http://www.izbooks.co.jp/2053.html 【『俳句の玉手箱』 黒田杏子著】
俳句の玉手箱
―溢れ出る珠玉の言葉たち―
もんぺスタイルがすっかりお馴染みとなった俳人、黒田杏子の終りなき俳句行脚の日々と様々な出合い、そして別れ…。各界著名人と人生、書籍、俳句について大いに語り、俳句とともにある生活のすべてをまとめた俳句エッセイです。
巻頭口絵では氏のもんぺコレクションをカラー写真で紹介。堀文子画伯の絵を松吉太郎氏が大胆にデザインした装幀もたいへん綺麗です。
【著者略歴】
一九三八年東京生まれ。東京女子大学心理学科卒業。「夏草」同人を経て「藍生」創刊・主宰。第一句集『木の椅子』で現代俳句女流賞と俳人協会新人賞。第三句集『一木一草』で俳人協会賞。第四句集『花下草上』。日経俳壇選者。主な著書『黒田杏子歳時記』『証言昭和の俳句』(聞き手)『布の歳時記』『季語の記憶』『金子兜太養生訓』『俳句列島日本すみずみ吟遊』他。最新刊は『黒田杏子句集成』
内容の一部 「鎮魂の箱」より
ご恩──追悼・飯田龍太先生
二月二十七日、俳人協会総会ののちのパーティ会場で「俳句」の海野編集長から龍太先生のご逝去を告げられた。眩暈がした。ホテルの化粧室の鏡の前の椅子にかけて眼をつむる。「眼中のひと」のお一人がまぎれもなくこの世から消えた。
あれは昭和五十七年、二十五年も昔のことだ。第一句集『木の椅子』に現代俳句女流賞が授与された。青天の霹靂。飯田龍太・鈴木真砂女・野澤節子・細見綾子・森澄雄の五氏が選考委員。文化出版局が設けていた賞なので、ある日、「ミセス」編集部の小川喜一氏から、「龍太先生が一度山廬に」とのご意向が伝えられた。当時、私は選者のどなたとも面識がなかった。山口青邨の「夏草」に所属、先生と結社内の先輩の指導の下で学ぶことに充足しており、句作に打ち込んでいることなど職場では誰にも告げていなかった。ただし師系を超えて現代俳人のすぐれた作品は積極的に読み、これと思う作家の句集や作品は大むね筆写していた。訃報に打ちのめされて帰宅した夜、『俳句臨時増刊・飯田龍太読本』を手に取る。鈴木豊一氏の編集後記の余白に私が書き込んだ「S53・10・10完全読了。俳句筆写完了」の万年筆の文字が残っていた。その飯田龍太先生を訪問する。光栄と思いつつも参上はためらわれた。半年近く経って「まだ伺ってないのですか。ありがたい機会だと思いますよ」と小川氏よりの電話が職場にかかってきた。
決心して山廬にお電話、先生にアクセスを伺い、面会日のアポイントメントを頂く。晴れわたった甲斐の初秋。ひろびろと波立つ土間を踏みしめて立ったとき、疎開して小学時代を過ごした南那須の村の父の生家を憶い出していた。上がりがまち近くに純白の水盤。けさひらいたりんりんたる曼珠沙華が活けてある。ほのぐらい空間に群立する緋色の花の光。大きな長方形の座卓を挟んで初対面の先生と対座させて頂いたとき、私は山廬というこの異次元の宇宙になじんでいた。緊張感はなかった。何の前置きもなく、和服を召された先生が私の眼をみて話し出された。
「ずいぶん昔のこと、蛇笏の名代で俳壇のあるお祝の席に出かけたことがある。控室かな、庭に面した立派な畳の間に三人の女流が語り合うでもなく、それぞれの方角を向いて座っておられた。長谷川かな女・中村汀女・星野立子のお三方。汀女・立子の両女流は時の人で、その人らしいきらびやかな装束。一方、かな女さんは地味すぎるほどの細縞の着物、髪は後ろに小さく束ねて、まあ田舎の私のおふくろさんに似たたたずまい。近ごろね、女流俳人という文字を見ない日はないほど女流の時代だ。しかし、なぜか私はそのたびにあの日のかな女さんのしんと落ち着いた、なんとも言えない存在感を想い出す。なつかしい日本女性の原型。日本の風景の中にごく自然に溶け込んでいる人間の姿をね」
やさしいまなざしの奥さまがつぎつぎとお手料理を供して下さる。どんなアーティストもおよばない、あの曼珠沙華のオブジェを山廬の一角にさりげなく置かれた方のおもてなし。ま昼間に日本酒まで頂き、青邨先生のこと、職場での仕事の内容その他、すべて私は率直に申し上げた。何をどうお話しても、まるごと受け止め、理解して下さる不思議な大先達に遭遇した心地で胸が拡がってゆく。この時、先生は還暦を迎えられたばかりなのであったが。半紙にしたためられた虚子選の句稿などを貼った屏風を拝見、均らされた山廬の灰を見つめ、たとえようもない安堵感に包まれて飯田邸を辞した。お礼状に対し、「ぜひまた時間のとれた折にいつでも」とのおはがき。私はこれほどの至福の時空を独占しては罰があたると、ご許可を得て、超結社「木の椅子会」の青年俳人たちを引き連れ、二度目、三度目の山廬訪問を果たした。
