https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/07_vol_112/poet.html 【うたびとの歳時記】 より
うたびとの歳時記 清流が流れ、エサになるカワニナが棲み、草や木が残る場所が、蛍にとっての好ましい環境とされる。「腐草為蛍[ふそうほたるとなる]」。
6月半ば、孵化した蛍が光を放ち、草むれる水辺を飛び交い始める頃を暦の七十二候ではこう言い表している。
夕闇に揺れるほのかな光は、古くから日本人を魅了し多くの物語や歌の題材として描かれてきた。
蕉風の祖として名高い松尾芭蕉の句とともに蛍と人、自然との関わりの歴史をひもといてみた。
※七十二候とは、二十四節気を初候・次候・末候の三候に分割し、ほぼ5日ごとの季節の推移を天候や鳥、植物などの変化によって示したもの。
心とらえる神秘な光
初夏の闇夜を、青白い光を発しながら舞う蛍。幻想的な姿を追って水辺に繰り出す「蛍狩り」の遊びは、古くから夏の風物詩として親しまれ、その風情は浮世絵にも見ることができる。蛍という語の初見は、『日本書紀』(720年)の巻二とされ、奈良時代の歌集『万葉集』には、「蛍なす」が「ほのか」の枕詞として用いられている。また、平安時代の恋歌の題材に好んで詠まれるなど、文学的素材としての一面を持つ。蛍の語源は、「火垂る」「火照る」「星垂る」など諸説あるが、いずれも蛍の特徴である「光」に関連している。
日本には、約45種類の蛍が生息するといわれる。幼虫の時期を清流の中で過ごし、5月下旬~6月には成虫となって子孫を残すために光り、産卵の後は数日で短い生涯を終える。その中でも代表となるのは、源氏と平家の名を冠する2種類。「源氏」「平家」の名は「源平合戦」からの由来とされ、身体の大きい方を源氏、小さく光の弱い方を平家と呼ぶようになった。その乱舞するさまを「蛍合戦」と言い表わした。
国分山の中腹にある幻住庵。ここでの暮らしぶりや人生観を記した『幻住庵記』は、『奥の細道』と並ぶ俳文の傑作とされている。
最期まで句作への執念を燃やし続けたという芭蕉。1694(元禄7)年10月、51歳の生涯をとじる数日前には、有名な「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を詠んでいる。
艸[くさ]の葉を落つるより飛ぶ螢かな 芭蕉
近江の風光、人々を“ふるさと”とする
俳聖と仰がれる松尾芭蕉は、1644(寛永21)年伊賀上野に松尾与左衛門の二男として生まれた。幼名を金作、後に宗房[むねふさ]と名乗るようになり、俳号としても用いていた。1662(寛文2)年、19歳で藤堂藩伊賀付侍大将である藤堂良精[よしきよ]に出仕。嫡子良忠(俳号蝉吟[ぜんぎん])の近習[きんじゅ]役となった頃より俳諧の道を歩み、良忠没後は京の北村季吟[きぎん]のもとで貞門俳諧を学んだとされる。1672(寛文12)年には江戸に下り、宗因風の新進俳人として頭角を現すものの、やがて当時の主流であった世俗的な俳諧とは決別。37歳の時に深川の草庵に隠棲し、独自の俳風をめざすこととなった。この草庵には「芭蕉」が生い茂っていたことから、1682(天和2)年に出版された俳諧集『武蔵曲[むさしぶり]』以降、芭蕉を公の号としている。しかし、この年の大火で庵は焼失。その後は一所不在を旨とし、行脚と庵住を繰り返しながら、蕉風俳諧を樹立していった。
一生を旅に生きたといわれる芭蕉は、1684(貞享元)年41歳の秋に『野ざらし紀行』の旅に発つ。その旅の終わりにはじめて近江国大津を訪れた芭蕉は、以降近江の風光をこよなく愛し多くの句に詠むとともに、この地で得た門人たちを生涯の友としたという。近江蕉門の正秀と曲水[きょくすい]に宛てた手紙には、他の書簡にはみられない「旧里[ふるさと]」ということばが使われている。旅に明け暮れた芭蕉にとって、熱心な門人との交流や琵琶湖の比類なき自然は、心やすまる故郷として映っていたのであろう。
芭蕉に詠われた湖国の蛍
冒頭の句は、草の葉にとまっていた蛍が地上に落ちる次の瞬間、空中を飛んでいるという一瞬の美を詠っている。芭蕉の小動物への細かな観察眼から生まれたこの句は、俳諧撰集『いつを昔』(1690(元禄3)年刊)に収められているが、句の背景などは定かではない。近江に心惹かれていた芭蕉には、琵琶湖の南端から流れる瀬田川の蛍を詠んだ佳句が多く残る。『猿蓑』(1691(元禄4)年刊)には、凡兆の句とともに「勢田[せた]の蛍見二句」として
ほたる見や船頭酔ておぼつかな
の句が並び、瀬田川で門弟たちと蛍狩りに興じる芭蕉の姿がうかがえる。
瀬田川周辺の源氏蛍は「石山蛍」と呼ばれ、江戸から明治の頃を最盛期に、何万もの蛍が乱舞する日本有数の名所であったという。その後、水害や河川工事などの影響により、蛍の数は激減。川の右岸、観音霊場として名高い石山寺の辺りに残る「螢谷」という地名に、かつての面影がしのばれる。石山寺には、芭蕉が大津を訪れた際の仮住まいであった芭蕉庵があり、近くには『奥の細道』の旅の翌年、1690(元禄3)年4月から7月まで身を寄せていた幻住庵[げんじゅうあん]など、ゆかりの地が点在する。ある時は清流を見下ろす高台から、また川面に浮かぶ屋形船から、飛び交う蛍に心躍らせたのであろうか。芭蕉が愛した近江の景観は時代とともに姿を変え、今蛍は自然の象徴となって、夏の夜空にかすかな光を描いている。
1688(貞享5)年、湖南を吟行していた芭蕉は、近江八景「瀬田の夕照」で名高い唐橋や瀬田川の蛍を句に残した。
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