南方熊楠とアンリ・ファーブル ―キノコ図譜を軸とした対比の試み―

file:///C:/Users/minam_000/Downloads/eco-philosophy10_023-033.pdf 【南方熊楠とアンリ・ファーブル ―キノコ図譜を軸とした対比の試み―】より

田村義也(TIEPh 客員研究員)

〔はじめに〕

菌類(キノコ・カビ類)研究は、南方熊楠(1867-1941)とジャン・アンリ・ファーブル(1823-1915)の交錯点のひとつである。

南方が、その多面的な研究生活のうちでも、もっとも多くの時間を費やしたのが菌類研究であったことは、南方研究者の間ではおおむね評価が定まっている 1。早くはアメリカ滞在中の 1892 年、故郷の友人たちに宛てた書簡の中で、菌学への没頭ぶりをあらわにしている 2南方が、その没後に残した菌類図譜(乾燥させた子実体や胞子体といったキノコ標本を貼付した用紙に彩色図を描き、観察記述を書き入れているため、彩色図付き標本と位置づけられている)は、確認されているだけで 3400以上、全体では 4700 を越えていた可能性がある 3。南方が生前もっとも多くの時間を費やして採集・観察・図記をし、研究資料をのこした領域は、菌学研究であった。しかし、南方の公刊著作にはそれらがほとんど反映されていない。図譜そのものの公刊・紹介や研究はまだ緒についたばかりの状態であり、変形菌研究ばかりが突出して知られる南方熊楠の、菌学研究の実相は、南方の読者にひろく知られているとは、今のところ言いがたい 4。他方、主著『昆虫記(昆虫学的回想 Souvenirs entomologiques)』によって昆虫の生態観察が名高いファーブルが、高等植物やキノコ類についても観察・研究をしていたこともまた、あまりひろく知られたことではない。とくに、水彩絵の具による彩色キノコ図多数をファーブルも残していることは、キノコ研究者・愛好家以外にはいまでもほとんど知られていないようだ。ファーブルのキノコ観察について、その図譜集(邦訳『ジャン・アンリ・ファーブルのきのこ −−221 点の水彩画と解説』5)

1 「南方の自然史研究の中でもっとも光り輝いたのは確かに粘菌研究であった。しかし、彼がもっとも心血を注いだ研究は何かといえば、キノコの研究であった。」萩原博光「粘菌」『南方熊楠を知る事典』(松居ほか編、1993 年)p. 54.

2 羽山蕃次郎宛て 1895 年(推定)6 月 21 日付書簡、『南方熊楠全集』7 巻所収

3 萩原博光「南方熊楠の菌学研究と彩色図譜」『南方熊楠菌類図譜』(萩原編、2007 年)p. 128.

4 「(南方の生物研究は)専ら変形菌(粘菌)研究について若干語られる程度であり、熊楠の菌類に関する業績を顕彰することは殆ど無いのが現状であった」郷間秀夫「真菌類(キノコ)」『南方熊楠大事典』(松居・田村編、2012 年)p. 86.

5 『ジャン・アンリ・ファーブルのきのこ −−221 点の水彩画と解説』(本郷次雄監訳、同朋舎出版、1993 年)

