Facebook・KNOB ノブさん投稿記事
おはようございます。
一昨日、昨日と、ふとした時に、何故かイスラエルのマサダのことが心に映り、離れませんでした。
さとううさぶろうさん、滝沢泰平さん、真弓さん、長谷川章子さん、長典男さん、長加緒里さん、それにもう一方。ご縁をいただいた方々と初めて訪れたイスラエルの地。
様々な場で祈り、献奏もさせていただきましたが、個人的に最も印象深い地がマサダでありました。死海文書が発見されたイスラエルはクムラン洞窟。
また同じように古い写本が見つかったのがユダヤ最後の地。イスラエルが完全に消滅した場所 マサダです。僕にとって衝撃的な出来事であったマサダでの祈り、、、それが5年前の今日でありました。
死海のほとりの砂漠にそびえる高さ400mの切り立った岩山。 その上に要塞が建設された地がマサダです。
約2000年のこと。紀元66年にローマ帝国の支配にユダヤ人が立ち上がりユダヤ戦争が勃発しましたが、数年後、ローマ軍団によってユダヤの本拠地、聖地エルサレムは神殿も破壊され、陥落してしまいます。
兵士やその家族、女性や子供も含むユダヤ人の集団967人が包囲を逃れ、マサダ砦に立てこもりました。
追ってきた1万5千ものローマ軍団に周囲を包囲されますが、自然の要塞マサダはローマ軍を寄せ付けません。
しかし、ローマ軍は、イスラエルの捕虜と奴隷を使い、土を運び、山の西側の崖を埋めて突入出来るように、、、
3年がかりで山腹は着実に埋められ、ユダヤの人々の敗北が確実となったある日、、、指導者たちは集まって今後の方針を協議します。
抵抗を続け、戦っても全員が殺され、降伏したとしても女性たちは辱しめを受けてしまう、、、そして、ある決断がされました。
ローマ軍部隊が完成した侵入路を通り城内に突入すると、、、激戦を予想していたローマ軍でしたが、防戦してくるユダヤ人は1人もいませんでした。
集まった指導者たちによってされた決断とは、、、ローマ軍に殺されるのであれば、ユダヤの、民族の誇りにかけて自分たちで自害する、、、しかし、ユダヤの戒律では自殺は許されていません。会議が終わると、指導者たちはそれぞれ愛する家族のいる自宅へと戻ります。
家族へ事情を説明し、別れを告げ、愛してやまない妻、子供の命を、、、どれだけ辛いことであったか、、、
さらにくじで10人の勇士を選び、その10人が他の仲間たちの命を絶ち、またその中から最後の一人をくじで選びました。
最後のその一人の方は地面に剣を立ててそれに覆いかぶさって亡くなったそうです。
この悲しいお話が今に伝わっているのは、洞窟に2人の婦人と5人の子供たちが身を隠して生き残っていて、そこで起こったことをローマ軍に語り、歴史家のヨセフスが『ユダヤ戦記』の中に記録を書き残したおかげであると伝えられています。
5年前の今日。
マサダの北の宮殿と呼ばれるローマ軍が突入してきた時、もっとも多くの方々が亡くなられていた場所にて、
さとううさぶろうさん、滝沢泰平さん、長典男さん、現地に45年お住まいの日本人ガイドであるバラさんと男性人が中心となり、祈りの法要をさせていただきました。
日本からお持ちした御仏火を灯し、この地に訪れる前に伺っていた自然豊かな滝やメギドの地下の御水。
葡萄酒を御供えさせていただき、慎みイダキでの読経、ひふみ祝詞、君が代、イスラエル国歌、、、
観光客はあまり訪れないような場所での祈り、、、 涙が流れて止まりませんでした。
長さんに降りたメッセージ、、、
僕と長さんは最後に選ばれた10人であり、、、最後に自決された方はうさぶろうさん、、、
泰平さん、バラさん、、、みなこの地で深い深い哀しみと絶望を体験した魂、、、
この今にご縁をいただき出逢え、日本から訪れ、共に真に祈るような方々、、、かつてのご縁がそうであったとしても、何も不思議ではないと感じました。
マサダの悲劇によってユダヤ戦争は終結しましたが、マサダは現代のユダヤ人にとっても民族の聖地となっています。
イスラエルとご縁が深く、ヤマトとユダヤの真なる結びのため、架け橋となるようなお働きをされておられる赤塚高仁さんのマサダの地でのメッセージをシェアさせていただきます。
https://youtu.be/arxe4r_7T6k
小名木善行さんのマサダに行かれた映像もシェアさせていただきます。
https://youtu.be/LpOg4bl8KF4
ユダヤの人々は権力で統治支配するローマ軍から何を守りたかったのでしょうか。
あれから2000年、、、
今では資本主義経済の頂点にいる方々がかつてのローマ軍に変わり、世界の統治支配へと、、、
