金子兜太作品鑑賞 ⑱

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.18.html  【金子兜太作品鑑賞  十八】 より

  狐火なり痛烈に糞(ふん)が臭う      『詩經國風』

 夢から覚める時の感じといったらいいだろうか。痛烈な糞の臭いが目覚めるきっかけとなっている。この句は『詩經國風』の末尾の一句である。そのことが私にとっては一層この句を印象的にしている。中国最古の詩集であるという『詩經國風』に心を遊ばせてきたが、これらも実はみんな夢のようなものである、というメッセージが隠されている気がしてしまうのである。これは『蜿蜿』の終り方と似ている。生を全的に愛し、生の諸々に酔っているようにさえ見える兜太であるが、実はどこかで真に覚めている気がする。

  蜆汁生きとし生きて諸涙 (もろなみだ)     『皆之』

 〈北信濃柏原、湯田中にて 四句〉と前書のある四句目。柏原の一茶への余韻が残っている感じがする。「生きとし生きて」というのは一茶・兜太から共に受ける感じである。与えられた生、与えられた業を、十分にたっぷりと生きてきました、という感じである。「蜆汁」が美味くて温かくて、その滋養が腸に沁みるてくるようだ。「諸涙」に実感がある。

 かあツーと光る松を見つめてわれ有りぬ    『皆之』

 禅定の一つの態のようである。「松」と「われ」と「見つめ」るという行為が一つの光の中に存在する。「かあツー」というのは禅の喝にも通じるものがあり、力強い。

  砂漠かなコンサートホールにかなかな    『皆之』

洒脱なる虚の味といったらいいだろうか。

 私の義理の兄、高橋正明は抽象画家である。ある時、彼は「絵を描く時は虚の空間に身を置いていたい」という意味のことを言った。彼は実生活や対人関係をとても丁寧に生きている人なので逆に解る気がする言葉である。実人生を生々しく作品に表現してゆく作家と、実人生とはむしろ無関係に作りたい作家がいるのではないだろうか。この句を読んで彼の或る絵の雰囲気を思いだしたので、こんなことを書いているのであるが、兜太の句達は、ある時は実ある時は虚と自在である気がする。このことは兜太がその実人生もそうでないものも俳句に集約させているからだろうか。実際、『日常』には「虚も実も限(きり)無く食べて秋なり」という句もある。しかし私は、虚とは実とは根本的に何なのかということを考えていると、頭がこんがらがって何が何だか解らなくなってくる。虚は実は実、実は実は虚であるとも言えるからである。

  働くがごとく働かざるがごとく草青みたり  『皆之』

 〈中国旅吟・広州、桂林、漓江 二十三句〉と前書のある一句目。いい句だなあと思う。禅や道の格言のようにも受け取れる内容であるが、詩としての味わいが深い。八・十・七という長めのリズムも内容に合っている。繰り返し読んでいると、ゆったりとした無為自然の境地に誘われる。「草青みたり」が清々しく、また万有を肯定している。

  北風(きた)をゆけばなけなしの髪ぼうぼうす 『皆之』

 可笑しい。一茶の「穂芒やおれがつぶりもともそよぎ」にはどこか哀愁のようなものが漂う気がするが、兜太の句はあっけらかんとしていて、豪快でさえある。 

   

  雪の日を黄人われのほほえみおり        『黄』

 豊かなる自画像である。こういう自画像が描けるというのも、大いなる自己肯定の結果であろう。この鑑賞文の最初の方で、自己否定的な句を扱ったことを思い出してみれば、大きな感慨が湧かざるを得ない。

  心臓に麦の青さが徐徐に徐徐に        『両神』

 口誦していると、青麦の清々しさが、肉体として現存する我にしみ込んできて、同じリズムに溶け合ってゆく。〈天人合一〉という言葉を思った。この言葉の経緯は『両神』の後書にある。その中に「・・〈自然随順〉などという言い方はどこかいかがわしい、と日頃考えていたわたしは、この言葉が嬉しくて仕方なかった・・」とある。解る気がする。私の理解はこうである。〈自然随順自然随順〉とお題目を唱えて、我(が)を落としたつもりになってしまうのが一番危険だということ。それは多様で豊かな人間性をのっぺりと薄っぺらなものと捉えてしまう可能性があり、またそのことが却って豊かで多様な自然の理解も妨げてしまうということにある。豊かな自我の理解こそが豊かな自然の理解につながる。

  毛越(もうつう)寺飯(いい)に蠅くる嬉しさよ    『両神』

 毛越寺は義経や芭蕉に縁のある寺で、そこでは当然彼らにまつわる歴史的な事どもに思いを馳せて感慨に浸るということが起るだろう。おそらくそんな時、飯に蝿が来たのが嬉しいというのである。とても解る気がする。現在をなまなましく生きている実存者である兜太にとって、歴史的な感慨に浸っているだけで満足できるはずはない。むしろそのような感慨に浸っているだけというのはしっくりこないという感じがある。その時に目の前の飯に蠅がやって来た。それが妙に嬉しいのである。今此処に生きて在るというなまなましさをその蠅が蘇らせてくれたわけである。

  長生きの朧のなかの眼玉かな          『両神』

 私はまだ長生きと威張れるほどの歳ではないが、それなりに「長生きの朧」感というようなものも解るようになってきた。若い頃は物事をはっきり見よう見ようともがいていたところがあるが、歳を取ってくると、まあ朧なるものは朧なるままでいい、という具合にリラックスできるようになった。しかし、そういう事の全体を眺めている意識ははっきりとしていなければ、と思う。その意識の象徴が「眼玉」である。

  存在や木菟(みみずく)に寄り添う木菟     『両神』

 「木菟に寄り添う木菟」に「存在」を感じ取る態度というのは、兜太の生きる姿勢を律している一つの実存的把握といえるものから来ているかもしれないと思った。生に於ては、その関係性のダイナミズムこそに真実があるという、いわば愛の哲学である。

 

  二階に漱石一階に子規秋の蜂          『両神』

 〈愚陀仏庵〉と前書。兜太の物事を視覚的に把握する力量が、漱石と子規の愚陀仏庵におけるある日の一シーンを、映像化しえた。大げさに言えば、この句により、この二人のこの日のこの時間が永遠のものとなった。

  ときに耕馬を空に映して大地あり       『両神』

 〈モロッコ旅吟〉。一人の画家のやれる分野というものは狭い。それは画材そのものに重さと抵抗があるからかもしれない。兜太をある側面で見れば、言葉による映像作家あるいは画家と見ることもできるが、言葉の特質だろうか、兜太は様々な分野を軽々と渡り歩く。ここでは、彼は異国を旅する風景画家である。気持ちのよい広大な風景が眼前に広がる。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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