に寄せた解説「ファーブルの菌学の作品」の冒頭でパトリック・ジョリはこう宣告している。

菌学者ジャン・アンリ・ファーブル! 実際には、彼をこう読んでも別に驚くことではないの

だが、かの有名な大作である昆虫学の著作に隠れて、彼がきのこに興味を持っていたことはほとんど知られていない 6。

南方とファーブルに共通の関心事であった、キノコ研究と図譜は、今のところ不当な等閑視という運命を共有しているようである。

〔南方とファーブル:伝記的対比〕

南方とファーブルは、生年には半世紀近くの開きがあるが、ファーブルが享年 92 と長寿だったため、ふたりの生涯には重なる期間も長い(ファーブルの没年に、南方は数えで 49 歳だった)。世代の異なる同時代人ともいえ、ともに博物学の伝統に親近性のある(その意味で、「古い」スタイルの研究者ともいえる)両者には、伝記上の類似点もいくつか指摘出来るようだ。ふたりとも、研究機関には属さず、職業研究者ではなかった(ファーブルは小学校教員、南方は在野の学者)し、生涯にわたって野外観察系の生物研究を続けたが、その出発点から基本的に独学者だった(ただし、ファーブルは教員資格のため、32 歳のときに学位論文を提出して博士となっている点で、アカデミスムとの関わりは熊楠よりも深い)。二人とも、都会を離れた地方で生涯を過ごし(ファーブルはコルシカを振り出しに、アヴィニョンおよびオランジュを経て、その近郊セリニャン村と、南フランス・ヴォクリューズ県の田舎で生涯の過半を過ごした。南方は、イギリスから帰国後の後半生を、和歌山県南からほと

んど出ずに過ごした)、結果として高度な研究に必要な文献(とりわけ学術系定期刊行物)の参照に不自由を覚える境遇にいた。フィールドに出て生物そのものを観察するアマチュア=愛好家的研究という、両者に共通するスタイルには、そういった境遇上の制約からの必然性もあったのである。

さらに、両者は生物学の専門家たちから評価されたというよりは、非専門家の一般読者を読者として獲得し、研究者としてより、文筆家としての名声を晩年に得た点も共通している。

南方の場合、その訃報に触れて牧野富太郎が書いた辛辣な回想「南方熊楠翁の事ども」(『文藝春秋』1942 年 2 月号)で、南方のことを「偉大な文学者であっても、偉大な植物学者ではない」と切って捨てたことがよく知られている 7。

実際南方は、日本とイギリスの研究系定期刊行物へ継続的に寄稿していたが、特に日本語論文の場合、その文体は明治年間後半から大正年間を通じての日本で次第に確立されていった、学術系の口語文とははっきりと一線を画したものであり、奔放に逸脱するその議論内容と相俟って、「学術的」とは異なるスタイルと見なされがちであった。

6 前掲『ジャン・アンリ・ファーブルのきのこ』p. 83.7 『南方熊楠百話』(飯倉・長谷川編、1991 年)に再録。これは、南方のこの分野での公刊業績が少なかったた

めでもあるが、牧野のこの評価に対しては、月川和雄が「熊楠の植物学全般の業績についてはまったく無知であったとしかいいようがない」と指摘している。月川「牧野富太郎」『南方熊楠を知る事典』p. 351.

他方ファーブルの『昆虫記』は、客観的な観察記録に終始せず、幼少時の回想をはじめとして、記述が連想をさそうたびに話題が脱線をし、そのことで読み物としての興味を増している(その意味で、「昆虫学的回想」という原題は内容とよく符合している)し、そもそも学術論文を(数多くはないが)記し、提出論文により学位も取得しているファーブルは、『昆虫記』において学術論文の体裁を敢えて採らない文体で書くことに、はっきりと自覚的だった。

もしも科学が 上下かみしもを脱いで子供たちに解りやすくなれたら、もしもわれわれの大学で本にある屍の研究に野外の生きた研究をつけ加えようと考えてくれたら、もしもお役人の大切がる教案という縛り綱が一切の善い計画を窒息させなかったら、博物学は子供たちの頭にどんな美しい楽しいことを宿らせるであろうか。(『昆虫記』6 巻「あしながたまおしこがね−−父性の本能」8)「野外の生きた研究」と「本にある屍の研究」を対比させ、いわゆる科学が「かみしも」の装いであることを揶揄するファーブルの筆致の背景には、彼の「アカデミスム」体験が存在する。ファーブルのキノコ彩色図集に寄せた解説「ファーブルの科学的業績とその道のり」(クロード・コサネル、イヴ・ドゥランジュ)では、ファーブルの学位論文および学術論文について、こう記されている。

