極楽トンボ

Facebook・Nakako Yamamotoさん投稿記事「目的を見なさい」の巻

緊張ってどこからやってくるのかな~♪っていつも思うのですが、今日は緊張しないぞ!と宣言したり、なんか今日はこのままリラックスして臨めそう、とか思っても、ちょっとした雰囲気などですぐにガチガチアワアワ😫になってしまう。

実は私はこの緊張に対処するためにカラオケをはじめた。最初は人前で歌を唄うなどなんちゅー大それたことかと思っていた。いまではステージ(近所にそれらしいところがあり)でスポットライトの下で熱唱するまでになり、町内会のカラオケイベントで老若男女の皆さまに拍手をいただくまでになった。慣れというの確かにたいしたものである。

どなたかが言っていたのだが、緊張というのは自分を良く見せようと思うことで起こる精神作用であるとか、ありのままのそのままの自分を見せよう思っていればいいのにさ、と。これは当たっているような気がする。つまりは、ありのままの自分では人前で勝負できないと思っている自分がいるわけで、なんとか急ごしらえで余所行きのいいいお洋服を着せてあげねばとバタバタで「ああ、緊張するぅ🥵」なのではないだろうか…。

昨日、そんな様子を人に見ていた。

「緊張してうまくしゃべれません🥶🥶🥶」

モニターに大写しになったその方が言った。そのときだった、

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「目的を見なさい」

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私のガイドさんの声が頭の中にこだました。あぁ、なるほど🤭 緊張するとき自分を見ているんだわ、緊張している自分を見てますます緊張していく…。いま、なんのためにそれを言うのか、その目的にフォーカスすれば視点は自分を超えてその先にあるターゲットに向かっていく…。

これはある俳優さんが、緊張してカメラを見られないという新人女優さんに「カメラを見るのではない、その先にいる人々を見るのだ、その人に伝わらなければ意味がない」、そんな感じのアドバイスをされたと聞いて、おぉ!と思ったことを思い出した。自分を見ている自分を人に見せても、なんのこっちゃ!?なのである。モジモジを見せらる方からすれば、大事な時間返せー!である。

おぉ、この自分の考えになんだかいま緊張がほぐれてきたぞ。ガイドさん、「目的ですね、目的!」。このお話がうまいことあなたに伝わりますように💕 そこですね😁。

Have a good day🥳

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「中ちゃんおばさんのセルフコンタクト日記」

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https://www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/2301-2400/2376.html  【◆ことばの話2379「おとんぼ」】より

11月25日、武庫川女子大学言語文化研究所主催で開かれた講演会に行ってきました。講師は、朝日新聞の夕刊紙上の「勝手に関西世界遺産」のコーナーで関西の言葉などの取材を続けている河合真美江記者(朝日新聞大阪本社)でした。

その会の中で、会場の参加者(女性)から、

「末っ子の弟のことを、昔『おとんぼ』と呼んだが、これの語源や意味はどういうことなのか?『おと』は『弟』のことか?」

という質問が出てきました。「おとんぼ」、なんだか「トンボ」になったような気分。末っ子は、「極楽トンボ」だから「おトンボ」なのでしょうか?私はこの言葉は初めて耳にしましたが内容から、「『おとんぼ』の『ぼ』は、『坊』が短くなったものではないか。そして『坊』なので、当然、男の子のことを指すのではないか。」と思いました。でも「ぼ」は分っても、「おとん」が分りません。

家に帰ってから、牧村史陽『大阪ことば事典』を引くと、果せるかな、載っていました!

