縄とびの純潔の額を組織すべし

https://longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20000501,20000430,20000429&tit=20000501&today=20000501&tit2=2000%94N5%8C%8E1%93%FA%82%CC 【縄とびの純潔の額を組織すべし 金子兜太】より

無心に縄とびをして遊んでいる女の子。飛ぶたびに、おかっぱの髪の毛が跳ね上がり、額(ぬか)があらわになる。この活発な女の子のおでこを、作者は「純潔」の象徴と見た。「純潔」は、いまだ社会の汚濁にさらされていない肉体と精神のありようだから、それ自体で力になりうる。「純真」でもなく「純情」でもなく「純潔」。一つ一つの力は弱かろうとも、かくのごとき「純潔」を「組織」することにより、世の不正義をただす力になりうると、作者は直覚している。このとき「すべし」は、他の誰に命令するのではなく、ほかならぬ自分自身に命令している。自分が自分に掲げたスローガンなのである。実は今日がメーデーということで、ふっとこの句を思い出した。メーデーのスローガンも数あれど、すべてが他への要求ばかり。もとよりそれが目的の祭典なので難癖をつける気などないけれど、句のようなスローガンがついに反映されることのない労働運動に、苛立ちを覚えたことはある。若き兜太の社会に対する怒りが、よく伝わってくる力作だ。無季句。『金子兜太全句集』(1975)所収。(清水哲男)


https://www.facebook.com/686598404753030/posts/688879754524895/ 【俳句大学 俳句学部 2014年7月8日 · 金子兜太小論  —戦後俳句の現象学的展開— 五島高資】 より

 昭和三十一年、金子兜太は俳句創作理念としていわゆる「造型」の詩法を提唱し、実作面でも現代俳句協会賞を受賞している。弱冠三十七歳、日本銀行神戸支店在任中のことである。翌三十二年には、朝日新聞阪神版俳句欄の選者に就任する。まさに「社会性俳句」あるいは「前衛俳句」の旗手として他の追随を許さない旺盛なる創作活動が展開された時期である。

 昭和三十三年、兜太は日本銀行長崎支店へ転勤となる。ちょうどこの年、長崎にて〈彎曲し火傷し爆心地のマラソン〉の句が詠まれることになる。実はこのあたりに兜太の作風における一つの大きな転換点があったと私は見ている。

 「四十歳の声を聞く前後から体調が変化しやすくなり、体力の低下を感じはじめた。(中略)作品もだんだん脂気が抜けて、漂白されてゆくように思えた。それがはじめは不安だった」(『蜿蜿』後記)と、兜太は独白している。しかし、この肉体の衰えを自然の摂理と諒解し、むしろ、逸る精神をこそ肉体に順応させることによって兜太は「自然(じねん)」という生き方を見据えるようになる。ここで〈湾曲し〉の句に立ち帰れば、まだ被爆の傷痕の残る長崎という都市の悲痛を火傷の疼痛という体感的共有感覚を以て自然に受け止めているのである。逸る心を抑えて自らのペースを保ちながら忍耐強く駆け抜けるマラソンランナーの姿に兜太は自らの在り方を重ね合わせていたのかもしれない。それは、数年前に詠まれた〈原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ〉などには見られない詩境の大きな展開と言って良いだろう。

 昭和三十四年、兜太は長崎で四十歳を迎えることになる。この頃、兜太は、野母半島、雲仙、唐津、五島、阿蘇、平戸、天草など、土俗的風土が色濃く残る九州の土地土地を巡り歩いている。実はこの異郷遊歴において兜太が確認したのは、自らの詩境を裏打ちすべき体感的共有感覚が肉体と時空を貫いて「風土」に溯るということだったのではないかと思うのである。

 昭和三十五年、兜太は東京へ戻ることになるが、そこにおける「風土」の崩壊に兜太は改めて愕然とする。まさにわずかに土が残る自宅の〈果樹園がシャツ一枚の俺の孤島〉と感じられたのである。そして、ますます「風土」への憧憬は強まっていくことになる。

