http://kaiyo2014.seesaa.net/article/388160932.html 【ラフカディオ・ハーン その31】より
ハーンは、1897年の8月、夜店で虫売りからいろいろな虫を買った。9月には、大谷正信に「籠で飼われる虫に関する研究」を指示している。そして、11月には「虫の音楽家(Insect-Musicians)」を書きあげた。「この虫たちが西洋文明でつぐみや孔雀やナイチンゲール、そしてカナリヤが占める地位にひけをとらない地位を占めている、と語り聞かせてわかってもらうのには骨がおれる」(牛村圭訳)。
鳴く虫を飼う習慣は古くは「源氏物語」に出てくると「野分」の1節を引用し、「古今著聞集」の虫とりを紹介する。「其角日記」から17世紀には虫屋という商売がすでにあったという。日本中で11か所が虫の名所として知られていた。そして、寛政年間(1789~1801)に桐山という者が鈴虫の養殖に成功し、虫屋の忠蔵が商売を拡大した。忠蔵は江戸における虫屋の元祖といわれる。邯鄲、松虫、くつわ虫も養殖された。小奇麗な虫籠とともに虫を売る「虫売り」という行商も行われるようになり、36人衆からなる同業者組合(虫講)もできた。
ハーンは、東京で売られている12種の虫の値段を記し、そのうち9種は人工孵化ができ、暖かい部屋で養殖すると5月には販売できると書く。そして、それぞれの虫について、鳴き声や特徴、そしてその虫にかかわる古歌などを紹介する。
「虫よ虫ないて因果が尽くるなら」の俳句を賞賛し、「西洋人の読者ならば、虫の境遇、虫の命、とでもいったものが詠まれている、とおそらく思うだろう。だが多分女性であろうこの詩人のまことの気持ちは、自分の悲しみは前世で犯した過ちの結果に他ならず、それゆえやわらげることは出来ない、ということなのである」と解説する。ハーンは和歌や俳句を英語で表現しようと試みている。
その後、ハーンは虫に関する作品を多く書いている。「蚕(Silkworms)」「蝉(Semi)」「夜光虫(Noctiluca)」「トンボ(Dragon-flies)」「蠅のはなし(Story of a Fly)」「蛍(Fireflies)」「草ひばり(Kusa-Hibari)」。そして、「虫の研究(Insect-Studies)」ということで、「蝶(Butterflies)」「蚊(Mosquitoes)」「蟻(Ants)」がある。
ハーンは日本人の生活や文学のなかの「虫」に興味をもった。「昆虫学の話ではない。…科学的な方面に興味を持たれるのであったら、…生物学教授から知識を得られたらよい」(蛍)と前置きしている。「蝉」や「蛍」、「トンボ」では雑学的な記事とともに多くの俳句を列挙している。そこではもはやひとつひとつの句に解説はない。片っぱしから英訳したという感じである。
「古池や蛙飛びこむ水の音」を、ハーンは「Old pond - frogs jumped in - sound of water.」と訳している。冠詞がないばかりか英文になっていない。片言の分節を1行に並べただけである。ハーンは、それでもこれを芸術的な「詩」と受け止めることができた。
現在の「英語俳句」は3行詩が多いようである。俳句の意味や精神を英文で表現するには、それがふさわしいと思われる。しかし、ハーンはおそらく異議を主張するにちがいない。
「この種蚕は、美しい羽がはえても、その羽を使うことができない。また、口はあっても、ものを食べることができない。ただ交尾して、卵を産み、そして死んでいくだけである。この種族は、何千年という間、だいじにだいじに世話をされつけてきたので、もはや自分で自分の身の始末をすることができなくなってしまっているのである」(蚕 平井呈一訳)。
ハーンは、蚕の境遇は「食物、家、暖かさ、安全、快適など」すべての欲望が労せずして与えられているので、西洋人の夢想する天国を実現していると考える。「神がもし我々の望むとおりに我々を遇してくれたら」人間は退化して「生命はしだいにしなび、まず原形質みたいなものになり、ついには塵に帰してしまうだろう」。
「夜光虫」は、夜の波間に妖しい光を放って漂う夜光虫に、生命の幻想をみる短編である。「蠅のはなし」は怪談である。親孝行の娘がなんらの幸せも得ることなく若くして亡くなる。そして、大寒の寒空に大きな蠅となって飛び回り、ほんのささやかな願いをかなえるという物語である。汚らしくもうっとおしい蠅に、清らかな娘の魂の訴えを見てとった周囲の人々の感性を書いたのだろうか。
ハーンは、「寄鳴虫を題に詠じた、日本の詩歌に匹敵するものを見つけるには、どうしてもギリシャ文学まで溯らなければならない」(蝉 平井呈一訳)とのべる。ハーンは自分がギリシャ系だからという理由からでなく、日本の文化に似た感性は西洋の歴史の中では古代ギリシャにしか見出すことができなかったのだった。
「机の前に座っていたとき私は奇妙な感じがした。部屋の中がなんとなく空虚である。それから草ひばりが鳴かないのに気がついた」(草ひばり 森亮訳)。
寒がりのハーンの書斎は75゜Fを下回らないように暖房されていた。そこでは9月末には死に絶えているはずの草ひばりが11月末まで生き残っていた。つがいになる雌を見つけてやることもできず、「夜ごと夜ごとに嘆くような、美しい、応答のこない震え声」は、ハーンの「胸の痛み、良心の呵責」にまでなっていた。
それが死んだ。ハーンは餌をやらず放置した気の利かない女中を叱り、事態を悟ることなく夢想にふけっていた自らを責める。神に許しを乞う。「大麦の粒の半分の大きさしかない」虫は「最後の最後まで歌い」、自分の脚を食べて凄惨な餓死を遂げていた。副題に「一寸の虫にも五分の魂」とある。
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