教師は通常大学教授資格か博士号のいずれかの受験を選択することができる。もしファーブルが大学教授資格試験をえらぶならば膨大な知識を身につけることになるが、しかし個人的な研究のほうは断念せざるをえなくなる。(…)博士号を選んだ彼の論文の主題は《多足類における生殖器官と発生の解剖学的研究》であった。(…)慣例により、論文には第 2 のテーマ[副論文]が必要であり、ファーブルが選んだ植物学の研究は「Himantoglossum hircinum[トカゲラン]における塊茎の研究」であった。植物学においても動物学同様、ファーブルは大学独特の表現法に従った。それは厳しい規則にのっとった正確な書き方が要請され、文学風の文体は認められなかった。これは 1855 年のことであり、(…)化学アカデミー主催のモンティオン生理学賞のコンクールで彼は《良》の成績を得た。それは《ジガバチ科の本能と変態の研究》で、その年の『自然科学と動物学年報』に掲載された。このテーマはのちの『昆虫記』へと大きく展開していく 9。こうした、「アカデミスム」に乗っ取った論文作法の実践を経てのち、それとは意図的に距離を置いた文章作法が、ファーブルの『昆虫記』を貫徹している。アマチュア=愛好家的研究者の立場に自覚的であったことも、ファーブルと南方の共通項である。

8 山田吉彦訳『ファーブル昆虫記』11 巻(岩波文庫)p. 11.

9 クロード・コサネル、イヴ・ドゥランジュ「ファーブルの科学的業績とその道のり」前掲『ジャン・アンリ・ファーブルのきのこ』p. 46.

〔手習いのはじめ〕

ファーブルは、アルファベ(アルファベット)を学んだ自分の最初期の学習について『昆虫記』第6 巻「私の学校」の中で記している。これは、あらゆるファーブル伝で祖述される、有名な逸話となっている。

われわれは各々藁紙に印刷されたアルファベの小さな三文本を手に持っていた。(…)それはまず手始めに鳩か何かが表紙にあった。(…)

進まなかったのは、ABC を覚えることだった。鳩ばかり見ていてほったからかしにしておいたからだ。私は ABC が頭に入らずにいつまでも持て余していた。そんな工合だった時私の父はなんという珍しい霊感からか、私に激しい読書欲を授けた品物を町から持って来てくれた。それは私の知的な目覚めには非常な役割を持っていたが、ちっとも根の張るものではなかった。(…)これは穴銭[リヤール銅貨]六枚の大きな絵本で、彩色のある四角の齣に分かれ、いろんな動物がその名の頭文字で ABC を教える仕組みになっていた。(…)

それは聖なる四足、驢馬 Âne をもってはじまっていた。その名の頭文字は大きく記してあって、それで A という文字を教えていた。牛の Bœuf は B を覚えさせ,鴨の Canard は C を教え、七面鳥の Dinde は D を響かせていた。(…)いくつかの枠はよく分からないには分からなかった。私は H や K や Z を覚えさせようとする河馬の Hippopotame や黒大鳥の Kamichi や駝牛の Zébu は一向面白くなかった。こんな外国の動物は分かった本物が文字の抽象の土台になっていないので、文字が頭に入りにくくてしばらくははっきり覚えられなかった。(『昆虫記』6 巻「私の学校」10)

算えで「七歳の頃」、父が「僅に三十銭もて『訓蒙図彙』拾冊をばかひたまはりたりしを、夜もひるもこよなくなぐさみくりかへし見て人にも示し自分も誦し」(「南方熊楠辞」11)たという南方の、子供向け動物図鑑による手習い始めを想起させるような逸話だが、しかし両者の幼少時体験には興味深い資質の違いも見て取れる。南方は、同じ頃に『和漢三才図会』の存在を始めて知り、その「巻四十五龍蛇類、巻五十四湿生類の二つ」の目次を大人に写し取ってもらい、「野槌蛇、黄頷蛇、蜮、𧔎𧔎などの名此とき始て知るに及しものをば粗其図形をたづねききて自ら心に画」いた、あるいはやや後に実際にこの書を手にしたときには、「心せわしく夕陽の傾きぬるまで巻三天象、巻十三異国人物、巻十四外夷人物の名を悉くかきとどめ」た、と回想している(同前)。南方にとって、書物を繙くことは、まだ見ぬ存在への好奇心をかき立てられ、異国へと想像力を広げる営みであり、「『文選』中の難読たる魚偏や虫偏のむつかしき文字」(いわゆる「履歴書」12)は、その想像力に道を示す誘い手であった。

10 前掲『昆虫記』(岩波文庫)11 巻 p. 58, 65, 68.