  白い影はるばる田をゆく消えぬために  兜太

  朝はじまる海へ突込む鴎の死      兜太

  銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく   兜太

 昭和三十六年『俳句』に掲載された「造型俳句六章」における「造型」の方法であった。そのなかで、兜太は、花鳥諷詠や山口誓子の写生構成を諷詠的傾向、中村草田男らの人間探求を象徴的傾向、富沢赤黄男らに見られる現実を主体の内に求める傾向を主体的傾向と分類している。そして、諷詠的傾向ではあくまで対象物を自らの外に置くことによりその在り様を描写するという主客二元論的な観念に捕らわれ易く、また象徴的傾向と主体的傾向では主体へ執着することにより芸術的真理からかえって遠ざかってしまう傾向を指摘している。つまり、それらはみな、私があって、その周りに世界もまた無条件に存在しているという安易な主客二元論に陥っているというのである。

 昭和三十七年、現代俳句協会分裂の翌年、金子兜太は「海程」を創刊した。戦後十数年経って早くも俳壇において守旧ムードや伝統回帰が漂いはじめていたことに対する危機感が「海程」といういわゆる前衛派の砦を築かせる原動力となったらしい。

 兜太は俳句の本質を五七調の最短定型と捉え、当時、主流を占めていた花鳥諷詠において俳句に不可欠と考えられてきた季語や厳密な五七五三句体に捕われない本来の俳句の在り方を本格的に追求することになる。そのことは、花鳥諷詠がややもすると瑣末写生に陥っていたこれまでの俳句の在り方を徹底的に問いただし、且つ新しい現代俳句の開拓に着手するという戦後俳句における壮大な実験でもあった。もちろん、それ以前に荻原井泉水らによる新傾向俳句の音律論的理論付けが行われたりもしたが、俳句と自我の関わりという根本的な問題に立ちかえっての俳句革新は、金子兜太の出現を待たなくてはならなかった。

 そこで造型の方法においては、主客の間に「創る自分」と兜太が呼ぶ新しい自我が導入されることにより、主客という二項対立的観念を超えて芸術的真理としての「物自体」に迫ろうと試みる。そのためには外在する物象について一旦それらを括弧の内に入れて判断を保留するという現象学的エポケーが必要であり、そこから新しい物象世界が再定立されなくてはならない。しかし、エポケーされた「物自体」としての世界は「原初的世界」であるが故に、そこから再構築される世界はややもすると独り善がりになりがちである。

  粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に  兜太

 この句が作られた当時、小西甚一は、「わからなさ」にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の「わからなさ」であり、そのわからない理由は、現代詩における「独り合点」の技法が俳句に持ち込まれたからだと批評した。つまり小西の批判はまさに〈粉屋が哭く〉の句における自我中心的一面に向けられていた。一方、原子公平は、〈粉屋が哭く〉の句の魅力は異質な運動感覚の同化作用にあるとし、他者にも共有可能な詩的感覚の存在を認めている。つまり、小西説における自我とは個別的自我であり、それはあくまで小西氏という個別的自我から見た金子氏の個別的自我に過ぎない。それはまさに主客二元論的見解である。一方、原子説による自我とは間主体的自我であり、それは原子氏という間主体的自我から見た金子氏の間主体的自我なのである。ここに、二つの相交わらない自我論的テクストを垣間みることができる。もっともそれぞれの論説はそれぞれのテクストにおいて間違ってはいない。しかし、あくまで私の独断ではあるが、自我の深化という意味ではどうしても後者の立場を支持しなければならない。

 さて原子氏は〈粉屋が哭く〉の句における「粉屋が哭く」「山を駈けおりる」という二つの言表を他我の現象として捉えたが、さらにその他我もまた自我と同じく、自我と比類的に自己の原初的世界を持ち、却って自我をそこにあらしめているとも言える。つまり個別的自我とは区別されるこうした自我と他我の相互交流の場において認められる自我こそが間主体的自我なのである。このように間主体的還元においては、自我と他我との相互作用により現実性が獲得されるものであるが故に、必然的に社会・文化・歴史などに深く関ってくることになる。かつて社会性俳句と称された金子兜太らの一群の俳句もまた何か特別な俳句というわけではなく、俳句における自我の探求という欲望から必然的に産み出されたものということができる。

