足利尊氏

https://senjp.com/takauji-a/ 【5分で分かる足利尊氏とは 人望で逆境に打ち勝った室町幕府の創始者】 より

足利尊氏とは

足利尊氏(あしかが-たかうじ)は嘉元3年(1305年)7月27日に鎌倉幕府御家人・足利貞氏と上杉清子との間に同家の次男として生まれました。

尊氏は当初、北条高時から名前の一字を賜って高氏(ここでは尊氏で統一)と名乗っていました。

元弘元年~元徳3年(1331年)に父貞氏が亡くなるのですが、跡継ぎの尊氏が喪中であるにもかかわらず、高時は彼に出兵を命じます。

それは討幕を企てた後醍醐天皇が鎮座する笠置、楠木正成の下赤坂城を攻撃する任務で、尊氏は勝利に尽力したことから翌年に従五位上の位を賜りました。

元弘3年~正慶2年(1333年)、幕命で西国征伐に赴いていた尊氏に転機が訪れます。

隠岐を脱走して船上山に籠城した後醍醐帝からの誘いで尊氏は同年4月29日、幕府から離反して5月7日には六波羅探題に攻め込み、壊滅させたのです。

その際に妻登子の実家である赤橋家が滅び、庶長子の竹若丸が殺されています。

鎌倉幕府討伐に大功あった尊氏は従四位下、鎮守府将軍などの高位、30もの所領を賜ります。

同年8月5日には従三位、武蔵守そして後醍醐帝の諱から一字を賜って尊氏と名乗りました。

しかし、建武2年(1335年)に北条氏残党が中先代の乱を起こした時、尊氏の弟・直義が逮捕された後醍醐帝の皇子・護良親王(尊氏暗殺、父帝への謀反を企てた容疑があった)を独断で殺害したことなど、足利氏は徐々に天皇と距離を置き始めます。

同年の8月19日に鎌倉を回復した尊氏は建武政権の政治で苦しんだ者が多かった武士階級に独自で恩賞を与え、上洛命令も拒否して武家政権樹立の動きを見せ、11月には以前から対立していた新田義貞を征伐する許しを得ようとします。

しかし、後醍醐帝は尊良親王と義貞、そして北畠顕家に尊氏討滅を命じました。

一度は天皇に許しを請うべく断髪、寺に入った尊氏でしたが、一族や配下を救うべく、叛旗を翻します。

12月に義貞を箱根・竹ノ下の戦いで撃退、光厳上皇の後ろ盾を得るために調略を行うなどして翌年の正月に入京した尊氏は、一度は後醍醐帝を比叡山に退かせるものの、顕家・正成・義貞の攻撃で再度劣勢となりました。

その後、幾度かの小競り合いが尊氏軍と朝廷の間で繰り返されますが、最終的に尊氏らが取った策は円心が献策した、九州へと退くものでした。

その時、天皇軍から多くの将兵が尊氏に随行したことを知った正成は、彼の声望に感じ入っています。

西国に落ち延びた尊氏は少弐頼尚や宗像大社の援護を受け、延元元年(建武3年、1336年)には多々良浜の戦いで天皇軍に加担した菊池武敏らとの戦いに勝利、更に光厳上皇から義貞征伐の院宣を受けて勢力を巻き返します。

その状況に正成は「義貞を成敗して尊氏と和睦」「京に尊氏を誘いこむ」と言った献策をするも天皇と公卿に一蹴され、不利な中で行われた湊川の戦いで彼は命を落としたのです。

正成の死を哀れんだ尊氏は、その首級を遺族の許に帰しました。

勝利した足利尊氏は6月には京都を支配下に置き、11月2日には後醍醐帝と和睦、建武式目17条を制定しました。

しかし、後醍醐帝が光明天皇(光厳上皇の弟)に譲った三種の神器は偽物であるとして12月に京を逃れ、吉野に朝廷を樹立し、南北朝時代が始まるのです(※1)。

北朝の歴応元年(1338年)、尊氏は光明天皇によって征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きます。

