金子兜太作品鑑賞 ⑳

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.20.html 【金子兜太作品鑑賞  二十】 より

  右折車ばかりで左の空地ぼんやりす     『日常』

 ほのぼのと可笑しい。そしてこういう風に感じることがあるなあと思う。日常の中で何となく有る微妙な感覚に気付いて、それを言い止め得ることに感心する。この句におけるこの「空地」の寓意性は広い。有季無季自在と言えようか。  

  生御魂座る二ホンオオカミの毛皮      『日常』

  生御魂臍出しルックを手で招く       『日常』

  眺むれど皺ばかりなり君等の臍       『日常』

 いわば遊俳の端っこに居る私が言うのもおこがましいし、今更ながら言うのも遅いとは思うが、兜太は季語の使い方が物凄く上手いのではないか。物凄く上手いというのは、季語に霊魂を吹き込むような手腕である。一句目の「生御魂」などはまさにシャーマンのような土俗的な光を放っている。そして二句目の俳味と三句目の落ちには心憎いものがある。全体にトータルな俳諧美というものがある。

 

  月光に木は葉を捨てる冷まじや       『日常』

 この句の「冷まじ」もそうである。歳時記や辞書に出ている言葉の意味を越えて、存在の内奥を突き刺すような意味が付与されていると感じるのである。木の精が月光の中を舞っているような幽玄の世界に誘われるかと思うと、また玲瓏たる光の中で葉を落している一本の木が見える。まことに格調の高い真に迫った世界である。

  けけけくくくと子どもが笑う白鳥来     『日常』

 「けけけくくくと子どもが笑う」のは幸せの時間である。忘れてはならない人間の魂の原風景と表現してもいい。けけけくくくと子どもが笑いそして白鳥が来る、というような映像を想っていると懐かしさが満ちてくる。

  うーうーと青年辛そう日向ぼこ       『日常』

  車間縫う青年のバイクの夜長        『日常』

 老醜の一つの兆候として、「今どきの若いもんは何だかんだぐだぐだ云々」と愚痴ばかりこぼすということがある。そういう事は私にもあり、気をつけたいと思っている。この二句の場合などは、その逆に若い人達を大きな目で見守っているという眼差しがある。ところで一句目は、人を物や道具としか見做さない社会状況が進んできた中で、切り捨てられた青年の「うーうー」である可能性もある。そういうことに想像が及べば、私は逆に今の社会に対してぐだぐだぐだと愚痴をこぼしたくもなる。

  秋暗の水光(みで)りの近江戦さあるな    『日常』

 「秋暗の水光りの近江」という表現がとても厚い心情を感じさせる雰囲気を出している。「秋暗の水光り」の明暗のコントラストもその因であるし、芭蕉が「行く春を近江の人と惜しみける」と詠んだように、「近江」という言葉が生を惜しみ自然を愛おしむ雰囲気を持っているのもその因である。「秋暗の水光りの近江」での「戦さあるな」との思いは真情にあふれて厚い。

  霧の奥最上川音曽良の声も          『日常』

 作者は最上川の岸辺に佇つ芭蕉と曽良の時間までタイムスリップしている。霧の奥に最上川の川音が聞こえる、ふと曽良の声も聞こえてくる。芭蕉は?・・芭蕉は作者自身である・・という幻想が私には起る。芭蕉に関係した句といえば、「伊賀組紐薄氷に立つ寿貞尼」という寿貞尼の境遇に思いを巡らした厚い心情の句も『日常』にある。

  虚も実も限無(きりな)く食べて秋なり     『日常』

  一日中光り貪り夜長かな            『日常』

 両句とも、生きて在るということを満喫しているさまである。虚も実も、光も陰も、やってくるものを無選択に全て愛しているとう境地を感じる。『日常』に於て、この二句より前に「露舐める蜂よじつくりと生きんか」があり、更に前に「飯を噛む北風吹けば更に噛む」「走らない絶対に走らない蓮咲けど」があるというのは印象的である。

  肥溜めに冬の花火の映りしこと        『日常』

 対立する二つの概念を調和させるということが、生きる上での一つの大きなテーマであると思う。俳句で言えば、遠い事物の中に調和を見出して書くということである。兜太はその名手であり、それは単に知識や技術的な鍛練で得られたものでなく、彼の実存の質そのものから生じたものなのではないだろうか。この句では「肥溜め」に「冬の花火」が映っていたことを回想しているわけであるが、この離れた二つのものに調和や美を感じていたことそのものが兜太の質であり、この質は俳諧美の質そのものであると、私は思うのである。

  花のあと魚影限りなく海に          『日常』

 無数の桜の花びらが無数の魚影になったような不思議な感覚が、桜の花の桃色と海の深い青色との美しい対比の中で起る。自然の豊かさ惜しみなさということであろうか。そして自然そのものを支えている存在の海という想念も感じる。

 さて、人間にとって共通の問題があるとしたら、それは死である。生きていく上で各人が背負っている問題は様々あるが、それが共通の問題であるとは限らない。しかし、死だけは別である。死に遭遇しない人間はいないし、意識的であるにしろ無意識的であるにしろ、死を恐れていない人間は殆ど皆無であると言っていい。そして、殆どの人間が生きている間は自分自身の死に遭遇することができないとすれば、それを最も身近なものとして感じることができる機会は、愛する者の死に際してであると言える。『日常』にある〈妻金子みな子(俳号皆子)他界 二十一句〉と前書のある句のうち次の一句を味わいたい。

  瀬を早み朴の花ゆく帰らない

 妻は逝ってしまった。もう帰らない。この眼が見ることを慈しんだ妻の姿はもう無い。この耳が聞くことを喜びとしていた妻の声はもう聞えない。この心がほっと寛いだ妻との時間はもはや無い。朴の花のように清楚な気品の妻はもういない。逝ってしまったのだ。帰らないのだ・・

 人間はいつか自分自身の死に遭遇する。死とは何か。そして死が必ず待ち構えている生とは何か。その生のまるごとを俳句に捧げた、生の詩人である金子兜太の全句業の其処彼処に、そのことは示唆されてはいないだろうか。

 沢山の秀句を捨てざるをえなかったのも、また取り上げた句以後の味のある展開を無視したのも残念であるが、とにかく白梅の句の鑑賞で始まったこの一連の鑑賞文を次の一句で終りにしたい。

  いのち確かに老白梅の全身見ゆ       『日常』

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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