 金子兜太による間主体的自我の導入という新たな方法によって、近代俳句を束縛していた「仮の主体」から脱して現実を直視できるようになったと言ってよいだろう。それはまさに俳句における現象学的展開であた。しかし、この間主体性はまだ相互性の立場におけるものであって総体性の立場におけるものではない。そして、それは完全な統一性を獲得したわけではなく、従って万人に対して共通の世界を構成しうるとは言えない。この点が小西氏による「独り合点」という批判に繋がってくるのだと思う。そこで間主体性における自我と他我という二項対立的観念をも超越し、自我と他我が純粋に相互滲潤するという超越論的還元によって間主体的自我は超越論的主体にまで高められなければならない。この超越論的還元によってこそ言葉は観念という「死(タナトス)の世界」から「生(エロス)の世界」へと生まれ変わるのである。

 のちに兜太は俳諧を「情(ふたりごころ)を伝える工夫のさまざま」であるとし、自己の内に閉じこもる「心(ひとりごころ)」に対する他者に開かれた「ふたりごごろ」に注目するようになる。このことはまさに個別的自我や間主体的自我から超越論的自我への志向を示すものである。フッサールの超越論的還元においては、その総体性を保証するものを類比的統覚という漠然とした概念で捉えているのに対して、兜太はその超越論的還元の保証を「風土は肉体である」という体感的共有感覚に求めている。

  人体冷えて東北白い花盛り        兜太

 「わたし」はエポケーによって「人体」という「物自体」と同列に置かれるている。また東北地方を連想させるリンゴの花や辛夷の花などの具体的な言葉はなく、むしろそれらの要素が抽出されたものとして「白い花」が提示されている。「物自体」として冷える「わたし」=「人体」と「白い花」との絶妙な共鳴の根底にはまさにそれを保証する東北の風土が横たわっているのである。この共有感覚が「ふたりごころ」として私のこころに響いてくる。その時、俳句はエクリチュールを超えて、タナトスからエロスへの還元として詩的昇華を獲得するのである。 

          初出 : 『現代俳句』1997年9月号(一部改訂)


https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/9db916daae88589fda531e11e56d0fc1 【縄とびの純潔の額を組織すべし  兜太】金子兜太の一句鑑賞(5) 高橋透水

 高知での作で、「寒雷」昭和二十五年四月号に掲載。「四国の空」と題して発表した十四句のなかの一句だが、ほかに〈銀行員に早春の馬唾充つ歯〉〈山には古畑谷には思惟なくただ澄む水〉などがある。

 昭和二十四年、兜太三十歳の四月、日本銀行従業員組合事務局長(専従初代)となり、組合運動に専念している。初夏、浦和から竹沢村(現、埼玉県小川町)に転居し、家族から離れて組合活動を第一に考えたようだ。

 『語る兜太』(岩波書店)を参照に当時の兜太の心境を辿ってみたい。日銀の古い体質(はっきりした身分制。学歴による差別など)を目の当たりにして、戦地から新しい国のために働こうと意気込むんでいた兜太には我慢ならなかった。こうした状態をなんとか改善したい。反戦・平和社会を実現したい、そんな考えが兜太を組合運動に向かわせたのだ。当時の組合でのスローガンは生活給の確保、身分制廃止、学閥人事の廃止などだった。

 兜太によれば、「額」は「ぬか」と読むというが、それにしても「縄とびの純潔の額」とはなんと明るい情景だろう。情景として少し生意気な少年やおてんばな少女たちを想像できるが、「組織」という措辞からは世代はもっと上と考えられる。むしろ町中の公園などで無く、職場の広場などが想像できる。

 戦後間もなくとはいえ、若い世代は自由で平和になった社会で、職場の休み時間だろうか男女が縄とびに興じている。兜太はそうした若い世代こそ組合を組織すべきと考えたのだろう。しかし身分上積極的に街頭演説はできないし、オルグなどもできなかったろう。

