https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKUHINKANSHOU/SAKUHINKANSHOU.07.html 【金子兜太作品鑑賞 七】 より
方方にひぐらし妻は疲れている 『少年』
茜の冬田誠意の妻に何もたらす 『少年』
木の実と共に寝不足の妻の肌明(あか)らむ 『少年』
葭に直下の蝶あり病弱の妻に急ぐ 『少年』
妻にも未来雪を吸いとる水母の海 『少年』
自動車光芒坂這う夜を妻と眠る 『金子兜太句集』
遠い日向を妻が横切りわれ眠る 『金子兜太句集』
若し妻光る河流の日暮偲び 『金子兜太句集』
紫陽花の夜にうずくまる善意の妻 『蜿蜿』
山に雪くる妻が猫の毛吸い込む夜 『暗緑地誌』
鴎やわらか妻よろこんで日だまりへ 『早春展墓
くろくなめらか湖(うみ)の少女も夜の妻も 『早春展墓
妻に鶏卵われに秋富士の一と盛り 『遊牧集』
蟹漁期月にわびしや妻の陰(ほと) 『詩經國風』
唯今二一五〇羽の白鳥と妻居り 『皆之』
愚妻愚孫恵方詣に行つてしまう 『皆之』
オツトセイ百妻は一妻に如(し)かず 『両神』
兜太の沢山ある妻の句の中からよく解る句を並べてみた。概ねとても祝福された夫婦の来し方が想像できる。
おおよそ四十年くらい前のことであるが、私がネパールのカトマンズに滞在していた時、一人のとても印象的な乞食を見た。彼はいわゆる癩患者で両腕の先が無く、足も悪いらしく、いざって街中を物乞いして廻っているのであるが、その彼がとても艶のある大きな声で「シーターラーマ、シーターラーマ」と歌うのである。ラーマは「ラーマーヤナ」の主人公であり、ヒンズーでは神の化身の一人とされている。シーターはその妻である。「シーターラーマ」という言葉はヒンズーではよく唱えられるマントラ(真言)であるらしいが、つまり男女の理想的な結びつきそのものが賛美されているわけである。抽象的な言い方をすれば、陰陽のエネルギーのバランスそのものが人間の求めるべき一つの価値であるということである。ともあれ、ラーマの時代から何千年も経た時代に、その汚い街角でいざりながら、「シーターラーマ、シーターラーマ」と高らかに歌うこの乞食の行為は、当時生きる因となるものを何も掴んでいなかった私には、とても印象的なことだったのである。
さて、これらの兜太の妻の句が作られたとほぼ同じ時期の皆子句における夫の句を掲げておく。句集『むしかりの花』および『黒猫』からのものである。
子が捕りし沢蟹匂い唄う夫/秋浜に散る貝夫と呑む茶欲し/さらさら砂の頭蓋に夫子いて明し/かなしみの草原を着る夫も鳥/夫が抱える黒猫は夜の小さき城/旅次のわが肩に夫眠る木綿花紅し/雪柳白く斜(ななめ)なり夫の休息
次は『東国抄』にある〈妻病む 十七句〉である。
余寒のベッドに茫然と妻病むはずなし 一
妻病めり腹立たしむなし春寒し 二
妻病みてそわそわとわが命(いのち)あり 三
こころ優しき者生かしめよ菜の花盛り 四
春の霧笑つても病む者がいる 五
右腎見事に摘出されて春は行く 六
春の鳥ほほえむ妻に右腎なし 七
病窓に見えいて青き踏む二人 八
鶫たち朝日に気力病む妻に 九
病院の影のび耕す人帰る 十
春の暮灯が点るゆえ昏れにけり 十一
妻の食欲回復徐徐に蚕飼どき 十二
回復へ妻アカシアの花の林 十三
山法師闘病の妻昼を眠る 十四
背を丸め病い養う者に薄暑 十五
三日月に牛蛙とは鬱なるかな 十六
病む者に演歌の力み声きこゆ 十七
平穏な日常を断絶する衝撃的な冒頭の一句から始まり、感情の波、祈り、手術の成功、追憶、黙想、病の徐々の回復、そして再び日常へ戻っていくという意識の流れを、真実に、情感豊かに、細やかに、深い想いで描いた連作である。
かつて私は、母の死に際して俳句の連作を作ったことがある。その時ある人に、母の死を利用して俳句を作っていると冗談めかして皮肉を言われたことがある。しかし、真実はそういうことではない。人間誰しも親しい者の死や病などに際しては、心が乱れ散り散りになる。そのどうにもならない心をまとめ静める為には、お仕着せでない自分の言葉で表現することが必要なのであり自然なのである。人間が創作をするということはどのような場面であれ、自分の心をまとめる、あるいは新しくしてゆくという側面があるのではないだろうか。自分の心をまとめ、新しくするというのは、外側の自然の流れと自分の心の流れを合流せしめるということであり、自然と自己の断絶感を無くするということであるような気がする。その意味で、俳句などでは季語などという自然の言葉が重要な役割を持っているのではないだろうか。この兜太の連作においても、その季語の使い方は絶妙である。
手術待つ妻に海上の満月 『日常』
癌と同居の妻よ太平洋は秋 『日常』
人間は生々流転する大自然の一部である、という理解が底流にある。しかしそれは諦めの気持ちへ繋がっていくのではなく、むしろ祈りの気持ちへ繋がっている。「海上の満月」「太平洋は秋」というように、真の祈りというものは、穏やかで大きな質を持っているのではなかろうか。
ちなみにこの一句目の「手術」は右腎臓摘出後の二回目のもので左腎からの病巣摘出手術である。
病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき 『日常』
「苦しみ、それは、あなたの理解を被っている殻が破れること。果実の芯が陽に触れるためには、まずその核(たね)が壊れねばならいように、あなたも苦しみを知らねばなりません」とカリール・ジブランは『預言者』(佐久間彪訳)の中で言っている。やって来た苦しみを身に引き受け、見つめ、それと共に過ごすことによって、人間は存在へのさらに深い理解を得ることができるのではないだろうか。その時、その人の眼は深く澄んでいるに違いないのである。「蔓うめもどき」がそういう事実と共振して美しい。
闘病の時期の皆子句集に『花恋』がある。死の病を得て、自己の内なるいのちへの、自己のいのちに連なっているもの全てへの恋歌が溢れ出たという感じの句集である。この句集については次回で少し言及したいが、ここではこの句集の中の夫の句を並べておく。
春宵に夫という不思議なる客/夫は遠くにいつも遠くに鰯雲/夫さざめいて囲まれいるか晩秋の隠岐/帽嫌う夫は弥生の雪国へ/春鴉夫は喝々と食する/春鴉でけえ声だと夫の呟き/夫の留守えごの花散る数知れず/夫牛蛙万事順調万事順調/木漏れ陽に揺れる部屋あり夫領す/小でまりと小さな昼寝夫は越後に
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