翌年に後醍醐天皇が吉野金輪王寺で崩御した時に尊氏は悲しみ、その御霊を慰める天龍寺を建立するのですが、その費用を捻出するため大陸との交易船である天龍寺船を派遣しました。

こうして成立した室町幕府は尊氏が軍事と恩賞、直義が政務を分担した両頭政治でしたが、その権力は内部闘争を引き起こします。

尊氏の側近師直らと、直義一派の対立は観応の擾乱と呼ばれ、貞和5年(1349年)から3年にわたって繰り広げられるものとなったのです。

この戦いは、当初こそ中立だった尊氏をも巻き込んでいき、尊氏の庶子で直義の猶子でもある直冬による反乱、直義が南朝に降る、嫡子の義詮が京から退却するなど、一門内部の争いが徐々に外部にも飛び火していきます。

師直兄弟が上杉能憲に殺される、尊氏が直義を倒すことを優先して南朝に降伏し、一時は将軍職解任と北朝の天皇が廃された事件(正平一統)が起こり、混乱は南朝をも巻き込みました。

最終的には尊氏が勝利し、鎌倉に幽閉された直義は観応3年(1352年)の2月に急死しました。

その死因は病死とも、尊氏による毒殺とも言われています。

南朝との和議が破られ、宗良親王らが率いる軍を尊氏が撃退した武蔵野合戦、義詮が敗れて京と北朝の光厳・光明・崇光上皇と直仁皇太子が拉致されるも京奪還には成功した八幡の戦いが起こり、各地に戦いの火種はくすぶり続けていました。

文和3年(1354年)には直冬率いる直義派の残党に京を奪われるが奪還し、その後も尊氏は九州の反乱軍征伐を試みますが、義詮が反対したために果たせずじまいで終わっています。

多くの人に慕われて政情の安定と乱世平定を望んだ尊氏でしたが、彼はそれを見ることなく延文3年(1358年)に、矢傷による背中の腫れ物が原因で世を去りました。享年54歳。

幕末から戦前にかけて主流であった南朝正統の歴史観での尊氏は逆臣として扱われ、彼を評価した大臣が辞任させられる一因になった程に糾弾されました。

しかし、尊氏と同時代の禅僧にして親交もあった夢窓疎石は尊氏が持つ美徳として「死を恐れぬ勇気、物惜しみしない寛大さ、敵や裏切り者すら許す慈悲」の3つを称えたと『梅松論』では記述されています

こうした人柄からなる声望で武士ばかりか、皇族や公卿、そして民衆からなる人の和と言う日本人らしいやり方で幕府を開き、決して逆境にも挫けない粘り強さを持った足利尊氏は、楠木正成と並ぶ南北朝時代における我が国屈指の英雄として、現代でも当時と変わらぬ多くの人々の声望を集め続けています。


https://senjp.com/godaigo/  【後醍醐天皇の負けず嫌いな執念と室町幕府や南北朝時代になった背景】 より

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に関して、なんで隠岐に流されたのか?、なんで鎌倉幕府を倒そうとしたのか?、なんで味方だった足利尊氏が寝返ったのか?、なんで南北朝時代となったのか?など、歴史の背景などできる限り分かりやすく、ご紹介したいと存じます。

後醍醐天皇とは

後醍醐天皇は、鎌倉末期から南北朝初期の天皇ですが、大覚寺統・後宇多天皇の第2皇子でした。

母は談天門院忠子 (参議・藤原忠継の娘)です。

元寇もあったこの鎌倉末期の天皇は、後伏見天皇の「持明院統」と、亀山天皇の「大覚寺統」の2つに分裂した両統迭立(りょうとうてつりつ)となっており、それぞれの家系から交互に天皇を即位させていました。