11 「南方熊楠辞」(『熊楠研究』8 号、2006 年)

これに対してファーブルは、身近に存在する動物たちを導き手として文字の世界を自分の中に作り上げていったのであり、未知の存在を土台としては、「文字の抽象」の世界をその上に作り上げることが出来ない子供だった、と自らいうのである。

『昆虫記』の翻訳者である山田吉彦は、その『ファーブル記』でこの逸話(および、この後父親が買い与えてくれたのがラ・フォンテーヌの『寓話』であったこと)に触れて、「アンリーはこのように動物に助けられて本が読めるようになった」13と表現している。ひょっとすると、事実であるには美しすぎるかもしれない、こうしたファーブルの回想には、後年になって確立された自分の立場を幼少時に投影したような面もあるのかもしれない。少なくとも、『昆虫記』において彼が繰り返し表明している、事実の観察および理論的考察に関する彼の原則的立場と、その幼児体験の出発点とは、みごとなまでに整合している。

理論をでっち上げる、そういうことは、私はあまり好ましく思わない。私は理論はすべて眉唾ものと考えている。疑わしい前提で雲をつかむような議論をすることもやはり私にはむかない。

私は観察する。私は実験する。そして事実に語らせる。(『昆虫記』3 巻「あぶない食物」14)だがこの遺伝という言葉の背後にはなんという闇があることか。理論は何かそこに光を投じようと試みた。それは野蛮な訛り言葉を作ることにしか成功しないで、分からなかった事をいっそう分からなくして残しただけだ。われわれのように明晰を欲しがる者は、わけの分からぬ高論などはそれを道楽にしている連中に委せて、野心を観察出来る事実に止どめ、原形質の秘密を説明しようなどと乗り出すことはしないことだ。われわれの方法は確かに本能の起源など説き明かすことはないであろう。だがそれはどこにその説明を求めに行ったら無駄足になるかぐらいは教えてくれよう。(『昆虫記』6 巻「隔世遺伝」15)

私はトーマス聖者の頑固な弟子である。「そうだ」という前に、自分で見、自分で触りたいのだ。一度はおろか、二度、三度、また無限に、私の疑いが証言の圧力でつぶされるまで。(『昆虫記』7 巻「クビホソハムシ」16)


12 「履歴書」と通称される、矢吹義夫宛 1925 年 1 月 31 日付け書簡、『南方熊楠全集』7 巻 p. 8.

13 山田吉彦『ファーブル記』(岩波新書、1949 年)p. 38.

14 前掲『昆虫記』(岩波文庫)5 巻 p. 44.

15 前掲『昆虫記』(岩波文庫)11 巻 p. 42.

16 前掲『昆虫記』(岩波文庫)14 巻 p. 5.

新約聖書の物語る不信者トマスは、刑死した主イエスが復活し、自分の居合わせなかったところに姿を現したと聞いても信じず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言った(「ヨハネによる福音書」20:25)。そのかたくなさをファーブルが踏襲してみせてから四半世紀のちの 1925 年には、「超現実宣言」においてアンドレ・ブルトンが「聖トマスからアナトール・フランスにいたる」系譜をなすレアリストたちを一括して「知的および道徳的なあらゆる飛翔に敵対するもの」17と切り捨て、文学における想像力の特権的自律性を称揚することになるのだが、そのようなブルトンの敵視に対して、あたかもあらかじめ反駁をしていたかのように、ファーブルは自分がそうした、かたくななレアリストたちの系譜に乗る存在であることを明かしている。なによりもまず観察者として、ファーブルは、すがすがしいまでに理性による跳躍を拒絶し、あくまでも事実に基づくことに固執する態度を表明しているのである。

〔両者の乖離:時代との関係〕

このようなファーブルの態度は、ダーウィンの進化論という大理論との関係でもまったくぶれるところがなかった。というより、『昆虫記』における彼の反理論的態度の表明は、多くが進化論という時代の理論との関係で記されている。そして、自分より 14 年年長だったチャールズ・ダーウィン(1809-1882)が、事実の観察と理解に留まり続けた自分の研究態度を、その理論にとって不利な研究として認めざるを得なかったことを、ファーブルは誇りとともに意識していた。『昆虫記』第 4 巻「じがばちの方法」の冒頭でファーブルは、ダーウィンから動物学者ロマーニス(Romanes, GeorgeJohn, 1848-1894)へ宛てた書簡を、次のように引用している。

