https://toyokeizai.net/articles/-/2366 【俳句は人間を直視する文学】より
俳人・金子兜太氏①
かねこ・とうた 俳人。1919年生まれ。東京帝大経済学部卒、日本銀行に入行。戦後すぐに労働組合の中心メンバーになり管理職にならずに定年退職。在職中から現代俳句に取り組む。朝日俳壇選者を20年以上務めている。日本芸術院会員。2008年文化功労者。
私の俳句は前衛俳句と呼ばれた時期があります。私自身は「前衛」を自ら言ったことはありません。そんな意識もありません。自然を描写しているだけの俳句では飽き足らず、人間の生身の姿であるとか、社会の現実であるとかを積極的に詠みたい、表現したいと考えてきました。季語や儀礼的な表現を排して、人間と自然を自由に表現しようとするものです。
現実社会との兼ね合いで言えば、私が生まれ育った秩父にある武甲山という山をめぐって、最近、考えることがありました。それは俳句にも通じることです。
武甲山は石灰岩が豊富で、戦前からセメントの原料として採掘が盛んでした。戦後はどんどん削られて、山の姿そのものが大きく変わってしまいました。秩父の象徴とも言える存在ですから、姿形(すがたかたち)までを変えてしまうのはけしからんという地元の声もあって、セメント会社もかなり配慮しているようです。でも、無惨な姿は元には戻りません。その姿にいたたまれない思いに駆られる人も多いのです。私もそんな一人です。
エゴイズムを前提にして、どうするかを考える
ところがです。秩父の古い知り合いからこう言われました。「金子先生、あんたはそう言うけれど、武甲山をあれだけ崩してきたおかげで、秩父の人間は救われたんだ」と。確かに秩父というのはうんと貧しいところでね。私の子どものときがちょうど昭和の初め。昭和大恐慌のときの幼児体験もあるけど、それは悲惨なものでした。もし山にある資源を利用しなかったら、秩父はずっと貧しいままだったでしょう。知人に問われて私は考えを深めました。
つまりそこで必要になるのは工夫です。山の姿がまったく変わってしまうようなやり方をせず、環境や景観との調和ができないかを探る。それができなかったのが高度成長期の日本の公害です。人間が幸せになるためには、ほかを犠牲にしなければいけない。それは人間のエゴイズムです。だけどエゴイズムを少し抑制して、ほかの人や自然と一緒にやっていくことを考える。長い目で見るとそうした豊かさが本物ではないかと思うのです。
エゴイズムそのものを私は否定しません。人間のエネルギーの源というか本能でもある。そうしたものを否定しては人間の活力を失ってしまう。そのエゴイズムを前提にして、どうするかを考えるのが望ましいあり方です。今も心ある俳人たちは、人間のエゴや本能を見つめています。俳句は人間を直視する文学だと思いますね。
https://toyokeizai.net/articles/-/2411 【内面を深めると上達も早い】より
俳人・金子兜太氏②
俳句は老若男女を問わず誰もが親しんでおり、まさに国民文芸となっています。俳句人口は国内で1000万人とも言われますが、私の感触ではもっといますね。海外にも愛好者がいて、100万人以上が短い定型詩として“Haiku”を楽しんでいます。飲料会社の伊藤園俳句大賞の審査員を第1回から務めていますが、18回目の今年は160万句が集まった。こんなところにも俳句の隆盛を感じます。ちなみに今年の大臣大賞は100歳の男性の方でした。審査後に作者の年を知らされて、一同、びっくりです。
これだけ多くの人に支持されているというのは、俳句が一般性・庶民性と、文芸としての一流性・芸術性を兼ね備えているからでしょう。庶民性だけでは面白くないが、かといって芸術性だけでは一般の人はついてこない。詩として美しさを持ちつつ誰でも人間の感情や姿を描き出すことができる。それが俳句です。
内面を深めていけるかどうか
私は昭和53(1978)年から朝日カルチャーセンターで俳句を教えていますが、当時はカルチャーセンターなどはしょせんはお稽古ごとの世界で、愚にもつかないというのが大方の見方でした。ところが実際に教えに行ってみると、受講者のレベルの高さに驚かされました。それは想像以上でした。
