Facebook・兼井 浩さん投稿記事
もし自分の作品にメッセージがあるなら、それを突き詰めると、違っても良いんだということかな。
人と違うというのは良いことで、見た目が違う人や行動が違う人、話すことが違う人、
肌の色が違う人を非難する前に、まず自分を見つめ直そうということだろう。
---ジョニー・デップ(1963-)
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つまり、人と違うことをしたって、人と違う外見だって、それは悪いことではなくて、むしろ人と違うこと、自分の個性は大切なものなんだ、ということなんですよね。
兼井 浩『ドクダミ』--- 星野富弘
おまえを大切に摘んでゆく人がいた 臭いといわれ きらわれ者の おまえだったけれど
道の隅で 歩く人の 足許を見上げ ひっそりと生きていた いつかおまえを必要とする人が 現れるのを待っていたかのように おまえの花 白い十字架に似ていた
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■星野さんは、この詩について、次のようにコメントされています。
わたしは、ドクダミという草がきらいでした。
へんなにおいがするし、どそ黒い葉っぱに、ミミズのような赤い茎が、じめじめした日陰にはえているのですから、名まえからして、さわれば、指がくさってしまうような気がします。
でもわたしは、車椅子にのるようになって、とってもだいじなことを知ることができました。
わたしが元気だったころ、からだの不自由な人を見れば、かわいそうだとか、気味がわるいとさえ思ったことが、ずいぶんありました。
しかし、自分が車椅子にのるようになって、はじめてわかったことなのですが、からだが不自由な自分を、不幸だとも、いやだとも思わないのです。
けがをして、一、二年は、からだのことでなやんだり、くるしんだりしました。でも、うけた傷は、いつまでも、ひらきっぱなしではなかったのです。
傷をなおすために、そこには新しい力が自然とあたえられ、傷あとはのこりますが、そこには、まえよりつよいものがもりあがって、おおってくれます。
からだには傷をうけ、たしかに不自由ですが、心はいつまでも不自由ではないのです。
不自由と不幸は、むすびつきやすい性質をもっていますが、まったく、べつのものだったのです。
不自由な人を見て、すぐに不幸ときめつけてしまったのは、わたしの心のまずしさでした。
だから、ドクダミを見たとき、わたしは思いました。”自分のまずしい心で、花を見てはいけない・・・・・”と。
そのときから、ドクダミが美しく見えるようになったのです。ミミズのようだと思っていた赤い茎は、銅の針金のようにたくましく、いやだったにおいは、ほのかな香料のようでした。
上をむいて、四つにひらいているまっ白い花は、聖なる十字架のようでした。
いやだと思っていたものが、美しく見えるようなった。
・・・・・・・それは、心のなかに宝物をもったようなよろこびでもありました。
ドクダミの花の前で、わたしは、またひとつ、おとなになれたような気がしました。
星野 富弘 著 「かぎりなくやさしい花々」(偕成社)
星野富弘氏(群馬県生まれ1946年~)は、中学校に体育教師として着任したが、部活の指導中、宙返りの失敗により頸髄損傷の重傷を負い、肩から下の機能が麻痺する。
口にくわえた筆で水彩画、ペン画を描き始め、後に詩を添えるようになった。
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冒険家の「風間深志」さんが、インタビュー記事でコメントしています。障害者でも「心が健康であれば、健常者なんです!」と。風間さんも大怪我をしてから感じたと語っています。
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もったいないばあさん @mottainaibaasan
たとえば虫刺されには、ドクダミの葉っぱの裏側をあぶってペタとはっておくと良い。
あせもの季節はお風呂にいれて。
ドクダミの花を焼酎につけて、ドクダミチンキを作ったりね。
ドクダミのお茶もいただくよ。トイレに飾って消臭効果にも。
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