金子兜太作品鑑賞 ⑲

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.19.html 【金子兜太作品鑑賞  十九】 より

  よく眠る夢の枯野が青むまで        『東国抄』

 輪廻転生ということに関していえば、時々はそれが有るとして物事を考えるのも楽しいものである。この句を見ると、どうしても芭蕉最後の句「旅に病んで夢は枯野をかけ迴る」を思う。そして、次のような幻想が生れる。・・兜太は芭蕉の生れ変りであり、前世において解決しえなかった問題を今生において解決している・・という幻想である。兜太の句は芭蕉の句に対する返答であるような感じを受けるのである。

この句を単なる芭蕉の句の兜太風もじりであると片付けたくない。いわば俳諧にいのちをかけた二人である。魂のレベルでの応答であるに違いないと思うのである。

  海鳥の糞にたんぽぽ大楽毛 (おたのしげ)   『東国抄』

 〈霧多布岬 五句〉のうちの一句。「大楽毛」とは地名である。見事な地名があったものである。そして、その地名を見事に俳句に仕立て上げた感応力。 

  陸奥紅葉「死ぬまで生きる」と萱野の茶  『東国抄』

 〈当たり前〉と言わないでほしい。人間の状況としてはこの当たり前のことが難しいからである。真の意味で「死ぬまで生きる」と言える人がどれ程いるだろうか。「陸奥紅葉」「菅野の茶」がこの潔い表明に響く。

  生きてあり越冬つばめ眼を閉じて      『東国抄』

 運命に身を任せてはいるものの、生きてあることを、しみじみと味わっている、仕合わせに感じている。

 この句ができた頃に、森昌子の「越冬つばめ」という演歌が流行っていた。・・娘ざかりを無駄にするなと/時雨の宿で背を向ける人/報われないと知りつつ抱かれ/飛び立つ鳥を見送る私/季節そむいた冬のつばめよ/吹雪に打たれりゃ寒かろに/ヒュルリ ヒュルリララ/ついておいでと啼いてます/ヒュルリ ヒュルリララ/ききわけのない女です・・(作詞:石原信一)というような歌である。『東国抄』ではこの句のそばに「北風のひゆーらひゆーらと愚禿なぶる」というのがあるが、これもこの歌の歌詞のヒュルリヒュルリララを連想する。兜太はこの頃、この曲を聴いていた可能性がある。だからどうだというのでもないが、そういうことを想像しながら句集を読むのもまた楽しい。また実際この「愚禿なぶる」の句などはこの演歌を聴きながら読むと、一つの雰囲気が加わって、おどけの味が引き立つ。ちなみに「演歌に高ぶるわれここにあり寒紅梅」『日常』とあるように兜太は演歌が好きなのかもしれない。

  白梅散り牛山を行き一と日経(へ)る    『東国抄』

 老子というと牛というイメージがある。馬でも象でも獅子でもなく牛である。牛のゆったりとした歩みや大地に根付いたような姿と眼差し、老子が牛に乗って去って行ったという伝説等からである。そして兜太の第一作目の「白梅や」の句がある故に、この句に老子の物語を重ね合わせてしまうのである。「白梅や老子無心の旅に住む」は老子の生を扱ったものである・・老子は十全に無心にその生を生きた。「白梅散り牛山を行き」は老子の死を扱ったものという想像である・・老子は牛に乗ってゆったりとこの世とあの世の境の山を越えて行った。「一日経る」は人間の生も死も永遠の立場から見れば、ほんの一日に過ぎないということ。

  明石原人薄暑のおのころ島往き来     『東国抄』

 「明石原人」は化石人類すなわち科学的な立場から見た太古の人間である。「おのころ島」は神話上の日本国である。このことを頭に置いて、明石原人がおのころ島を往き来している姿を思い描くと妙な気分になる。科学的事実と神話的事実が混ざりあっているからである。そして「薄暑」という皮膚感覚をともなった言葉が、明石原人がおのころ島を往き来しているという事柄に現実味を与えている。私にはこの明石原人が兜太自身のように思えてくる。なぜなら兜太は神話的現実と科学的現実、言い換えれば詩的現実と世間的現実の両方を上手に往き来している気がするし、内面に於ては現代人が失ってしまった原初の無垢な感覚を有していると思うからである。二十世紀から二十一世紀の日本に居住し、内面世界と外面世界、そして太古から現代にいたる時間を自在に往き来している詩人の姿である。

 この句は句集『東国抄』末尾の句であるが、『少年』『蜿蜿』『詩經國風』『皆之』『両神』『日常』等と同じく余韻のある句集の終り方である。

  新月出づイスラムの民長き怒り       『日常』

 〈ニューヨークなどに無差別テロ 二句〉の二句目。物事の原因をその大元にまで遡って見ることの出来る詩人の目を感じる。そして立ち位置としては、やはり、貧しき者や虐げられし者の立場、要するに〈土がた〉ということであろう。

  扉(と)から扉へ寒灯一つ肉体一つ      『日常』     

 「寒灯」や「肉体」を見ている冴え冴えとした意識を感じる。この句を孤独な感じと受け取ったら間違いである。この句はそのような心のレベルを超えていて、在るものを見ているということ、いわば無心に近い状態であるように思う。

  木や可笑し林となればなお可笑し      『日常』

 何か原因があって、可笑しかったり、楽しかったり、幸せであったりするのは、それ程のことではない。その原因が無くなれば、それは失われてしまうからである。何の原因も無く可笑しいのである。存在そのものが可笑しいのである。この可笑しさは禅的である。

  ここに居て風雲(かざぐも)十数個を飛ばす   『日常』

 大自然の意志と自分の意志の一致である。この句はいわば深山の仙人の境地であり、意識の上での事実である。禅定の一態であるともいえる。

  眠気さし顔とりおとす夏の寺        『日常』

 この句も禅味が強い。「顔とりおとす」の意味をあれこれ考えてもいいし、意味を考えないでそのまま、顔をとりおとしたのだと見てもいい。いやむしろ意味を考えないでそのまま受け取った方が余韻は強く深い。私はどちらかというと意味人間であるから、すぐ意味を探りたくなるのであるが、俳句の鑑賞ではこれが邪魔になることもある。

  夏遍路欲だらけなりとぼとぼとぼ      『日常』

 可笑しい。人間の状況の真実であるから尚可笑しい。「欲だらけ」だから「とぼとぼとぼ」なのだと思う。もしこれが「願いは一つ」なら「とぼとぼとぼ」とはならない。人間生れた以上何らかの欲はある。しかし許される欲は結局は一つではないだろうか。欲だらけなら、とぼとぼとぼと成らざるを得ない。また〈無欲〉というのは大方いかがわしい。どうせ持つなら〈大いなる一つの欲〉を自覚したいものである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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