「乙ん坊」

と書いて、意味は「末っ子、おとご。」ちなみに「おとご」というのは、「乙子」

と書くようです。「甲乙丙丁」の「乙」ですか。乙(おつ)な言葉ですね。男子に限られるかどうかは分りませんが、「ぼ」は「坊」ですから、「男」でよいでしょう。使用範囲は、近畿のほか西日本全般に広がっているようです。

『日本国語大辞典』を引いてみたら・・・載っていましたよ、少しですが。

「おとんぼ」(乙坊)=方言→おと(弟)

おお、やっぱり「弟」も関係しているのか?「弟(おと)」を引いてみました。

「おと」(弟・乙)=(2)長子でない子をいう。とくに末子をいうことが多い。おとご。

あ、そうか「おとうと(弟)」という言葉の語源が「乙(おと)の子(こ)」だったのか!たぶんそうに違いない。「方言」として「おとんぼ」を使う地域としては(辞書に載っている地名は、現在の「平成の大合併」で変わっているところもあるかと思いますが、そのまま引きます)、

「長野県下伊那郡、三重県、京都府、大阪府大阪市、泉北郡、兵庫県、奈良県、和歌山県、島根県、岡山県、広島県比婆郡、山口県、大島、香川県、愛媛県、高知県、長崎県西彼杵郡」

そして語尾が伸びる「おとんぼう」は、

「兵庫県揖保郡、神戸市、和歌山県、島根県石見、岡山県、広島県、山口県」

で使われています。また、撥音の「ん」が欠落した「おとぼう」を使うのは、

「広島県安佐郡・芦品郡、佐賀県、藤津郡」

そのほか「おとんぼし」は高知県室戸、「おとべ」は三重県志摩郡で使われているとのことです。すごい調査ですねえ。

「おと」の「語源説」を読んで見ると、(1)年劣ル義、と『大言海』から引いてきていますが、この「おとんぼ」の意味の「おと」は、

(4)オトゴ(乙子)の略という『大日本国語辞典』の記述や、(5)オツ(乙)の転という『名語記・俚言集覧』の記述にあたるのではないでしょうか。「オトゴ」を引いて見ます。

「おとご(乙子・弟子)」=(1)末に生まれた子。末子(ばっし)。すえっこ。

「弟子」は「でし」ではありませんよ、この場合。なんと用例は『延喜式』(927年)から取ってきています。古い、歴史のある言葉なんですね。そして、

「おとごの祝い」「おとごの朔日(ついたち)」

という言葉も載っていました。これは陰暦の十二月一日は末の弟を祝う日として餅をついたり、小豆飯(赤飯のことか)を炊いたりしたんだそうです。一説には「一年で最後の朔日」ということで祝うのだそうです。ふーん、今では廃れてしまった風習ですよね、少なくとも都会では。まだ続けている地域もあるのかしら?

昨今は少子化で、なかなか「末っ子」という感覚もなくなってきていますから「おとんぼ」という言葉も廃れてきたのでしょうね。

いずれにせよ、勉強になりました!


中学生の頃 シェックスピア戯曲の「ベニスの商人」を読んだことがあります。

世界の財閥の営利追及の在り方を 見た時 この戯曲を思いだしました。

http://e-freetext.net/venice.html にダウンロード用テキストが紹介されていました。

「昔、シャイロックというユダヤ人がヴェニスに住んでいた。シャイロックは高利貸しであり、キリスト教徒の商人に高い利子を付けて金を貸すことで大金持ちになったのだった。

シャイロックは冷酷な心の持ち主であり、貸したお金の返済をとても厳しく要求してきたために、すべての善良な人たちに嫌われていた。その中でも特にアントニオというヴェニスの若い商人がシャイロックを憎んでいて、シャイロックもまたアントニオを憎んでいた。

というのは、アントニオは困っている人によくお金を貸していて、そのお金に決して利息をつけなかったからである。

このことから、このどん欲なユダヤ人と寛大なる商人アントニオは互いに激しい敵意を抱いていた。

アントニオはリアルトー(すなわち取引所)でシャイロックに会うと、いつもシャイロックが高利で金を貸して厳しく取り立てることを非難していた。」と在ります。

今改めて読むと シャイロックの無念な気持ちが良く分ってしまいます。キリスト教徒はユダヤ教徒の子孫でした。出エジプトを果たし 約束の地に住み始めると ローマ帝国の支配と弾圧に脅かされることになります。

