金子兜太作品鑑賞 ⑰

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.17.html 【金子兜太作品鑑賞  十七】 より 

  馬酔木咲き黒人Kの更なる嘆き      『暗緑地誌』

 「黒人K」の響きと色彩感が句を引き立てる。句の裏に人種差別問題への眼差しがある気がする。この句の出来た時代を考えると、黒人Kというのは黒人解放運動のキング牧師のことではないか。

  汚れて小柄な円空仏に風の衆       『暗緑地誌』

 円空仏は好きである。大寺院に安置されて一つの宗教的権威の象徴になってしまう怖れの殆ど無い、一見下手糞にも見える粗削りで野趣のある仏像。しかし、現代アートの優れたものに通じるような自由さと個性がある。また、衆生の救済の為の作像だったという趣も十分に伝わってくる。この円空仏にまつわる言葉として「風の衆」というのは心に落ちる。

  朝顔が降る遠国(おんごく)の無人の街    『暗緑地誌』

 美しい街だ。しかし怖い。人間の心理の領域に、このような場所は確かにある。美しい孤絶感の支配する場所。子供の頃、「誰もいない街」という童話を読んでもらったことがある。内容はともかくその題名に名状しがたい怖さを感じた記憶がある。今考えてみれば、それは人間存在の根本に関わる一つの恐怖だったのではないだろうか。

  樹といれば少女ざわざわ繁茂せり     『暗緑地誌』

 二十世紀インドの覚者ラジニーシは、次のような実験をすることを薦めている。公園でも何処でもいい、身近にある一本の樹を選ぶ。その樹の傍を通る時には必ずその樹を愛着を持って抱擁する。何度もそういうことを重ねていると、やがてその樹と自分の間に特別の親しい関係ができてくる。例えば、自分の気持ちが沈んで憂鬱である時などにも、その樹の傍らに行くだけで、心が解放されて幸せな気持ちになってくる、というのである。この句における、この少女とこの樹も一つのエネルギーを共有し共振しているようだ。

  骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ       『早春展墓』

 不思議な句である。「鮭の骨」ではなく「骨の鮭」であるが、これは鮭自体が骨であると言いたいのではないか。そして「鴉もダケカンバも骨だ」と言っている。つまり存在物はみな骨であるということである。一休禅師に有名な骸骨図絵があるが、この句は生死一如ということを直感的に感受して出来た句なのではないだろうか。口誦していると潔い気持ちになってくる。

  温もればはしやぎ寒ければ萎え芹の家    『狡童』

 この平凡な無邪気さがいい。敢て言えば、ゆうゆうと無邪気に平凡でいられることは非凡であり、きゅうきゅうと非凡を目指すことは凡庸である。「芹の家」が知的に響く。

  河の歯ゆく朝から晩まで河の歯ゆく     『狡童』

 〈存在を見つめる者・兜太〉と言いたくなるような句である。そういう視点で眺めれば、沢山の兜太句がそれに当たる気がする。おそらくその切り口での金子兜太論も書けるのではないだろうか。

  わが世のあと百の月照る憂き世かな     『狡童』

 一人のマスターあるいは一人の優れた王が死んだ後は沢山の後継者が乱立して、さながら百の月が照っているような状態になることが多い。しかし、光源である太陽がもう居ないのであるから、それはいわば憂き世である。〈詩經國風〉によせた句の一つであるが、兜太自身の自恃の心を垣間見ている感じもある。五十歳代初めの句。     

  

  直(ひ)たと海久さに潮の香あわれあわれ   『狡童』

 〈在る〉ということを感じて思わず「あわれあわれ」と言った感じがする。〈万有有情〉というような言葉が思い浮かぶ。先の東北関東大震災では、無情あるいは無常という感じ方に一瞬襲われた。しかしあのような事態を踏まえても、やはり万有有情だと言い張りたい気持ちもある。そもそも兜太の句全体に、万有は有情だという滋味を感じている。

  廃墟という空き地に出ればみな和らぐ   『旅次抄録』

 「廃虚という空き地」で、過去も未来も失われた一つの空間がイメージされる。そういう場所に出れば、皆の気持ちが和らぐことは真実である気がする。過去や未来があるから、人間に区別や差別があり、闘争や競争があり、緊張があるのではないだろうか。人間の心理の一つの真実を書いている。

  富士たらたら流れるよ月白にめりこむよ 『旅次抄録』

 この句は印象派の風景画のような印象を受ける。富士という触ることのできる実体も、月白という触ることができない実体も、作者の印象の中で同等に溶け合っている。

  麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人      『詩經國風』

 句集『詩經國風』の冒頭の句。この一句だけをみても、三千年以上も前の大陸の詩の世界に感応したものだと言われると、うなずかされるものがある。大らかで、こせこせしていなくて、健康的で、大地の香りがする。

  抱けば熟れいて夭夭(ようよう)の桃肩に昴(すばる)

                                  『詩經國風』

 〈夭夭〉とは若く美しいさま、若く盛んなさまであると作者註がある。まさに「麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人」の時代の情事を予感させる。大自然の中での情事。大自然そのものから祝福を受けている行為であり、大自然そのもの、あるいは天体の運行の一つとしての成り行きである。

  つばな抱く娘(こ)に朗朗(ろうろう)と馬がくる

                      『詩經國風』

 もうこれはロマンスの始まりだ。この馬には誰か乗っているに違いない。いや、乗っていないとしても、この娘とこの馬の強い友情ということもある。広々とした自然。風と光。運命的な邂逅を待つ時の胸の高鳴りを覚える。

  鼠を視(み)るに歯があり毛がある山家かな『詩經國風』

 ただただニンマリと笑いが出てくる。ほぼ当たり前の事を言って笑わせる能力があるというのは、おそらく作者の存在自体がそこはかとなく面白いのだ。

  主知的に透明の石鯛の肉め         『詩經國風』

 誰かをからかって言っているのかもしれない。お前は真面目で堅物で人が善いが、知に偏りすぎているぞ。確かにお前の純粋さは認めるが、もう少し情の柔らかさというものも身につけたらどうだ。石鯛の肉め。

 私は筑摩書房の「金子兜太集」第一巻の「全句集」を使って句を鑑賞しているが、他に「主知的に透明に石鯛の肉め」となっているテキストもある。これだと石鯛の肉そのものの質感、およびそれと自己との関係を書いている感じで、感覚の切れ味もある。しかし結局、双方捨て難かった。

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