このとき気づいたのは、女性の句のほうが男性のより圧倒的にいいことです。理由ははっきりしていて、女性のほうが感性に恵まれているというか、感覚が柔軟であることでしょう。女性は子育てをしていて命そのものと向き合っている。だから人間の本能やエネルギーといったことをよく知っている。女性のほうが上達も早いし、生活実感にあふれたいい句をつくります。
ですが男性がまるきりダメかというとそうでもない。しばらくすると女性を超える句をつくる人が出てくる。なぜそうなるかといえば、自分の人生経験をうまく内面で昇華して、自分なりの哲学をつくるところまでもっていくからです。カルチャーセンターに来る男性は、ほとんどが60歳以上で人生経験も豊かです。これまでの経験を、第二の人生の栄養にしようと考えている。そうした人は書き込む技術さえ会得すれば、深みのある句ができるようになる。
でも男と女、どちらがうまいとか下手とかいうことではありません。俳句は日常詩ですから感覚を大事にし、それから徐々に内面を深めていく。それができるかどうかです。そうやってできた句は、読み手の心も揺さぶるのです。
https://toyokeizai.net/articles/-/2441 【若者の言葉遣いに心配無用】より
俳人・金子兜太氏③
私が提唱し実践してきた俳句はそれまでの俳壇の主流とは明白な違いがあります。季語を入れなければならない、客観写生でなくてはならない、といった「ナラナイ論」ではなく、五七調だけは基本として守るが、自己の内面まで表出させるような句を詠むということです。こうした考えですから、一時は俳壇から排除されたこともありました。今では逆に、こうした現代俳句のあり方に多くの賛同者がいます。
五七調は万葉集の例えを持ち出すまでもなく、日本人の体に実になじんでおり、詩の表現形態として守っていくべきものでしょう。弥生言語というか、その時代から体質にしみ込んでいる。マルチクリエーターのいとうせいこう君に聞いた話ですが、五七調の音律はラップのリズムに似ているそうですな。若い人に親しみやすいリズムであり、アメリカの音楽にも通じるというのは面白いことだと思いますね。
言葉のあり方なんてことも心配いらない
若者の言葉遣いを評して、よく「言葉が乱れている」なんて言われますが、私にはその考え方がわかりません。言葉というのは人々の暮らしとともに変化するので、その変化は素直に受け入れるしかありません。言葉の変化がなければ、昔からの言葉をずっと使い続けることになります。それじゃあ表現の多様性も生まれない。ただし、その言葉が俳句のような詩の言葉になるかどうかは別の事柄で、吟味が必要です。
「パソコン」という言葉が使われるようになったのは、この20年くらいでしょうか。初めは私はこの言葉が俳句の詩語になるのは難しいのではないかと言っていたのですが、今は結構、使われています。これはほかの言葉で言い換えもできないから根付いたんでしょう。「ケータイ」も詩語として使われている。「テレビ」なんて、もう普通です。
詩語として定着するのは、私は「感銘を呼ぶ」と言ってますが、俳句の五七五にうまくはまり、そのリズムで詠んでみて、人々に感銘を与えるかどうか。共感やインプレッションを与えるかどうかでしょう。もっと言えば感動を与えるかどうか。「実感に応える」とも私は表現していますが、言葉が喚起するイメージがある。そうなれば詩語です。
若い人の俳句を見る機会も多いのですが、口語調もあれば文語調もある。あるいは、ずいぶんと古風なものもあれば、現代的な心象を詠んだものもある。そういった変化も楽しみです。ですから俳句の将来は明るい。言葉のあり方なんてことも心配いらないと思っています。
https://toyokeizai.net/articles/-/2476 【反戦平和に生きると決める】より
俳人・金子兜太氏④
昭和19(1944)年3月、南方のミクロネシア・トラック島に主計中尉として配属されました。前年夏に東大を繰り上げ卒業して、日銀に3日間だけ勤め、海軍経理学校で訓練を受けた速成士官です。部隊は海軍施設部という土建部隊で、そのほとんどが軍属の工員、しかも大方が訳ありの荒くればかりで、ほかに囚人だけの部隊も含まれていました。
トラック島には当時4万人の日本人がいましたが、最終的に生き残ったのはその3分の2くらいのはずです。しかも私が着任した年の7月にサイパンが陥落して日本との補給路が断たれたため、物資が来なくなった。食料がなくて、餓死や病死する者がたくさんいました。