後醍醐天皇の異母兄である後二条天皇は第94代天皇となっていましたが、1308年に24歳で急死し、持明院統の花園天皇(95代)が12歳で即位します。

当然、若年なので、持明院統の伏見上皇や、兄の後伏見上皇が「院政」を行います。

院政とは

この「院政」(いんせい)と言うのは、天皇が生きているうちに皇位を後継者に譲って上皇(じょうこう)となり、新たな天皇に代わって政務を代わり行うものです。

すなわち、即位した天皇は名ばかりで、権力は後見となる上皇が握っていたと言う事になります。

そして、この頃は、両統迭立で天皇の在位期間は10年と話し合いで決まっていたことなどから、すぐに次の皇太子が決められています。

この時、大覚寺統の皇位継承は、亡くなった後二条天皇の第一皇子・邦良親王(くによししんのう)でしたが、まだ幼少だったこともあり、第91代・後宇多天皇の第2皇子であった尊治親王(後醍醐天皇)に「中継ぎ」として皇位継承権が巡ってきたと言う事になります。

こうして、1318年、大覚寺統の後醍醐天皇(31歳)が第96代天皇になりました。

しかし、父・後宇多天皇は再び院政を開始し、結局、後醍醐天皇も名ばかりの天皇となります。

更に後醍醐天皇は「中継ぎ」であり、自身の子である護良親王(もりよししんのう)に皇位継承権が無いことにも不満がありました。

そして、天皇継承の承諾をする鎌倉幕府の実権は執権・北条氏でした、鎌倉幕府将軍が、持明院統から出ている事も、好ましく思わなかったようで、鎌倉幕府の倒幕も考えるようになったようです。

1321年に、後醍醐天皇は父・後宇多天皇の院政を停止し、自身による天皇親政を復活させました。

親政とは

「親政」(しんせい)と言うのは、天皇が自ら政治を行う事を指します。

吉田定房、北畠親房らを登用して政治の中心機関「記録所」(きろくしょ)を再興し、政治改革を行いました。

しかし、天皇政治が思うようにいかない根源が、鎌倉幕府にあることを痛感し、日野資朝・日野俊基ら公卿と、討幕計画を進めます。

これが、1324年、鎌倉幕府の京都出先機関「六波羅探題」に知られて露見し、持明院統の量仁親王が鎌倉幕府の指名で次期の天皇に立てられ、後醍醐天皇は窮地に追い込まれました。

元弘の乱

更に、倒幕計画が漏れたことにより、1331年、六波羅探題の軍勢が御所内部にも侵入し、後醍醐天皇は三種の神器を持って「女装」して京都を脱出し、笠置山に入り挙兵します。

後醍醐天皇の皇子・護良親王や、河内の悪党・楠木正成も呼応しましたが、足利尊氏・新田義貞ら鎌倉幕府の軍勢に敗れて後醍醐天皇は捕縛されました。

謀反人となった後醍醐天皇は天皇の座を奪われて、1332年に隠岐島に流罪となります。

しかし、潜伏していた護良親王と楠木正成は再び挙兵し、六波羅探題勢を撃破します。

千早城の楠木正成が、鎌倉幕府の対銀相手に勝利しているとの知らせは日本各地に伝わり、後醍醐天皇も名和長年らの力を借りて隠岐島から脱出しすると、伯耆・船上山にて倒幕の綸旨を天下へ発しました。

