https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.15.html 【金子兜太作品鑑賞 十五】 より
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 『少年』
木曾のなあ木曾の炭馬並び糞(ま)る 『少年』
両句とも、兜太の原風景を眺めている感じがする。
愛欲るや黄の朝焼けに犬佇てり 『少年』
『少年』において、この句の少し前に「百日紅まことの愛は遂になし」があることは興味深い。知に立てば「まことの愛は遂になし」とならざるをえないのであるが、知だけで人間存在の丸ごとは把握できない。愛を欲る情が姿を現わさざるをえない。この両句はこの時期の兜太の二枚の相反する自画像と言えないことはない。後年になると、この知と情が統合されていき、現在の兜太の豊かな人間性に至ったのではないか、という図式が思いつく。「黄の朝焼け」のどこか切ないいのちの黄が印象的である。
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む 『少年』
あらゆる怖れはその元を辿れば死の怖れからやって来る。怖れが昂じれば十全に生きられない。だから、死の問題にどう決着を付けておくかが生きていく上では大きな事となってくる。「海に青雲生き死に言わず生きんとのみ」と言い放った兜太の決着の付け方がこの「死にし骨は海に捨つべし」なのかもしれない。自分に言い聞かせている趣がある。
霧の車窓を広島馳せ過ぐ女声を挙げ 『少年』
原子爆弾を落とされた広島。その広島が女声を挙げて霧の車窓を過ぎて行く、というのである。こう書かれてみると、広島というのは女性だという気がしてくる。原子爆弾というものによって犯された女性である。その呻き、叫び、魂の不安の声が聞こえてくる。声ばかりでなく車窓の外に霧のように広がる広島という女性の身体が幻視される。多分この「女声」は汽笛の音と重なってイメージされたものであろう。
夏草より煙突生え抜け権力断つ 『少年』
縄とびの純潔の額(ぬか)を組織すべし 『少年』
共に現代史の中における兜太の一つの歩みを見ることが出来る句である。この純な正義感、この反権力性、そして行動力。こううい時期を経て来て後年の兜太の一つの自在な生があることを見なければならないだろう。
奴隷の自由という語寒卵皿に澄み 『少年』
群に入る目高素早く幸福に 『少年』
正義感に溢れ、自由を愛し、自分の中に力を感じている人は、その歩みの中で皮肉の一つも言いたくなるに違いない。気付きもしないで、誇りを失い、体制にへつらう人々に対してである。こういうことも、兜太の一つの過程である。
確かな岩壁落葉のときは落葉のなか 『少年』
自分の中に不動のものを感じている。 確信の一句。
「朝日のもとで読め」という詩を木枯に 『少年』
〈ランボーの手紙を読んでいて〉と前書のある句。私の中の青春性が呼び覚まされるような一句である。風があり光があり、気持ちいいし小気味よい。肉の重さを感じない精神の自由さがある。私はそもそも文学的な詩というものにあまり興味を抱いたことがないので、ランボーを読んだことがあるわけではないが、若い頃、長沢哲夫というある魅力的な詩人が「俺をここまで連れてきてくれたランボーはいい奴だ」と言ったことを憶えている。。彼は現在、トカラ列島の一つの島で、漁師をしながら詩を書いているそうである。彼そのものが風と光になってしまったような印象を私は持っている。
暗闇の下山くちびるをぶ厚くし 『少年』
負の状況の中へ傲然とした態度で入って行くような雰囲気が感じられる。どんな負の状況でも、へつらわない、ぺこぺこしない、という兜太の一貫した生き様の一端を垣間見るようである。これは〈神戸に転勤と決り猪苗代湖畔に友等と泊る〉という前書のある八句の後に出てくる一句であるが、もしかしたらこの転勤が左遷のようなものだったのかもしれないという想像も働く。兜太は組合の代表委員として組合運動に専念していた経緯があることからである。また言葉を巧みに操る兜太としては、「俺は言葉を武器にして生き抜いてやる」といったような心持ちがあったのではないか、ということも「くちびるをぶ厚くし」という言葉から想像できる。
人生冴えて幼稚園より深夜の曲 『金子兜太句集』
人生という闘争劇の合間に、ふと訪れた恵まれたような時間である。相対的な闇と光ではなく、そこには深々とした闇あるいは光が存在しているような時間である。そのような時間には人間は必ず内奥の無垢なる意識と繋がっている。そのような状態が「幼稚園より深夜の曲」いう言葉で表現されている気がする。実際に深夜に幼稚園から曲が聞こえてきて、それが契機となって作者をそのような状態に導いたとも言える。さて、この曲はどんな音楽が似合うだろうか。
激論つくし街ゆきオートバイと化す 『金子兜太句集』
内面のエネルギーが昇華されて、快いムーブメントを起しているような句である。
朝はじまる海へ突込む鴎の死 『金子兜太句集』
難解な俳句を鑑賞していて、一つの言葉が何を意味するかが自分なりに解けた時に、全ての言葉がすらすらと納得できるということがある。この句に於ては「鴎の死」という言葉がそれであった。「鴎の死」、これを私は観念の死であるとみた。「鴎の死」を観念の死と解釈するというのは、私が決めたことである。観念あるいはそれを支えているマインドは一度死ななければならない。それはちょうど大我という意識の海へ投身自殺するようなものである。そしてその時に個我はいわば宇宙我と一体の意識を持つことができ、そして、その時から本当の意味の朝がはじまる。私流の解釈ではある。
銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく 『金子兜太句集』
都会のビルの中で朝から螢光灯をつけて眼鏡などを光らせて事務に勤しんだり、その日の金融市場の動向にざわざわとしている銀行員と、暗い深海で光を発しながらゆらゆらとゆらめいている烏賊。このような両者の状態が似ているというのであろう。この一見非常に離れた事物の共通性に何とも不可思議な感じを得て、そこに新鮮さと驚きを感じる。創造の大きな目で見れば、ビルの中の銀行員も深海の烏賊も同じようなものだという事実に、私はある種の痛快感を覚える。
銀河に深く旗竿夢に魚いたわる 『金子兜太句集』
クレーの「魚の魔術」や「金色の魚」に結びつけてこの句を鑑賞している。いや、結びつけないと理解が難しいといった方がいいかもしれない。この二つの絵の醸し出す雰囲気がこの句のイメージとしてぴったりなのである。
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