ユダヤの民の魂と、日出る国 ヤマトの民の魂とが真に結ばれ、合わさる時
その時は本当に近いのかもしれませんし、すでに始まり、表れはじめているのかもしれません。
合掌 KNOB 拝
https://www.hankyu-travel.com/heritage/mideast/masada.php 【第192回 イスラエル マサダ ユダヤ民族2000年の 結束のシンボル世界遺産|マサダ】より
イスラエル東部に海水の10倍もの濃度の塩水をたたえる死海。マサダ(ヘブライ語で要塞の意味)は紀元前100年頃、その湖面を見渡す高さ約400mの岩山に建設され、ユダヤを支配していたヘロデ王が増築。砂漠に降る雨を引き込み4トンもの水を蓄えられる巨大な貯水槽、数年分の食糧を備蓄できる倉庫、豪華な宮殿まで築かれ、さながら町のようでしたが、歴史上のある出来事により、ユダヤ人にとって一生に一度は訪れなければならない重要な地になりました。
ヘロデ王の死後、ユダヤ王国はローマ帝国の支配下に置かれますが、紀元66年にローマの圧政に耐えかねユダヤ人が反乱を起します(ユダヤ戦争)。しかし、70年に都エルサレムは陥落。追われたユダヤ人約1000人がマサダに立てこもり、2年以上も抵抗を続けます。難攻不落といわれたマサダですが、圧倒的なローマ軍の前に力及ばず、異教徒に辱めを受けるくらいなら死をと、女性と子供7人を残し、全員が自決を選びます。この時からユダヤの民は、1948年にイスラエルを建国するまで、世界に離散することになったのです。
イスラエルには「マサダは二度と陥落しない」という合い言葉があります。悲劇を二度と繰り返さない、というユダヤ人の決意の表れです。哀しい歴史を秘めたマサダで今は、イスラエル軍の入隊宣誓式が行われるようになりました。古代ユダヤ人たちの強い意思は、2000年の時を超えて現代のイスラエル国民に受け継がれています。
https://www.y-history.net/appendix/wh0103-075_01.html 【ローマ帝国の属州民となったユダヤ人は、1~2世紀に繰り返し解放戦争を戦った。しかし、いずれも鎮圧され、ユダヤ人の離散が始まった。】より
ローマ時代のパレスチナは紀元6年からローマ帝国の属州ユダヤエとして支配されていた。そのパレスティナで、1世紀後半から2世紀にかけて、ユダヤ人の激しい反ローマ闘争が起こった。
第1次ユダヤ戦争(66~74年)
ローマの属州ユダヤエで、独自の民族宗教であるユダヤ教の信仰を続けていたユダヤ人は、ローマの支配に対する不満をつのらせ、66年の春に反乱を起こし、ユダヤ戦争が始まった。時の皇帝ネロは将軍ウェスパシアヌスを反乱鎮圧のために派遣した。ウェスパシアヌスはガリラヤ地方を反乱軍から奪回し、イェルサレムに迫った。その途中、本国で皇帝ネロが失脚し、69年7月にウェスパシアヌスは東方に駐在する軍隊の支持を受けて皇帝に就くこととなり、アレクサンドリアを経てローマに帰った。ユダヤ戦争の指揮を引き継いだその息子ティトウスはイェルサレムを7ヶ月にわたって包囲攻撃し、70年9月に陥落させた。
反乱はその後も一部で続いたが、74年春に死海の南岸に近いマサダの反乱軍要塞が陥落し、終わりを告げた。このときのユダヤのローマに対する戦いの詳細は、フラウィス=ヨセフスという人の『ユダヤ戦記』に詳しく書き残している。
イェルサレムの陥落 70年3月、ティトゥスはイェルサレム包囲戦を開始した。ローマ軍は攻城機を使って5月までに2つの外壁を破壊したが第3の城壁に阻まれた。第3の城壁を壊して抜けたのはようやく9月だった。7ヶ月にわたる攻城戦のすえに、イェルサレムとその神殿は破壊され、住民は殺されるか、奴隷として売られるかということで終わった。ローマ軍兵士はイェルサレムのユダヤ教神殿から宝物を掠奪してローマに持ち帰り、ローマには勝利を記念する記念門に、兵士が神殿を掠奪する様を彫り込んでいる。<クリス・スカー/吉村忠典監修/矢羽野薫訳『ローマ帝国-地図で読む世界の歴史』1998 河出書房新社 p.56>
参考 ティトウスの凱旋門
現在もローマに残されているティトウス帝の凱旋門には、70年9月にローマ軍がイェルサレムを破壊し、ヤハウェ神殿を掠奪した様子が彫刻されている。「この凱旋門は、帝国の権勢を示す永続的なシンボルであり、その彫刻はローマ支配に反抗した人々がたどる運命を、消すことなく思い起こさせるものだった。
ユダヤ戦争
イェルサレムのヤハウェ神殿を掠奪するローマ軍兵士