さらに兜太には何よりも家族の生活を支えねばという強い信念があったのだ。

 昭和二十五年、朝鮮戦争の勃発によるレッドパージを名目に、日銀は本格的に組合の切り崩しにかかった。その後兜太は福島に転勤になり組合活動を絶たれたが、あくまでも日銀に生活の基盤を置きつつ、新たな俳句への道を切り開いてゆくことになる。    俳誌『鴎座』2016年12月号 より転載


http://kuuon.web.fc2.com/TOTA/TOTA.131.html 【縄とびの純潔の額を組織すべし】より

句集『少年』二部 -竹沢村にて- 昭和24~25(1949~1950) 30歳~31歳

鑑賞日 2004年 8月6日

 〈高松・高知にて 四句〉と前書のある句の三句目。〈額〉は[ぬか]とルビ

 年譜によると・・昭和二十四年四月、日本銀行従業員組合事務局長(専従初代)となり組合選動に専念。初夏、浦和から竹沢村(現在埼玉県小川町)に転居・・とある。

 組合専従の仕事に就いて張りきっている兜太の心意気が感じられる一句である。「縄とびの純潔の額」を組織しようという若い純粋な意欲である。

 「縄とびの純潔の額」は組織し得ないものだ、という事は私にもだんだん分ってきた。「縄とびの純潔の額」と「組織」という事は本質的に相容れないものなのである。しかし「縄とびの純潔の額を組織すべし」という地点を通り過ぎた者だけが、この事実を知る事ができるとも思っている。


https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20171005 【鳰と狼(11/11)】より

森澄雄の評価については、山本健吉から俳句の本質的なものを習ったと言い、芭蕉の伝統を継承したので、さしたる波乱はなかった。しかし前衛を進んだ金子兜太には批判が相次いだ。中でも社会性俳句に対する山本健吉の意見は厳しかった。曰く「イデオロギーであって詩になっていない。危険だ。俳句の良さをぶち壊してしまう。」その例句が、

     縄跳びの純潔の額(ぬか)を組織すべし       『少年』

であった。イデオロギーの標語になる危険を孕んでいた。「俳句の固有性」を主張する山本健吉との間で「社会性論争」が起きる。しかしついに理解し合うことはなかった。

兜太は前衛的営為の成果と反省について、次のように総括している。(「衆の詩―<日常>を見なおす」(朝日新聞:昭和49年9月6日夕刊))

成果―伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ。

反省―過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた。

兜太は俳句の記録性を重視する。彼の前衛作品も生活の断面を取り出して造型したものであった。

[参考文献]主要なもののみ。

  森澄雄『季題別森澄雄全句集』角川学芸出版

  森澄雄『俳句への旅』角川ソフィア文庫

  森澄雄『森澄雄対談集 俳句のゆたかさ』朝日新聞社

  上野一孝『森澄雄俳句熟考』角川書店

  金子兜太『わが戦後俳句史』岩波新書

  金子兜太、池田澄子『兜太百句を読む』ふらんす堂

  金子兜太『俳句―短詩形の今日と創造』北洋社

  金子兜太『小林一茶―句による評伝』岩波現代文庫 

  酒井弘司『金子兜太の一00句を読む』飯塚書店

  荻原井泉水編『一茶句集』岩波文庫 

  山本健吉『山本健吉俳句読本―第一巻・俳句とは何か』角川書店


http://ooikomon.blogspot.com/2018/08/blog-post_20.html 【富澤赤黄男「蝶墜ちて大音響の結氷期」(『虚子は戦後俳句をどう読んだか』より)・・】 より

 筑紫磐井編著『虚子は戦後俳句をどう読んだか』(深夜叢書社)、副題に「埋もれていた『玉藻』研究座談会」とある。帯には、

 「玉藻」誌上で昭和27年から7年あまり続いた連載、《研究座談会》での高浜虚子の全発言を収載。虚子晩年の幻の肉声を聞かれよ。

飯田蛇笏から金子兜太まで虚子による《戦後俳句史》初公開!

