府中

https://www.fuchu-posting.com/info_3.html 【府中市の歴史】 より

飛鳥時代

大化元年(645年)の大化の改新により、武蔵・秩父の2国が統合し、武蔵国が誕生しました。その時、国府が置かれ、早くから政治・経済・文化の中心地として栄えてきました。

鎌倉時代・室町時代・戦国時代

12世紀の鎌倉幕府の時代、府中市は鎌倉と北関東を結ぶ鎌倉街道の要衝であり、多摩川は鎌倉防衛において、とても重要な役割を果たしていました。元弘3年(1333年)に、上州討伐の新田義貞は、分倍河原の合戦で北条泰家を破り、鎌倉に攻め上ると、鎌倉幕府は滅亡しました。

正平7年(1352年)、足利尊氏は高安寺に陣営を置き、人見が原で新田義興・義宗らと戦いました。その後も、足利氏と小田原北条氏による度重なる合戦が続き、国府として繁栄した府中市は、荒廃に向かいました。

江戸時代

その後、江戸に幕府が開かれ、甲州街道が整備されると、府中市は宿場として再び繁栄を取り戻しました。 現在、府中市駅の東を通る都道133号線は、大國魂神社の参道だった道路で、正面大鳥居から約500メートルにわたり、国の天然記念物に指定されている馬場大門欅(ケヤキ)並木が続いています。この欅並木は、平安時代末に源頼義が前九年の役に出陣の際、勝利を祈願して奉納したのが始まりとされ、江戸時代初期には徳川家康がその故事にちなんで、関が原の戦い・大坂の陣の折に奉納しており、現在でも江戸時代初期の木が70本ほど残っています。

明治時代・大正時代

明治に入り、明治11年(1878年)に郡町村編成法が施行され、府中市駅に北多摩郡役所が設置されるなど、多摩地域の中心として、歴史的役割を担ってきました。そして、幾多の屈折を経て、明治26年(1893年)に東京府に編入しました。大正12年(1923年)に開設された多磨霊園は、日本初の公園墓地で、周囲を雑木林に囲まれた園内は、桜の名所としても有名です。菊池寛・北原白秋など、数多くの著名人の墓があります。

昭和時代・平成時代

昭和29年(1954年)、府中市町・多磨村・西府村の1町2村が合併し、人口約5万人の府中市が誕生しました。平成16年(2004年)には、市制施行50周年を迎え、現在は首都東京の近郊都市として発展を続けています。


https://rekigun.net/original/travel/statue/statue-20.html  【府中~分倍河原】より

 今回は“東京都のへそ”府中市を巡ります。府中市は北多摩の平坦地と自然環境に恵まれた地域で、位置は東京都全体のほぼ中央。その名は律令時代に遡り、当時は武蔵国と呼ばれた同地に政務機関である国庁が置かれたことに由来します。一部例外はありますが国庁所の所在都市(国府)のある場所が府中と呼ばれ、その名称が受け継がれているのです。以後、関東の政治的・経済的な要地として発展し、現在でも教育機関や企業の学術・研究施設や公的施設、行政施設が置かれ、住民が「最も生活実感の満足度が高い」と評価する地域です。

 分倍河原は、府中市の中心部にあり、かつて新田義貞率いる関東武士団と鎌倉幕府軍との戦いが行われた古戦場があります。この戦いに勝利した新田勢は、鎌倉は目指して進撃します。鎌倉幕府滅亡へと向かう、歴史の転換点の一つが分倍河原だったのです。地名の「分倍」は旧地名からで、別に「分梅」の名もあったようです。また「河原」は江戸期以前に多摩川の河原があったことによるといわれ、この二つの地名を合わせ、現在の名になったそうです。なお同地には京王線とJR南武線が乗り入れる駅がありますが、最初は駅開設当時の地名であった屋敷分村に由来する「屋敷分駅」の名で呼ばれていました。

● 源 義家 (1039~1106)

 源義家は平安時代後期に活躍した武将で、西国に根を張る河内源氏の三代目当主です。生没年を含め詳細が不明な点も多いのですが、合戦で武士の力を示し、その台頭をお膳立てした人物として知られています。生まれは、現在もっとも有力とされている説では長暦3年(1039)ですが、生国は河内のほか鎌倉や京都郊外など諸説あってはっきりしません。7歳で元服し、その場所が石清水八幡宮であったことから、以後、自他共に“八幡太郎”と称するようになります。

 父・頼義と共に前9年の役で敵対勢力と戦い、朝廷に協力して警護や治安維持に努めますが、一方で勢力拡大を図って後3年の役を引き起こすなど、騒乱の中で台頭します。当時、身分低く扱われていた武士の力を誇示し、武勇を持って河内源氏隆盛の道筋を切り拓きました。しかし武士の力の増大は、当時政権を持っていた貴族層を大いに警戒させる原因にもなり、地位向上には大きな障害が付きまとうことになります。また度々敵対した延暦寺などの寺社勢力とも険悪な関係になりました。義家は68歳で没しますが、源氏の台頭を快く思わない朝廷の権謀術数や他の武士勢力との戦いの中に在り続けた生涯でした。同時代に活躍した公卿・藤原宗忠は、義家を「天下第一武勇の士」と評しています。

