金子兜太作品鑑賞 ⑫

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.12.html 【金子兜太作品鑑賞  十二】 より

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている        『遊牧集』

 アニメ映画のような映像感がある。はっきりした色彩感があり、また動きがあるから、そう感じるのかもしれない。実際、兜太の句にはアニメ的映像が見えてくる句が多い。子どもの目、あるいは原初的な目、あるいは動物や植物との無垢なる交感があるから、そういう句が出来るのだろうか。

  猪がきて空気を食べる春の峠         『遊牧集』

 この句は私が海程新人賞の時に、金子先生から色紙として頂いた句である。私にぴったりの句である。私の干支は猪であるし、この世の初めての空気を味わったのは春だし、本名は春彦だし、わざわざ都会から山の中に引っ越してきた身であるし、空気だけは旨いものを食べている。

 手前勝手な感想であるが、たまにはいいだろう。

  どどどどと螢袋に蟻騒ぐぞ          『詩經國風』

  牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ          『皆之』

 どどどどと螢袋に蟻が騒いだり、牛蛙がぐわぐた鳴いたりするのが嬉しくて仕方がないというような風情である。まるで作者自身の心臓が鼓動し、肺が息を吸ったり吐いたりしているようである。

  れんぎように巨鯨の影の月日かな        『皆之』

 たっぷりとした感じの月日。このようなたっぷりとした日常感覚を抱きながら生きている人が同時代にいると思うと嬉しくなる。このこせこせと忙しない現代にである。いや、私自身がこせこせと忙しないから、この句には、私の手の届かないものがあり、このような時間の流れに憧れるのだろう。

  青葦原汗だくだくの鼠と会う           『皆之』

 ふと非日常的な空間に居たという感じ。「不思議の国のアリス」の冒頭の場面のようである。〈独吟六韻・青葦原〉と前書のある二句目の句である。他を全部書き出してみる。  

  白鷺の語のにこやかに青葦原          一 

  キリコの「街角」青葦原の直中(ただなか)も   三

  青葦原呆然と立葵がいたぞ           四

  青葦で肌切られしという陳腐          五

  葦茂り白猫抱いて光頭無芸           六 

 非日常的な時空と日常的な時空を往き来している感じである。五句目六句目の落ちの現実感・滑稽感が何ともいえず楽しく、「不思議の国のアリス」の落ちに比べて、やはり俳諧という感じである。

  冬眠の蝮のほかは寝息なし           『皆之』

 芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」との比較で考えている。両句とも読者を非常に静かな境地に誘う句である。芭蕉の句にはわれわれ人間の日常から静かさの境地に誘い込む求心力がある。自然の奥に潜む本質的な静寂を垣間見させてくれる力がある。兜太の句にはそのような過程は無く、ただ詩的事実を提示しているだけである。芭蕉の句は求道的であり、兜太の句は、既にそこに在るという感じがある。芭蕉は求道者、兜太は存在者という言い方ができないだろうか。

  白猫にやーと鳴けば厠の僧驚く        『両神』

 楽しい句である。猫が生き生きとしているし、人間はむしろ滑稽に描かれている。人間は排便排尿をするために厠などというものを作った。何か良からぬ企みをするかもしれない場所でもある。また賢さとも愚かさともいえる意識のために職業としての僧侶などというものも出来た。無垢な自然に近い存在である猫と、この賢い馬鹿人間の対比というものが何とも愉快である。禅では、棒や喝やある些細な出来事がきっかけで瞬時に悟りを得るという事実を強調するが、この句の猫の「にやー」には禅の一喝のような味がある。

  すぐ仰向けになる亀虫と朝ごはん       『両神』

  亀虫の臭いと眠る月冷えたり         『東国抄』

 かつて私が住んでいた清内路村では、亀虫のことを屁臭虫(へくさむし)と呼んでいた。とにかく臭いを発するとくさい。それがある時期になると大量に発生して、所構わずわんわんと舞ったり這い回ったりするし、冬になる前などは収穫前の白菜の中にもぐり込んで、そのまま漬物になり、食べるときにその嫌な臭いが口中に広がるのであるから、私自身とても嫌いな虫である。もっともあまり嫌わない人もいる。聞いた話では、どこかの国では亀虫を食材にするところもあるらしいし、香草の匂いに似ているという人もいる。とにかくそういう亀虫と日常を共にして、しかも楽しんでいる風情の作者の姿がこの両句にはある。白隠禅師の座禅和讃に「当所即ち蓮華国、此の身即ち仏なり」というのがあるが、おそらく、何か毛嫌いするものがある限り、こういう境地には到り難いだろう。

  連翹を走りぬけたる猪の震え        『東国抄』

 おそらく連翹も震えているだろう。少なくも、少しは揺れて花びらをいくつか落しているかもしれない。連翹と猪の突発的な遭遇である。そして異質なものに触れた時の心の震えである。宇宙は異質なものに満ちているから、この震えは至る所に起っているのかもしれない。さてこの後、猪は連翹に対しての恋に落ちただろうか。

  ここまで生きて風呂場で春の蚊を掴む    『東国抄』

 この軽妙洒脱の味が何ともいえない。「ここまで生きて」と重そうな出だしに対して「風呂場で春の蚊を掴む」と軽く落す。まあ、所詮人生とはそういうもの。偉そうに生きたって「風呂場で春の蚊を掴む」くらいがせいぜいである。

  猪親子沈黙だけで生きている         『日常』

 この句はだんだんと好きになってきた句である。今ではこの句を読むと、涙さえ出てくるようになった。人間社会の喧騒。痙攣するような言葉の吐き合い。いがみ合い。喧嘩。戦争。そんなことを思うと、どうみても、動物達のほうが、賢い知恵者である。沈黙の味を知っている。

 

  夏の猪沈黙の睾(きん)確とあり        『日常』

 品格がある。「睾」などという言葉を使って品格を感じさせる句を作れるのはおそらく兜太くらいではなかろうか。

 兜太の句には猪の句がかなりある。狼よりはもっと日常的であり、犀などよりは身近であり、犬猫などとは違って野生である。こんな特質を考えると猪は作者自身の姿を最も投影しやすい動物だったのではないかと思えてくることもある。

  朝の床草ひばり来よここで鳴け        『日常』

 兜太にしろ一茶にしろ、その動物句に私は非常に魅かれるのであるが、もしかしたらそれは逆に、私にそういう資質が賦与されていないからなのかもしれない。つまり動物に対する共感性がである。だから私は動物句はあまり作れない。そのくせ、兜太の動物句には涎が出る程に魅かれるのである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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