https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36138 【ヵツオを食べる達人だった日本の漁師】より
進化を遂げる「カツオ食」
カツオの旬というと、山口素堂が詠んだ「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」から新緑の頃が思い浮かばれる。だが、旬は春だけでない。夏に太平洋を北上したカツオが、脂の乗った体で再び南下してくるのだ。この戻りガツオが獲れるのは、これからの秋の季節だ。
日本近海の黒潮に乗って泳ぐカツオは、日本人にとって昔からの食料であり続けてきた。カツオ節から抽出するエキスは出汁という“日本の味”にもなった。まさに、カツオは日本の食文化と切り離せない魚と言える。
そこで、今回は、日本人がカツオをどのように食してきたかをテーマに、その昔と今に迫っていくことにしたい。
前篇では、主に歴史の部分に焦点を当てる。カツオの食べ方の種類の豊富さには驚かされるばかりだ。後篇では、現代に焦点を当て、カツオの食材としての利用法開発に挑んだ静岡県水産技術試験所上席研究員の平塚聖一さんに話を聞く。食材としてのカツオの価値を高めるための技術開発が進んでいるのだ。
カツオは「頑な」で「堅い」魚
カツオは漢字で「鰹」と書く。それよりも前、日本人はカツオを「頑魚(かたくなうお)」あるいは「堅魚(かたうお)」と呼んでいた。そう呼びはじめたのには諸説があるが、そこからカツオ食と日本人の出合いや歴史を垣間見ることができる。
水揚げされたカツオ
『日本書紀』によると、景行天皇53(西暦124)年、天皇が安房に巡幸したところ、信天翁(あほうどり)が鳴いてうるさいため、家来に捕まえるよう命じたという。船を出して信天翁を捕まえようとしたが叶わなかった家来から、代わりに差し出されたのは魚だった。家来が弓で魚を追い払おうとしても魚は“頑な”に離れなかったため、天皇はこの美味なる魚を「頑魚(かたくなうお)」と名付けたという。
こんないわれもある。カツオは鮮度が落ちやすい。そのため、乾燥させたり、火を通して煮たりする。するとカツオは堅くなってしまう。そこで人びとはこの魚を「堅魚」と呼ぶようになったという。
その後、文字どおり、魚へんに「堅」と書いて、これを「カツオ」と呼ぶようになった。じつは「鰹」という字は本来、ウナギなどの魚を指すのに使われていた。「鰹」がカツオを示す字として定着したのは、その語感が人びとにしっくりきたからだろう。
初鰹を食べて長寿を祈った江戸の町人
日本人はカツオを様々な方法で食してきた。
代表的なものはカツオ節にして出汁をとるというものだ。カツオを保存して食べるには、乾燥させることが1つの手だった。日本では4世紀以前、すでに、カツオをそのまま干したり、煮てから干したりして食べていたと言われる。
室町時代になると、この干したカツオを焙って乾かすという工程が加えられた。それが、いまのカツオ節の製法になっていく。大坂の大商人や京都の上流階級が、煮汁にカツオ節を入れて旨味を出したことで、出汁にカツオ節を使うという日本食にとって重要な方法を編み出したのである。
また、出汁の誕生以前から、日本人は調味料としてカツオを用いてきた。カツオの煮汁を煮詰めていき、うまみを固形に凝縮させたのである。これを「竪魚煎汁(かたうおいおり)」と呼んだ。
もちろん、鮮度が落ちやすい魚ではあるが、獲れたてであれば冷蔵技術がなくとも生で食べることができた。だが、鎌倉時代末期の歌人だった兼好法師は『徒然草』の中で、鎌倉の海で獲れ、生で食されたであろうカツオを「最近もてはやされるようになった魚」として綴っている。
<鎌倉の海に、鰹という魚は、かの境には双なきものにて、このごろもてはやすものなり>
兼好によれば、鎌倉の年寄りには「この魚は私たちが若かりし頃は、身分の高い人の前に出されることはなかった。頭は下人も食べず、切って捨てたもの」と言っていた者もいたようだ。兼好の時代にカツオの生食観が大きく変わったのかもしれない。
カツオ節やたたきにするのは代表的なカツオの食べ方
江戸時代に入っても、生のカツオは“流行りもの”としてもてはやされた。その年の“初鰹”にありつくことが、江戸の町人にとっての贅沢な流行となった。食べると寿命が75日延びるとも言われ、縁起物となった。相模湾や三浦半島で獲れたカツオが、当時の高速船で日本橋の魚河岸まで運ばれていたのである。松尾芭蕉は「鎌倉を生きて出でけむ初鰹」と詠み、小林一茶は「鰹一本で長屋のさわぎかな」と詠んだ。