一八八一年四月十六日づけの手紙で、彼[=ダーウィン]はローマネスにこの問題[ダーウィンにとって、本能はどこまでも獲得習性である]を検討するよう頼んでいる。(…)

私は貴著『動物の知力』の中で非常に複雑なそして不思議な本能のいくつかを取り扱われるかどうか知らないのですが、(…)しかしもし貴下がこれらの本能のあるものを扱われるとすれば、私の考えではファーブルが自然科学年報のその驚くべき論文の中で述べている、獲物を麻痺させる動物[ジガバチ]の本能以上に興味あるものは扱えないように思っています。ファーブルの論文はその後彼の嘆称すべき『昆虫記』の中でさらに深められています。(『昆虫記』4 巻「じがばちの方法」18)

ここで言及されている、ファーブルの「自然科学年報のその驚くべき論文」とは、先の引用で挙げられていた、「ジガバチ科の本能と変態の研究」(1855 年)のことである。ファーブルは、この「じがばちの方法」の章(彼にとって、この主題は「日づけからも最初のもので一番なつかしい思い出を持っているこの発見」だった)で、「本能という天賦の才能がより明瞭な論証の輝きを示しているところは[ほかの]どこにもない。

17 アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(巖谷國士訳、岩波文庫、1992 年、p12.)

18 前掲『昆虫記』(岩波文庫)8 巻 p. 67.

[ほかの]どこでも進化論はこれ以上に厄介なつまずき石にはぶつからないのである。」と主張し、さらに「真実に識見のあったダーウィンはこれを見落としてはいなかった。(…)特に私の初期の結果は彼をはなはだ不安にした」と述べて、昆虫の行動を説明づける理論としての進化論に対する不信をあらわにしている。

ファーブルは、「ファーブルは第 1 に独学者であり、現実主義者であって体系の構築者ではない」19。

そして、南方熊楠もまた、研究者としては独学者[オートディダクト]であり、また体系の構築を拒否するような事実収集家として、キノコや変形菌や、さらには人間の想像力の産物である説話・神話・民俗信仰といった民俗知を集め続けた。観察者・収集家として、両者にははっきりと親近性を見て取れる。しかし、ダーウィンと進化論に対する態度においては、南方とファーブルは対照的であった。

ダーウィンの没年(1882 年)にまだ中学生だった南方にとって、進化論は時代の思想だったという状況の違いもあるかも知れない。しかしむしろ、「いま・ここ」に存在しない事象への憧憬的想像力に親近性のあった南方には、ファーブルと異なる資質があり、だからこそ彼は、菌学(隠花植物研究)と同じ態度で、民俗(という人間心理の)事象にも取り組んだという面もあったように思われる。

なお、ファーブルが引用したダーウィンのロマーニス宛て書簡の中で触れられてるロマーニスの著書『動物の知性 Animal Intelligence』は、その年(1881 年)の新刊書であり、南方も(おそらく渡英後)購入し、利用したものである 20。

〔ファーブルのキノコ図譜〕

世代は異なるが同じく 19 世紀後半を生き、その時代の生物研究に接したファーブルと南方は、そのキノコ図譜制作に関しては、多くの類似性を示している。

ファーブルは、『昆虫記』第 10 巻の「幼年時代の思い出」において、キノコが自分の幼少時から(第10 巻を執筆していた)最晩年まで一貫して身近な存在であったことに触れて、キノコ図描画に取り組むに至った経緯を明かしている。

私の最後の寓居のセリニアンで、茸類は盛んに私を誘惑した。(…)あんまり沢山あるので、数年前から、私は途方もない計画を思いついた。それは実物のままでは標本箱に保存出来ないものを、筆写して標本を作ろうということだ。(…)水彩画の心得なんか私にはない。だが構わない。

(…)自分で工夫して考え出せればよいだろう。最初は拙かったが、やがて幾らかうまくなり、それからぐっとうまく描けるようになった。(…)

19 ディアーヌ・ドゥ・マルジュリー「現代の英雄ジャン・アンリ・ファーブル」(前掲『ジャン・アンリ・ファーブルのきのこ』p. 22.)の引用する、ファーブル伝作者イーヴ・ドランジュの言。

20 南方「蛙の知能」(邦訳『南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇』2005 年)p. 49.