ローマ帝国はキリスト教徒にとっても、ユダヤ教徒にとっても共通の敵でした。

しかし、ローマはキリスト教を民の統治の道具とするため、国教会に定めます。そして長い中世、キリスト教と政治の癒着が続きました。

その間ユダヤ人はユダヤ人強制居住区域. ゲットーに隔離されました。

ゲットーが形成されたのは、文化的、宗教的に少数派であるユダヤ人が中世ヨーロッパにおいて異質なものとしてみなされたためです。結果としてユダヤ人は多くの都市で厳しい規則のもとに置かれました。

本来は共通の敵だったローマに取り込まれた同族のもの つまりは親族に裏切られた悔しさを感じます。

もしあなたがユダヤ人だったとして 厳しい規則のある ユダヤ人強制居住区域・ ゲットーに隔離され、憎しみと蔑みに晒され ただただお金だけを 誇りにせざるを得なかったとすれば・・・?

シャイロックはキリスト教徒と結婚した 自分の娘さえ許すことができないともあります。

しかも高利貸しと侮られ非難されたとしても 相手がシャイロックの噂を知りながら 借りることを求めているにすぎません。そんな相手から借りる者こそ愚かです。

シャイロックは怒りをそして憎しみを バネにして 人々を虐げてしまったのです。

「目には目を、歯には歯を」の教えを生きているにすぎません。

悪名高きロスチャイルドの話を聞くと 私はこのベニスの商人を連想します。

しかも世界は銀行制度を認め、簡単に印刷できる紙を お金と認め より快適に、より便利に、より多くの富を・・・と求め続けてしまいました。

仮に日本が紙幣を導入しないで 金貨その他のコインを通貨で通していたとしたら 紙幣のように大量に通貨を得ることは不可能です。インフレを簡単に引き起こすことも困難であり 消費量を増やすことも簡単にはできません。

消費は美徳と叫ばれ、マスコミを活用した コマーシャル産業の餌食になり、大量消費の大きなつけが示されています。

政治は企業に支配され、企業は銀行に支配され、銀行は一握りの大財閥に支配されるというピラミット構造を 受け入れてしまいました。

愛を失った相手に、支配欲に取りつかれた相手に 「人道的に!」も何もあったものではありません。

相手を告発しても真実に変えることは困難です。

では今私たちに何ができるのでしょうか?

この構造を容認してしまった 自分たちの在り方を振り返ってみる必要があります。

私たちは愛よりも富を優先してきました。その流れに無自覚に乗ってきました。

これまで世界には 石油を求めて多くの争いがありました。原子力エネルギーさえ富のために導入されました。

エネルギーを求めての争いが続いてきました。まず一つの可能性はエネルギー改革。

フリーエネルギーの利用 太陽光、水力、風力、そして磁気の活用、ヘンプカーまで検討されています。

二つ目は私たちがしっかりした死生観を持つこと。

三つ目は 団結して声を上げること・祭や地域コミュニティの回復。

四つめは 教育を権力者の手に握らせないということです。

しかし何よりも優先する必要があることは 戦争回避です。これは 戦争を起こして得をするものを除けば 誰もが 望んでいることです。

それでも正当防衛的な 武力の行使力は 備えておく必要があるのかもしれません。

教育も、医療も、食も、エネルギーも 財閥が支配しきっています。

ウーマンリブの運動さえ 子どもの教育を「財閥が管理支配できる公教育」任せにさせるもくろみのもとに推進されたということです。

神はすべての場所にいることができないために、母親を創造された。

( ユダヤの格言 )

自己実現を「愛に生きる」ことと捉え直せれば、「ありのままの自分を受け止め愛し、本来の自分を表現しながら生きる」ことと捉えれば 富への渇きから 少しづつ解放されてゆくのではないでしょうか?


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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