金子兜太作品鑑賞 ⑯

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.16.html 【金子兜太作品鑑賞  十六】 より

  華麗な墓原女陰あらわに村眠り    『金子兜太句集』

 ヒンズーのカーリー女神の姿が思い浮かぶ。美しい彼女は素裸で、その夫シヴァ神の身体を踏みつけて踊っている。首に髑髏を繋いだネックレスを飾り、片手に生首を持ち片手に殺戮の剣を持つというような姿をしている。この句と共通するのは、性すなわち生、と死の混然とした一体感である。この句では更に土俗的な土臭い光を感じるが、カーリー女神信仰もおそらく元は土俗的なものに由来しているのではと考える。とにかく彼女は華麗に踊る。

  手術後の医師白鳥となる夜の丘    『金子兜太句集』

 物語性と映像の美しさ。『鶴の恩返し』などの日本民話の現代版であるとも取れる。  

  粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に  『金子兜太句集』

 「いつも変わらぬ粉屋の歌は/知ったこっちゃない/知ったこっちゃない/みんなが僕に知らん顔なら/僕もみんなに知らん顔」というのがマザーグースの歌にある(谷川俊太郎訳)。つまりこの粉屋はこんなふうな泣き言を俺に言ってきたのである。山から駈けおりてきた俺の顔付を見て、こいつなら解ってくれると思ったのかもしれない。とにかく「暗い製粉言葉のように鼠湧かせ」『金子兜太句集』のような仕事をしているもんで、と粉屋は言うのである。

  果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島    『金子兜太句集』

 おそらく人間は、自由ということの味を再確認する為に、それぞれに孤島が必要である。何の虚飾も身につける必要のない場所、自分自身にとっての実りをもたらす場所である。

 

  わが湖あり日蔭真暗な虎があり    『金子兜太句集』

 肯定でも否定でもなく、客観的に自分の心を覗き込んだ時に心が帯びる深い暗青色の艶とでも言いたいようなマチエールの句である。「わが湖」というのは内面の空間であると受けとめるが、その「日蔭」の部分に「真暗な虎がある」というのは、概ね誰にでもある事実ではないだろうか。

 金星ロケットこの日燦燦とパンむしられ『金子兜太句集』

 金星探査、火星探査そして宇宙探査には人間の知的ロマンがある。しかしその一方、現在世界では十億人近くの人々が飢餓で苦しんでいるという現実がある。このような、人間存在のアンバランスが書かれている気がする。この句が書かれた時と現在の状況はそう変っていないのではないだろうか。。

  海に出て眠る書物とかがやく指     『金子兜太句集』

 精神と肉体の統合ということが人間に科された一つのテーマであることは間違いない。どちらか一方ではなく、両方を取ればいいと思う。しかし土台は肉体にある。その辺りの微妙なバランスが、燦々とした太陽の光を感じさせながら豊かに表現された句であるように思う。

  どれも口美し晩夏のジヤズ一団        『蜿蜿』

 優れた写真家が口をクローズアップして撮ったアートポスターを見るような印象である。「どの口も」ではなく「どれも口」としたところにインパクトがあり、句に見入っていると段々とジャズの気分が満ちてくる。

  沼が随所に髭を剃らねば眼が冴えて     『蜿蜿』

 躁状態のような気がする。「そこらじゅうに沼があってチラチラと光っている。一歩足を踏み入れたらはまってしまう泥沼かもしれない。髭でも剃って気を落ち着かせよう。とにかく眼が冴えて堪らない」という感じである。いわば異常に興奮した心理状態が臨場感をもって伝わってくる。

  鶴の本読むヒマラヤ杉にシャツを干し    『蜿蜿』

 いいなあと思う。このような野性味と知的なものを併せ持つ人物像、あるいはそういう生活への憧れが私にはある。

  三日月がめそめそといる米の飯        『蜿蜿』

 「こんちくしょう、米の飯を食っていると、どうもセンチになっていけねえ。三日月様までがめそめそとしてるみてえだ」というのが最近の私の気に入っている鑑賞である。飢えということを知っている人にはあり得る感情ではないだろうか。様々な事が思いだされて、この地の恵みに対してはらはらと落涙することだってある。そういうセンチな自分を客観的に眺めて、戯けの気持ちも込めて書いたのである、と勝手に解釈している。

  海流ついに見えねど海流と暮らす       『蜿蜿』

 私がこの句から感銘を受けるのは、私が常日頃感じていることを言い当てているからであろう。非常に大事で本質的で存在の根底を常に流れている大きなものを、私は常にはっきりと見ているわけではない。しかしそれを感じつつ生を営んでいるという事実である。

  鹿のかたちの流木空に水の流れ        『蜿蜿』

 この句は『蜿蜿』の末尾に近いところに置かれている句である。近未来の地球の姿であるとも受け取れる。生身の鹿はもういない。鹿のかたちの流木だけがあり、空には水が流れている。『蜿蜿』の冒頭に「孤独な鹿草けり水けり追われる鹿」という句があるが、この両句は呼応しているように見える。この『蜿蜿』という句集は、その内容自体が有機的に繋がっている感じがあり面白い。人間精神及び現実の様々な局面への旅の句集であるという感じもする。

  人体冷えて東北白い花盛り          『蜿蜿』

 その『蜿蜿』の末尾に置かれているのがこの一句であり、精神の旅の結末に相応しい強いリアリティのある一句であると思う。「人体」という言い方がまず印象的である。自分の身体を物として客観的に眺めている冴えた意識を感じる。大地も大気もみな冷えていて、私として具現しているこの人体も冷えている、という全一感。そして「東北白い花盛り」は祝福されて在るという感受であるように思う。

 

  林間を人ごうごうと過ぎゆけり      『暗緑地誌』

 この「人」という言葉に、人類というものあるいは人間というもの、という大きな想念を感じる。自然界に現れた、ある意味自然とは異質な存在である人間が、自然界をごうごうと過ぎてゆくというとても大きな視点を感じるのである。

  夕狩の野の水たまりこそ黒瞳       『暗緑地誌』

 虚子に「蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな」があり、なるほど虚子は網をかけて獲物を取るような生き方だったなあと思うように、兜太の生き方は狩をするようであると時々思うことがある。そんなことを考えながらこの句を読むと、いくらかは解るような気がするのである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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