やっとのことで、私は近所のいろんな茸類を実物大に写して、彩色をほどこしたものを幾百枚か持つようになった。(『昆虫記』10 巻「幼年時代の思い出」21)

邦訳『ジャン・アンリ・ファーブルのきのこ』に寄せた解説「ファーブルの菌学の作品」でパトリック・ジョリは、この下りを引用しながら、こう敷衍している。

残念ながら、きのこはもろく、しかも肉がしばしば厚すぎるので、完全な保存は不可能であり、植物のような標本を作ることはできない。そこでファーブルは、水彩画にきのこを残しておこうと考えた 22。

もしファーブルが臭いや味、きのこの断面の肉の色などの特徴を記していれば、解釈にあたって間違いを最小限に押さえることが出来たはずである。理想を言えば、各図版にその標本がついていたら、胞子、表皮の構造などの顕微鏡的特徴が分かり、解釈はほとんど完全なものになったはずである。残念ながら、ファーブルは絵を描いたのち、きのこを保存しておかなかった。彼は単に、乾燥させると色と形が失われるので、きのこの《肖像のコレクション》を作りたかったのである 23。

この説明は、南方熊楠の菌類図譜にも、かなりの程度まで当てはまるようだ。南方の図譜は、「平たく押しつけて乾かしたきのこの実物」24を貼り付けた「押し葉標本」であり、また「図版上に貼付された小さい紙袋には、きのこを分類する上で重要な特徴となる胞子が雲母に挟まれておさまっている。かくして、熊楠の菌類図譜は、きのこの実物にその彩色図と記載文がセットされており、きのこ標本として超一級資料なのである」25と説明されている。通常キノコは(肉厚なため)台紙に貼付する押し葉標本とはしないのだが、南方は渡米当初盛んに作成していた高等植物標本 26と同様に、キノコについても、台紙に乾燥標本を貼付し、さらに乾燥後は失われる情報である色や、生きているときの形態といった情報を、彩色図によって記録した。そして、(キノコ図描画に関して)ファーブルがまったくの独学であったのと同じく、南方についても、生物観察図を描くことについて、どこかで手ほどきを受けたかどうかについては資料がまったくない。

解説者ジョリは、ファーブルのキノコ図の全体像についてこう述べている。

21 前掲『昆虫記』(岩波文庫)20 巻 pp. 97〜98.

22 パトリック・ジョリ「ファーブルの菌学の作品」(前掲『ジャン・アンリ・ファーブルのきのこ』p. 102.)

23 同前、『ジャン・アンリ・ファーブルのきのこ』p. 109.

24 萩原、前掲「南方熊楠の菌学研究と彩色図譜」、p. 128.

25 萩原、前掲「南方熊楠の菌学研究と彩色図譜」、pp. 128〜129.

26 土永知子「熊楠の高等植物の標本(中間報告)」(『熊楠研究』1 号、1999 年)

不思議なことに、昆虫の絵はほんのわずかしかないのに、きのこは困難さにもかかわらず、描きためた図版が 700 枚近くもあった。これらの図版には日付のないものもかなりあるが、ほとんどすべて 1878 年から 1899 年までの間に描かれたものと思われる。日付のあるものの大部分は、1886 年から 1893 年までの間に描かれている 27。[1 点だけ、1903 年のアミヒラタケ図がある]

南方の菌類図譜の場合、採集・制作年が 1900 年から 1940 年の 40 年間に及んでいて 28、ファーブルのキノコ図描画とはほぼ入れ違いだったことになる。冒頭に触れたように、通し番号で 4700 を越え、現存点数でも 3400 を越えているこれら図譜の総量に比べると、ファーブルのものが 700 点近くというのは、それほど多いものではない。これは、南方にとっては菌類研究が(変形菌と並んで)生物研究の中心テーマだったのに対して、ファーブルは昆虫研究が基本であったことを考えれば、当然のことかも知れない。

