https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.11.html 【金子兜太作品鑑賞 十一】 より
「常に生きる」ということ落花山覆う 『日常』
〈暉峻康隆先生他界〉と前書。「常に生きる」という言葉は故人が常日頃言っていた言葉なのだろうか。あるいは兜太がこの人の生き方から感じ取っていた言葉なのだろうか。いずれにしろ含蓄のあるよい言葉である。いわば死んでいるような混濁した意識で生を引きずりながら生きていることが多い事実に対して、常に意識を澄ませてガッツを持って生きるべし、というような事をいったのではないだろうか。それは即ち、死の際においても、そのように在ることに繋がる。このような大きな覚醒の言葉を言っていた、あるいはそのように生きていた暉峻康隆先生が逝ったというのは、落花が山を覆うように美しくめでたいことであるともいえる。
黄揚羽寄り来原子公平が死んだ 『日常』
〈原子公平死す 五句〉の一句目。「黄揚羽寄り来」という文と「原子公平が死んだ」という文の切れ目の時空はとても神秘的な時空である。作者と原子公平氏が共有していた時空なのかも知れない。このような時空を共有するということが人間と人間が親密であるということなのかもしれない。
炎昼の荼毘白骨となり現(あ)れしよ 『日常』
炎暑の白骨重石のごとし盛り上る
炎昼の友の白骨は気なり
〈原子公平死す 五句〉の二、三、四句目。これらを読むと不思議な感銘を受ける。白骨が霊性を帯びて光っているという感じがある。白骨イコール魂、すなわち物質イコール魂という感じに至る。さらに突きつめると、物質も魂も全てひっくるめて一つの存在である、という一元的な感じに至る。
「夕べに白骨」などと冷や酒は飲まぬ 『日常』
〈原子公平死す 五句〉の五句目。「夕べに白骨」とは蓮如の言葉であるらしい。要するに人間は「・・朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり・・」ということで、この世は無常、人生は無常であるから、後生を願って阿弥陀仏にすがりなさいよ、という意らしい。
句であるが、「人生は無常だなあ、などと言って冷や酒は飲まないぞ」というガッツである。人生は無常。しかしそれは感傷に陥るべきことではない。生も死も越えたものが在るはずである。ガッツが無ければそれは見えない。蓮如の言っていることが間違いだというわけでもない。本当は阿弥陀仏にすがるのもガッツがなければできないからである。
私は金子兜太を〈生(いのち)の詩人〉と形容している。単なる〈生の詩人〉でもなく、単なる〈いのちの詩人〉でもない、その両方を合わせ持っているという意味である。〈生の〉という言葉に、殊に人間としての特性が現れた生を意識している。自我の問題、社会ということ、存在そのものへの考察や洞察等が含まれるだろう。〈いのちの〉という言葉に、より本能的な、動植物のいのちにも生き生きと感応する資質を持っている人間という意味を含ませている。そして究極的にはこの二つは合致するだろうという感触がある。
いままで〈生の詩人〉という側面から句を取り上げてきた気がする。動物の句は〈いのちの詩人〉という側面が現れやすいと思うので、これから少し動物の句を取り上げたい。
兜太の動物達には堂々とした存在感がある。動物を人間より低い存在として扱ったものは皆無だといえる。このことは人間そのものをも優劣や上下で考えていないという態度の拡張された態度だと思える。「酌婦くる灯取虫より汚きが」と詠む虚子の態度とは大分違う。
さて、兜太の動物句を前にして茫然としている。あまりにも豊かに多すぎるのである。しかし、選ぶ自由はあるが選ばない自由はない、ということでエイヤっと選ぶことにした。
春光の畑を土蜘蛛ひた走る 『生長』
蛾の狂情しみじみ疲れ見ておりぬ 『生長』
この二句はほぼ十九歳の時のもの。両句ともに既に兜太の生きる姿の一面が現われているようである。
一句目。陰湿なところは微塵もない明るさでひた走る土蜘蛛兜太。彼は土を忘れることはなかった。
二句目。多くの人と同じように、兜太もその生において数多の「蛾の狂情」にも似た状況をくぐり抜けてきた。しかし彼はその状況を、疲れながらでもしみじみと眺める客観的な目を失わなかった。
なめくじり寂光を負い鶏のそば 『少年』
取るに足りないちっぽけな、時には気味悪がられがちな蛞蝓が寂光を帯びている、しかもこの蛞蝓はすぐにも鶏に啄ばまれて死ぬ可能性大である。この句には、あらゆる存在がその生も死も含めて寂光のうちにあるという観照がある。
熊蜂とべど沼の青色を抜けきれず 『少年』
今更ながらに思うが、兜太の色彩感は素晴らしい。この句の「青色」も魅力的である。魅力的であるゆえに、そこに自ずから映像が見えてくる。そしてこの「熊蜂」は「沼の青色を抜けきれず」ということをおそらく楽しんでいる。
涙なし蝶かんかんと触れ合いて 『暗緑地誌』
「涙なし」と言っているが、この句はその奥に深く蒼い涙の湖を満々と湛えているような感じがする。しかしそれをむやみに零すことはない。男(男性性)の一つの魅力である。むやみに涙をこぼすことがない故に、悲しさあるいは優しさは持続的であり大きい気がする。「かんかんと」というオノマトペがそういう事実に美しく響く。
赤い犀車に乗ればはみだす角 『暗緑地誌』
〈赤い犀 野卑について〉という連作の中の一つ。この連作はエゴが分りやすい形で出ている人物像を犀になぞらえて書いたのだという感じがする。犀特有の形態がそういう人物像を連想させる一因かもしれない。こういう人物は動物的な憎めない幼さのようなものがあるのも事実である。例えば田中角栄。しかし、疾走も衝突も御免、ではある。
霧に白鳥白鳥に霧というべきか 『旅次抄録』
白鳥と霧以外には何も夾雑物がない。そして白鳥と霧の分離感もあまりない。自己及び世界はこのように在る、と言っているようだ。白鳥が自己の、そして霧が世界の象徴だと取れる。この二つは付かず離れずの一体ではないだろうか、と呟いている感じがある。
人刺して足長蜂(あしなが)帰る荒涼へ 『旅次抄録』
原初的自然感覚が呼び覚まされる感じがある。この自然界において、人間の占める部分は極く小さく、荒涼たる自然界の方が遥かに広大であるという感覚である。足長蜂にとって人間との遭遇はほんの偶然に過ぎず、偶々出会ったので、止むを得ず一刺しして、再び荒涼へ帰ってゆく。
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