金子兜太作品鑑賞 ⑧

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.08.html 【金子兜太作品鑑賞  八】 より

    皆子句集『花恋』について

 ここで、夫人の皆子さんの句集『花恋』について少し述べてみたい。まず『花恋』の次のような句群である。

 導きの縁の醫師の目に安らぐ/腎摘出か朝日子の醫師と思いぬ/ヘールポップに導かれての出遇いかな/先生先生と呼んでいる曼珠沙華/百日紅祈りの中に恋人立つ/主治醫の後を追うと決めたり花八手/私と醫師のフーガ染まりゆく黄櫨の木/宇宙あり醫師あり我は一羽の桃花鳥(とき)/霧笛の夜嗚咽込み上げてくる思慕/恋人よ金縷梅の花は透明/桜に追われ夕べの動悸また会えます/雪柳会えるまた会えますと揺れる/鬱の日々恋する人に告げてよ雲雀/菜の花に恋情という光の綛(かせ)/白蝶二つ縺れる胸のなかわが径/野を持つ人主治醫の初夏に会いたし/情(こころ)の中におみなえし溢れます先生/恋情弱まりまた溢れ出す虎落笛/主治醫に駆ける桜夕桜夜桜

 皆子さんの闘病生活のある日、私に皆子さんから電話があった。私はその時まで皆子さんとは何の面識も無かった。そしてその後も何の連絡もないただ一度の会話であった。その頃私が『海程』に書かせてもらった「砂の知恵」という一文を読まれ、それに感銘があったということで電話を下さったのである。その文は、私の死観や宗教観についてざっと書いたものであり、私がまさにクリスチャンになろうと覚悟を決めた時期に書いたものだった。何故私がクリスチャンになろうと思ったのかというと、私の妻がクリスチャンになろうとしていたからである。何故妻がキリストに引かれていたのかといえば、死の病に犯された皆子さんが陥ったと同じくらいの深刻な心理的な状況があったからである。私はどちらかといえば、物事を理屈で割り切る性質であり、キリスト教のような愛の宗教には向いてないが、妻には同行しようと決めていた私の生における態度が、自分を試す意味でもキリスト者になってやれと決意させていたのである。今考えてみれば、私のその態度は実に浅薄であり、真のキリスト者にしてみれば失敬なことであろう。また、妻と同行するということは、そのような表面的なことではないと今は分ってきている。後日談を言えば、妻はまだ洗礼を受けてない。これから受けるかもしれないが受けないかもしれない。しかし彼女が内面において既に真のキリスト者であることは間違いない。私に関していえば、妻が洗礼を受けるにしても、私はそうしないだろうと思う。それが私の誠実であると今は思うからである。

 さて、「砂の知恵」にはこのような私的なごたごたは書いてない。キリスト者になろうと思っていると書いただけである。聞くところによれば、皆子さんの主治醫の中津裕臣先生はクリスチャンであるそうである。そしてクリスチャンの中には、稀に、キリストそのものの力あるいは品格が具現しているような人がいることがある。そういう人は概ね快活であり、教条的ではなく、自由の質を持っている。また当然、苦しむ者や弱い者に対しての敏感さがある。私は、この中津醫師はそのような人だったのではないかと想像している。

 その電話の具体的なやりとりは大方忘れてしまったのであるが、皆子さんが、中津醫師の治療を受ける為に夫の元を離れていることに対する世間的な非難の目があることへの葛藤の気持ちなどを、弱々しいか細い声で話して下さったのを覚えている。結果的には、私は、苦境に陥っている者や弱い立場にある人に敏感に対応するというキリスト者的な性格を賦与されていないので、ただただうなずいてお話を聞くだけしかできなかったのである。

 人間は、夫婦ということも含め、様々な人々とのいのちの繋がりの中で生きているが、魂の一歩あるいは自己の内面への一歩は、独りで歩まねばならぬという事実がある。この句集『花恋』はその魂の道程の類い稀な一つの記録であるという気がする。句集の後書に皆子さんは「病んでよかった」と書いているが、それは魂の一道程を歩んだ者にのみ言い得る言葉なのではないだろうか。

 『花恋』より何句か鑑賞を試みたい。

  右腎なく左腎激痛も薔薇なり   

 考えてみれば、人間ひとりひとりは神の庭園の薔薇のようなものかもしれない。神に育てられ、最終的に神によって摘まれる。おそらく、どのような薔薇であっても、神にとっては同じように大切な薔薇である。幸せということは、そのようなことの全体が意識されて、自分なりに懸命に咲こうとしているかどうかなのではないだろうか。この句はそういうことの高らかな表明のように思える。痛い棘のある身体から発せられた言葉であるから、真実味が強く重い。

  谷卯木慟哭は誰も知らない 

 病んでよかった、もっと一般的に、この与えられた運命を誠実に生きてよかったと言えるまでに必ず人はこの句に表されたような孤独の時間を体験するのではないだろうか。自分の運命を共有してくれる人は誰もいない。茫々とした世界にたった一人放り出されてしまったような孤絶感。永遠に明けることのない闇夜であると感じられるような状態。中が虚ろな空木である「谷卯木」がそのような空虚な心の状態に響いている。そしてまた「谷卯木」の花がそういう状態のときの微かな一つの導きのようにも見える。闘病生活の果てに「病んでよかった」と言えた皆子さんが、このような一句をも書き残してくれたことは、私には大変貴重なことのように思えるのである。

  仲秋名月狂女に童心の溢れ

 自分のことを「狂女」と呼べる態度が素敵である。そして「童心の溢れ」という自覚も素敵である。私も含め、大方の大人は、自分は正常でしかも見識を備えた立派な社会人だと思いがちである。しかし、実はどこか狂っていて、精神年齢は十二、三歳程という場合が多いのではなかろうか。逆に、自分は狂っていて、幼い子どものように何も知らない弱い存在だと自覚している人の方が、むしろ真実をわきまえていて正常で人間らしいと言えるかもしれないのである。この句、月を前にして、裸になったみずみずしい人間存在を感じる。  

 その他、印象的な句を並べておく。

 

 金婚なり霜月山の斜面の急/茫然自失紫雲英の色の尿恐し/皆子頑張れ生きとし生けるものの春/体毛もなく紫雲英田に眠るかな/骨のあらわに癒えてゆく日々曼珠沙華/足裏炎え炎えて火を踏む曼珠沙華/命一途に魚も蝗も人間吾も/野薔薇野薔薇雨の日の疼痛野薔薇/誰もいない点らない冬の部屋一つ/霧笛霧笛温かき尿ありがたし/癒えゆくことも春白波の一つかな/一つのコール春月に祈りも一つ/わが薔薇の命の舫い春の月/海の道まわり道白い花が咲く/野薔薇野薔薇唐松さまは千佳子の土/何方(どなた)ですか明日葉に止まる白蝶/黒き紐恐し蟻の列登りつづける/薔薇の蕊こそ暗い回廊生きてあれば/下弦の月檀の花の細細(ささささ)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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