すでに触れたように、ファーブルと南方は、研究機関に属さないアマチュア研究者であるが故に、文献へのアクセスに不自由していたという共通点があった。キノコ研究において、このことは両者に共通する結果を招くことになる。ふたたびジョリの解説を引用しよう。

(…)採集された多くの種を同定するには、資料の数はしばしば不十分なものであった。そのために、彼は多くの《新種》を立てたが(1878 年の著作では半分以上、また、1883 年のものでは 2/3 以上が新種であった)、もちろんその中のほとんどの学名は、現在使われなくなったり、異名として残っているだけである。

ファーブルが「新種」とした菌類のいくつかは、研究に貢献してくれた人たちに献名された 29。ファーブルは、彼の住むセリニャン村を含むヴォクリューズ県のキノコについて、上記のように 2度著作を公刊した。その際にも、また残された彩色図にも、ファーブルは多数の「新種」を立てているが、それらのほとんどはその後無効となってしまった、というのである。

こうした、キノコ研究をめぐる事情の多くは、南方にも共通している。南方もまた、膨大な量の菌類図譜を残し、そのなかで無数の「新種」を認定し、それらはしばしば、採集者など研究協力者に献名した名前となっている。そして、その南方のキノコ研究は、とうとう一度も公刊されることがなかった。既存種との異動を観察記述した記載文とともに研究誌上で公刊するという手続きにより学界に報告されてはいないため、南方が名付けたそれらの「新種」名は、裸名としてすべて無効なままにとどまった。それらは畢竟、地方にいて、研究機関に属さなかった両者が、文献の不十分さのために既知種との異動を充分に吟味できなかったため、新種の記載報告には大きな不利を負っていたことの結果である。

27パトリック・ジョリ「ファーブルの菌学の作品」p 104

28 萩原、前掲「南方熊楠の菌学研究と彩色図譜」p. 128.

29 パトリック・ジョリ「ファーブルの菌学の作品」p. 99.

昆虫の生態観察を主戦場としたファーブルと、変形菌という種数の比較的少ない分類群では

新種発見に大きな成果を上げることが出来た南方の両者にとって、キノコ研究は、学界へ貢献出来る期待のあまり出来ない分野だったのかも知れない。

それにしても、キノコへの視覚資料的関心という共通項がファーブルと南方にあったことを、どのように理解することが出来るだろうか。

ファーブルがキノコ図の制作を終えたのち、そして南方が紀南で孤立した菌学研究を進めていた頃にあたる 20 世紀前半、生物学の世界は大きく様相を変えつつあった。すなわち、生態学と行動学の勃興である。のちには、「あらゆるものが、あらゆるものとつながっている」という関係の網の思想となっていく生態学=エコロジーは、その始まりにおいては、植物の分布や個体数の消長といった、自然界における種の生存のさまの科学であった。ダーウィンが『種の起源』(1859 年)において示した、マルサスの人口論を応用した生物個体数に関する考察は、彼にとっては自然淘汰という思想の根底をなす議論だったが、生態学の成立にとっても、その萌芽的段階をなしている。そして、エコロジーということばそのものこそ 1866 年には作られていたが(エルンスト・ヘッケル『自然創造史』)、今日の意味での生態学=エコロジーという研究領域が成立するのは、クレメンツ『植相遷移論』(1916)やエルトン『動物の生態学』(1927)などの成果を待ってのことであった 30。

つまり、ファーブルと南方がさかんに生物研究をしていた時期は、20 世紀に入って飛躍的に成長していくことになる、生態学という学問領域の前夜に当たっていた。

1901 年からの 3 年間、紀南の森で生物を実地に観察していた頃、南方の生物採集は、隠花植物のみならず高等植物も、動物(昆虫)までをも含む広範なものだった 31。このように観察・採集対象が広かったことについて、彼の残した生物資料の調査に取り組んだ紀南の生態学者後藤伸は、こう指摘したことがある。

