朝日けぶる手中の蚕妻に示す

https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/f2f1f10f97d4c02f9780e3d8d294722f  【朝日けぶる手中の蚕妻に示す 兜太】金子兜太の一句鑑賞(四) 高橋透水  より

 昭和二十二年、兜太は日本銀行に復職し、四月に塩谷みな子(俳号は皆子)と結婚した。また「寒雷」に復帰し、沢木欣一の「風」に参加している。

 新婚といっても住宅難のため週末に会うだけの生活だったが、なんとか浦和に住めるようになったという。掲句はおそらく秩父で二人で過ごした時のことだろう。「新婚旅行など望めない時期なので、毎日、二人で秩父の晩春の畑径を歩いて、新婚気分を味わっていた。その途中、農家の蚕屋に立ち寄ったときの句」(「自作ノート」より)と回想している。

 「手中の蚕妻に示す」は若々しい愛情表現である。互いに秩父に育ち、養蚕の盛んな地だから、蚕には親しんでいただろう。好きな子に木の実を示すように若妻に蚕を示す行為は微笑ましい。若い二人はそれだけで愛情を確認しあい、幸せな将来を夢見たのだろう。

 兜太の恋愛観、結婚観がある。「俺の場合はねえ、恋愛ってことがないんです。はっきり言って」「私の場合は一種の略奪結婚型で、自分で恋愛ってことがないんです。女性を愛して獲得してという、残忍なところが。つまり女性を略奪して自分のものにする、という興味がうんとあるんです。」(『金子兜太×池田澄子・兜太百句を読む』ふらんす堂)とあるが、その続きに、「貴女(澄子)は笑うかもしれないけど、女房にしても子供にしても、弱きものは労わるという考え方です。だから女房に対する感覚も、この弱きものは絶対守らないかんって考えてきたんです。」

 この句を見る限り、とても結婚当初にそんな観念があったとは思えない。むしろ手中の蚕を示すことにより、自分はこんな環境で育ったが、一緒に頑張ろうじゃないか、という親愛表現とみたい。兜太の妻俳句に、〈妻みごもる秋森の間貨車過ぎゆく〉〈独楽廻る青葉の地上妻は産みに〉などがある。句集『少年』の後記によれば、結婚前までは不毛の青春だったが、結婚後は戦後の生活を通しての思想的自覚の過程となったと分析している。

  俳誌『鴎座』 2016年11月号 より転載


https://bnkosyou.hatenablog.com/entry/2020/04/17/170904 【兜太の句は僕の解釈でいいが、澄子の句は晦渋句 澄子も軟弱な俳人ではないが、手中の蚕ではないだろう。】より

     少女期ありき蚕の冷えを恐れたる

                 池田澄子

          どのように読み解いたらいいのだろう。

          (あり「き」)活用語の連用形に付く。

           過去にあったことを思い起こす意。

                   *

女性を愛して獲得してという、つまり女性を略奪して自分のものにする、という興味がうんとあるんです。」

 (『金子兜太×池田澄子・兜太百句』ふらんす堂)の中に下の句がある。

      朝日けぶる手中の蚕妻に示す

                 金子兜太

  「蚕」は兜太の一物、そのように解釈しないとこの句に魂が入らない。


https://miho.opera-noel.net/archives/2097【朝日煙る手中の蚕妻に示す  『少年』】より

 (あさひけぶる しゅちゅうのかいこ つまにしめす)

 昔は、農業の合間に秩父地方にかぎらず蚕を飼っている家は多かった。埼玉の寄居も秩父地方も桑畑をよく見かける。

 まだ太陽が煙るような朝、二人の朝一番の仕事が、桑の葉を採ってくることと蚕の棚に桑の葉を敷き詰めて蚕たちに食べさせることだ。一つ手に乗せて、夫は妻に白いふにゃっとしたイモムシのような虫を見せた。妻が「きゃっ」と叫んだかどうか。

 「示す」は、ただ「見せる」というよりも、「ほら、これが、かいこだよ」と、教えていることになる。新婚の頃の兜太氏と奥様の皆子さんであることが伝わってくる。【蚕・春】


https://kanekotota.blogspot.com/2016_02_20_archive.html 【朝日けぶる手中の蚕妻に示す   兜太】金子兜太の世界「自作ノート」 より

 昭和二十一年(一九四六年)の晩秋に、トラック島から帰国し、焼けの野原の束京小石川に原子公平を訪ねたことをおもいだす。そのとき、「墓地も焼跡蝉肉片のごと樹樹に」「鰯雲子供等さえも地に跼み」を得た。

その翌年、結婚。新婚旅行など望めない時期なので、毎日、二人で秩父の晩春の畑径を歩いて、新婚気分を味わっていた。その途中、農家の飼屋に立ち寄ったときの句。

 蚕礼讃の気持である。朝日けぶる手中の蚕というとらえかたに、それがあり、だから、「示す」といった身ぶり言語がおのずとでてきたのである。耕地のすくない山地農民の生業といえば養蚕だった。蚕サマ神サマの生活感情が、直接養蚕にたずさわったことのない私のからだにもしみこんでいて、蚕を示すことが、妻への親しみの証であり、これからの生活への意思表明でもあった。

 私には、妻ということばを詠みこんだ句が多く、妻俳句をたどることによって、自分史が書けるようにもおもっているほどである。この種の私情密なることばが好きで、肉親や友、さては日常ということばまでも多用している。理しては、私情にも日常にも厳しいが、情としては愛好をいつわれないわけで、この真意を無理に隠さずにきた。いや、その情をいたわりつつ、理を貫く方向で考えてきたつもりである。

 したがって、そのころの郷里の句会で、もう妻やチチ((でもないでしょう、こんなことばを句にもちこんでいるあいだは、私小説的な世界から抜けられませんよ、と批判されたことがあったが、それを肯定することができなかった。そのくせ、自分でも同じことを考えていて、後になって、「波郷と楸邨」とか「楸邨論断片」とかいった文章で、そのことを詰めて書いているのだが、その人の意見には賛成できなかったのである。理由は簡単で、妻やチチ((拒絶の近代化思考の形式性が、目に見えていたからである。

それを私の感情が直感していたといってもよい。当時の近代化指向の性急な面が、こういう俳句論議にも反映していたわけだが、それだけに、こんどは一転して、反近代化思考による反撃を喰うことになる。しかも、その反近代化思考もまた、性急で形式的で、近代化論の中核である〈個の内部秩序の確立〉まで埋葬しかねないとあっては、またなにをかいわんや。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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