そののち龍太先生監修のJTB出版の歳時記の選句(例句)を廣瀬直人さんと担当させて頂く。「山梨文学館」の準備のために廣瀬さんはひんぱんに上京され、神保町ブックセンター街を大きな鞄を提げて巡回しておられた。生まれてはじめての俳句の仕事、第一回の選句稿をお送りして、ご指示を仰いだ。
「俳句を作ることと同時に、俳人は選句力を養うことが重要。選句眼のない作者は信用できません。直人さんはすべてに誠実な人。力を合わせて作業を進めて下さい」とお電話でお話し下さった。廣瀬君でも直人君でもない、さりげなく愛情をこめて「直人さん」とおっしゃる先生に、私は驚き、帰依した。ある年、福田甲子雄さんの要請で山梨まで講演に出かけた。角川の新年会にご出席の先生にそのご報告を申し上げたところ、「甲子雄さんは元気いっぱい、明朗闊達な人だったでしょう」と嬉しそうにおっしゃる。直人さん、甲子雄さん。門下生を慈しみ、信頼される先生のあの柔らかなお声は、こののちも私の胸の奥深く棲みついて消えることはない。
さらにある日、中村苑子さんからご自身の生前葬である「花隠れの会」の企画・プロデュース一切を要請された。光栄な仕事と即座に快諾した私は、晩年の苑子さんと惜しみなく語り合う時間に恵まれた。現代俳句女流賞のお祝に龍太先生から苑子さんに贈られた甲州印伝のポーチと紙入も、未使用のまま「お守りとしてあなたに托します」と頂いた。苑子さんに曼珠沙華の話をしたとき、「眼に見えます、あの奥さまならではのこと。何かに書いて下さいね」と。さらに句作にゆき詰まると、ふらりと甲斐に出かけ、蛇笏・龍太の山河に遊ぶのだとも語られた。「あそこは聖地。詩心がよみがえる不思議な風土よ」とも。
私の在職中に、「俳句」の大型企画「証言・昭和の俳句」がスタート。トップバッターの桂信子先生の証言が掲載されるや、おはがき。「残る仕事、期待して見守ります」。深夜に帰宅した私は再び玄関を出て、はがきを月にかざし、はるか山廬の方角に向かってお辞儀をした。実は桂先生の「ほんとうの俳句」発言にその後バッシングが起きた。桂先生は〔角川選書〕収録に際しても毅然として自説を貫徹、以来、聞き手をつとめた二回り下の寅年の私と先生の二人は同志的連帯感に結ばれてゆく。平成十四年六月の「山廬訪問」(山梨日日新聞)の掲載紙を速達でお届け下さったのもその証だ。世紀のビッグ対談はお二人がこの世を発たれたいまこそ熟読玩味すべき内容と思う。一部を勝手ながら抜粋でここに掲げさせて頂く。
飯田 あるとき、この座敷で親父と大げんかになった。「親父の選はダメだ」と僕が言ったことから始まった。延々と三時間。夜十一時までやっていたら、おふくろさんが「ここは布団を敷くから向こうに移って」とぴしゃり(注・客人が居られた)。そこで上がり口の部屋に“戦場”をかえて続きをやった。テーマは「芭蕉と蕪村の比較」にまで広がった。戦線拡大。「俺は芭蕉、おまえは蕪村だ」と親父が言い出したので僕もかっとなって「何を親父。大きなことを言うな」と反論した。このけんかで親父も僕も懲りて、爾来、家では俳句の話はしないことに(後略)。
桂 このお部屋でお二人が……。実に楽しい。ところで、私は雑誌などで「本当の俳句、真の俳句を目指してほしい」というと、よく他の人から「真の俳句なんてない」と批判される。「真の俳句」があると私は確信しているんですが……。
飯田 桂さんは厳しいことを言われる。それでいいんです。これからもびしびし厳しくやってください(後略)。
山廬に参上した四半世紀前から、私は何を書くにも、出発時に一期一会のご縁を賜った飯田龍太という俳人の眼を意識してきた。具体的には『金子兜太養生訓』などもその最たる例で、企画発想からフィニッシュに至るまで私の全力を傾注した。
先生は誰よりも見事な生き方の流儀を示されてこの世を発たれたが、全集が完結している。封筒の宛名まで自筆で書かれた「雲母」終刊の辞が遺されている。先生の作品と言葉は消え去ることはない。飯田龍太という大先達は、いよいよ私たちの進む道を常夜燈のように照らし出し、考えさせてくれる存在だ。
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