粘菌とかキノコを研究するには(…)少なくともかなり高度な動物や植物に関する知識が必要なのです。粘菌だけとかキノコだけをやろうというような厚かましいことはできないのです。ですから南方さんは実際にそれをやっているわけです 32。

後藤も記すとおり、この指摘は、今日では常識的ともいえる。自然界では、さまざまな種の間に相互の関係(多くは食物連鎖の捕食関係や寄生・共生関係)が成立しており、特定のキノコを対象としてフィールド採集を行う際にも、そのキノコが共生関係にある樹種を目指して森に入ることになるし、樹木には昆虫や他の動物類が集まって、それなりに複雑な生態系を自然に形成している、ということを踏まえて調査を行うことになる。その意味で、特定の種や分類群だけに限定した観察や理解というものは、今日では成り立たない。

30 拙稿「南方熊楠の『エコロジー』」(『熊楠研究』5 号、2003 年)

31 この時期、南方は連日日記に採集の進捗状況を克明に記録している。主にはキノコと変形菌、シダ類などの隠花植物、および高等植物だが、生涯でも例外的にこの時期には昆虫の採集もしている。参照:後藤伸「南方熊楠の昆虫記」(『熊楠研究』1 号、1999 年)、同「熊楠標本からみた紀州熊野の森―採集品(植物・昆虫)から 20 世紀初頭の自然を考える―」(『熊楠研究』2 号、2000 年)

32 後藤伸「紀伊半島の自然と南方熊楠」(『南方熊楠に学ぶ』奈良女子大学人間文化研究科「南方熊楠の学際的研究」プロジェクト、2004 年)p. 5.

後藤は、南方の残した生物資料を踏まえて、「南方さんは実際にそれをやっている」と述べた。生態学的認識に基づいて自然観察をしている、という意味であろう。しかし、生態学という学問がまだ今日のような形を成していなかった 20 世紀初頭に、南方が紀南熊野の森で、学説史を無視するようなそうした実践をしていたのだとしたら、それは驚きに値することである。

ファーブルの昆虫観察の営みについても、実は同様に、学説史をさかのぼるような先取性が指摘出来る。行動学=エソロジーということばは、サン=ティレールによって 1854 年には使われていたが、それはある生物の習慣(エートス)とその環境との関係を問題とする、漠然としたことばであった。

その後、動物の行動を対象とする自然科学としての行動学がその輪郭を確立するまでには、その後半世紀以上の時間を要している。今日、ファーブルの業績は(ダーウィンのそれとともに)動物行動学の先駆と見なされているが、南方における生態学的観察と同様に、それは職業研究者たちの学界における歩みに先駆けた営みだったのである。

ファーブルと南方は、同時代の学界よりも、自分たちより前の世代の自然観察者=ナチュラリストたちにより親近性を持ち、自然界の生物そのものの観察を生涯の営みとした。形態の観察による分類学や、理論化を拒んで行動そのものの観察に留まり続けたという意味で、古い型の生物研究者だったといえよう。そして、ダーウィンのような理論志向ではなく、事実をひたすら集め、積み上げていく営みに親近性があり、自然を見つめることに徹することに資質のあった両者は、そのことによって、まだ未形成だった生態学的視点を先取りしたような観察の営為を行うことになっていった。南方が森の生態観察を通じて昆虫へと逸脱したように、ファーブルは昆虫からキノコ観察へと逸脱したのであり、その意味で、両者の生態学的先駆性の交錯点となっているのが、ファーブルと南方のキノコ図譜なのである。

ファーブルは、昆虫観察の膨大な記録を、饒舌な『昆虫記』として刊行することが出来、今日に至るまで多くの読者を獲得している。対照的に、南方のキノコ研究は、公刊されないまま個人の研究資料にとどまっている。しかし、数千に及ぶキノコ図譜の一点一点は、その標本についての(英語による)詳細な観察記録を伴っている。「紀州田辺湾の生物」33のような、民俗的自然史随筆を新聞に連載したこともあった南方の、まだその全貌が明かされてはいない「キノコ記」が、あるいはそこに眠っているかもしれない。

【附記】引用文中の[ ]は、引用者による補足である。

33 南方「紀州田辺湾の生物」『南方熊楠全集』6 巻所収

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