ローマ ティトウス帝凱旋門のレリーフ
(引用)71年6月、皇帝ウェスパシアヌスと息子のティトウスは、ユダヤ反乱の鎮圧を祝った。ティトウスが、前年の70年夏、イェルサレムを包囲して陥落させたのである。ローマ軍に容赦はなかった。ヘロデの大神殿は荒らされ、内部の神域、至聖所は掠奪された。聖器や金の犠牲台、七枝の大燭台(メノーラー)、銀のトランペット、律法(トーラー)の巻物がローマにもちさられて、町中にみせびらかされた。それから10年経った81年になって、その年にすでに崩御していたティトウス帝を称えて、中央広場の東の出入り口に凱旋門が建造されたが、そこに刻まれた彫刻によって、ユダヤ民族制圧という歓喜の瞬間は永遠に記憶にとどめられることになる(右図)。<クリストファー・ケリー/藤井崇訳『一冊でわかるローマ帝国』2010 岩波書店 p.12-13>
マサダの陥落 ローマ軍の将軍シルヴァは攻略にあたって包囲壁をめぐらし、マサダの西の腹に破城用の斜道を作った(その跡は現在も見ることができる)。やがて城壁の一部が破壊されると城砦を守るエレアザルは観念し、全員に集団自決を勧めた。こうして73年5月、戦士およびその家族たち960名は一団となって自決した。<フラヴィウス=ヨセフス『ユダヤ戦記』ちくま学芸文庫 7.421-436>
世界遺産 ローマ帝国の属州民となったユダヤ人は、1~2世紀に繰り返し解放戦争を戦った。しかし、いずれも鎮圧され、ユダヤ人の離散が始まった。の要塞
ユダヤ戦争でイスラエルの“愛国者”が立て籠もり、最後までローマ軍に抵抗した要塞がマサダである。死海西岸にそびえる高さ約400mの台地上に遺跡が残されており、発掘調査の結果、ヘロデ王の離宮などの関連施設とともに、66~70年のユダヤ戦争でユダヤ側の最後の拠点であった城砦跡が調査され、2001年に世界遺産に登録された。砦ではユダヤ敗戦の後も、73年まで抵抗が続けられたという。 → UNESCO World Heritage Convention Masada
第2次ユダヤ戦争(131~135年)
2世紀に入り、再びユダヤ人の反ローマ闘争が活発になった。ローマ皇帝ハドリアヌスは五賢帝の一人で膨張政策を改め、帝国の安定をはかっていたが、その晩年に至ってイェルサレムに自己の家名を付けた都市に衣替えし、ヤハウェ神殿を破壊してローマの神であるジュピター(ユピテル)の神殿を建設しようとした。このことはユダヤ人の怒りを買い、131年に第2回ユダヤ戦争といわれるユダヤ人の反ローマ闘争が再開された。
この第2回ユダヤ戦争で反乱の先頭に立ったのは、バル=コクバ(星の子)とい呼ばれた力と人格に優れた人物であった。一説には、ローマがユダヤ人に対して割礼禁止令を出したことに対する反発であるとも言う。
戦いはパレスチナ全土に広がり、一時はイェルサレムを占領して神殿を復興し、ローマからの解放を記念して貨幣も鋳造している。反乱は3年ほど持ちこたえたが、ハドリアヌスはユリウス=セヴェルスをブリテン島から呼び戻し、大軍をイェルサレムに派遣、装備に優れたローマ軍がイェルサレムを再び占領、反乱軍は掃討され、135年に指導者バル=コクバも捕らえられて処刑されて終わった。この出来事は五賢帝時代の汚点の一つとなり、ローマの衰退の始まりを示すものでもあった。<南川高志『ローマ五賢帝』1998 初刊 2014 講談社学術文庫で再刊 p.163-164>
同時にこの戦争はパレスチナにおけるユダヤ人の最後の抵抗となった。ローマ帝国のもとでイェルサレムは再び破壊され、新しい市街地にはユダヤ人はいっさいの立ち入りを禁止され、ユダヤ人の多くは地中海各地に離散(ディアスポラ)していくこととなった。
Episode 「嘆きの壁」の由来
(引用)これは凄惨な敗戦であった。ユダヤは完全に破壊しつくされた。無数のユダヤ人が命を落としただけでなく、数知れぬユダヤ人が捕虜となり、奴隷として売られていった。その数が余りに多く、ユダヤ人奴隷市場はインフレを起こし、奴隷一人の値段は馬の飼い葉一回分であったとすら言われている。「アエリア・カピトリーナ」となって聖都エルサレムは消滅し、その地にユダヤ人が足を踏み入れることは死罪をもって禁じられた。ただ紀元四世紀に至ってようやく、年に一回、アブの月の九日(70年のエルサレム滅亡の日であり、135年のベタル陥落の日)にのみ、旧神殿の壁にすがって祈ることが許された(エルサレムのいわゆる「嘆きの壁」はここから由来する)。<佐藤研『聖書時代史 新約編』2003 岩波現代文庫 p.181>
0コメント