説します。
1. なぜ文化となりえたか
和食が「文化」として世界に認識されたのはやはりユネスコの「無形文化遺産」の認定によることが大きいでしょう。
ユネスコの無形文化遺産は「歌舞伎」や「能楽」などの芸能や民俗行事が主流ですが、実際の対象となるのは以下の5つの分野です。
口承により伝統及び表現
芸能
社会的慣習、儀式及び祭礼行事
自然及び万物に関する知識及び慣習
伝統工芸技術
「和食とは何か」:思文閣出版より
それぞれ「和食」がどのように結びつくのか1分野ずつ当てはめて説明します。
1-1 口承による伝統及び表現
和食の文化は箸つかいなどのマナーや食卓での配膳等ルールが存在し、その意識は家庭で親から子へ、子から孫へ伝えられています。つまり「口承」により伝承ができているということです。
和食の料理人による「包丁つかい」などの調理技術や.盛り付けの技術は独自のものがあり今日まで伝えられてきました。
「和食は目で味わう」この言葉が如実に証言しています。
以上のように、「箸つかいのルール」「食卓の配膳法」などの作法。「盛り付けの基本形式」などの表現やそれを実現するために飾り包丁などの「包丁つかい」及び調理の技術が和食ならではの文化となります。
1-2 芸能
食文化には当てはまりません。
1-3 社会的慣習、儀式及び祭礼行事
ここでいう「社会的慣習」とは、年中行事と「和食」との密接なかかわりのことをいいます。一番わかりやすい例がお正月です。
12月の歳の暮れ、今ではかつてほど多くはありませんが各家で餅をつき、または購入し正月を迎える準備をします。お餅は神様へのお供え物といたしました。大小の丸餅を重ねた「鏡餅」は正月飾りに欠かせません。
雑煮:関東風醤油仕立て 雑煮:関西風白味噌仕立て
お餅は「雑煮」としていただきます。地域ごとにその土地ならではの食材を使い多彩な雑煮が存在します。
また、お正月につきものなのが「おせち料理」です。現在ではすべて手作りする家庭は多くはありませんが、例年11月を過ぎれば趣向を凝らしたおせち料理の宣伝が目に入るでしょう。
「長寿」と「子孫繁栄」「五穀豊穣」などを願う気持ちが盛り込まれ、今年一年の息災を家族で祈ります。
季節の移り変わりでめぐってくる年中行事とは別に人生の節目に行われる行事があります。
身近な例ではお祝い事の「赤飯」や「鯛」は誰もが知っている行事食の一つです。
これらはすべて「福を招き、災いを遠ざける」日本人の願いが込められています。
根底には「万物に神が宿り」「それらの神に感謝する」という日本人の精神の表れを示しています。これらの思想及びそこから生まれた料理が文化として評価されました。
1-4 自然及び万物に関する知識及び慣習
日本には四季があり、季節の移ろいが顕著です。料理にその影響が強く表れ、料理に季節感を盛り込むことが尊ばれています。食べられない葉や花を料理のあしらいに使うほんのわずかな演出を作り手も食べる側も感じ取っています。
また、初夏に「初カツオ」、秋になれば「新米」を味わい、旬の食材を珍重する気持ちはその季節の到来を感じとるためかもしれません。
さらに日本は多くの地域が温暖な気候で年間の降水量も比較的多いことが特徴です。その気候の特性から独自の発酵食品や食品の保存方法・加工手段が生まれました。
腐敗と発酵はある意味紙一重です。腐敗させることなく食品の味や栄養をより良く変化させる技術は多くの人の工夫があったことでしょう。
また、軟水の豊かな水は鰹節・昆布などから引き出された「うま味のだし」が和食の発展に影響しており、日本人が解明した「うま味」は欧米のシェフも注目しています。
海に囲まれた日本の立地、気候風土を活用した独自の食品加工技術は世界に誇れる文化です。
1-5 伝統工芸技術
和食の食器(陶芸・漆芸)がこれに該当します。
料理に季節感を盛り込むことにのみならず、和食は器にも季節や華やかさあるいは「わび」「さび」を求めてきました。和食にとって器は「料理の衣装」といわれます。料理にふさわしい「色」「形」を求める精神が日本の陶磁器を技術及びデザインとも世界のトップクラスに発展させました。
汁椀に多用される「漆器」は英語で「JAPAN」とも言います。漆器と言えば日本製という立ち位置が確立されているということです。
「花鳥風月」「四季の美しさ」を表現した和食の食器はまさに文化にふさわしいものです。
2. 文化のこれから
今まで見てきたように「和食の文化」は私たちの身近なところで光っています。しかし無形文化遺産に登録されたといっても、文化は私たちが日々の生活の中で実践しなくてはすたれてしまいます。それをどのように伝えていったらよいのでしょうか。またこれからどうなるのでしょうか。ポイントを二つ説明します。
学校や地域での「食育」
家庭での文化の継承
2-1 学校での食育
無形文化遺産の登録申請書には「実践者はすべての日本人である」と著されています。
本来の実践者は私たち一般の日本人です。しかし最近では社会や個人の生活スタイルの変化に伴い家庭内での伝承が難しくなってきたと言わざるを得ません。そこで期待されているのが、学校給食の主食を「米飯」にして和食文化を味わう機会を増やす取り組みです。
米飯にすればすべて解決するわけではありませんが、「一汁三菜」の栄養バランスに優れた献立を慣れ親しむことができます。何よりや多くの人ともに食べる経験からマナーを学び、食べる楽しみを覚えていきます。
2-2 家庭での和食文化とこれから
和食文化を次につないでいくためには「いただきます」「ごちそうさまでした」のあいさつが大切です。
文化は時代の変化で変わるものです。1970年代よりファーストフード店が開店し、コメの消費量が減っているともいわれています。しかし、コンビニでのおにぎり売り場の賑わいやスーパーの漬物コーナー、すしや煮物など総菜売り場の充実ぶりを見ると和食の人気は根強いものがあります。
また海外からのお客様は来日の目的に和食を食べる事を上げるなど和食自体の魅力は再確認されています。
和食文化はいにしえより日本は外国からに食品や文化を取り入れ、日本の風土や知識と知恵で築き上げられてきました。
家庭において今の形を何が何でも続けることはむずかしいかもしれません。これからも消費者のし好や新しい調理法や食品を受け入れて進化するでしょう。10年後には別のスタイルになっているかもしれません。
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