これを追討するため鎌倉幕府から派遣された足利尊氏は、丹波にて反旗を翻し、佐々木道誉や赤松則村らと六波羅探題を攻め落として京都を制圧します。

光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇ら持明院統の皇族を捕らえました。

その直後に、上野国で挙兵した新田義貞が、鎌倉幕府に不満を持つ御家人を増やしつつ、小手指ヶ原の戦い、分倍河原の戦いで勝利し、ついに鎌倉を陥落させます。

そして、執権・北条高時ら総計800人余りが自刃し、鎌倉幕府は滅びました。

建武の新政

後醍醐天皇は京都に戻ると、念願であった天皇親政である「建武の新政」(けんむのしんせい)を開始します。

しかし、論功行賞において、鎌倉御家人だった武士らは不遇な扱いを受け、恩賞の不公平が生じます。

足利尊氏に対しては、実力と声望を恐れて新政の中枢から遠ざけ、北畠顕家と義良親王を奥州に派遣して、後方から関東の足利勢を牽制しようとしました。

こうして、足利尊氏の離反が生じ、室町幕府の成立へと結びついていくのです。

1335年、足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、後醍醐天皇は新田義貞に追討を命じます。

足柄峠付近で「箱根・竹ノ下の戦い」では勝利した足利尊氏でしたが、北畠顕家に駆逐されて九州に落ち延びます。

しかし、赤間関の少弐頼尚や、宗像大社の宗像氏範の支援をた足利勢は、今度は逆に軍勢を京へと向けました。

1336年、新田義貞と楠木正成の軍勢が足利勢を迎え撃ちますが、湊川の戦いで楠木正成が討死して敗北。

後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗しますが、三種の神器を差し出して、吉野に逃れました。

南北朝時代の始まり

こうして、足利尊氏は、建武式目を制定し持明院統から光明天皇を擁立します。

また、鎌倉幕府の正当な後継者と主張して、1338年には征夷大将軍に任じられると室町幕府を開きました。

これに対して、後醍醐天皇は、自身が正当な天皇だとして吉野朝廷を開いて「南朝」ができ、足利尊氏の息のかかった「北朝」との「南北朝時代」(なんぼくちょうじだい)56年間が始まった訳です。

吉野朝宮跡

持明院統と大覚寺統の対立は、完全な分裂状態となった訳ですが、後醍醐天皇は各地に自らの皇子を派遣して協力を要請しました。

しかし、名和長年、結城親光、千種忠顕、北畠顕家、新田義貞らが討死にし、1339年には後醍醐天皇も崩御しました。

勢力を弱めた南朝・北畠親房は、篭城した常陸・小田城にて南朝の正統性を示す「神皇正統記」を執筆し、関東の武士を味方につけますが、懐良親王、北畠顕能、宗良親王らも亡くなり、1392年に南朝は降伏しています。

なお、明治44年に、南朝の天皇を正統と定めたため、足利尊氏が擁立した光明天皇など、北朝時代の天皇は歴代天皇にはカウントされていません。

ちなみに、父・後醍醐天皇と不和になっていた護良親王(もりよししんのう)は、1335年に足利尊氏を捕縛されており、鎌倉の東光寺に幽閉されていました。

1336年、諏訪頼重による中先代の乱の際に、敵に擁立されるのを警戒され、鎌倉にいた足利尊氏の弟・足利直義の命により、淵辺義博が殺害しています。

山梨県の石船神社に祀られている頭蓋骨は、護良親王のものだと伝わる他、護良親王の子を身籠った雛鶴姫が同じく山梨方面に逃れたと言う伝承もあり、興味深いところです。

護良親王が命を落とした東光寺跡には、現在「鎌倉宮」がありますが、明治天皇の命にて造営された神社となります。

後醍醐天皇陵

後醍醐天皇が亡くなった吉野には、後醍醐天皇陵があります。

病に伏せった後醍醐天皇は、下記のような歌を詠みました。

身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん

最後まで、都を憧れつつ、吉野・金輪王寺にてついに崩御しました。

遺骸は、後醍醐天皇が勅願所とされていた如意輪寺(にょいりんじ)の裏山である塔の尾へ埋葬されます。

後醍醐天皇陵

後醍醐天皇の京都への思いに報いるよう、天皇家の墓陵としては、日本で唯一「北向き」に埋葬されており「北面の御陵」とも呼ばれます。

後醍醐天皇陵

また如意輪寺の裏山には、後醍醐天皇の孫に当たる長慶天皇、その皇子の世泰親王も葬られています。

世泰親王の墓

南朝は、現在の天皇家が正統だとしているため、明治新政府以降、宮内庁にて管理されています。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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