 銅像は府中駅前の「馬場大門けやき並木」(国の天然記念物)の中ほどにあります。このけやき並木は、源頼義・義家親子が前9年の役で奥州平定に向かう際、戦勝を祈願した大國魂神社に平定の報告と戦勝の感謝としてけやき(欅)の苗木1000本を寄進したことに由来します。馬場大門の名の由来は、徳川家康が関東入府後に馬場を寄進したことによるものです。銅像は「八幡太郎源義家公之像」の銘入り(日本書道美術院審査員・鹿島敬帆氏揮毫)の台座を持つ立像で、東京府中ロータリークラブの創立30周年記念事業の一環として平成4年3月に建立されました。製作は富山県高岡市出身の彫塑家・喜多敏勝によるもので、大鎧を身につけた青年武将の姿で描かれています。面相には現代的な印象も受けますが、凛として風格のある姿は並木の中にあってひときわ目を引きます。武勇の士・八幡太郎の気概を静かなたたずまいの中に感じさせる像といえるでしょう。

● 新田義貞 (1301~1338)

 新田義貞は、鎌倉時代末期から南北朝争乱期の前半に活躍した武将です。新田氏は八幡太郎義家の四男・義国の子であった義重が上野国新田荘で起した家系で、義貞はその本家八代目の当主です。

 義貞の台頭は、鎌倉幕府と後醍醐天皇らの勢力が争った元弘の乱の渦中でした。当初は幕府側で参戦したものの、のちに天皇方となった義貞は関東の反鎌倉勢力を糾合して鎌倉に進攻。激戦の末に鎌倉幕府を滅ぼし、第一の勲功を上げます。以後は後醍醐天皇の信頼を受けて、天皇親政による建武政権に参画します。やがて武家政権再興を望む足利尊氏が台頭し、後醍醐天皇と敵対して南北朝対立の時代を迎えると、義貞は後醍醐天皇の南朝方の武将の筆頭として数々の合戦を指揮します。

 しかし南朝方は、足利尊氏の巧妙な武家政策と合戦での敗北により次々に味方を失い、勢力を削がれます。北陸に逃れた義貞は、実弟らと共に再起を図り、越前国で足利方を攻撃。しかし郎党を率いて味方の救援に向かう途中で敵と遭遇し、乱戦の中で戦死しました。一戦での武勇は絶倫で野戦指揮官として優れた面を持つ一方で、プライドの高さゆえに大局を見失うことも多い人物でした。室町幕府の時代には逆賊とされましたが、のちに名誉回復を果たし、同じく南朝方の楠(楠木)正成とももに忠臣とされています。

 銅像は分倍河原駅のロータリーにあります。「新田義貞公の像」と題されたこの像は、「分倍河原の合戦の史実を通して郷土史への理解を深めるとともに、それを後世に伝える」ものとして昭和63年5月に建立されました。題字は当時の府中市長・吉野和男、像の製作は長崎県長崎市出身の彫刻家・富永直樹(日本におけるインダストリアルデザイナーの先駆でもある)によります。太刀を振りかざし、味方を鼓舞するかのような躍動感あふれる騎馬像で、胴丸鎧や馬具の描写など見どころの多い像です。皇居前にある楠正成像は有名ですが、この新田義貞像もぜひ一度見ておきたいところです。

● 川崎平右衛門 (1694~1767)

 川崎平右衛門定孝(さだたか)は江戸中期の農政家です。元禄7年(1694)に武蔵国押立村の名主の子として生まれた平右衛門は、新田開発や農地改良、治水に熱心に取り組んだ人物といわれ、その腕は徳川吉宗が主導した享保の改革の中で存分に振るわれました。当時の武蔵野では改革の一環として新田開発が進められていましたが、折悪しく起こった元文3年(1738)の凶作により、武蔵野新田の開発は頓挫の危機を迎えます。そこで農政家として知られていた平右衛門に新田世話役が命じられ、約5年に渡る尽力により危機を脱します。この功績により代官に昇進。以後も農・財政に腕を振るい晩年には勘定吟味役と石見銀山奉行を兼務するまでになりました。

 銅像は府中市郷土の森博物館内にあります(梅林などもある広い庭園を含む施設群で日本を代表する彫刻家・北村西望の像もあります)。「川崎平右衛門翁像」と記された銘板が入った台座付きの立像で、武蔵野新田を守らんと尽力していた当時の姿を描いています。作者は仏師(仏像作家)として知られる関頑亭で、右手を上げて作業を差配するかのような動的な描写の一方で、表情は寡黙を感じさせる静的な描写となっており、絶妙なコントラストを見せてくれます。また像の背後には、業績を賞して幕府より下賜されたといわれる山茱萸(サンシュユ、別名ハルコガネバナ)の木が植えられており、春先には可憐な黄色い花を咲かせます。

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