軍隊というのは階級社会です。その中でも軍属は最下級で、すべての点で最低の扱いでした。自給自足の食料も、兵隊が優先されます。ですから腹をすかした工員の中には、少々危険な食べ物でも口にしてしまうのがいる。南洋ホウレン草と呼んでいた雑草があって、少量だけを煮炊きしていました。しかし大量に食べると猛烈な下痢を引き起こします。それを知っていながら我慢できずに食って脱水症状で死んでいく。そんな無残な死を日常的に見ました。まさに「非業の死者」です。
人が本当に自由に生きられる社会を実現したい
そうやって死んでいくのは私の部下です。私は責任を感じていました。一方で、主計将校ですから食料があとどれくらいあるのかも知っている。このくらい死ねば、ほかの者に食料を回せるとか、そんな計算もしている。自分が薄汚い存在のように思えてなりませんでした。若かっただけに余計にこたえました。
この体験が戦後の私の行動を決めることになります。敗戦後も捕虜として島に1年3カ月間抑留され、船で引き揚げるとき、私の心は決まっていました。これまで私は人のために何もしてこなかった、せめて非業の死者たちに報いようと。日銀に復職して組合活動にかかわったのも、その決心の表れです。反戦平和に生きるということは、この時代では組合活動とほぼ同じ意味でした。
反戦平和の基礎には、人が本当に自由に生きられる社会を実現したいという理想がありました。組合活動は3年で離れましたが、その理想は心の中でずっと持ち続けています。「自由を求めたい」。その理想があったからこそ、組織で浮いた存在になっても気にならなかったし、この年齢になっても気力がなえることなく創作を続けられるのではないかと考えています。
https://toyokeizai.net/articles/-/2522 【プロになるくらいの覚悟で】より
俳人・金子兜太氏⑤
私は日銀に勤めながら、俳句を作ってきました。もっとも戦後すぐの組合活動で行内で危険分子の扱いとなり、出世や昇進といったことからは、まったく縁遠いところにいました。55歳で定年を迎えたときは金庫番でした。1日に何回か金庫の開け閉めをして、有価証券の出入りを扱うだけの仕事です。
私は30代後半で俳句に専念することを決意しました。ですが日銀を辞めることは考えもしませんでした。何より私には養うべき妻子がある。言葉は悪いが「日銀を食い物にしてやろう」というくらいの気構えでした。その代わり私生活では俳句を優先して、作る量も以前より格段に増えました。
「あいつは勤めながら俳句をやって結構うまくやっている。すこしズルイじゃないか」。在職中もそんな声がありました。しかし、それは誤りです。そういったあいまいな姿勢では、何をやっても道は開けません。私が俳句の世界で曲がりなりにもやってこれたのは、「死んで生きる」ぐらいの覚悟でいたからです。今までの自分を葬って、これからを新たに生きる。立身出世への欲を断ち切って、俳句だけに専念する。私流の言葉では「俳句専念」です。そうした心構えでやってきたのです。
二兎を追う者は一兎をも得ず
ただし私の俳句専念は、俳句が先にあって、それにさらに精進しようとしたのではなく、自分の人生を確実にするために、それまでやってきた俳句で自身を鍛えようとしたものです。ですから俳句のために生きるといった気負った心情というよりは、内面のカタルシスというか浄化といった役割がありました。だから俳句でやっていこうと決めてからは、徹底して取り組みました。
定年で銀行を辞めたら、どこにも勤めず、食えるか食えないかわからないが、頑張って俳句で食っていこうという気持ちです。当然、銀行からは干されます。しかし、すでに私の心は揺るぎません。好きな俳句をやっているので、閑職も苦にならなかった。むしろ楽しくて仕方ない。行内の人間模様も、第三者の目で観察することができました。
ありきたりの表現ですが、「二兎を追う者は一兎をも得ず」といいます。やるからにはどちらかに踏ん切ることです。一つのことをやると決めたからには、それに徹することです。趣味を趣味で終わらせることなく、プロになるくらいやってみる。そうすれば必ず誰かが注目して、世に押し出してくれることもあるでしょう。それが勤め人としてはダメだった私からのアドバイスです。
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