推薦ーー深見けん二・星野椿・星野高士・本井英

と惹句されている。第1部「『研究座談会』を語る」のメンバーは深見けん二・齋藤愼爾・筑紫磐井・本井英。主に、当時の研究座談会に参加していていた深見けん二に対して、当時の事情などの確認や、疑問点を質問し、それらに誠実に答えている深見けん二の貴重な証言が随所にある。第2部が「研究座談会による戦後俳句史」で、筑紫磐井は、虚子の発言を整理し、第1回座談会より、順次取り上げ、秋櫻子・誓子・青邨・風生・草城・蛇笏など、大正時代から、いわゆる人間探求派、新興俳句、戦後の社会性俳句までのあまたの俳人の評の虚子の発言を丹念にたどって、掲載している。例えば、研究座談会で語られた「虚子独自の俳句基準」としてまとめられているものに、

【虚子評価用語(現代語表示)】

①われらと同じ俳句(我らに近く同根からでた俳句・我ら仲間の句の中にあっても異様には感じない・我らの好む句等)

②われらと違う俳句(我らにとっては門外の句・表現法が我等仲間と違う・どこか感じにそぐわない・言葉が違っている等。ただし、「云わんとするところは同情が持てる」「此の句などは分からんことはない」などの条件がつく場合も多い。)

③問題ある句(俳句というのはどうかと思う・陳腐である・俳句を難しく考え難しく叙する・晦渋である・気取っている)

がある。例に挙げられた句については、例えば、ブログタイトルにした句、

  蝶堕ちて大音響の結氷期     富澤赤黄男

虚子 『結氷期』といふのはどういふんですか。

虚子 [こういうのは説明できたらつまらないということです(けん二)]面白い処があるんぢやないかといふ気もするね。

虚子 [草田男の句は季がある(立子)]草田男は理屈つぽい。

虚子 『蝶墜ちて』は理屈がなくていゝね。

について、正直な感想が述べられている。あるいは、金子兜太の句については、

(前略)縄とびの純潔の額を組織すべし

    艦隠す青黒い森へ洋傘干す(中略)

   

 虚子 思想を現はすといふのも面白い。それはそれでいゝ。

 虚子 [十七音詩として認められるか](けん二)]認められます。但し十七音詩としてですよ。俳句ではないですよ。

    艦隠す青黒い森へ洋傘干す

 といふのは一寸分りにくいが、別に悪いとは思わん。

という具合である。なかなかに面白いので興味を持たれる方は、本著を一読して損はないと思う。著者「あとがき」にもあるが、平成23年から毎年刊行されている本井英主宰「夏潮」の別冊「虚子研究号」への寄稿「虚子による戦後俳句史」が元になって出来上がった一本である。最新の「夏潮」別冊「虚子研究号VOL.Ⅷ 2018」には筑紫磐井は「虚子における俳句入門体系」を執筆している。同号にはほかに井上泰至・岸本尚毅・黒川悦子・小林祐代・松本邦吉・堀切実・岩岡中正・星野高士・山脇多代・齊藤克実などがそれぞれ玉文を寄せている。

 ともあれ、本書「まえがき」に筑紫磐井が引用した虚子の言(「玉藻」昭和30年4月号「研究座談会」第24回)を孫引きしておこう。

 虚子 私は、よき俳句の批評は、よき解釈だと思つてゐる。この句は、どういふことを言ひ表してゐるのだと言へば、それが、もう、批評になつてゐる。俳句の面白味は、或程度説明してやらないとわからない。解釈をして始めてわかる人が多い。だが、その句が表現してゐる限界を越えて、説明するのは、よくない。世間には、往々、さふいふ句解がある。私は、昔から、ずいぶん批評もしたが、寸評といふこともした。寸評は、その句の面白味を端的に示唆するものだ。其寸評を得てその句は生きる。子規は悪い句を攻撃した。(中略)私は好い句を取り上げる。私が其句をよいとする理由は斯ういふ風に解釈するからだといふことを説明する。

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