Facebook・草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
「ひとりひとり」という多様
アートは不要不急か、というテーマでアーティストの日比野克彦さんへのインタビュー記事がありました。
多様性についての言葉が印象的でしたので、ご紹介したいと思います。
「(多様性を言い換えるなら)『ひとりひとり』だね。究極の多様性はひとりひとりだし、その『ひとり』も、その日の気分や、出会った人によって変わる。絶対的なものなんてない。今の時代は特にそのことを感じやすいんじゃないかな。メディアも、SNSも、政府も絶対じゃない。変わることは当たり前になっている。だから、『地球上に生きている人×その日・その時の気持ち』の数だけ、多様性はあるのだと思う」。
「不得手なものを受け入れなさいというのは無理だと思う。それを続けると、受け入れられない自分に嫌悪感が湧いたり、否定的になったりして心が折れてしまう。嫌いなものは嫌いであっていい。ただ、それを『私の前からいなくなって』ではなく、『苦手だけどそこにあっていい』と考えていくといいんじゃないかな。
今は過渡期だと思う。これまでは、なるべく他者とぶつからないことが良しとされてきた。でも衝突がない世界を突き詰めると、誰とも接することなく、自分の個性も出せなくなってしまう。みんなAIみたいになっちゃうよ。これからは、摩擦や不安定さがあるからこそ感じられるものに価値を見出していく時代なんじゃないかな。そのためにも、不安定さを含めて成り立つ社会を築く知恵が必要になると思う」。
●聖徳太子の「和をもって貴しとなす」という言葉を思います。日本のものの考え方の基盤となるものですが、改めて考えると・・・和(協調する)というのは、おしころしたり妥協したりすることではばく、互いの違いをよしと認めるのが前提で、そこから個々の思いを汲みあいながら調和に向かうということです。さらに、そのような世の中であれば、ものごとはみな成就すると説かれているのだと思います。日本の精神ともいえる、多様性についての見方、考え方がアートを通じて引き継がれていくことを誇りに思います。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498744801.html 【聖徳太子の言葉 和を以て貴しとなす。】より
和を以て貴しとなす(わをもって とうとしとなす)誰もが知っている聖徳太子「憲法十七条」の冒頭である。この言葉をつぶやくと、私は、日本人であることにわくわくする。
いろいろあるけど、まあまあ、ここは穏便に…。
という意味でもあるから、ある意味、「事なかれ主義」…とも言える。
ただ、それ以上に「平和」や「和」を愛する心、当時、各地の豪族たちが自分勝手な争いが絶えなかった世の中、「和」の心をもって、平和で、繁栄した国家を築いていこうではないか。と強く、革新的な「志」を以て宣言している。
今の日本を築き上げてきた先人たちの熱い思いと努力…、とくにこの言葉の場合は、重厚な知性さえ感じるのである。
ところで、先日、この言葉の続きを知った。こう続くのである。
さかふること無きを宗とせよ。人皆たむらあり。またさとれる者は少なし。あるいは君父にしたがわず、また、隣里に違う。しかれども上(かみ)やわらぎ、下(しも)むつびて、事あげつらうにかなうときは、すなわち事理おのずから通ず。何事かならざらん。
※難漢字は「ひらがな表記」にした。
現代語訳にすると、こうだ。
いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループを作りたがる。悟りを得た人格者は少ない。君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦の心をもって論議するなら、おのずからものごとの道理にも適う。どんなことも成就するものだ。
これはネットより引いた。
しかし、気になるのは、さかふである。
ここでは、「いさかい」と訳しているが、この訳は的確ではないような気がする。
「さかふ」を古語辞典で調べてみると、逆らうとあった。であるならば、逆らうことのないようにせよ。というのが正確ではないか。
つまり、これは、(朝廷に)逆らうことのないようにせよ。となる。
これは崇高な精神というより、とにかく朝廷の言うとおりにしなさい。ということで、ちょっとがっかりする。
しかし、そのあとの文章は素晴らしい。とくに「群れ」や「グループ」を否定していることだ。そして、やさしさと協調の心があれば、どんな苦難も乗り越えられるものだ。どんなことも達成できるものだ。と言っている。そこがいいと思う。
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