「たたき」という代表的な食べ方もある。皮付きのまま鱗は削ぎ落とし、表面に軽く火が通るくらいに焙ってから氷や水で冷やす。そして、たれと薬味をたっぷりかけて刺身として食べる。
この、カツオのたたきにも誕生をめぐっての逸話のような説がある。江戸時代中期に土佐(現在の高知県)で生のカツオを食べたことにより大規模な食中毒事故が起きた。そこで、土佐藩主だった山内一豊が庶民にカツオの生食を禁じたという。だが、刺身の味を忘れられない庶民は、カツオの表面だけを焙って食べるようにした。毒消しのためニンニクやネギも添えた。これがカツオのたたきの始まりとも言われている。
なお、かつて「カツオのたたき」といえば、塩辛のことを指すこともあった。江戸時代の食物研究家だった人見必大の著書『本朝食鑑』には、端肉や小骨をたたいて塩辛のようにした醤(ひしお)を「多多岐(たたき)」というと述べている。
日本各地に独自のカツオ料理がある
節、煎汁、生、たたきと紹介したが、これだけではない。特にカツオ漁がさかんな漁師町では、人びとは船上や地元での料理にカツオの様々な部位を使ってきた。川島秀一著『カツオ漁』(法政大学出版局)から、様々な食の方法を見てみよう。
カツオの頭を食べる習慣があったのは沖縄県や鹿児島県だ。カツオの頭を漁師が持ち帰り、これを壷に入れて塩漬けにして保存食にしていた。枕崎や坊津ではこの食べものを「ビンタ」と呼んでいた。
一方、有数のカツオ水揚港である気仙沼には「キガキ炊き」なる料理があった。カツオとイワシに塩をまじえてつくった魚醤に、さらにカツオの頭と大根を入れて炊いて食べたという。
カツオの肉のうち、黒い部分の血合肉を食べる習慣もあった。静岡県の御前崎では、漁師たちが「押さえ飯」と呼ばれる飯を船上に持っていき食べていたという。血合肉にネギや醤油をまぜて叩いたタタキをご飯の上にのせ、上から蓋で押さえ、押し鮨のようにするのだ。
骨までも食材に使ったのは三重県の漁師たちである。カツオの骨を塩に漬けて「ニタヨウ」という料理にして食べたり、これを薄塩で煮てスープにして飲んだりもした。
カツオの身を団子にして食べる習慣は、多くの地域の船上食になっていたようだ。小骨も入った身を包丁でたたき、味噌をまぜて丸めてから煮立ったお湯に入れ、団子として食べた。漁師たちはこれを「カツ団子」と呼んだ。
現代の日本人は4割の部位しか食べていない
庶民には庶民の、漁師には漁師のカツオの食べ方があったわけだ。代表的な節や刺身だけでなく、獲ったカツオを血合や骨の部分まで無駄にしない食べ方を日本人は考えてきた。
ところが、現代になるとカツオの食べ方が変わってくる。それをひと言で表すと、「食べない部分が多くなった」となる。
カツオの部位を、赤身の普通肉、血合肉、頭や内臓などの3つに分けたとき、それぞれの重量比は約4割、1割、5割ずつとなる。このうち食用としての優先順位が高いのは普通肉の部分だ。一方、その他の部位はカツオの赤身を加工する段階で排出され、人が食べることも少なくなった。つまり、獲れたカツオの4割の部分しか食用に利用していないのである。背景には、カツオ漁の大規模化や遠洋化がありそうだ。
大型の遠洋船でカツオ漁に出て、カツオを大量に獲る。そしてそれを船内で冷凍にしておけば鮮度を保ったまま長期間にわたり漁業航海を続けることができる。その間、船内では、カツオの頭や内臓や血合の部分を取り除き「ロイン」とよばれる四つ割のブロック肉に加工しておく。この冷凍カツオのロイン加工では、加工者は電動ノコギリを使うが、その「削り粉」には、骨、血合、皮などのさまざまな部位が混ざってしまう。そのため、削り粉は、飼料や肥料として使うくらいしか術がないのだ。
また、小規模な漁の場合ならまだしも、大量に獲れたカツオの頭や血合を漁師がすべて食べ切れるかといったら、そうもいかないだろう。こうして、カツオの部位の4割は食用、6割は非食用という比率が出来上がってしまった。この比率を改める方法はないのだろうか。
「私たちは、飼料や肥料にしかしていなかったカツオの部位を、食用にするための研究開発に取り組んできたのです」
こう話すのは、静岡県水産技術研究所開発加工科の平塚聖一さんだ。日本最大の冷凍カツオ水揚地の焼津市にある同研究所は、2009年から2011年まで「カツオ丸ごと食用化プロジェクト」に取り組み、食用として未利用だったカツオの部位を食材に加工する技術の開発を目指してきた。
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